聖書のみことば
2022年11月
  11月6日 11月13日 11月20日 11月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月27日主日礼拝音声

 神のものは神に
2022年11月第4主日礼拝 11月27日 
 
宍戸俊介牧師 

聖書/マルコによる福音書 第12章13〜17節

<13節>さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。<14節>彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」<15節>イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」<16節>彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、<17節>イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 ただ今、マルコによる福音書12章13節から17節までをご一緒にお聞きしました。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」とあります。
 主イエスはエルサレムにお入りになり、異邦人の庭で多くの群衆に教えられました。沢山の人々が主イエスの言葉を喜んで聞きました。ところが、そうしたあり様が、祭司長たち、律法学者たち、長老たちといった、当時の指導的立場にあった人たちにとっては、何とも目障りなものと感じられます。彼らにとって主イエスは、どこの馬の骨とも知れない、素情の知れない怪しげな人物でしかありません。
 そんな主イエスが、数日前には神殿の境内から、献げ物の動物を商う商人や神殿に収めるための両替をしていた両替人たちを追い出すということを行いました。祭司長たちは、これらの商人や両替人たちから上納金を取って商売をさせていましたから、主イエスの行いは少なからず彼らの利益を侵害します。従って、主イエスの行動を大変いまいましく思いましたが、多くの群衆が喜んで主イエスの言葉に耳を傾けている状況では、うかつに手を出すことができません。群衆を刺激して、万が一、暴動にでもなってしまったら、自分たちの管理能力をローマ皇帝に疑われて、失脚させられてしまうこともあり得たからです。

 それで彼らは、群衆を扇動して主イエスから引き離すことを考えます。まずは自分たちで出向いて主イエスを問い詰め、その権威の源が怪しげであることを群衆の前に示そうとしたのですが、うまく行きませんでした。そこで次には、自分たちは一歩退いて、背後に隠れた形をとりながら、自分たちの代わりに主イエスに議論を仕掛け言葉で陥れるために人々を送ります。今日のところから3組程の人々が論争を仕掛けようとして主イエスの前に姿を表しますが、今日はその最初の人たちです。ファリサイ派とヘロデ派に属する数人の人々が、主イエスの言葉尻を捕らえ、陥れようとしてやって来ました。
 彼らはまず、主イエスにおべっかを使い、油断させようとして、長々とお世辞の言葉を口にします。そしておもむろに、彼らの悪意が潜んでいる罠となる質問をするのです。14節に「彼らは来て、イエスに言った。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか』」とあります。皇帝に税金を納めるべきか、納めるべきでないかという議論は、当時のユダヤ人たちを2つに分断するような深刻な問題でした。ここでは、元々ユダヤにあった、神殿に納める神殿税に加えて、ローマ皇帝に対する人頭税を納めるべきか、納めるべきでないかいうことが尋ねられているのです。
 ローマ帝国に対して納入するように求められた人頭税の制度は比較的新しい制度でした。まもなくクリスマスですが、クリスマスの季節に必ずと言ってよい程読まれるルカによる福音書2章に出てくる降誕の記事の最初のところで、「主イエスが生まれたのはいつ頃だったか」が語られます。それは、「キリニウスがシリア州の総督となって最初の住民登録を実施した時だった」と言われています。この人口調査で登録をするために、ヨセフが身重の妻マリアを連れて、住まいのあったナザレから、先祖の町、いわば本籍地であるベツレヘムへ旅をしたのでした。実は、あの住民登録が人頭税の制度の始まりでした。あの住民登録に基づいて、男子は14歳から65歳まで、女子は12歳から65歳まで、毎年1人あたりデナリオン銀貨1枚を納めるものとすると定められたのです。
 ですから、ローマの人頭税の制度は、ちょうど主イエスがお生まれになった頃から始まった新しい税制です。クリスマスの記事では、この時の住民登録がキリニウスが統督だった時の最初の登録だと言われていましたが、何年か経ちますとこの台帳は古くなります。人々は 年を重ね、一方で新しく生まれ育ってくる世代がいます。そのためにキリニウスは、最初の登録から10年少し経過した頃に、もう一度住民登録を計画しました。この二度目の登録は紀元8年のことだったと言われていますが、この時の住民登録は最初の住民登録のようにすんなりとは行きませんでした。この登録が人頭税のための登録であったと知ったユダヤ人の側に激しい反発感情が生まれ、特にガリラヤで、ユダという人物を中心に反乱が起こりました。この反乱については、使徒言行録5章37節に大変簡単に一言ですが触れられています。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、この時、反乱の首謀者であったユダは捕らえられ処刑されてしまったのですが、その志を引き継ぐ人々がガリラヤに残りました。そしてセロテ党、即ち熱心党という秘密結社のような組織を作り、反ローマ運動を始めたと言い伝えられています。
 ローマに人頭税を収めるべきかどうかという議論について、ファリサイ派の人々は律法に照らせば納める必要のない税金であると分かっていましたが、それを態度や行動に表すことはしませんでした。ある意味、上手に立ち回ったのです。一方ヘロデ派の人々は、領主ヘロデ自身がローマ皇帝の後ろ盾によって領主の立場につけられていましたから、当然ローマには協力すべきだと考えていました。ですから、ファリサイ派とヘロデ派の立場は決して同じではなく、むしろ水と油ぐらい違っていました。
 しかし彼らは、主イエスを陥れるという点で手を結んだのです。彼らは人頭税について主イエスの返答を待ちます。この質問には、どう答えても不都合が生じるのです。
 仮に主イエスが「人頭税は収めなくてよい」と言えば、ローマ帝国に対して反逆を唆しているということになります。この場合にはヘロデ派の人々が即座に主イエスを捕らえ、ヘロデの許に連行することになります。しかしそうなることを避けるために、もしも「人頭税を納めるべきである」と答えたなら、その答えは熱心党や一般民衆を刺激することになります。人々は主イエスの許から離れ去るに違いありません。また、「どちらの答えもできない」と思って押し黙ってしまえば、それは主イエスの無力さを表すということになります。主イエスのことを「ダビデの子よ」と呼びかけて迎え、主イエスに期待して集まっている群衆はがっかりしながら主の許を立ち去るでしょう。そのように、この問いはどのように答えても不都合の生じるような問いであり、罠の問いだったのです。主イエスはどうお答えになるでしょうか。

 この日、主イエスがお答えになった言葉は、17節で、人々が「驚き入った」と言われていますが、まさに人々の印象に残る言葉でした。
 主イエスはまず、税金として納めるべきデナリオン銀貨を持って来させて、そこに刻印されている肖像と名前が誰のものであるかをお尋ねになります。ローマ帝国のコインですから、当然ですが、そこにはローマ皇帝の像が刻印され、皇帝の名前が記されています。それを示しながらおっしゃいました。17節に「イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』」とあります。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というこの言葉は、非常にハッキリした言葉です。同時にこれは、初代教会の時代における「政治と宗教」もしくは「国家と教会」の関わりようについて主が教えて下さった言葉として、教会の歴史の中では幾度もくり返し論じられてきました。しかし今日は、どのようにこの言葉が後の教会の歴史の中で受け取られ議論されてきたかということではなくて、大元の主イエスの言葉について聞いてみたいのです。社会の中でキリスト者が果たすべき責任は何かとか、キリスト者はもっと熱心に社会に対して警鐘を鳴らし、政治参加するべきだという方向に進むのではなくて、それらの根本となっている主イエスの言葉に、まずはよく耳を傾けてみたいのです。

 デナリオン銀貨を持って来させた主は、それを持ってきた人や、その場に居合わせた人々にお尋ねになります。「これは、だれの肖像と銘か」と。もちろん、デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が記されている訳ですから、コイン自体は、「皇帝に支払われるべきだ」という答えになります。
 しかし主イエスはそれで十分としたのではなくて、「皇帝のものは皇帝へ、神のものは神へ」とおっしゃるのです。この「神のものは神へ」という言葉の背後には、私たち人間の一人ひとりが、それぞれ、神にかたどって造られた神の像であるという思いが込められています。主イエスはむしろ、このことを言おうとなさったのです。
 旧約聖書の創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。
 コインには皇帝の像が刻まれています。ですからそれは皇帝の持ち物として皇帝の許に戻されることが相応しいことです。ですがその一方で、私たち人間は、男であろうと女であろうと、神にかたどって造られた神の像として命を与えられ、生きているのです。「神のものは神に」と主イエスがおっしゃった時、そこでは、私たち一人ひとりが神の大切な所有物であり、神から銘々が価値と尊厳を与えられて生かされているということが語られているのです。

 しかし私たちは、普段の暮らしの中で、一体どれだけ、自分が神の似姿として造られた者であることを思って生きているでしょうか。日々の生活に追われ、本当の自分は何者であるかということを見失っているのではないでしょうか。私たちが本当に命を生きていくためには、実は、私たちの命の源であり、私たちそれぞれに価値と尊厳と人生を生きる意味となって下さっている大元である神と結ばれているという風でなくてはならないのではないでしょうか。神とのつながりが切れてしまっているところでは、私たちは本当に生きることはできなくなるのではないでしょうか。その意味では、今日、私たちが「自分が本当は何者であるか」ということをすっかり忘れ果て「魂の故郷を喪失してしまっている。もはや自分が何者であるかが分からなくなってしまっている」という点こそが、まことに由々しき問題ではないでしょうか。「神さまが造り主としてしっかりと私たちを一人ひとり掴んでいて下さる。どんなことがあっても、どんな場合にも、このわたしは神の者である」ということが忘れられ、自分の存在意味を自分自身で見つけたり造り出さなくてはないと思い込んでしまう時、私たちは自分の存在の意味が分からなくなるのです。どうして自分が生きなくてはならないかが分からなくなるのです。
 どなたも経験なさるとおり、私たちの人生は、決して安息であるだけではありません。生きる上では苦しいことも悲しいことも、また予想もしなかったようなことも起こります。自分がそれまで歩んできた道が、その歩みが一瞬にして崩れ去り、深い奈落へ落ち込んでゆくような不安と恐れを覚える瞬間もあります。嬉しいこと、楽しいことよりも、むしろ大変だと思うことの方が多いのではないでしょうか。
 私たちは決して確かな者ではなくて寄る辺ない者ですが、それでも神によって造られ、神の像を一人ひとりに刻まれ、神の所有物として生きています。それは地上を歩む時ばかりではありません。地上の歩みを全て歩み終えこの世を去る時にも、依然として私たちは神の像を刻まれた者たちであり、神のものなのです。生きている時だけではなく死ぬ時も、私たちは神のものであり、死の先でどこか分からない暗闇に放り出されるのではありません。「善く、また忠実な僕よ。よく生きた。あなたは力が弱かったが、わたしの名を知らないと言わなかった」と言って下さる方が、死の先においても私たちを守り匿って下さいます。
 「神のものは神に返しなさい」と言われているとおり、私たちの帰ってゆく先は、神の御許なのです。

 私たちはそれぞれ銘々が、神の像を与えられ、今を生きていきます。神の像を与えられているのですから、それにふさわしい生活をすることが願わしいのですが、普段の私たちは、自分が神の像であることをすっかり忘れてしまう程、神の像らしさを失っています。今更どうしたら神の像にふさわしい生き方ができるのでしょうか。
 そのために神は、御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。私たちが主イエスを救い主と信じ、信仰によってこの方の中にこそ神の似姿に造られた完全な姿を見出すことが許されています。そして私たちは、銘々が自分に理解できる度合いに従って、主イエスの後を歩き、主に従う弟子としての人生を歩んでゆきます。そのようにして、私たちは辛うじて主の弟子であり、神の像、似姿として生きてゆくのです。
 もっとも私たちがそのようなキリストを手本として自分自身を顧みる時には、あまりにも欠けたところが多く、少しもキリスト者らしくないという感想を持つことがあるかもしれません。そのことで深く憂い、嘆き悲しむ方がおられるかもしれません。
 最終的に皇帝の手に戻ることになるコインは、この世の生活の中で人から人へと、次々に手渡され、旅をしてゆきます。その道中で、すっかりすり減り、摩滅して像が見えにくくなったり、汚れたり、欠けて傷ついてしまう場合があります。しかしそれでも、コインの価値は変わりません。それが皇帝の命令によって鋳造された貨幣である限り、コインは本当のコインです。
 それならば、私たちも同じではないでしょうか。社会を渡り、他の人たちと出会い、生活の中でもみくちゃにされます。しかし、私たちが神の像として造られた事実は消えません。そして、私たちに刻印されている神の像を完全な形で私たちに示して下さるのが主イエスであるのならば、私たちにはそれぞれ、十字架の主の刻印が打たれているはずです。どのようなことがあっても、主イエス・キリストの十字架によって執り成され、罪を赦されたことは変わることがないのです。

 私たちは、主イエス・キリストの十字架を仰ぐ度に、自分が神の像に造られたことも思い起こします。このわたしは一体どこから来たのか。神の愛によって造られ、この世の生活へと送られているのです。

 この先どこに行くのでしょうか。それも、神の永遠の御許へです。そのことを知る時、私たちは力が弱くても、決してフラつくことなく歩んでゆけるようにされます。悲しみも喜びも苦しみも嘆きも悩みも、またこの世での使命も果たすべき責任も、すべては神の御業の下に憶えられ、神の慈しみと慰めに励まされながら持ち運ばれてゆきます。神の御名をほめたたえ、神の御光の現れを待ち望んで生きる幸いな生活へと、ここからまた送り出されたいのです。
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