ただいま、マルコによる福音書6章45節から52節までをご一緒にお聞きしました。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とあります。「それからすぐ」と始まっていますが、これは直前に起きていた出来事、すなわち主イエスが共にいる人たちをごく僅かと思えるもので豊かに養ってくださったという出来事を表しています。
今日の箇所を聴くに当たって、もう一度、先週聴いた出来事を確かめておきたいと思います。主イエスが男の人だけで5,000人ともいう大勢の人たちを僅かなパンと魚で満腹させられたというこの出来事は、パンの量が増えたという奇跡を言っているのではありません。そうではなくて、すっかり行き詰ってしまったかのような弟子たちのただ中に憐れみの主が立っていてくださり、「人々の困窮を深く憐れむ」その姿勢をもって人々に仕えてくださった、そのことで実際に困窮状態が解決され困難が乗り越えられていった、そのことが本当の奇跡なのでした。
主イエスが自分たちに深い憐れみをもって仕えてくださったということを実際に経験した弟子たちには、強い印象が残りました。それでこの後、幾度も幾度もこの日の出来事を思い出しながら語り伝えるようになったのです。何度も思い起こされ語り伝えられていくうちに、聞いた人たちの間では細かい数字や場面場面についての言い伝えが変化して、この話は「5,000人の給食」と「4,000人の給食」という二つのバージョンに発展したのでした。
さて、今日の箇所はその直後の話です。満腹し喜んでいる群衆を主イエスが解散させられ、そして直弟子たちに対しては群衆を解散させるよりも早く、「舟に乗ってこの場所から離れ、向こう岸のベトサイダに向かうように」と指示をなさいました。主イエスが弟子たちに何事かを強いて行わせることは珍しいことなのですが、今日のところでは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」と45節に言われています。強いられて舟に乗せられたということは、逆に弟子たちの側から考えますと、弟子たち自身はこの日もっとこの場所に留まっていたいという思いがあったということになるでしょう。どうして弟子たちは、この場所に留まりたいと思ったのでしょうか。またどうして主イエスは、そういう弟子たちを強いて舟に乗せられたのでしょうか。
それは恐らく、この日そこで起こった出来事の本当の意味を、群衆のうちのかなりの人々が理解しなかったためと思われます。今日の記事の最後のところでは、弟子たちですら、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と言われています。「心が鈍くなる」とは、どういうことでしょうか。それは、どこまでも自分の都合を中心にして事の良し悪しを判断するあり方のことを指しているように思います。
「5,000人の給食」の出来事は、十字架と復活以外では、ただ一つこの話だけが四つの福音書に共通して出てくるのです。そしてヨハネによる福音書では、大勢の人たちがパンを食べて満腹した後、主イエスを自分たちの王に据えようとして連れ去ろうとしたという、後日談のようなものも語られています。ヨハネによる福音書6章14節15節に「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。5,000人の群衆は、自分たちのお腹を満たしてくれる都合のよい指導者として主イエスを受け止め、こういう人物ならと、自分たちの王に押し立てようと考えました。ヨハネによる福音書の後日談は、決して誇張ではなく、おそらく実際にこの通りだっただろうと言われています。昔も今も、パンの問題を解決してくれる指導者を求める人は、どこにでも大勢いるからです。
けれども主イエスは、人々のお腹が満たされればそれで良いとはお考えになりません。むしろ、「人はパンのみに生きるのではない。神の口から出る一つ一つ言葉によって生かされるのだ」という、主イエスの言葉が伝えられています。主イエスはそのためにおいでになりました。ですから、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、それが主イエスの一番最初の言葉だったと、マルコによる福音書は伝えています。
ところが、実際に主イエスに養っていただいた5,000人の群衆は、主イエスの言葉によって神と自分たちの間柄がきちんとされるということよりも、まず自分たちの空腹が満たされたということのほうを大きく受け止めました。群衆の思いとすれば、主イエスを歓迎することになります。「主イエスは私たちの肉の欲を満たしてくれる、そういう素晴らしい指導者だ」と言って、主イエスを担ぎ上げようとします。ですから、もし弟子たちがその場に長く留まっていたらどうなるかというと、弟子たちも群衆に影響されてしまい、主イエスのことをパンの問題を解決してくれる指導者だと思うようになるかもしれません。自分たちのパンの問題の解決を願う、そういう群衆の抱えている不気味なエネルギーというものが、この場にはありました。そしてその空気は、いかにも主イエスを好意的に受け止めているようでした。ですから、弟子たちの思いからすればその場に留まりたいのです。自分たちの先生が大変好意的に迎えられている、自分たちはその弟子なのだということが大変誇らしかったに違いないのです。
しかし主イエスは、そういう群衆の不気味なエネルギーの影響を弟子たちが受けてしまうことを良いとはお考えになりませんでした。それで、弟子たちをなるべく早くその場から遠ざけようとなさったのです。そしてまた、主イエスに対して自分たちの思いで期待している群衆に対しても、すぐにこの場を離れて各々の家に帰るようにおっしゃって、この集会を解散させられました。主イエスはこの世の王や指導者たちのように、パンを与えるためにおいでになったのではありません。神と私たち人間の間柄をきちんと結びつけるために、そして本当に人間が神のものとなって生活していくことができるようになるためにおいでになったのでした。
主イエスは群衆を解散させた後、まず山に登って神に祈りを捧げ、御心をお尋ねになったと言われています。46節に「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは神と人間との間柄をきちんと結ぼうとなさる際に、いつでもまずは祈りを捧げ、神の御心を確かめようとなさいます。どうして神の御心を尋ね求めるのでしょうか。
人間の心というのは変わりやすく、「絶対にわたしは、神さまの方を向く」と言っていても、そういう人間の心は長続きしません。次の日にはすっかり忘れて、自分中心に物を考えている、そういうことが人間にはよくあります。
それに対して、神の方は、人間がどんなに背を向けるとしても、それでもその人間を覚えてくださり顧みてくださるのです。神が人間を思いやり慈しんでくださる、その御心は本当に深く大きく、変わることがありません。ですから主イエスは、まず祈りを捧げ、神の御心を確かめられるのです。そして、その神の御心を人間に伝えるという仕方で、「神と人間との間柄がきちんと結ばれるように」と働いてくださるのです。
ところで、主イエスに強いられ舟に乗せられた弟子たちは、湖の上で逆風に悩む羽目に陥ったと述べられています。47節48節に「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。「夕方になると」と最初に言われますから、私たちの感覚では午後5時から6時の時間を考えてしまいますが、夕方と訳されている言葉は、原文では「夜の最初の時間帯」という言葉です。当時、夜の時間は晩6時から朝6時までの12時間で、それを四つに分けますから、この場合の夕方は晩6時から9時ぐらいまでの間を指しています。
つまり、私たちの時計に置き換えて考えますと、主イエスに送り出されて日が落ちる間際に陸地を離れた舟は、辺りが真っ暗になる夜の9時頃にはすっかり沖合にいて湖の真ん中辺りに差し掛かっていたけれど、そこで思いがけない向かい風に出遭って目的地までなかなか進んで行くことができないでいたということです。
昔から、「向かい風に漕ぎ悩む舟は、地上の教会の姿を現す」と説明されます。それはまさに、湖の上で逆風に悪戦苦闘してなかなか前に進めなかった、この弟子たちの経験が、私たちの現実の教会生活と重なるように感じられるところがあるためです。この時、弟子たちの舟には主イエスが乗っておられませんでした。主イエスが不在になると、教会はこの世の嵐に翻弄されてしまうようなところが出てくるのです。教会生活の中で私たちが絶えず探し求めるものは何かといえば、それは主イエス・キリスト、そのお方です。主イエスが共にいてくださるならば、どんな困難に直面しても、私たちはきっとそこをくぐり抜けて目的地に辿り着くことができます。しかし主イエスが共にいてくださらなかったり、主イエスを見失ったりする場合には、教会もキリスト者の生活も途端に上手くいかなくなるのです。
私たちは、主イエスが分からなくなる時や主イエスがとてもよそよそしく感じられてしまうような時には、この世の嵐に翻弄されて不安や恐れに押し流されてしまいます。そういう意味で、この箇所に語られる「漕ぎ悩んでいる舟」は地上の教会を象徴し、乗組員である弟子の一人一人は私たちキリスト者の姿に重なるのです。
さてしかし、そう考えてみますと、今日の箇所の不思議な点は、48節に「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」と言われていることです。「どうして主イエスは、すぐ舟に乗り込んでくださらなかったのか」、ここは昔からたくさんの注解者や説教者が悩んできたところです。
主イエスがすぐに舟に乗り込まず、脇を通り過ぎようとなさった理由は、恐らく、今舟のいる場所が航海の目的地ではないためです。主イエスは舟のすぐ側を通られて、ご自身が弟子たちを見捨ててはおらず、すぐ近くにいることを、まず示してくださいました。それから、舟に先立って向かっていくべき方角を指し示し、導き、目的地には先に主イエスがお着きになり、そこで弟子たちを迎えようとしてくださったのでした。
教会生活の中で、「主イエスが確かに共にいてくださる」ことを知らされる時に、私たちは慰められ、喜び、勇気を与えられます。けれども、そのように私たちが慰められ、喜び、勇気を与えられるのは、今この時この場所のためというわけではありません。私たちには一人一人、神がその人にふさわしい人生を備えてくださっています。そして私たちは、一人一人が神から贈り物として与えられている人生を生きて、その中で神に感謝し賛美しながら、この世界に対して神の御心の深さと愛の大きさを表して生きていきます。私たちがどんなに深い神の愛の中に置かれているか、どんなに私たちが愛され大切にされて生きていくのかということを、皆で喜んで表しながら生きていくのです。
主イエスが舟にすぐ乗り込もうとなさらなかったのは、舟が今彷徨っている湖の真ん中が航海の終点ではないからです。主イエスはいつも私たちのそば近くを歩んでくださりながら、同時に私たちが歩んで行くべき道を指し示し、導こうとしてくださるのです。
ところがこの晩、弟子たちは、そのように主イエスが近づいて来てくださったのにも拘らず、主イエスを幽霊と取り違えて怯えたのだと言われます。49節50節の初めに「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである」とあります。主イエスが近寄って来てくださり力づけようとしてくださったのに、その主イエスを幽霊だと思ったのはどうしてでしょうか。これは、主が湖の上を歩いて来られたからに相違ありません。普通私たちは、湖の波の上を歩いたりはできません。理性的に考えるならば、湖の真ん中にぽつんと浮かんでいる舟に歩いて近寄って来る者などあるはずがないのです。ですから弟子たちは、主イエスを幽霊だと思い違えました。
幽霊などと言って騒いでいるのは一見迷信深いことのように感じるかもしれませんが、弟子たちが非常に合理的にものを考えた結果こうなっているのです。不合理なことは、実は全て合理的に説明しようと思えば説明がつきます。自分が見たものが「あるはずがない。それは幽霊だ」と言ってしまえば、それで一応合理的に説明がつくのです。あるいは、聖書の記事で考えるならば、主イエスの復活とか昇天とか、それは弟子たちが思い描いた幻であり人間の心の願いが投影されているのだと説明をされることもあります。幽霊というのも、そういう意味では一つの合理的な説明の仕方なのです。
しかし、キリスト教信仰の中心にある事柄は、主イエス・キリストが十字架の死を死んでくださり、三日目に甦って実際に私たちと共に日々歩んでくださるという、この点にあります。私たちは、「主イエス・キリストがわたしと一緒に歩んでくださっている」ことを信じて、そこに力を与えられるのです。自分が心の中に思い描いた観念を拝むのでもないし、自分の不安や恐れから作り出した幻想や幻にひれ伏すのでもありません。地上の教会は2000年の間、「復活した主イエス・キリストが甦りの体をもって絶えず一緒に歩んでくださっている」ことを信じて、地上に立ち続けてきました。
もちろんその復活の主の御体は、私たちが今それぞれに与えられている肉の体とは違うところがあります。私たちの肉の体は、地上の生活を終えれば朽ち果て過ぎ去っていきます。主イエスの御身体は、いわゆる私たちの肉の体とは違う不思議なところがあるのですが、しかし間違いなく体をお持ちであるからこそ、主イエスは私たちに交わり、御言葉をかけてくださるのです。
そして、この晩もそうでした。主イエスは怯える弟子たちに対して、さらに近づいて来てくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と御言葉をかけてくださいました。これは弟子たちが自分の心の中で思いついたことではありません。主イエスが確かに近づいて来てくださり、こうおっしゃったのです。
何よりも先に言ってくださったのは、「安心しなさい」という言葉で、動揺する弟子たちの心を落ち着かせてくださいました。そしてその上で、「わたしだ」とおっしゃるのです。「わたしだ」という言葉は英語で「I am」ですが、神が人間に出会ってくださり、神ご自身をお示しになる時におっしゃってくださる言葉です。旧約聖書では「あってある者」という言い方をする場合もあります。神が「ここにわたしがいる」とおっしゃってくださるその言葉を、この晩、主イエスは弟子たちに語りかけてくださいました。そしてさらに「恐れることはない」とおっしゃり、弟子たちに恐れに捕らわれる必要はないのだと請け合ってくださいました。
しかしそれでも弟子たちの心の内に不安や不信の念があることをご覧になって、そこで主イエスは初めて舟に乗り込んで来られるのです。すると風が静まり、舟は順調に進むことができるようになりました。
この出来事を経験して、弟子たちは非常に驚いたのだと51節に語られています。そしてどうもこの時の弟子たちは、とうとう最後まで驚いただけで終わっているようです。最後の52節には、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と言われて、この記事は結ばれています。
今日の記事はいったい何を語っているのでしょうか。52節からすると、先のパンの出来事と関係がありそうですが、どこが繋がるのでしょうか。パンを食べて空腹が満たされることと、嵐の中で主イエスが近づいて来てくださることの、どこに共通点があるのかと思わされます。けれども「憐れみの主が弟子たちの只中に立ってくださる」ことと、「漕ぎ悩んでいる弟子たちを主が気遣い共に歩んでくださる」、その点が、パンの出来事と湖の出来事に共通している点です。
パンの出来事の時には、主イエスのなさりようを見た群衆が、「この方はパンを増やしてくださる方だ」と思い、主イエスご自身に思いを向けるのではなく、主イエスの能力だけに思いを向けました。けれども主イエスは、ご自身にパンの量を増やす力があるからそれを活用して群衆に役立ってくださったのではありません。本当に必要なものが欠けている人たちを憐れむ、その姿勢をもって人々に仕えてくださった結果、そこに起こっていた飢えの問題が解決に向かいました。
また今日の記事にしても、主イエスは、風を治める力があるからそれをなさったのではないのです。漕ぎ悩み目指す方へなかなか辿り着けずにいる弟子たちを憐れんで、行くべき方角をお示しになりました。恐れに取り憑かれている弟子たちの様子を見て、親しく御言葉を語りかけ、不安と恐れを解きほぐし、それでもなお主の言葉を信じられない弟子たちに対して、舟に乗り込んで「確かにわたしはあなたたちと一緒だ」と伝えてくださいました。
こういう二つの記事を聞かされながら、考えますと、私たちもいつも主イエス・キリストに伴われ、寄り添っていただいて、それぞれに信仰生活を過ごしていることを思わされます。
私たちは決して、自分の心の中にある思いに支えられて生きているのではないのです。あるいは、自分の思いを思い起こさせてくれる何かの情報が聞ければそれで足りるのでもないのです。主イエス・キリストは、私たちの教会生活の中に共に歩んでくださり、私たちに御言葉をかけ、私たちを慰め励まし勇気づけて、「それでもあなたは、ここからもう一度生きて良いのだ」とおっしゃってくださいます。御体をもって私たちに語りかけ、御手をもって私たちを支え共に歩んでくださる、そういうお方が確かに私たちの教会のただ中におられ、礼拝を通して私たちに語りかけてくださるのです。
ですから、礼拝は私たちにとってかけがえがないのです。他の手軽な手段で代用できるようなものではありません。テレビ中継のように家と教会を結んで礼拝の様子が見えればよいと考える人がいないではありません。しかし実は、テレビでいろいろなものを見るというのは、あくまでも画面の話でしかないのです。
今私たちは、ここに共におられる主イエス・キリストと時を一緒にして、その御声を聞き、そして私たちはここで主イエス・キリストの御業を賛美するのです。そういう仕方で、「神さまが私たちを顧み生かしてくださっている」ことを確かにされながら、私たちは、それぞれに与えられている地上の生活を歩んで行きます。
憐れみの主が実際に私たちのただ中に歩んでくださって、慰めと励ましを与え、「あなたはなお、ここから歩んで良いのだ」と呼びかけてくださいます。その主から力を頂いて、私たちは、主に清められた者として、新しい一巡りの生活へと押し出されたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |