聖書のみことば
2022年1月
  1月2日 1月9日 1月16日 1月23日 1月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月9日主日礼拝音声

 神様の憐れみ
2022年1月第2主日礼拝 1月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章1〜20節

<1節>一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。<2節>イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。<3節>この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。<4節>これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。<5節>彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。<6節>イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、<7節>大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 <8節>イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。<9節>そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。<10節>そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。<11節>ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。<12節>汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。<13節>イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。<14節>豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。<15節>彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。<16節>成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。<17節>そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。<18節>イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。<19節>イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 <20節>その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 ただいま、マルコによる福音書5章1節から20節までをご一緒にお聞きしました。この箇所は昔から、どのようにこの話を受け取ったらよいのか難しく、解釈の難所であるということが言われている箇所です。
 そう言われる理由は、一つには、男性の中に入り込んで「レギオン」と名乗っている悪霊たちが、豚の群れの中に入って多くの豚が溺れ死ぬというような事件が起こっているためとも思われます。悪霊や汚れた霊に取り憑かれた病人の記事は福音書の中に時折登場しますが、その記事を今日の人たちは、「心の病」を言っていると受け取ることが多いのです。ところがそのようにこの記事を説明しようとしますと、レギオンに取り憑かれた人が主イエスに出会って正気に戻るという点は、主イエスによって癒されたのだからということで良いのですが、豚の話の説明がつかないことになってしまいます。人間の心の病が豚に乗り移るなどということは考えられないためです。
 あるいは他の面からも、この記事は理解するのが難しいと感じられるようです。ここではレギオンと名乗っている悪霊たちが、彼らが入り込んでいる男の人から出て行くように主イエスから言われた際に、「豚の群れに入る」ことをレギオンの方から提案しています。主イエスがそれをお許しになった結果、レギオンが乗り移った豚の群れが突然暴走し始めて崖からガリラヤ湖の中に雪崩落ち、溺れて死んでしまいます。その結果どうなるかというと、出来事を知ったこの地方の住民たちから主イエスは、「出ていって欲しい」と求められ、ガリラヤ南岸のデカポリス地方を後にしていくのです。これは、主イエスから立ち退くように求められたレギオンたちがまんまと主イエスを出し抜いて、主イエスがその地方で伝道できないように仕向けた話であると理解しようとすればできるかもしれないという印象を与えます。けれども、主イエスが果たして騙されたり出し抜かれたりするのだろうかと考え始めますと、こういう説明や理解の仕方はたちまち行き詰まってしまいます。
 このように、この箇所はどう受け取ったらよいのか理解の難しい箇所だと考えられているのですが、実際のところ、どのように受け止めるのが相応しいのでしょうか。

 今日はマルコによる福音書から聞いていますが、この出来事は、マルコによる福音書だけではなく、マタイやルカによる福音書にも出て来ます。同じ出来事がマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に出てくる場合、それはその出来事が主イエスの御業を伝える上でどうしても語られなくてはならない大事なエピソードであるということを表すのです。
 またそれだけではなく、この話は、マルコ、マタイ、ルカのいずれも、主イエスがガリラヤ湖を渡る舟の上で眠っておられた時に、嵐に見舞われ怯え恐れた弟子たちに揺り起こされたという話のすぐ後に出てきます。ということは、この話はどうも、ガリラヤ湖上で嵐に遭遇した話とセットになって語られている話であるようです。
 ガリラヤ湖で嵐に遭遇した話の中心にあったのは、主イエスが嵐や風に対して命令し従わせることができる力を誇示するというようなことではありませんでした。その日、主イエスは、「神の国、神の慈しみ豊かな御支配が、いつどんな時にもあなたがたの上に臨んでいる。神の憐れみと慈しみがいつもあなたがたに注がれている」と、群衆に向かって一日中、譬えを通して教えられました。夕暮れになると、主イエスは弟子たちを促して湖の向こう岸、つまりガリラヤ湖の南岸に向かって漕ぎ出させます。そして夜の航海の最中に嵐に遭遇し、弟子たちはひどく怯え動揺しました。主イエスが一日中群衆を教えて、「どんな時、どんな場合にも神さまの慈しみがあなたと共にある。たとえどんな危険に出遭う時にも、神さまがあなたを導き支えてくださるのだ」という話をなさったその時に、弟子たちはどこにいたかと言えば、主イエスのすぐ傍にいて話を聞いていたはずです。主イエスの話を「そうだ、そうだ」と思って聞いていたに違いないのです。けれども、いざ実際に嵐に遭遇し、激しい風や波を経験しますと、弟子たちはもはやそこで「神さまが顧みてくださり、慈しんでくださる」ということを思い起こす心の余裕を失ってしまいました。神に信頼して安らかに眠っていたのは、この舟の中で主イエスただお一人なのですが、その主イエスを叩き起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と詰め寄ってしまいます。嵐の中で、弟子たちが主イエスから聞いていたはずの神への信頼をすっかり忘れて安らかでいられなかった時に、ただ主イエスお一人だけが神への信頼の中を歩んでおられた、それがガリラヤ湖での嵐の話です。「恐れる弟子たち」と「神に信頼して安らかな主イエス」の姿が対照的に描かれていました。
 そして、その対照的な主イエスと弟子たちの姿を通して、私たちは聖書から、「本当にあなたは心の底から神さまに信頼しているか」という警告を受けることになるのでした。
 主イエスは嵐の中で「まだ信じないのか」と弟子たちに言われましたが、それは弟子を咎めたのではなく、「あなたはいずれ、神さまへの信頼に生きるようになるのだ」と教えてくださる言葉でした。神への信頼を失い、神に信頼することを忘れてしまうと、私たちはもはや平安な気持ちでは生活できなくなります。恐れや不安に捕らえられてストレスがたまり、ついには健康を損なうということも起こるのです。

 さて、そういう警告が語られた直後に、今日の箇所で、「レギオンに取り憑かれている男の人と主イエスとの出会い」の記事が語られています。
 夜の嵐に見舞われ、弟子たちが不安と恐れに捕らわれ怯えている、そういう只中にあって、主イエスただお一人だけが神への信頼を持ち、正しい信仰の在り方をしておられました。その主イエスが岸辺に着き、今日のところでは、無数の悪霊に捕らえられ、すっかり心の平安を失っている一人の男の人に出会われるのです。神に確かに信頼しておられる主イエスが出会ってくださった、その時に、この男の人にどういう変化が生じたのか、またどういう新しい始まりが与えられたのかということが、今日の記事の中心の事柄と言えるでしょう。

 1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。湖の向こう岸に着いたというのは、一晩中嵐と格闘し不安と恐れに捕えられていた弟子たちにしてみると、やれやれようやく目的地にたどり着いたという思いだったのではないでしょうか。陸地に足を下ろして自分を確かに支えてくれる地面を足の下に感じることができて、本当にホッとした、有難いという気持ちになったのではないかと思います。
 しかし主イエスはどうして、こんな離れた場所まで弟子たちを導いてきたのでしょうか。まもなくその理由が明らかになります。舟から降りた一行を最初に迎えたのは誰だったか。汚れた霊に取り憑かれて、どうしようもないほどに平安を失っていた人物でした。この人物がどんなに危険な猛獣のような姿をしていたかについて、福音書を記したマルコは生き生きとした筆使いで伝えています。3節から5節に「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。この人は、名を尋ねられると「レギオン」と答えます。レギオンというのは、当時のローマ軍の一つの単位で2000人ほどの兵士を持つ集団です。日本語だと連隊と言われるようです。つまりこの人の中には悪霊の一個連隊が駐屯していて、この人をすっかり支配していたということになります。2000もの悪霊が入り込んでいたというのは、例を見ないほど多くの悪霊に取り憑かれていたと言ってよいと思います。この人に比べるならマグダラのマリアが主イエスによって7つの霊を追い出していただいた話など、物の数ではありません。この人は悪霊が最も集中して巣食った稀な例と言ってよいでしょう。
 そして事情がそうであるならば、この人が足枷を砕き鎖を引きちぎってしまうほどの荒々しさを表していたということも頷けるのではないでしょうか。2000もの悪霊に住み着かれたら、その人は考えられないほどのエネルギーを発揮するに違いないのです。

 この人は墓場を住まいとしていたと言われます。私たちにはピンと来ないかもしれませんが、当時のお墓は今日の日本の墓とは違い、横穴を掘ってその洞穴の中に人間を寝かせるくぼみを幾つも作っていくので、洞窟住居として住むことができました。この人はお墓として掘られた洞穴の、まだ人を葬っていない窪みに夜は横たわって眠り、昼間は辺りを徘徊して生活をしていました。そしてこの人は平安がないために、自分が辛い人生を生きているということを、自分の体を傷つけることで表現しようとします。尖った石を見つけては自分自身を傷つけ血を流すことで周りの人たちを驚かせながら、自分が本当に苦しい人生を生きていることを表すのです。とても凶暴で前後の見境がつかないほど自暴自棄であった、そういうこの人は、辛い絶望の中に生活していたのでした。そういう人物が、舟から上がったばかりの主イエスのもとにやってきたのでした。
 そして、そこで不思議なことが起こります。この凶暴な人物が、初対面で主イエスに出会った時に、主イエスに対して「自分のテリトリーを侵す者がやってきた」と言って襲いかかったというのならば話は分かります。ところが実際にはそうではなく、まるで逆のことが生じます。悪霊の一個連隊だと名乗るほど多くの悪霊がこの人の中に巣食っているのですが、主イエスに出会った途端にこの人は降参して、主イエスの前にひれ伏してしまいました。6節7節に「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」とあります。
 一体どうして、この人は、主イエスに襲いかかるのではなく、主イエスの前にひれ伏すということになったのでしょうか。
 そのことを理解するためには、「悪霊に取り憑かれた」と言われている人が、今日の私たちの感覚で言えば、やはりこれは「病んでいる人だ」ということをまず確認しなければならないだろうと思います。当時は、何か異常なことがあれば、何でもかんでも悪霊の仕業として一括りにされました。この人の振る舞いは常軌を逸するほどに凶暴でしたから、悪霊に取り憑かれていると言われていました。それでもこの人は、今日の私たちの感覚で言えば、やはり病んでいる人なのです。人生の中でいろいろな経験をしたのかもしれませんが、そのことですっかり病んで、一つの病んだ姿として激しい行動に出ているのです。
 けれども、レギオンと名乗らざるを得ないほどこの人を蝕んでいるその病気の根底には、いったい何があるのでしょうか。この人の内には、今まで人生を生きてきた中で、もはや何にも信頼することができないという深い孤独と絶望が巣食っていたのではないでしょうか。

 普段私たちは、「信頼して生きる」ということがとても大切なことだと思いながら生活をしています。しかし中には、そういう信頼をなかなか持つことができずに苦しむ人たちがいるのです。私たちが子どもたちに、「本当に自分はここにいてよいのだ」という信頼感をもって成長してほしいと願うのは、信頼感というものが生きる上で根本的に重要なものだからです。けれども、人生経験の中でそういう信頼を持つことができないで、苦しみながら成長してくる人もいるのです。自分が信頼し頼れる何かの拠り所を見出して、自信と希望を持っていけるようであってほしいわけですが、どうにもそうできずに絶望の中で投げやりな毎日を過ごしてしまう、そういう人生を生きざるを得ない人もいます。
 けれども、自分の中に確固たる拠り所がなくていつも不安を覚え、大変凶暴そうななりをして生きている、そういう人が、その状態の中で、本当に自信と確信を持って生きている人に出会いますと、その出会いからは大きな憧れと刺激を受けるということが起こり得るのだと思います。
 不安を持ちながら生きている人が、「確かにわたしはここにいてよいのだ」と自信を持った人に出会うと、「自分もあの人のようになりたい」という思いを持つでしょう。その場合には、自信と確信を持っている人がとても強い立場に立つわけです。ただその自信が一体何を拠り所にしているのかということによって、その後の経過は大きな違いを生じます。もしもその自信が、自分自身の力とか信念とか、立場や富、知識に基づいているのであれば、そういう自信は決して永遠のものではありません。そのためにある種の弱点、場合によって逆鱗を持つということになります。誰かがついうっかりその逆鱗に触れてしまいますと、自信に満ちた落ち着きというのは突如として凶暴になって、その人の傲慢さが顔を覗かせるようにもなるのです。

 しかし神に由来する、神への信頼から自分が確かにされ、自信を与えられているという場合には、そうはなりません。神に信頼する人が持つ自信というのは、平らであり、自惚れからは自由なのです。そしてそれが主イエスの中に見られた自信です。
 主イエスが持っておられた神への信頼が、このレギオンに取り憑かれた人との交わりの中で大きな結果を生むことになります。
 主イエスの自信は、ご自分に何か力があるという自信ではなく、「どんな場合にも天の父が必ず顧みてくださる」という信頼に基づいていました。そしてその信頼は、主イエスご自身が落ち着いているだけではなくて、「深い疑いや悩みや苦しみの中にある人たちも、同じ神に顧みられているのだ」という確信に基づいていました。
 レギオンに取り憑かれていたこの人は、初対面でありながら、そういう主イエスの「神への信頼に生きておられる姿」に出会って、ひれ伏したのです。つい先ほどまで、主イエスは嵐のガリラヤ湖の湖上におられました。弟子たちが神に信頼する余裕がなくて恐怖と不安に捕らわれ怯えきっていた中で、主イエスだけは天の父の愛と慈しみを確信して落ち着いておられました。その主イエスの落ち着きと平安を、主イエスと出会ったこの人は感じたのです。レギオンに宿られてしまい、他のどんな人にも勝って不安と恐れの中におかれ、自分自身を完全に見失って暴れていた人が、父なる神を心から信頼しておられる主イエスに出会うのです。するとそのところで、この人に大きな変化が生じました。自暴自棄になって生きていたこの人は、主イエスの中に、自分には無い真の信頼があるということに気づくのです。そしてその信頼の力に圧倒されます。この人の人生は、主イエスに出会ったことで一変し、この人は正気になったのだと言われています。

 しかし正気になるというのは、何か主イエスが魔法をかけて、この人の中にあった問題を追い出したということではありません。主イエスがこの人に、「神への信頼に生きておられる」ことを手渡しただけなのです。この人は今まで深い絶望と孤独の中でいろいろ失敗を重ねてきて、もう自分は何をやってもこれ以上落ちるはずはないと思いながら乱暴に生きてきました。けれども、「しかしそういう自分であっても、神に愛されている。もう一度ここから生きることができるのだ」ということに気づかされて、平安な正気な生活に立ち返らされていったのでした。

 主イエスとの出会いで正気になったこの人は、主イエスがこの地方を離れて行く時に、お供したいと願い出ます。しかし主イエスによって諭されるのです。19節に「イエスはそれを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい』」とあります。こう主イエスが言われたということは、この人にはまだこの人の身を案じ、元の落ち着いた生活に戻ることを望んでくれている家族がいたということだろうと思います。そのような家族がありながら、この人が主イエスに従って遠い土地に行ってしまうのであれば、家族や身内の人たちは、なおこの人の身を案じ続けなければならなくなります。
 けれどもこの人には、主イエスにただ付いて行くというだけではなくて、それよりももっと果たすべき務めがあるのです。それは、この人の身を案じ愛してくれている人に、「神への信頼を示され信じたので、自分は今再び正気に戻り、落ち着きを持って暮らせるようになっているのだ」ということを、言葉と行いをもって証し知らせるという務めです。
 そしてその働きは、この人だからできることです。この人以外の人が「神への信頼が大事なのだ」と言ったとしても、それはその人の家族にとっては他人が言っていることになります。ですから、この人が伝えるということが大切なのです。
 そしてこの人は、そういう主イエスの諭しに背中を押されるようにして、デカポリス地方の人たちに「神への信頼に生きることの喜びを伝えた」のだと言われます。20節に「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」とあり、「人々は皆驚いた」という言葉で結ばれています。

 この箇所は、悪霊が主イエスを出し抜いたという記事ではありません。主イエスはこの土地を去って行かれましたが、しかし確かにこの土地にも、「神があなたを顧みてくださっている」という福音の種が蒔かれたことを伝えている記事です。
主イエスはそのために湖の南の方まで下って来られ、そしてこの人と出会われて、また次の場所へと進んで行かれるのです。この人は主イエスが立ち去った後に、知らされた神への信頼に生きる、そういう平安と喜びを伝える者としてこの地域に残されました。そしてこの人は、主イエスがしてくださった御業を繰り返し宣べ伝えることで、「神への信頼に生きる生活の中に自分自身をつなぎとめ、さらに多くの人たちに神への信頼に生きてよいのだということを宣べ伝える」、そういう人になっていったのです。

 こういう記事なのだと聞かされ、振り返ってみますと、私たちにもこんなところがあるのではないでしょうか。今日でも、私たちはいろいろなものに脅かされたり、あるいはいろいろな力のために挫折をさせられたり、傷つけられ孤独になり絶望してしまうということがあるでしょう。夜の嵐のような力、あるいは目の前に現れる獣や乱暴者のように私たちを襲い屈服させる力というのは、今日でも私たちの周りにたくさんあるだろうと思います。自分の健康が保つだろうか、自分の仕事は十分に守られるだろうか、蔓延している病気に果たして自分は罹らずに済むだろうか、いろいろな不安や恐れを口にします。
 しかしそういう私たちに、「神への完全な信頼のうちを歩んでおられる主イエスが出会ってくださる」のです。主イエスとの出会いを通して、私たちはどんな困難やどんな不安や恐れに直面する時にも、動かされることのない、本当に確かな信頼があるのだということを教えられます。
 主イエスがいつも私たちに伴い、支え導いて、「神さまへの信頼に生きてよいのだ」ということを繰り返し聞かせ、呼びかけてくださっています。
 この主との出会いを感謝し、喜んで賛美して生きる、そういう生活を、私たちはここからまた歩んでいきたいと願います。お祈りをささげましょう。

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