ただいま、マルコによる福音書4章35節から41節までをご一緒にお聞きしました。35節に、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。「その日の夕方」というのは、主イエスが群衆に丸一日がかりで、さまざまな譬え話を通して「神の国、神の慈しみと配慮に満ちた御支配があなたたちの上にあるのだ」ということを教えられた、その日の夕方という意味です。陽は傾き間もなく暮れようとしている、しかしカファルナウムの岸辺には、また立ち去りがたく主イエスの話を聞き足りないと思う群衆が残っていました。
主イエスはこの日、舟の上から人々に教えられました。陸上ですと、次々と詰めかけてくる群衆に押されて湖の中に落ちてしまうという危険があったためです。また群衆の中には、主イエスが癒しの奇跡をなさる方だという噂を聞いて主イエスに直に触れてみたいと思う人たちも大勢いました。しかし主イエスご自身は、大相撲の力士のように多くの人たちから触れられることでご自身の人気を確かめようなどとは思われません。人々の間での人気などよりもはるかに大事なことを伝えなければならない、そう思っておられました。「時は満ちて、神の恵みの御支配が今まさにあなたがたのもとを訪れようとしている。だからあなたは、神のことを遠くに思うのではなく、あなたのすぐ傍に、日々の生活の上に神が共にいて、あなたを支え導き持ち運んでくださることを信じなさい」、そのことを教えようとなさいました。「神の慈しみ、恵みの御支配を伝える御言葉があなたがたの中に蒔かれていく。それはほんの小さなからし種のようなもので、最初はそれを聞いても自分の中にどんなに大きな変化が起こっているか気づかないかもしれない。けれども、御言葉は次第にあなたがたの中で成長し大きく育っていく。遂には大木のようになって、あなたを支え、またあなた以外の人たちさえ、そこで休ませてあげることができるようになる」と教える、そういう御言葉の種蒔きを、主イエスは殊のほか大事に考えられたのです。
主イエスがそのように御言葉の大切さを教えられたので、代々の教会も御言葉の種蒔きに精を出します。毎週の礼拝や祈祷会をはじめとする教会のさまざまな集会を通して、御言葉の種が今日も私たちの間に蒔かれているのです。
さて、主イエスはこの日一日、精一杯群衆に教え、御言葉の種を蒔き続けられました。そして夕闇が迫る頃、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われ、向こう岸へと渡って行かれます。しかし主イエスが舟に乗ったまま向こう岸へ行かれるということは、岸辺で主イエスの話を聞いていた群衆にとっては、少し意外だったかもしれません。もう夕暮れになっていましたから、遠からず主イエスが舟の上からの説教に区切りをつけるだろうことは、群衆にも予想がついていました。そして、話終えた主イエスは当然、もう一度カファルナウムの岸辺に上陸してペトロの家で休息を取り、そしてまた明日、岸辺で自分たちに御言葉を語ってくださるに違いないと思っていました。ところが、そう思っていた群衆にとって、主イエスがカファルナウムに戻らず、「向こう岸に渡ろう」と言って湖の遠くに去って行かれるということは、想定外の出来事だったに違いないのです。36節を見ますと、主から促されて、「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」と述べられています。岸辺の群衆の中には不満を感じる人がいたかもしれません。自分たちは主に置いて行かれた、捨てられたのだと早合点した人もいたかもしれません。
しかし、主イエスは自由な方なのです。人間の側の都合に合わせて、いつでも聞きたい時に聞きたい言葉を語ってくださる方というのではないかもしれません。そもそも主イエスは、カファルナウムの人たちだけを相手に、ごく一握りの人たちだけに神のことを知らせようとなさったのではなく、すべての人に福音を伝えようとなさいます。ですから、主イエスの御言葉を聞くことができるという機会は、実は私たちにとって本当に幸いな機会だと言うべきだろうと思います。私たちは、聖書が朗読され、説き明かされた言葉を聞くということを毎週の礼拝の中で経験するので、いつの間にかそれが当たり前のように考えてしまいますが、しかし何かの事情によってそのようなことが途絶えてしまうとか、あるいは語られていてもその言葉が自分に語られている言葉として聞こえなくなるとか、そういうことが起こる時も有り得るのです。そういう意味で、御言葉を聞くことができるのは本当に幸いなことなのだと気付かされるのではないでしょうか。
夕暮れに、主イエスは湖の向こう岸へと渡って行かれます。この湖はガリラヤ湖ですが、ガリラヤ湖は南北に細長い湖で、誰円形あるいは果物の洋梨を逆立ちさせたような形をしています。カファルナウムはその一番北の端にある町ですから、向こう岸というのは湖の南側です。南北の距離は20キロちょっとあり、地図によれば湖の中央は水深が43メートルあると書かれています。
