2022年3月 |
||||||
3月6日 | 3月13日 | 3月20日 | 3月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | ■音声でお聞きになる方は |
何が人を汚すのか | 2022年3月第4主日礼拝 3月27日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
|
聖書/マルコによる福音書 第7章1〜23節 |
|
<1節>ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。<2節>そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。<3節>――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、<4節>また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――<5節>そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」<6節>イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。<7節>人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』<8節>あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」<9節>更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。<10節>モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。<11節>それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、<12節>その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。<13節>こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」<14節>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。<15節>外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<16節><底本に節が欠けている個所の異本による訳文>聞く耳のある者は聞きなさい。†<17節>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。<18節>イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。<19節>それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」<20節>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。<21節>中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、<22節>姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、<23節>これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 |
|
ただいま、マルコによる福音書7章1節から23節までをご一緒にお聞きしました。この箇所は、新共同訳聖書ではひと続きの話であるかのように記されていますが、注意して読んでみますと、3つの機会に主イエスが別々におっしゃった事が結び合わされて一つになっているようです。9節に「更に、イエスは言われた」、14節にも「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」とあり、それぞれそこから主イエスが話し始めておられます。今日は最初の1節から8節までの記事に集中して、そこに語られていることを聴き取りたいと思います。 1節2節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」とあります。主イエスのもとにファリサイ派の人々と律法学者たちが集まって来たと言われています。こう聞きますと、私たちはつい、この人たちは主イエスの粗探しをして揚げ足を取ってやろうと悪意を持って主イエスのもとに来たのではないかと勘ぐってしまいますが、どうもこの人たちはそうではなかったようです。主イエスはカファルナウムの町の会堂では、ファリサイ派や律法学者たちと激しく対立したことがあり、その結果、主イエスと対立した人たちは主イエスを憎むようになり、何とかして主イエスを亡き者にしてやろうと計画したことが前の章に語られていました。カファルナウムで、主イエスに対してそういう暗い思いを抱いた人たちがいたのは事実であるようです。しかし今日の箇所で主イエスのもとにやって来たファリサイ派の人たちや律法学者たちは、エルサレムから来たと言われています。この人たちは、つい最近ここに来たばかりの人たちで、そういう意味では、以前に主イエスと諍いがあったことには関わりのない人たちでした。 すなわち、このファリサイ派の人たちと律法学者たちは、主イエスに憧れ、主イエスのもとで生活を共にしたいと近づいて、そして実際に主イエスと何日かを過ごしたために弟子たちの生活にも触れることになり、それで弟子たちの在り方に幻滅するということが生じました。食事をとる前に、主イエスの弟子たちが丁寧な手洗いを怠っているようだと、ファリサイ派の人たちや律法学者たちには感じられたのです。それで、そのことを咎めました。 けれども、この洗い清めのしきたりは、実際のところ、神との交わりに入れていただくために本当に大事なことなのでしょうか。ファリサイ派の人たちの思い違いということはないのでしょうか。もしそれが思い違いだとすると、それはただ思い違いをしているというだけでは終わらないのです。 ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、手洗いに代表されるような諸々の清めのしきたりにこだわりました。彼らにとっては、清めを守るということが、神との交わりに生きる上では決して譲れないことだったのです。それはもちろん、ユダヤ教のファリサイ派の信仰であって、キリスト教の信仰とは違います。ユダヤ教的な考え方、それがキリスト教の考えと違うことは、はっきりしているのです。しかし翻って考えますと、私たちはどうなのかということが、このファリサイ派の人たちの姿から問われるように思います。 私たちが信仰を持って神から離れずにこの人生を生き抜いていくために、決して譲ってならないものは何か。そのことを考えるために、もう一度ここで、ファリサイ派の人たちが大事に思っている手洗いのしきたりについて考えてみたいのです。このしきたりには一体どういう意味が込められているのでしょうか。 それに対して、主イエスはお答えになります。6節から8節のところです。「イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」』」。「イザヤは見事に預言したものだ」と主イエスは言われました。これは皮肉を言っているのではありません。まさしく本当にそう思っておられるのです。 こういう、主イエスとファリサイ派の人たちとのやり取りを聞くときに、私たちはここで私たち自身が問われているという気がいたします。私たちも一生懸命に礼拝を欠かさず守り、祈りを捧げ、賛美して生きようとします。しかし、私たちがどうしてこれを行うのでしょうか。このように礼拝することを誰かから教えられて、ただそれを続けているのでしょうか。ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、自分たちの敬虔なあり方を生きるのに一生懸命でした。そして一生懸命に敬虔な者となろうとしているからこそ、自分たちは清く、神との交わりに入れていただけるにふさわしいと考えました。 では、そういう私たちが一体何によって神との交わりの中に入れられ、神のものとして生きることを許されているのでしょうか。私たちの思いや行いや熱心さが先立つのではないのです。神の方が憐れみをもって真剣に私たちのこと覚えてくださっていて、それこそ、群れから彷徨い出す羊を一匹一匹一生懸命尋ね求めて群れの中に連れ帰ってくださるように、神が私たちのことをご覧になっていて、私たちのために救い主を送ってくださり、その救い主の御業によって私たちは神のもとに連れ帰っていただく、ですから私たちは毎週、ここに集って来ることが許されるのです。 私たちの人生には過ちもあるかもしれないし、本当に深い痛みもあるかもしれません。けれども、しかしそれでも、私たちは「ここでもう一度生きるのだ」と主イエスから呼びかけられていることを覚えたいと思います。私たちのために地上においでになり、十字架に架かってくださった主に心から感謝して、御名を誉め讃えて生きる者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |