2022年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主の栄光 | 2022年10月第2主日礼拝 10月9日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章32〜45節 |
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<32節>一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。<33節>「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。<34節>異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」<35節>ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」<36節>イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、<37節>二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」<38節>イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<39節>彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。<40節>しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。<41節>ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。<42節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<43節>しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<44節>いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。<45節>人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 |
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ただいま、マルコによる福音書10章32節から45節までをご一緒にお聞きしました。32節に「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた」とあります。 32節には、主イエスが先頭に立ってエルサレムに向かっていく様子を見た弟子たちが「驚き、従う者たちは恐れた」とありました。そして、その様子を御覧になった主イエスが「再び十二人を呼び寄せた」と言われていますが、これは別の訳し方をすると、「主イエスが引き返して来て、12人を御自身で迎えられた」と訳せます。主イエスは何度も繰り返して、御自身がエルサレムで果たそうとしておられる救いの御業について、弟子たちに根気よく語って聞かせてくださるのです。 ところで弟子たちは、先頭に立って進もうとする主イエスを見て、一体何に驚き、何を恐れたのでしょうか。この驚きや恐れについて、あまり簡単に考えない方がよいように思います。 ですから今日の箇所では、まさに弟子たちが主イエスの救い主としての御業を理解できずにいるために、主イエスが先頭に立ってエルサレムに向かって行かれることに非常に驚いて、不安や恐れを感じずにいられませんでした。弟子たちは、「救い主、メシア」ということについては、主イエスのおっしゃることに耳を貸さなかったと言ってよいように思います。主イエスが何とおっしゃろうと、弟子たちにとってのメシア、救い主は、「エルサレムで最終的に王座に座るのだ」という固い思い込みがありました。主イエスに向かって「あなたはメシアです」と言い表した弟子たちは、誰がなんと言おうと、「主イエスには是非ともエルサレムで王座に座っていただかなくてはならない。そのためなら自分たちは何でもする」と考えていました。 ところで、弟子たちが思っていたようなメシア、人間の王のように王座に座って権力を振るうメシアというのは、本当にすべての人の救い主になれるものなのでしょうか。その点が問題です。結局のところ、弟子たちの考える王は、今エルサレムにいる権力者たちを押しのけて主イエスがその代わりの王になるということでしかありません。しかしそうなれば当然、押しのけられ追いやられた人たちは黙っていないでしょう。仮に今の権力者たちが失脚して力を完全に失ったとしても、安泰であるとは言えません。次々と野心家が台頭して、権力を得ようとするに違いないからです。とどのつまり、弟子たちや当時のユダヤ人たちが思い描いていたようなメシアというのは、本当の意味で人間を救うことはできないのです。 ところが弟子たちはやはり、そう言われても、「死にゆくメシア」ということには耳を貸しません。あくまでも自分たちの思い描くようなメシアを求めたがります。そしてそういう中から、次の出来事が起こってくるのです。35節に「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが』」とあります。この二人は最初から自分たちの願いを口にするのではありません。「わたしたちの願いを叶えていただきたい」と言って、まず「よし、叶えてあげよう」という言質を取ろうとします。そしてその上で、自分たちの願いを明らかにしようとする、まるで後出しジャンケンのような言い方です。 しかしそのことによって、主イエスは私たち人間がどんなに惨めな貧しい者でしかないかということを教えてくださるのです。「神抜きで人間が生きていくときには、結局は貧しい者でしかない。しかし同時に、主イエスがそのように貧しい惨めな道を最後まで辿ってくださることで、主イエスの御存知でない、神から見捨てられている場所は、この地上に無くなる」ことにもなります。 主イエスはメシアとしてこれから御自身が受けることになる苦しみを、「杯や洗礼」に譬えて、二人の弟子に教えられます。38節に「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか』」とあります。ここで主イエスのおっしゃる「杯、洗礼」というのは、「十字架の死の苦しみ」のことです。主イエスのおっしゃった通り、ヤコブとヨハネは自分たちが望んでいるものが何かを分かっていません。しかし分かっていないのに、向こう見ずにも、彼らは「できます」と答えました。この二人は、最高の栄誉を受けるためであれば、どんな犠牲を払っても構わないと思って返事をしているのです。 ところで、この二人がこのように高ぶった願い事をしたことが、他の10人の弟子たちにも知れ渡るようになりました。それで41節に「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。どうして10人が腹を立てたかは、明らかに、ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたと思ったからです。二人だけが高い栄誉を求めたと思ったからです。しかしそれで腹が立つということは、他の10人も「主イエスの栄光はエルサレムの王座に着くことだ」と思っていたということになります。結局12人弟子たちは全員が、主イエスが教えようとしたメシアということを理解していませんでした。救い主というのは自分たちの目に晴れがましい席に座るものだと思っていたということになります。 主イエスは、メシアについて依然として見当違いなことを考えている弟子たちを再び御側近くに呼び寄せて、懇ろに教えられました。42節以下に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」とあります。主イエスは、「本当の救い主は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのだから、あなたがたがわたしをメシアだと思っているのであれば、この世の王のような救い主を考えるべきではない」と教えてくださいました。この言葉を、この時点で弟子たちが理解できたかどうかということは、ここにははっきりと語られていません。恐らくは、この時にはやはり、分からなかったように思われます。 しかし事実として、主イエスはここでおっしゃっている通り、弟子たち、私たち、全ての人の身代金として御自身を献げるくださるためにエルサレムまで進んで行かれ、十字架に架かってくださいました。主イエス・キリストが御存知でない罪や嘆き、悲しみはありません。主イエスはどんな時にも、どんな状況にあっても、私たちのために十字架に架かって、その栄光をもって私たちを温かく照らしてくださいます。「あなたは本当に貧しい者、弱い者に過ぎないけれど、あなたは神さまの慈しみの中に、今、立たされている」と語りかけてくださいます。 主イエス・キリストが十字架まで歩んでくださったからこそ、私たちすべての者に、神の温かな光が注がれていることを覚えたいと思います。主イエス・キリストが共に歩んでくださることを信じて、「もう一度ここから歩み出させてください」と祈る人に、神は赦しを与え、新しい命を与えてくださいます。お祈りを捧げましょう。 |
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