弟子たちの中には元々漁師だった人が何人かいましたが、夕暮れから夜の時間帯に湖の上を渡っていくということには、あるいは心細さを感じるところがあったかもしれません。しかし主イエスが「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったので、弟子たちはそのまま湖の上に漕ぎ出しました。他の舟も一緒だったと言われているところからすると、十二弟子は少なくとも2艘か3艘の舟に分乗して向こう側を目指さなければならなかったわけで、大変小さい舟に乗っていたということになるだろうと思います。
ところが、そのようにして向こう岸を目指す船団は、湖の上で思いがけないシケに出遭うことになりました。長年この湖で漁をしてきた弟子たちにとっても、予想を超えるほどの嵐でした。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と、37節に言われています。舟はおそらく、湖の真ん中辺りに差し掛かっていたでしょう。夜の闇がすっかり降りている真っ暗な中で風が吹き寄せて来る、舟の中に水が打ち込んで来る、弟子たちは危機的な状況だと気づいて、つい叫んでしまうのです。38節に「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」とあります。弟子たちは必死になって主イエスを呼び起こしました。これほどの緊急事態なのに、主イエスが呑気に艫の方で、つまり船尾の方で枕に身を預けて眠っておられたからです。
しかし、小舟に乗っていて舟が波をかぶるほどのシケの中で、果たして眠るなどということができるのでしょうか。その点を疑問に思う註解者はいるのです。ある註解者は、「これほどの悪天候の中で主イエスが眠れたはずはない。しかし主イエスが眠っておられたとマルコが書いているのは、マルコが、『主イエスは神の御手のうちにある。主イエスは本当に神に信頼して安らかである』ことを分からせたくて、眠っておられる主イエスの姿を描いたのだ」と説明します。なるほどそう言われてみると、そうかもしれないと思います。私たちは、この舟の大きさがどれくらいか分からないので何とも言えませんが、しかし小さな舟で、しかも舟の中に水が打ち寄せてくるような状況であれば、ここで眠っていたということは、普通の人の感覚から言うと不自然です。確かにこの箇所には、「主イエスが安らかである姿」と「嵐に怯え、そのために主イエスを呼び起こさずにはいられない弟子たちの落ち着きのない姿」、それが対照的に描かれていると言える気がします。
けれども、弟子たちと主イエスの姿が対照的だというだけで、この箇所を聞いたことになるのかというと、それだけでは終わらないようなところがあります。もし弟子たちが、「自分たちは嵐に出遭った時とても怯えたけれど、主イエスは大変落ち着いて休んでおられた。なるほど先生は大したものだ。自分たちもこれからは先生を見習って、嵐に翻弄されても落ち着くことにしよう」と思ったというのであれば、意味があります。けれども、今日の記事を最後まで読んでいきますと、弟子たちはこの時の出来事を通して、むしろ主イエスという方がどんな方であるのかが分からなくなったと語られる言葉でこの箇所は結ばれています。41節に「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。ですからここは、「弟子たちが先生の姿から学んだ」という話ではありません。弟子たちは最後まで、「主イエスは眠っておられた」、その意味が分からずにいます。
では、この記事の中心はどこにあり、一体何を伝えようとしているのでしょうか。昔からここは、「主イエスが自然に対して奇跡をなさった記事だ」と説明されてきました。この福音書の前の方では、主イエスは、病気の人を癒したり、悪霊を追い出したり、さまざまな行き詰まりの中にある人間を救う不思議な業、奇跡を行っておられました。ですからそこでの主イエスは、「私たちが病んでいたり、困り果て行き詰まったりする時に、そこに出口を与えてくださる方」という描かれ方をしていました。続く今日の箇所は、それに加えて、「主イエスは自然界に対しても自然の秩序を変える力をお持ちである」ことを語る記事だと説明をされてきたのです。
けれどもそういう記事なのかどうか、考えどころだと思います。
主イエスが自然界に介入なさると、今まで大荒れに荒れていた湖が静まって凪になる、主イエスを何か特別な力のある人物であるかのように見せる、そういう記事なのでしょうか。主イエスが風も波も従わせる力をお持ちなのだと、そう大きく見せて、しかし果たしてそれで私たち人間は、主イエスを救い主だと信じるようになるのでしょうか。はっきりしていることは、ここで弟子たちはそういう奇跡に出会って、それを実際に目撃したけれど、「だから、主イエスは救い主だ」とは信じていないのです。「この方は一体どなたなのだろう」と不思議がっているだけです。
もしかすると今日の記事は、私たちが忘れ去りそうなことについて、一つのとても重要な警告を発している記事かもしれないと思います。
この記事の中で起こっている出来事を、もう一度、順序立てて思い返してみたいのです。
まず、弟子たちが主イエスと共に夜の湖に漕ぎ出します。主イエスは弟子たちと一緒にいてくださったのですが、湖の上で、つまり弟子たちが漕ぎ出した先で、予想もしなかったような、そして自分たちの力ではどうにも制御することができないような深刻な事態に立ち至るのです。そうなった時に弟子たちはどうなったか。無我夢中になって、主イエスがすぐ横にいてくださるのに、慌てふためいています。そしてそういう状況では、「天地をお造りになり全てを支配しておられる方、自分たちを導いてくださり、また自分たちを支え救ってくださる神さまに信頼を寄せる」ということは、できなくなっているのです。
けれども、そういう中にあって、まさに主イエスご自身だけが、あるべき本来の信仰の姿、信仰の姿勢を保っておられるのです。そして今日の記事では、波と風が収まった後に、主イエスは弟子たちを諭されました。
そうだとすると、今日の記事の中心は、40節で主イエスがおっしゃっている言葉ということになるのではないでしょうか。40節に「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」とあります。「まだ信じないのか」という言葉は、やがて弟子たちが主イエスとの交わりの中で、「神への信頼のもとに生きていくようになる」という将来を指し示している言葉です。「主イエスとの交わりを持ち、主イエスの御言葉に耳を傾けて生活する中で、種が蒔かれていく。蒔かれた種は、聞いた人の中に根を張り太い幹となって、その人を支えてくれるようになる」、神への信頼が、私たち人間の中に種を蒔かれ芽生え育っていくのです。「まだ信じないのか」という言葉は、別に言えば「まだ神さまへの信頼を持てずにいるのか」という問いです。主イエスは、弟子たちがただ主イエスのことを近しく思うというだけではなくて、「父なる神への信頼に支えられて生きるようになる」ということを望んでおられるのです。そしてそのために、主イエスは、御言葉の種を来る日も来る日も蒔き続けられました。
ところで、私たちは実際のところ、この日起こったことをどのように感じ、考えるでしょうか。おそらく私たちは、「2000年の昔には、今日のような天気予報のための装置もなく技術も未発達だった。だから、主イエスをはじめとして舟に乗っている人たちは皆、想定外の嵐に遭遇してしまった。でもこれがもし今日であれば、様子は違ったのではないか」と思うでしょう。今日であれば、湖の西か東に低気圧が近づいてきていることを観測で知り、それが深刻だと思えば舟の出港を取り止めることができたかもしれないし、万が一不運にも嵐に巻き込まれてしまう場合には、風が吹いてくる方向に船首を向けて横波を避け、舟を操り、嵐が過ぎるのを待とうとするでしょう。「聖書では『主イエスが風を叱り、波を鎮められた』と言われているけれど、それは天気図と重ね合わせてみれば、ちょうど低気圧が通り過ぎようとしていた時だったのではないか」と、私たちはそのように考えるのではないでしょうか。すなわち、主イエスがなさったことは、当時の人たちにとっては奇跡かもしれないけれど、しかしそれは自然界に起こる出来事であって、もし今日の観測技術があれば、奇跡などではなく、乗り越えることができる出来事だったと考えるのではないかと思います。
実は、私たちがそのようにこの出来事を考えるとすれば、まさにその点に今日の私たちの問題が現れているのです。
現代というのは、奇跡とか信仰が働く領域がとても狭められている時代です。私たちはいろいろな技術によって、昔よりずっと確かなことを理解できるようになっていると思い込んでいます。しかし、まさにその点にこそ、私たちの今日の深い病の根があると言わなければならないのではないでしょうか。主イエスが、「まだ信じないのか」と弟子たちにお尋ねになった、その信頼は、神に対する信頼です。「神があなたの上におられる。神の恵み、慈しみがどんな時にもあなたを離れることなく注がれている。あなたはそれによって支えられて生きることができる」と、主イエスは譬えを通して何度も伝え、「悔い改めなさい。神さまが一緒にいることを考えて生きなさい」と教えられました。
けれども、主イエスが「まだ信じないのか」とおっしゃった神への信頼というのは、今日の私たちはほとんど失ってしまっています。神に信頼する代わりに私たちが信頼しているものは何か。科学技術やさまざまな知識が確かなのだと、それが当たり前の社会の中に暮らし、私たち自身もそう思っているところがあるのです。 そして、私たちが依り頼んでいるものがそういう技術や科学であるがために、私たちは本当には「心の底から信頼を置いて生きる」ということができなくなっています。天気のことなら、ある程度分かるかもしれません。けれども、例えば地震がいつ来るか、火山はいつ噴火するか、これについてはどうでしょうか。未だに、これを確実に予測出来るようにはなっていません。あるいは、温暖化によって地球環境が破壊され、何十年か先には深刻な事態が起こるだろうと警告がされています。現に南太平洋の島国の中には、海面上昇のために住めなくなり、別の島に国を挙げて移住しなければならないと真剣に考えている国もあるのです。それは間違いなく環境が変化している印ですが、しかしそれなのに私たちは、自分たちの暮らし方をなかなか変えることができません。どうしてでしょうか。
それは、私たちが科学や技術に信頼するのだと言いながら、本当には信頼していないからです。科学的に考えて、このまま行けば地球は大変困った事態になるのだと説明を受けていながら、それは一つの説にすぎないと退けてしまう。自分にとって不都合な、生活を変えなければならないような予測を、なかなか私たちは信じたがらないし、受け取れないのです。
私たちが今日、信頼していると思って依り頼んでいるもの、科学や技術は、私たち自身の主観によって受け取られも、受け取られないことも、あるいはそれが捻じ曲げられることもあり得ます。そしてそれは、私たちの依り頼んでいるものが神ではないので、そういうことになるのです。
私たちは、分かっているつもりで依り頼んでいますが、実際には自分自身が神であり暴君であるかのように振る舞いながら生活をしています。しかしその結果がどうなってしまっているか、それがとても重要です。私たちにとって本当に必要なものであるはずの、「心からの信頼と平安」というものを、私たちは手放してしまっているのではないでしょうか。
神が私たちの命を造り、与えてくださっている、その結果、私たちはこの地上に生まれてきました。私たちは、神が支えてくださる許で日々の生活を過ごすようにされ、私たちが困った時も、不安や恐れに捕えられる時も、神がそれでも私たちを顧み支えてくださる、そういう中で生活をしているのです。主イエスは、そういう神がおられるのだということを一生懸命、人々に伝えて歩まれました。神への信仰があなたの中に種蒔かれ、それが樹木のように育ってあなたを支えることになるのだと教えてくださいました。主イエスは一日中、群衆にそのことをお語りになったのです。弟子たちは主イエスの一番側にいましたから、主イエスのおっしゃったことを全部耳にしていたに違いないのです。ところが弟子たちは、嵐に出遭うと、神に信頼するということをすっかり忘れて取り乱してしまいました。主イエスは、そういう弟子たちに、「まだ信じないのか」と言われるのです。
これは、叱っている言葉というよりは、約束の言葉です。主イエスが御言葉をかけてくださる、そしてそのことによって、弟子たちの中に神への信頼が生まれ、「神に希望をかける」ということが生まれてきます。その希望に一切をかけ、自分自身を委ね、恐れなくてもよいようになるのです。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、主イエスは言われます。「あなたは神さまに信頼して安らかでいられるようになる。恐れなくてよいようになる」と、主イエスは弟子たちにおっしゃいました。私たちが主イエスから聞かされている、この神の恵みを信じるようになる時に、この地上の生活でいろいろな困難に遭遇しても、私たちは、それによって翻弄されたり振り回されたりしなくなっていくのです。神に信頼をおいて、困ってはいるけれども、しかし神に信頼してそのところを平安に生きる者とされていきます。
私たちには、心配事などいくらでもあるだろうと思います。今であれば、感染症のことがまず思い浮かぶかもしれません。あるいは年々歳をとり、自分がこのまま衰えていったらどうなるかという不安や、仕事を続けていけるのだろうかという恐れを持つ方もいらっしゃるだろうと思います。
けれども、私たちがいろいろな形で不安や恐れに出会う時にも、その一切を神に祈り願い、求めて、「こんな状況ではあるけれど、神さまはきっとわたしを導いてくださるに違いない」と信頼してよいのです。どのように神が導いてくださるか、その具体的なことは、私たちには分かりません。けれども、「きっと神さまが確かに持ち運んでくださる、そのことを信頼してよいのだ」と、主イエスは教えてくださっています。
新しく与えられた一巡りの時を、「神に信頼をして生きることを学ぶ」、そのような時として過ごす者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |