2022年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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宮清め | 2022年11月第1主日礼拝 11月6日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第11章12〜25節 |
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<12節>翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。<13節>そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。<14節>イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。<15節>それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。<16節>また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。<17節>そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」<18節>祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。<19節>夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。<20節>翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。<21節>そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」<22節>そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。<23節>はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。<24節>だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。<25節>また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 |
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ただいま、マルコによる福音書11章12節から25節までをご一緒にお聞きしました。17節に「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」とあります。 このように書かれていますので、「宮清め」と聞きますと、つい、主イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを相手に大立ち回りを演じておられるというイメージが思い浮かびます。そしてそれと同時に、どうして主イエスがたったお一人で、大勢いたに違いない商売人や両替人を相手に立ち向かい広い庭から追い出すことができたのだろうかという疑問も湧いてくるのです。この問いは、今日でも多くの学者たちが頭を悩ます問いで、なかなか納得いくような答えの出ない謎の一つです。 これは、旧約聖書イザヤ書56章を思い浮かべながらおっしゃっておられるのですが、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と主イエスはおっしゃいます。ところが、エルサレム神殿の現実はそれからほど遠く、現状は強盗たちの巣窟のようになっているため、主イエスは境内から商売人や両替人を一掃する宮清めをなさったということになります。 そうではありません。主イエスはこの日、それまで続けられてきた動物犠牲による献げ物の礼拝の時が、もはや終わりを告げているということをお示しになったのです。 このことは、宮清めの出来事の前後に語られている一本のいちじくの木をめぐる出来事においても示されています。夜を過ごされたベタニアからエルサレムへおいでになる途中、主イエスは空腹を覚えられ、一本のいちじくの木を御覧になりました。そして実を探しましたが、季節でないので実がなっていなかったことを確かめられると、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」とおっしゃいます。すると翌日、その木は枯れてしまったという出来事です。 主イエスがベタニアからエルサレムに向かう途中で御覧になったいちじくの木は、葉ばかりが盛んに茂っていて実がなかったのですが、それは、セレモニーとしての献げ物ばかりが盛大に行われ、しかし、神の御言に聞いて真剣に生きようとする姿勢が既に失われていた神殿の礼拝を表しています。主イエスは、そうした形ばかりの献げ物に代わる真の献げ物として御自身を献げようとして、エルサレムに入っていかれるのです。ですから、神殿の境内から動物の献げ物を追い出されるのです。今からは主イエス御自身が全ての人間のために献げられる、真の献げ物になって下さるからです。 今年の教会研修会で、「教会がキリストの体であり、教会の頭はキリストである」ことを覚えました。私たちは頭である主イエス・キリストに結ばれて生きる者となります。主イエスが「御言に聞き従おうとする実がどこかにないか」とお探しになる時に、まだ季節ではないとかその他の様々な言い訳をして御言に聞かないあり方を正当化する時、私たちも枯れてしまうことになります。心から御言に聞こうとすること—たとえ完全に理解するということではなくても、わずかでも御言を求め続けること、そのようなあり方、そのような実りを、主イエスは私たちの上にも求めておられるのです。 主イエスの御言に聞くところにこそ、命があり、力も勇気もそこから沸いてきます。いちじくの木が枯れた後、主イエスは驚いている弟子たちに、信仰と祈りと赦しを持ち続けるように教えられました。22節から24節に「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』」とあります。主イエスはベタニアからエルサレムに向かって上ってゆく道中、このように言われました。「この山」というのは、エルサレムが建てられているシオンの山に違いありません。その山が海に飛び込むというのは、どこかの海というのではなくて、ガリラヤ湖のことでしょう。 先々週、松本筑摩野伝道所に伺い、礼拝をささげ、午後から「身近な人への伝道をどうするか」という主題で教会修養会の講師をさせて頂きました。その修養会に先立って伝道所の人たちにアンケートがされていて、その中に「家族など身近な人のために祈っていますか」という設問がありました。その答えは、「祈っている」「時々祈っている」という答えが多く、「祈っていない」という回答はなかったのですが、その中にこんな答えがありました。「祈ってはいるが、あの人はテコでも変わらないだろう」。まさしく、そう思うのだろうなと思いました。けれども主イエスは、「あなたがたが祈って信じるなら、あのエルサレムの山全体がガリラヤ湖に下り、多くの命を得られるのだ」とそうおっしゃいます。主イエスは宮清めをなさり、人間の思いから献げる供え物が無力であることを示されただけではありません。御自身がそれに代わる真の献げ物となって下さり、祈りの家を建て直して下さいます。そして決して悔い改めることがないと今は思える人にも、新しく生きる命の入り口を備えて下さるのです。 ですから主イエスは、主の十字架によって罪を赦され、新しく生きる者に相応しいあり方をするようにと、弟子たちを招かれます。25節に「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、救してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」とあります。 |
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