2022年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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信仰による救い | 2022年1月第5主日礼拝 1月30日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第5章25〜34節 |
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<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 |
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ただいまマルコによる福音書5章25節から34節までをご一緒にお聞きいたしました。主イエスが会堂長ヤイロに頼まれてその家へと急いでいた時、一つのハプニングのようにして起こった出来事がここに記されています。 この日、主イエスに手を伸ばして触れたのは一人の女性でした。25節26節に「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。この女性は12年もの間、病み通しであったと紹介されています。闘病生活によってすっかり疲れ切り、その魂も千々に乱れていました。特にその病が下半身に関係するということで、辛くやりきれない思いを抱えていました。これまで多くの医師の世話になりましたが事情は少しも良くならなかったと言われています。診察の度に辛い思いをさせられ、しかも一人ではなく何人もの医師に診てもらい高額の診療代がかかったけれど、良くはならなかったのです。「全財産を使い果たしていた」と、全財産を使い果たしてでも良くなりたかったのに、状況は思わしくなく「ますます悪くなるだけであった」と言われています。 ところが、そのように暗闇の中に置き去りにされているように感じていた彼女の目の前で一つの出来事が起こりました。会堂長のヤイロが主イエスの前に跪いて、「どうか一緒に家に来ていただきたい」と願い出たのでした。ヤイロは町の名士です。多くの人がヤイロを知っていて、またその娘の病状が思わしくなく、もはや手遅れで医師も手の施しようがなくなっているという噂話が群衆の間から漏れ聞こえてきます。 この女性は、目の前で会堂長ヤイロの父親としての愛と主イエスへの深い信仰を示されました。娘がすでに手遅れになっているにも拘らず、また後には死んでしまったにも拘らず、それでも「ただ信じなさい」という主イエスの言葉に励まされて、ヤイロはなお主への希望の中を生きています。この女性は、そういうヤイロの信仰に励まされました。そして彼女自身の中にも、本当に微かですが希望が与えられ、目の前にあった主イエスの衣の裾を思わずギュッと握ったのでした。27節28節に「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。ヤイロの信仰にいわば触発されるようにして、この女性の中に微かな信仰が生じました。そして後ろから主イエスの衣の裾を握りました。日本語訳では「触れた」となっていますが、「握った」という意味の文字です。そして主イエスはこの時、この女性の中に本当に微かな信仰が宿っていることに気づかれたのです。それで、歩みを止め、一時立ち止まられました。 この女性に宿った信仰は、ヤイロの信仰の姿から示された本当に微かなものでした。ヤイロが手遅れになっている娘をそれでも主イエスによって癒していただきたい、救っていただきたいと期待し望んでいる姿を見て、ヤイロの死にかけた娘と自分自身の姿が重なり、そして思わず「わたしも」と手を伸ばしたのでした。この女性に与えられている信仰、それはヤイロの信仰の姿に影響を受けて瞬時に閃いた刹那の信仰です。本当に微かな、僅かなものです。ヤイロは前々から主イエスに期待を寄せていましたから、主イエスがカファルナウムの岸辺に戻られたことを知り、主イエスの前に行き、ひれ伏しました。 そして本当に一瞬のことでしたが、主イエスはその出来事を見過ごさず、喜んでくださったのです。主イエスはこの女性の中に芽生えている小さな信仰の火花を見逃しません。その火花が最初は小さな種火のようなものでしかないとしても、この人の中で確かにそれが着火し、赤々と燃えて、この人を温める本物の薪になることを、主イエスは望まれるのです。そのために、主イエスは立ち止まり振り返って、この女性がご自身との交わりの中に生きるように導こうとなさいました。 この女性は、ヤイロの強い信仰に触れて彼女自身も信仰を与えられています。しかしそれは、信仰とは言ってもヤイロの赤々と燃え盛る炎の中から飛んできた火の粉が少し落ちたような、その程度のものでしかありません。彼女の信仰は、ヤイロのように正面から主イエスの前に名乗って出るというほど強くありません。彼女は、群衆に紛れてそっと後ろから主イエスの衣に触れて、誰にも気づかれないまま自分が抱えている嘆きや悩み、病を癒されたいと願います。ところが主イエスは、その弱く乏しい信仰、微かにこの人の中に宿った信仰を顧みてくださるのです。傷ついた葦は折られず、仄暗いランプの明かりもかき消されることはありません。この人に生じた癒しが単なる魔法や、言葉の綾や思い込みではなくて、確かに神の御業として生じたことを分からせたいために、主イエスは振り向かれるのです。「だれがわたしに触れたのか。わたしに触れて癒されているのはだれか。あなたがそうなのか」と、群衆の一人一人に、主イエスはそう尋ねてくださいます。 この時、主イエスのすぐそばに従っていたはずの弟子たちは、主イエスがここで取っておられる行動が理解できません。主イエスがここで意図しておられることも分かりません。なぜ分からないかというと、実際にここに癒しの出来事が生じていることを知らずにいるためです。弟子たちは言います。31節に「そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか』」とあります。 そしてまさにその通りになっていきます。33節に「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」とあります。この33節は、マルコによる福音書とルカによる福音書では、書かれている内容が微妙に食い違っているところです。ルカよる福音書8章47節を読みますと、主イエスがしつこく群衆にお尋ねになるので女性が隠しきれないと知って震えながらすべてを語ったのだとあり、この女性が「もはや隠しきれないと観念して白状した」という書き方になっています。しかしマルコによる福音書では、そうではありません。「もはや隠しきれないと観念して白状した」ということではなく、この女性は、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」と言われています。 このようにこの女性は、自分が「神から顧みられている。主イエスから顧みられている」ということに気がついて、深く感動し、畏れの感情を抱きました。 主イエスはこの女性に神の力を持ち運びました。女性はそれによって病気が良くなったのですが、ただ自分が癒され慰められ勇気づけられただけではなくて、そのように自分を力づけてくださる源となっている方、神が、「主イエスを通して、今、自分に出会おうとしてくださっている」ということに気づかされ、深い畏れと敬いの気持ちに捕らえられ、激しく心を動かされているのです。震えながら主イエスの前に進み出たというのは、「どうなるのだろう」という不安や恐怖からではなく、自分がそのように神に覚えていただいたという感動によって生じていることです。そして、ありのままを主イエスに申し上げたのでした。 まさに「恐れ入っている」この女性に、主イエスは暖かく御言葉をかけてくださいました。34節に「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」とあります。私たち人間の中に兆す本当に小さな信仰の火花、あるいは兄妹姉妹から飛んできて私たちの心の内にちょっと落ちるような小さな信仰の火の粉を、主イエスはご覧になります。そしてそれが確かに私たちのうちに宿り、私たちを僅かでも温めていることをご覧になって、喜ばれます。 今日の箇所に記されている病気の女性だけではなく、ここにいる私たちにも、主イエスは呼びかけてくださいます。「わたしに触れたのはだれか。その信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。私たちは、主イエスとの交わりの中から力をいただいて、この地上の生活を歩んでいきます。 |
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