2022年11月 |
||||||
11月6日 | 11月13日 | 11月20日 | 11月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | ■音声でお聞きになる方は |
最終手段、息子 | 2022年11月第3主日礼拝 11月20日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
|
聖書/マルコによる福音書 第12章1〜12節 |
|
<1節>イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。<2節>収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。<3節>だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。<4節>そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。<5節>更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。<6節>まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。<7節>農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』<8節>そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。<9節>さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。<10節>聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。<11節>これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」<12節>彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 |
|
ただ今、マルコによる福音書12章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節に、「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た』」とあります。「主イエスがたとえで彼らにお話しになった」と言われています。この言葉からは、ここに述べられていることが実際の出来事の報告のようなものではなく、主イエスがいわば即席にお語りになったたとえ、作ったお話であることが分かるのですが、主イエスはこのたとえ話を、一体誰に聞かせようと思ってなさったのでしょうか。 主イエスは「彼らに」お話しになったと言われています。この「彼ら」というのは、直前の箇所に登場して主イエスに詰め寄ろうとしていた「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」を指しています。勿論ここには、主イエスを咎めようと思ってやって来た人たちの他に多くの群衆もいたに違いないのですが、主イエスはこのたとえを群衆全体にお語りになったのではなく、特にその中の祭司長たち、律法学者たち、長老たちに向かってお語りになりました。彼らのあり方の歪んでいることを知らせ、本来のあるべき姿に立ち返るべきことを知らせようとなさったのです。 今日、聖書を読んでいる私たちは、この先、神の独り子である主イエスが彼らに捕らえられ嘲られ、十字架に磔にされて死んで行かれるという、先の展開を知っています。ですから、ぶどう園の主人の愛する息子を殺してぶどう園の外に放り出してしまったと言われている「農夫たち」と、十字架の事件について黒幕であり責任を負うべき者が「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」であると結びつけて考えることができます。 それならば、一体この話のどこが当てつけに感じられたのでしょうか。それは、彼らが祭司長たちであり、律法学者たちであり、長老たちであったということに関係しています。彼らが神殿礼拝の当事者であり、また旧約聖書について一通りのことをよく知っている人たちであればこそ、この日、主イエスがなさったたとえ話には、ある旧約聖書の箇所が下敷きとして考えられていることに気づいたのでした。その聖書の言葉を頭の中で思い出しながら主イエスのたとえ話を聞いているうちに、これが自分たちに対する批判であり皮肉を述べた言葉であると感じられたのです。 主イエスのたとえ話は、このイザヤの歌ったぶどう畑の歌と、言葉の上でもよく重なります。「ぶどう園を作った。見張りのやぐらを立てた。搾り場を掘った」という言葉は、イザヤの歌の歌詞そのままの言葉です。その上で主イエスは、主人がぶどう園を作ってから収穫を得られるようになるまでの間に何があったのかということを、たとえ話で物語るのです。イザヤの歌では、ただ「良いぶどうの苗を植えたのに、実ったものは酸っぱいぶどうしかなかった」と、一足飛びに悪い結論が語られるのですが、主イエスはそこに、ある一つの物語を加えます。 このたとえ話を聞いた時に、祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、これが自分たちへの皮肉を込めた当てこすりだと感じました。何故なら、彼らはいずれも、エルサレムの最高法院を構成する議員たちであり、エルサレムとユダヤ全体を導いていく指導者の立場にある人々だったからです。預言者イザヤがぶどう畑の歌の中で述べたように、主のぶどう畑がイスラエルとユダの人々が暮らす社会だとしたら、そのぶどう畑、ぶどう園を管理する農夫というのは、議員である彼ら自身に重なることになります。ところが農夫が不誠実であり、神に当然お渡しするべき収穫物を渡そうとせず、却って、神の許から送られてきた僕たちを辱め、空手で帰らせている、そのために「神の期待する良いぶどうの実は実らず、酸っぱいぶどうばかりが実っている」ということになるのです。 祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、この話を聞いて腹を立てて立ち上がり、その場を後にしました。彼らは、神の僕である預言者たちの言葉には耳を貸さなかったとしても、まさか、神御自身の名代であり神その方を表す独り子のような方が自分たちの前に来たら、このたとえのようなむごい扱いをする筈がないと考えて席を立ちます。実際には、まさに神の独り子とこの場で対面しているにも拘らず、そのことに気づかないためです。こうして彼らは、主イエスのたとえ話を聞くことで自ら悔い改める機会を逸したのでした。 ところが主イエスは、他の預言者たちとは違う方です。他の預言者が、ただ神の御言を人々に告げ知らせただけの働き人だったのに対し、主イエスは御自身が神の独り子であり、神の救いの御業を身をもって果たされる方なのです。主イエスはそのことを詩編118編22節23節の言葉を思い浮かべながら言われました。10節11節に「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」とあります。 私たちは、自分が行き詰まり、弱り果てる時、それでもそこに十字架におかかりになった主が共に居て下さり、私たちを下から支えて下さることを知って、落ちつきを与えられ、慰めと勇気と力を与えられます。まさに主イエスこそが私たちを支えて下さる親石であり、教会の交わりも、全てがこの土台の上に建てられているのです。主イエスは御自身が完全に神の御旨を御存知で、御心に従う神の独り子として、救いの御業を果たして下さるのです。 私たちは、そのような主イエスに支えられ、生かされます。祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、自分たちの前に立っておられる方がどなたであるかを遂に悟ることなく、この方に背を向けました。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |