2022年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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何をしてほしいのか | 2022年10月第3主日礼拝 10月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章46〜52節 |
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<46節>一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。<47節>ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。<48節>多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。<49節>イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」<50節>盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。<51節>イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。<52節>そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 |
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ただいま、マルコによる福音書10章46節から52節までをご一緒にお聞きしました。46節47節に「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」とあります。 ところが、主イエスがエリコから出て行こうとされた時に、ある事件が起こりました。「バルティマイ」という名前の目の不自由な人が町の出入口にあたる広場の道端に座っていて、主イエスを呼び止めました。目や体の不自由な人たちが町の門や広場の道端に座って物乞いをしているという光景は、当時の社会では割合普通に見られたと言われています。障害者に対する理解が育っていない社会では、そのように人としての尊厳が損なわれるような仕方でないと生きていくことが難しかったためです。 ところが、そういうバルティマイが、この日に限っては大声で叫んで主イエス呼び止めて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めました。彼は主イエスについて誰かから聞かされていたのでしょうか。それとも往来の道端に座って物乞いをしている生活の中で、道行く人たちの立てる噂話から主イエスという名前を心に留めていたのでしょうか。いずれにしても、彼は一生懸命に「ダビデの子よ、どうかわたしを憐れんでください」と叫び、主イエスを呼び止めました。主イエスに従っていた群衆が、また弟子たちが何度たしなめても、彼が叫びを止めることはありませんでした。48節に「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」とあります。叱った人たちは、バルティマイの身なりとか置かれている状況から察して、主イエスに金品をねだろうとしていると思って黙らせようとしたのでしょうか。 ところがバルティマイには、金品をねだるという以上に、別の願いがあったようです。彼が呼びかけている「ダビデの子」という呼びかけの中に、バルティマイの思いが込められていました。「ダビデの子」という呼び名は、文字通りには古い時代のイスラエルとユダの王であった「ダビデ王の子孫」という意味になります。そして主イエスは、血筋の上ではまさしくダビデ王の子孫です。ただ、バルティマイがそのことを知っていてこう呼びかけたかどうかは、よく分からないところがあります。 ところが当のバルティマイ自身は、「ダビデの子イエスよ」という呼びかけの中に、政治的な優れた指導者ということを超えて、それ以上の思いを込めていました。そして主イエスは、人間の心の中を御覧になることができる方ですから、バルティマイがこの呼びかけに込めている思いを受け止めることがおできになったのです。バルティマイは、「今ここから新しい命、新しい生活を贈り物として与えてくださる方、主」という思いで、主イエスに呼びかけていました。「ダビデの子イエスよ」という呼びかけは、バルティマイの思いからすれば、言葉としてはいかにも素朴であり、バルティマイ自身が言い表したい事柄を十分に言い表しているとは言えないようなところがあります。ですから主イエスを取り巻く弟子たちも大勢の群衆も、バルティマイが本当に言いたかったことを聞き取り損ねて、黙らせようとしたのです。 けれども主イエスだけは、バルティマイの心の叫びをきちんと聞き取ってくださいました。主イエスはバルティマイを御自身のもとに連れて来させて、彼が何を望んでいるのか、何を願っているのかを語らせてくださいました。51節前半に「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた」とあります。この「何をしてほしいのか」という問いは、決定的な問いです。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んでいるバルティマイに向かって、「あなたは何を求めているのか、わたしに」と主イエスは問われました。この問いかけは、主イエスが弟子たちにお尋ねになった「あなたはわたしを何者というのか」という問いに響き合うところがあるような問いかけです。 この時のバルティマイの思いについて、もう少し、バルティマイの行動と言葉から聞き取ってみたいと思います。 ところがバルティマイは、主イエスが招いてくださったことを知った時に、喜び勇んで、上着をそこに置いて、主イエスのもとにやって来ました。「主イエスによって、今からは新しい生活が始まる。目を開けていただきたい」と願っているわけですが、「目を開けていただいたら、きっと、施しをもらわないと生きていけないという生活ではなくて、別の生活を歩んでいくことができるに違いない」と信じて、バルティマイはそれまで唯一の財産だった上着を後に残して、主イエスの前に喜んで進んで行ったのでした。バルティマイが上着を後に残して主イエスのもとに行ったというのは、例えばペトロとアンデレが主イエスから招かれた時に網をそこに置いて従ったとか、あるいはヤコブとヨハネが主イエスに招かれた時に船と雇人たちを後に残して従ったという姿によく似ていると言えるのではないかと思います。 しかし、なぜバルティマイがそんなにも思い切った行動を取れたのか、これが謎になると思います。バルティマイが主イエスに呼びかけていた言葉の中に秘密が隠れているように思うのですが、彼は主イエスが自分の前に来ておられることを知った時に、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。大方の人は政治的な指導者に向かって叫んでいると思ったわけですが、しかしバルティマイは、神御自身に向かって呼びかけているという思いをもって叫んでいます。仮にこの主イエスへの呼びかけを神への呼びかけに置き換えて読んでみると、どうなるでしょうか。「神さま、どうかわたしを憐れんでください。どうかわたしを顧みてください」という呼びかけになるのではないでしょうか。 これは、ただ形が似ているというだけではなく、バルティマイの思いからすると、「主イエスその方が神と等しい方である」という思いだったかもしれません。そしてそうであるからこそバルティマイは、この後、目が見えるようにされ、そこで主イエスから「行きなさい」と言われた時に、十字架への道のりを進んでいかれる主イエスに従う者となっていくのです。52節に「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。主イエスはバルティマイの目を開けてあげた時に、「わたしに従いなさい」とはおっしゃいませんでした。「行きなさい」と言って、バルティマイを自由にしてくださいました。ところがバルティマイは、「行きなさい。あなたの道を行って良い」と言われた時に、自分から十字架に進んで行かれる主イエスに付き従ったのでした。 そしてこの次の場面では、主イエスの一行がエルサレムに着くと、歓呼の声で迎えられます。「我らの父、ダビデの来るべき国に祝福があるように」と大勢の人たちが叫んで、主イエスを喜んで迎えました。迎えている人たちは主イエスに大変期待して、力ある政治家が現れ、自分たちを団結させてくれるに違いないという希望を込めて「ダビデの子よ」と呼びかけています。けれども、この同じ人たちは、数日後には主イエスに失望することになります。そして「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。この人たちの姿は、人間がどんなに移り気かということを表している姿でもあります。多くの人が自分に都合の良い指導者を求め、逆に少しでも自分の気持ちに沿わないような人物であれば、「こんな人はさっさと十字架につけてしまえばよい」と思っているのです。 バルティマイのように、心の底から主イエスに期待し信頼して、憐れみを願うことができる人は幸いではないでしょうか。自分が抱えている様々な悩み、嘆き、問題の中から、自分ではとても乗り越えられそうにないと思う中から、「神さま、どうかわたしを憐れんでください。主イエスよ、どうかわたしと共にいて、わたしを導き持ち運んでください」と呼びかけることができることは、本当にありがたい幸いなことです。 私たちも心の底から十字架と甦りの主イエスを信じて、神の慈しみと保護のもとに持ち運ばれる幸いな者の群れに加えられたいと願います。お祈りをささげましょう。 |
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