2022年3月 |
||||||
3月6日 | 3月13日 | 3月20日 | 3月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | ■音声でお聞きになる方は |
五千人の給食 | 2022年3月第1主日礼拝 3月6日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
|
聖書/マルコによる福音書 第6章35〜44節 |
|
<35節>そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。<36節>人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」<37節>これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。<38節>イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」<39節>そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。<40節>人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。<41節>イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。<42節>すべての人が食べて満腹した。<43節>そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。<44節>パンを食べた人は男が五千人であった。 |
|
ただいま、新約聖書マルコによる福音書6章35節から44節までをご一緒にお聞きしました。35節36節に「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう』」とあります。 ところが、そういう深刻な状況に向かいつつあるということを、主イエスは何も気づいておられないようです。それで弟子たちは、主イエスのそばまで来て、「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と耳打ちをしました。弟子たちはここで、主イエスの話が退屈で早く終わって欲しいと思っていたわけではありません。弟子たちは彼らなりに、ここにいる群衆たちの健康状態や体力のことを気遣ってこう言いました。彼らは話すことに夢中になっていて目下の状況がよく分かっておられないように思える主イエスに、忠告するようなつもりで話しかけました。 けれども、弟子たちの「拒否したい」という思いを、主イエスは全く気になさいません。むしろ重ねてお尋ねになるのです。38節「イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です』」。おそらく弟子たちは、乗ってきた舟まで行って確かめて来たのでしょう。すると、まるっきり何も持っていないのではなくて、パンが五つ、それに魚が二匹手元にあることを見い出しました。しかし、そんな僅かなものがいったい何の足しになるのでしょうか。 ところで弟子たちは、この時、忘れていたことがあります。それはまず、たとえ僅かでも自分たちの手元には確かに幾ばくかのものが与えられているという事実です。そしてまた、たとえ僅かなものであっても、それを感謝し真に豊かに用いてくださるお方が、今、自分たちの目の前におられるということも、弟子たちは忘れていました。弟子たちの思いは、主イエスのおっしゃることが、「自分たちには到底応じられない要求だ」ということばかりに向いていました。 ところで、この物語は、「果たして本当に実現可能であったのか」ということを、昔から多くの人が問題にしています。そういう人たちは、例えばガリラヤ湖北岸の地形を詳しく調査して、ガリラヤ湖の岸辺には5,000人もの人が一斉に腰を降ろすことができる沃野などどこにも存在しないと指摘したりします。あるいは別の人たちは、そもそも当時のカファルナウムやベトサイダというガリラヤ湖北岸の町には、5,000人もの人が住んでいた事実は確認できないと言ったりします。そういう言い方で、この出来事は無かったのではないかと言うのです。 今日聞いているのは、「5,000人の給食」と呼ばれる記事です。マルコによる福音書には、この先の8章でもう一度、「4,000人の給食」と呼ばれる非常によく似た記事が出てきます。「4,000人の給食」の記事は、もともとは「5,000人の給食」の記事と同じ出来事について語っていて、伝言ゲームのように多くの人に言い伝えられていくうちに、二つのバリエーションになったのではないかと考える人もいます。しかし、主イエスが2度、同じようなことをなさったに違いないと思っている人もいますし、また、やはりこれはあり得ない出来事だと考える人もいるのです。「いったいこの記事は、もともとどういう出来事だったのか」と、私たちはつい考えてしまいます。 今日の箇所のマルコによる福音書6章41節から44節には、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」とあります。男が5,000人というところから、今日の記事は「5,000人の給食」とか「パンの奇跡」と言われるのですが、しかしここに語られている中心の事柄は、パンの分量が増えたということではありません。そうではなくて、「弟子たちの間に、真に仕えてくださる憐れみの主が立っていてくださって、困窮している人たちを深く憐れんでくださった。それによって困難が実際に解決されていった」という奇跡です。「真の憐れみの主が人々の間を親しく歩んでくださり、主が共に歩んでくださる生活の中で、人々の心身にわたる困難が実際に解決されていく、そういうことが起こった」、このことは、この出来事に出遭った人たちに強い印象を与えました。それで人々は、この日の出来事を、繰り返し繰り返し語り伝えたのでした。 私たちは今、様々な意味で、この記事に述べられているような状況、「人里離れた場所で、寄る辺ない中を暮らし、疲れを覚えている」、そのような中にあるのではないでしょうか。長い感染症の蔓延のもとで、そしてまた強い国が弱い国を力づくで侵略して構わないのだという行動をしている世の中のもとで、私たちは決して自分たちの生活が平穏に続くのだと思えないような状況の中に置かれています。「私たちは一体どうなるのか。今は平穏のように思うけれども、しかしこの世界が次第に変わりつつあるのではないか。そしてその中で、私たちは何を拠り所にして、何を寄る辺に生きていったら良いのか分からない。まさに、飼い主を失った羊のように、あるいはむき身の貝のように、私たちはこの世界の中に生きている…」。 そして、そういう生活の中で、私たちに必要なものがすべて添えて与えられていくのです。主は、最後には私たちを深く憐れんでくださるあまり、ご自身が十字架につけられて亡くなられるほど、私たちに近く歩み、私たちを引き受け、贖ってくださいました。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |