聖書のみことば
2022年10月
  10月2日 10月9日 10月16日   10月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月2日主日礼拝音声

 信仰の報酬
2022年10月第1主日礼拝 10月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第10章28〜31節

<28節>ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。<29節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、<30節>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。<31節>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 ただいま、マルコによる福音書2章28節から31節までをご一緒にお聞きしました。28節に「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした」とあります。
 今日の箇所は前のところからの続きになっています。主イエスがエルサレムの十字架に向かって歩き出そうとなさった時に、一人の裕福な人が主イエスの前に跪いて「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいでしょうか」と尋ねました。主イエスはこの人の真剣な様子を御覧になって、この問いに正面からお答えになります。この人を慈しみながら「あなたが今大切に抱え込んでいるあなた自身の豊かさを手放して、わたしに従って来なさい」と言われました。しかし結局この人は、主イエスに従って行くことができませんでした。たくさんの財産や富を持っていて、それを手放すことができなかったためです。この人は悲しみながら主イエスのもとを立ち去りました。
 この人の場合には、物質的な財産への執着が邪魔をして主イエスに従うことができませんでした。けれども、主イエスに従って行く上で邪魔になる豊かさは、必ずしも金銭的、物質的なものに限らないように思います。精神的なプライドや人間的な学識、さらには、自分はいつも正しいあり方をしていると考えて自分の過ちや罪を認めようとしない強情さも、主イエスに従うことを難しくする落とし穴であるに違いありません。どんな類のものであれ、人間的な豊かさというものは、主イエスに従う上では邪魔をすることがあり得ます。
 それで主イエスは、「人間が心の底から平らになって神さまに信頼して生きるということは本当に難しいことだ」と嘆かれ、「人間は自分から神さまの国に入ることはできない。それをしてくださるのは神さまだけなのだ」と弟子たちに言われました。

 そうおっしゃった主イエスに向かってペトロが語った言葉、それが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」という言葉です。「わたしたちは何もかも捨てた」と言っていますから、ペトロは自分一人だけのことを考えているのではないようです。ペトロをはじめ12人弟子たちがその中心でしたが、12人弟子だけに限らず、主イエスに従う弟子全体の言わば代表のようにペトロは語っています。

 この言葉は、これを聞く人によっておそらく二通りの受け取られ方がされるのではないかと思います。
 まず一方は、ペトロが「主イエスのもとから悲しんで立ち去った裕福な人」のことを念頭において、裕福な人と自分たちを比較しながら語ったという受け取り方です。つまり、「裕福なあの人は従うことができなかった。けれども自分たちは違う。自分たちは一切を捨てて主イエスに従った」という思いを表す言葉と受け取るということです。そういう受け取り方をしますと、ペトロの言葉の一番最初にある「このとおり」という言葉が、とても強い感情のこもった言葉であることに気づかされるでしょう。新共同訳聖書ではとても簡単に訳されていますが、もう少し感情のこもった訳し方をするなら「これこのとおり、わたしたちはあなたに従っているのです」とか「御覧ください。わたしたちは何もかも捨ててあなたに従っております」とも訳せそうです。「従えなかったあの裕福な人と、自分たちは違うのだ」、そういう強い思いが表されています。

 また一方で、これはこの直前に主イエスがおっしゃった言葉に対する反発としてペトロが語ったという受け取り方があるかもしれません。主イエスは裕福な人が立ち去って行ったのを御覧になって、その人のために悲しみながら言われました。24節以降に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とあります。ここに言われている「針の穴」というのは、縫い針の頭についている糸を通す穴のことではなくて、当時の大きな屋敷の門構えの中に設けられていた潜り戸、通用門のことを言っています。人が出入りするのにいちいち重たい門を開け閉めするのは大変なので、人の出入りのために設けられた通用門、それが針の穴と呼ばれていました。しかしそこは、大型動物であるラクダは通れません。金銭的な豊かさであれ、その他いろいろな豊かさであれ、人間が傲慢に太っている間は神の御支配のもとに生きることが難しいということを、主イエスはこういう言い方でおっしゃったのですが、この言葉を聞いた弟子たちは驚きました。どうしてかというと、人間は誰でもプライドがあり、表に出すかどうかは別として金銭や名誉への執着というのも、恐らく誰もが持っているものだからです。主イエスがおっしゃるように、どんな豊かさも、「主イエスに従って神の御国に入ること、神の御慈愛のもとを生きること」の邪魔になるというのであれば、一体誰が本当に神の前に平らになることができるだろうかと驚いたのです。
 それに対して主イエスは、27節「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。つまり「神の御支配に信頼して生きることは、人間にはできないことだけれども、神はそれがおできになる。逆に言えば、神しかおできにならない。人間は到底、神にだけ信頼して生きることはできない。けれども、そういう人間も神が招いてくださって、平らに神に信頼して生きることができるという人生が与えられる。神だけがあなたがたを、神の国を受け継ぐ者にしてくださるのだ」とおっしゃったのです。
 けれども、これに反発してペトロが「先生、お言葉を返すようですが」と言っていると受け取ることもできるのです。つまり、「先生、御覧ください。このとおり、わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。これは神さまがなさったことではなくて、私たち自身の決意のよって、すべてを捨ててあなたに従っているのです」と語っているようにも受け取れるわけです。

 この二つの受け取り方、解釈は、このどちらが元々のペトロの思いに近いのかということは何とも言い難いところがあります。しかしどう受け止めるとしても、ペトロたちの思いとすれば、「すべてを捨てて主イエスに従うことができると思っていた」ということは、確かであるようです。
 しかし実は、まさにこの点が非常に大きな問題です。主イエスに従う時、従う者が「すべてを捨てる」などということができるのか、これがここでの問題の焦点と言わざるを得ないと思います。ペトロたちは本当に何もかも捨てて主イエスに従っていたのでしょうか。かつて主イエスは弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と教えられました。こういう主イエスの招きに、ペトロたちが果たして本当に従う者となっているかということが、今日の箇所の一番中心にあることです。
 そしてこのことは、まだ今日の箇所でははっきり分かっていないのですが、この先、主イエスがエルサレムまで歩んで行かれ、ゲツセマネの園で敵に捕らえられる、その時にはっきりするのです。弟子たちは本当にすべてを捨てて主イエスに従っているのでしょうか。弟子たちは、自分の思いとしては主イエスに従っているつもりでした。けれども実際には、主イエスが捕らえられる時に、そこには付いて行くことができませんでした。皆主イエスを見捨てて逃げてしまうのですから、そういう意味では、「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われた主イエスに従って、弟子たちもまた十字架を目指して従っていたというわけではなかったことが明らかになるのです。

 弟子たちが十字架の主に従えないことを、主イエスは御存知です。けれども、そのことを責めたりはなさいません。どうしてでしょうか。主御自身がおっしゃっていますが、十字架に向かっていく主イエスに従って行くなどというあり方は、もともと人間にはできないことだからです。人間は誰もが、聖書の言葉で言うと「罪人」であり、自分を中心に考えるところがあります。どうしても私たちは、特にエゴイストとか自己中と言われない人でも、当たり前に自分中心に生きています。当たり前なので気づかずにいるのですが、主イエスは私たちがそうであるということを責めたりなさいません。それは、私たちが自分の力でそれを変えられないからです。自分の決心、自分の力、自分の思いによって「わたしは今日から自分中心ではなく、神さまに従って生きて参ります」と言ったところで、私たちは実際にはそうならないのです。
 キリスト者である人は、このことをよくお分かりと思います。私たちは、主イエスを信じて洗礼を受け信仰生活が始まっても、いつも気が付くと神を忘れ主イエスを抜きにして生きてしまう、自分中心に生きてしまう、そういう心の傾きを自分の中に持っているのです。
 ですから、そういう者である私たちが、自分中心のあり方から離れて十字架に向かって行こうとする主イエスに従っていくことが起こるのだとすれば、それは奇跡です。それは人間の努力とか熱心さによって成し遂げられるのではなくて、神がその人に力を働かせてくださって、主イエスに従っていけるように一人一人を招いて持ち運んでくださる結果です。
 当たり前に自分中心に生きている私たちのもとに、主イエスが近づいて来てくださって、「わたしがあなたの人生を一緒に生きてあげよう。わたしが十字架によってあなたの罪を清算してあげるから、わたしが一緒にいることを信じて、あなたは新しく生きる者となりなさい。いつも神さまがあなたを愛し顧みてくださる。神さまの慈しみがいつもあなたの上に注がれている。そのことを信じて生きる人になりなさい」と繰り返し招いてくださるのです。そして、その招きが自分に語りかけられているのだと信じ、主イエスと共に生きるようになっている人たちがキリスト者です。キリスト者というのは、もともと神に従える天使のような清らかな人間だから神のものとして生きているというのではないのです。主イエスが繰り返し「あなたと一緒に生きてあげよう。あなたは神さまのものなのだ」と語りかけてくださる、その語りかけを聞き続け、信じて生きるようになっていくのです。
 ですから主イエスは、27節で「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。

 ペトロは主イエスに、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。けれども、厳密に考えると順序が逆です。ペトロは「自分が何もかも捨てて従った」ことが先のように言っていますが、実はそうではありませんでした。それは、ペトロが弟子に招かれた時のことを思い出しても分かると思います。ガリラヤ湖で網を打っていた漁師のペトロとアンデレのもとに主イエスが近づいて来てくださって、「わたしに従いなさい」と招いてくださいました。主イエスが招いてくださる前にペトロがすべてを捨てて、「今からは主イエスの弟子として生きていくのだ」と決心を固めていたのかというと、そんなことはないわけで、もともと猟師であったペトロに主イエスが出会ってくださって、「従いなさい」とおっしゃってくださった、だからペトロはその招きを聞いて弟子になっていきました。ペトロも弟のアンデレも、ヤコブもヨハネも、他の弟子たちも皆が、主イエスが近づいて来て出会ってくださって、「わたしに従って来なさい」と言ってくださったので、弟子になりました。
 そして、私たちもそうなのです。私たちも自分から従おうと思ってキリスト者になったわけではありません。生まれてから今まで生きてきた中で、どこかの時点で主イエスが私たちに出会ってくださって、「あなたはわたしを信じて、わたしと一緒に生きなさい。わたしに従って来なさい」と招いてくださったので、キリスト者になったのです。もしかすると、今日初めて教会の礼拝にいらした方がおられるかもしれませんが、そういう方も、本当に不思議なことですけれども、この場所で、主イエスに「わたしに従って来なさい」と呼びかけられているのです。「自分の十字架を背負って主に従う」ことができるのは、主イエスが「共に生きてあげよう」と招いてくださればこそ起こることです。

 またペトロは、「何もかも捨てて」と、自分たちがものすごく貧しい者になったつもりで言っていますが、それは決して貧しくなることではなく、むしろ豊かな生活に招き入れられることなのだと、主イエスは諭されました。29節30節に「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」とあります。主イエスに従って生きようと決心した人は、そのことを理解してくれない周りの人たちから辛い目に遭わされるということも確かにあり得ることです。しかしそういうことが起こるとしても、主イエスに従うことを第一に考えて従う人には、「今この世での報酬と、それから、後の世での報酬という二重の報いがあるのだ」と主イエスはおっしゃいます。
 私たちは普段は、自分の持ち物や、自分が社会的に尊重されたりすることに依り頼んで生きているようなところがあります。自分の生活が物質的や金銭的に欠乏していないか、また自分にとって身近で頼りになる人たちが健やかでいてくれて、また自分に対して周りの人たちが暖かな思いを向けてくれているか、そういうことが私たちの人生にとってとても大事なことであるように考えて暮らしています。そして、そういうものがもし自分から取り去られたら大変だと思うのです。そういう思いから、主イエスに従うということに躊躇いを覚える人たちも確かにいらっしゃると思います。
 けれども主イエスは、「もしわたしを信じて従ったら、いろいろなものを失うように思うかもしれない。けれども、わたしに従うことは、今の世でも後の世でも、より豊かなもの与えられるようになることだ」と教えられます。主イエスがここで示しておられるのは、最初の頃のキリスト者の生活の現実です。まさに主イエスを信じて弟子となりキリスト者となった人たちは、主に従うというあり方を理解してくれない家族から縁を切られ、勘当されてしまうということがよくありました。そして当時の社会では、そのように家族や血縁の者から縁を切られるということは、家を出され、先祖代々耕してきた土地からも切り離されるということに繋がったのです。つまり収入の道が閉ざされ、本当に困ってしまうということが起こったのでした。主イエスがここで言われる「家、兄妹姉妹、母、父、子供、畑を捨てる」というのは、まさに初代教会のキリスト者たちが経験した辛い状況のことを言い表しています。

 しかし主イエスは、主イエスに従う人がそのように貧しいままで終わるのではないと言われます。「わたしを信じて従う人は、確かにそういう辛い思いをさせられることが有り得る。そういう思いを耐え忍ばなければならない時があるかもしれない。けれども、それよりも100倍も優る恵みを与えられることになる」とおっしゃいます。
 しかしそれは本当なのか、いったいどこでそんな豊かな暮らしが与えられるのでしょうか。
 それは、教会生活の中においてです。主イエスが「100倍も豊かに与えられる」と言われるのは、教会の兄妹姉妹との交わりのことを言っています。信仰のために肉親たちから勘当され辛い状況に陥らざるを得なかったキリスト者たちは、財産もなく養ってくれる人もなく、一人きりで困窮するという時がありました。しかしそういうキリスト者たちにとって、血の繋がりはなくても、主イエスを信じ同じ信仰によって結ばれている兄妹姉妹たちが新しい家族となってくれました。キリスト者の共同生活とは、まさに新しい家族の交わりでした。

 こういう最初の頃の、本当に血の通い合った教会の暖かな交わりがあったということを聞かされると、私たちは今日の自分たちの教会の交わりについて考えさせられることがあるかもしれません。もしかすると、私たちにとって教会という場所は、日曜日の朝、礼拝を捧げに行き、賛美歌を歌って祈り、聖書の話を聞いて帰って来るだけの場所になっているかもしれません。けれども日曜日の教会というのは、私たちが礼拝をしに行く場所なのではなくて、何よりもここには、私たち一人一人を待っていてくださり、御心に留めて、「わたしに従って来なさい」と呼びかけてくださる主イエス・キリストがおられる場なのです。
 そしてこの主イエス・キリストは、私たちがこの礼拝の場にいる時だけ、私たちの心の中に思い出されているという方ではありません。ここから私たちがそれぞれ一週間の生活に散らされていく中でも、いつもそこに伴っていてくださいます。そして私たちが生活の中で、神に向かって祈りを捧げる時に、その祈りの言葉に耳を傾けてくださるし、また私たちが行き詰まり困ってしまう時にも、そこにいて、「大丈夫。あなたは一人ではない。あなたは神さまに愛されているし、神さまに覚えられている大事な一人なのだ」と呼びかけてくださるのです。そういう主イエスを頭として仰ぐ群れ、主の体として生きる教会の群れが私たちには与えられているのです。兄妹姉妹の暖かな交わりがキリスト者一人ひとりを受け止め、絶えず祈りの内に覚えて、主に結ばれるように応援してくれています。私たちはそういう教会の交わりの中に受け止められ覚えられる中で、それぞれの生活を生きるようにされているのです。

 そしてそういうキリスト者の交わり、教会の歩みというのは、今私たちがこの地上を歩んでいる時だけではなくて、私たちがこの地上の生活をすべて歩み終えて死の門をくぐり、その先に進んでいく時にも、なおそこに続いていくものです。甦りの主が、死を超えて、さらにその先の命があるということを証ししてくださっています。
 キリスト者は、死によっても自分が失われてしまうのではありません。私たちは、生きている時はもちろんですけれども、世を去る時にも、神の慈しみのもとに一人ひとりが覚えられています。地上のキリスト者の生活には、今生きているこの生活の中で様々な嘆きや悩みを神に打ち明けて祈る、そして御言葉から力を頂いて生活するということがありますけれども、しかし私たちはそれだけではなくて、自分自身が死に直面する時にも、なおそこにも神が命を備えてくださっているという希望を持ち続けて慰めがあるということを、甦りの主イエス・キリストから知らされ、それを信じる者とされて生きていくのです。

 私たちは、「主イエスが常に共にいてくださる。どんな時にも私たちを導いてくださる」ことを信じればこそ、今の生活の中に、過ち、破れがあり、私たち自身が自分の罪がままならないと思う時にも、失望したり絶望したりしないで、なおそこで生きていくことができます。「あなたは神さまに愛されている者として、もう一度ここから生きてよいのだ」と聞かされながら、「主イエスが共に歩んでくださる」ことに希望を繋いで、ここから歩み出す者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。
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