2022年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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ヤイロの娘の蘇生 | 2022年1月第3主日礼拝 1月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第5章21〜43節 |
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<21節>イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。<22節>会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、<23節>しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」<24節>そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」<35節>イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」<36節>イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。<37節>そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。<38節>一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、<39節>家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」<40節>人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。<41節>そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。<42節>少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。<43節>イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。 |
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ただいま、マルコによる福音書5章21節から43節までをご一緒にお聞きしました。 21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた」とあります。「主イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡った」と言われているのは、カファルナウムがある湖の北岸に戻って来られたということを表しています。カファルナウムの町では、主イエスは何度か悪霊を追い出したり癒しをなさるという不思議な奇跡を行なっておられました。そのような主イエスの噂が知れ渡っていましたので、主イエスが戻って来られると、どこからともなく大勢の群衆が集まり始めました。しかしそういう中に、是非とも主イエスの助けを必要としている一人の父親がいました。 しかし、大勢の人が心配してくれているものの、ヤイロ自身の立場からしますと、事情はそんなに単純ではありませんでした。というのも、マルコによる福音書3章に言われていたことですが、主イエスはカファルナウムの会堂で一部のユダヤ人たちと極めて関係が険悪になるということがあったからです。その人たちは会堂を出て、「主イエスを殺そうと相談した」と言われています。 まさに、この娘はこの時、死にかけていたのでした。この娘については「12歳」と言われています。当時のユダヤでは、女性は12歳で成人しました。ですから「12歳の娘」であれば既に成人しており、間もなく結婚の話が起こってもおかしくない年頃です。ところがヤイロはその娘のことを、「わたしの幼い娘が死にそうです」と言っています。娘は成人していたに違いないのですが、ヤイロにとっては小さい頃から育ててきて、やっとここまで育ってくれた大切な娘なのです。ところが、その大切な娘が、今、ヤイロのもとから失われそうになっています。人間的には手の施しようがなくなっている、そんな中で、ヤイロは主イエスに信頼を寄せたのでした。 しかし、主イエスのもとまで行ってヤイロは一体何を求めたのでしょうか。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」とヤイロは言いました。命が今にも失われそうな深刻な状況にあって、「手を置く」という行為に一体どれほどの意味があるのかと思う方はいらっしゃるでしょう。「今にも亡くなりそうな人の上に手を置いて祈っても、病気の回復には繋がらない。それは気休めの行いに過ぎないのではないか」と、今日の私たちは批判的に考えるかもしれません。 会堂長ヤイロは主イエスに深く信頼を寄せ、その信頼故に主の前に身を低くし、そして、今差し掛かっている人生の難所を越えて生きて行きます。主イエスはヤイロの信仰をご覧になり、その信仰に応えて行動を起こしてくださいました。24節に「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」とあります。主イエスは、ヤイロの家へ連れ立って出かけて行かれます。ヤイロは医者を連れて帰るのではありません。それ以上の事が起きています。ヤイロは主イエスを「神と共にある方」として、その前にひれ伏し、そして主イエスに期待を寄せ、一緒に家まで来ていただくのです。ヤイロからすれば、主イエスを家にお連れすることは、「神ご自身を自分の家にお迎えする」、そのような思いでした。 会堂長の家では、すでに死者を弔う支度が始まっていました。泣き女たちが手配され大声で泣きわめき、死の悲しみの大きさを表現していました。 ところが真に思いがけないことになりました。この後、事態は主イエスの言った通りに進んでいきます。それはまるで、神が御言葉によってこの世界を何もないところからお造りになった、あの最初の日の様子を見せられているかのようでした。40節から42節に「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」とあります。思いがけない出来事に出会って、この場に居合わせた人々は、「我を忘れた」と言われています。 北極圏に一日中オーロラが出続けている町があるそうです。オーロラが頭の上にあっても日中は見えません。ただ11月から2月までは一日中が夜なので、その時にはいつもオーロラが頭の上にあるのを見ることができるそうです。けれども冬の季節は吹雪が多く、雲の上に輝いているオーロラを見ることができません。晴れる日は週に1日あるかないか、しかし運良く雲が切れて晴れの時間帯にぶつかりますと、自分の頭の上でオーロラが緑から赤へ、また赤から緑へと姿を変え色を変え、その大変美しい様子に時間が経つのを忘れて見入るのだそうです。 ここに起こっている奇跡とは、一体どういうことなのでしょうか。死んだはずの娘が再び生きるようになった、それが奇跡なのでしょうか。確かにそれも奇跡には違いありません。しかし、聖書はそういうことを伝えようとしているのでしょうか。すなわち、「この娘は、一旦は死んだけれど、また生きるようになった。あなたがたはそのことを信じなさい」と言われたなら、私たちは、この話を受け取るのに大層苦労することになると思います。私たちにとっては、死は死であり、それは決して動くことのない事柄のように思えるからです。 聖書がここで言っている事柄の中心は、「死んだはずの人について、それを眠っているのだとご覧になり、そう言ってくださる方がおられる」ということです。死の出来事が起こって一人の人が地上から取り去られる時に、しかしその出来事をまるで命の造り主である神のようにご覧になり、命を与える方がおられる、それが、聖書がここで私たちに告げている奇跡の正体です。 ここに語られている事柄を考えますと、改めて、今日ここに集まっている私たちも、「十字架と復活の主イエスを信じ、その主に信頼を寄せ、御言葉を聞いて慰めや勇気や励ましをいただいて生きている」ということ自体が、それぞれに私たちの身に起こっている奇跡なのだと言えるのではないでしょうか。 ですから私たちは、毎週毎週、礼拝の中で新しくされ、ここからもう一度力を与えられて歩み出すことが許されています。主イエスが共に歩んでくださる、ここから始まる新しい歩みに主が伴ってくださり、「タリタ、クム」と私たちにも呼びかけてくださるのです。ヤイロの娘が生き返らされ、そしてその娘の時を生きたように、私たちもまた、今日ここで主イエスから「あなたはここからもう一度生きるのだ」と呼びかけられています。 様々な不自由さの中に閉じ込められ、不安や恐れに捕らえられそうになるこの生活の中で、主イエスが私たちと共に歩んでくださいます。「あなたは今日を生きるものとされている」との御声を聞きながら歩む、幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |
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