聖書のみことば
2020年8月
8月2日 8月9日 8月16日 8月23日 8月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月23日主日礼拝音声

 憐れみたまえ
2020年8月第4主日礼拝 8月23日 
 
宍戸 達教師 

聖書/ルカによる福音書 第18章35〜43節

18章<35節>イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。<36節>群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。<37節>「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、<38節>彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。<39節>先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。<40節>イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。<41節>「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。<42節>そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。<43節」>盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」(35節)
 主イエスが、エルサレムに向けて進んで行かれます。エリコの町にさしかかったとき、道端に、一人の盲人が座っていました。
 エルサレムに向けて旅をなさる主イエス。そして、その道端に座る、一人の盲人。-そこに座っているのが盲人であるのは、何かを暗示しているのではないでしょうか。
 主イエスが、今、進んでゆかれる道行きの、その最後には、十字架の死があります。底なしの苦しみが待ち構えています。しかし、その道行きがそのようなものであることを、誰が気付いているでしょうか。そのことは、誰の目にも見えていません。-たしかに、弟子たちも、主イエスにお供をしてはいます。それでも、その弟子たちですら、この道行きのもつ意味を、誰一人、理解していません。弟子たちについて、このすぐ前のところでは、どのように書かれていたでしょうか。34節
「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」
 これからご自分の受けられる苦難について、丁寧に話してくださったのに、弟子たちは、誰もそれを理解しません。
 また、そこには、大勢の群衆が、いつものように、主イエスに付き添っています。けれども、泡立つ波のように、群衆は騒然と湧き立っているものの、彼らのうち、ただの一人として、この時の主イエスについて、気付いている者はいません。
主イエスは、どの方角から見ても、ただ一人であられます。完全に孤独であられます。-そのようなときに、主イエスは、一人の盲人と出会われます。「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」ここには、ただ、そのように手短に記されるだけです。この時の事情を説明してくれる言葉は、一つとしてありません。でも、この盲人こそ、いわば、理屈抜きに、身をもって、象徴的な人物として、ここに登場しています。すべては、この盲人をとおして繰り広げられていきます。

 その所で、彼は物乞いをしています。悲しい毎日、座って過ごします。急いでいる人や、物見高いやじ馬の、せかせかした足音が聞こえます。人々が口にする話が、それとなく、断片的に耳に入ります。まるで人生を我が物顔に振る舞う有能な人物や、健康な者たちや、目の見えている人々の語る言葉が、伝わってきます。
 ところが、その日、いつになく、人々の足音が繁く、いつになく、おしゃべりの声が声高です。いったい何事が起こったのかと、彼は尋ねます。すると、そそくさと、曖昧な答えが返ってきます。37節
「ナザレのイエスのお通りだ。」
 名前と地名だけ。それが、いわゆる目の見えている者たちの、持っている情報です。“いつも最新の情報を得て”、そして、“よく情報に通じている”者たちの、持っている情報です。
「ナザレのイエス。」
 名前と地名だけ。人々は、この方をそのように見ています。そして、そのようにして、この方のことが口から口へと伝わります。驚くべき、一風変わった、親切な、しかし、それでいて、どこか、とっつきにくい、ガリラヤ出身の、どこにでもある名前の、人物です。
 目が見えている人たちは、目の見えない盲人に、そのような情報をもたらします。
 すると、それを聞かされた盲人は、すぐさま口を開き、ひっきりなしに大声で呼ばわり始めます。37節〜39節
「『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」
 人々は、彼を叱り、黙らせようとします。それでも、彼はなおも大声で叫び続けます。自分が閉ざされている暗い夜から、明るい陽の光が差し込んでくる方角に向けて、叫び続けます。
 今、ここで、考えさせられます。いったい、ここでは、誰が、誰に向けて、まことの情報をもたらしているのでしょうか。いったい、ここでは、誰が本当に目の見えない人であり、誰が本当に目の見えている人なのでしょうか。いったい、ここでは、誰が“盲人”であり、誰が“よく事情に通じている人”なのでしょうか。
 ところで、このエリコの盲人は、どのように叫んでいるのでしょうか。彼の口から聞こえるのは、とても短い言葉です。
 「わたしを憐れんでください」
 この短い言葉は、それから後、ずっと、キリスト教会の、たくさんの賛美歌で、受け継がれてきました。数世紀の間、これはギリシア語の言葉で、歌われました。
 「キリエ エレイソン!」-主よ、わたしを憐んでください!
 長い間、人々は、深い確信を抱きつつ、この言葉を口ずさみました。憐れみを乞う叫び、救いを求める叫びとして、この言葉を唇にのぼせました。
  ところが、そのうち、いつしか、この叫びの言葉は、いわゆる“現代人の生活感情”にそぐわない言葉となりました。いささか自信を持ち始めた“現代人”は、この言葉を口にしながらも、その心は、それとかけ離れて行きました。
 でも、今日、この憐みを乞い求める叫びは、再び、受け入れられつつあるのではないでしょうか。世界に蔓延する疫病に悩まされ、人々は、さまざまなところで、“キリエ エレイソン”と歌い始めているのではないでしょうか。“時宜にかなった”言葉、私たち人間の生活感情にかなった言葉として、この言葉は、あらためて、評価し直されているのではないでしょうか。
 それでも、何が理由で、今日、再び、この言葉は人々に受け入れられつつあるのでしょうか。軽く見られてきたこの言葉や表現が、どうして、今日、“時宜にかなった”言葉として流行り始め、“今日の人間”のアイドルのようになりつつあるのでしょうか。
 今日の人間が、何か捉え所のない、曖昧模糊とした叫びよりは、何か、もっと適切で、内容のある叫びを叫びたいと、思うようになったためでしょうか。そうではなさそうです。この短い言葉の中に、たしかに、もともと、大きな明るい信仰の言い表しが含まれているために、したがって、希望と期待に満ちた言葉であるために、人々はこの言葉にとりすがり、あこがれと親しみを抱き始めているのではないでしょうか。39節
「キリエ エレイソン! 主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」
 これは、エリコの盲人の信仰告白です。「わたしを憐んでください」という言葉を、彼は、周りにいる、いわゆる目の見えている人たちに宣べ伝えます。
 あなたがたが、どっちつかずに、わけもなく、ただ「ナザレのイエス」と呼んでいるお方-あなたがたには見えていて、わたしには見えていないお方。けれども、その方のもとにこそ、憐れみと救いと助けがあるのだと、彼は周りの人々に触れて回ります。その方にこそ、神の御力が現れていると、触れて回ります。
 この盲人は、ナザレのイエスを、
「ダビデの子」
と、お呼びします。そのように語って、この盲人は、自分が何を告げようとしているのか、よく分かっています。この盲人は、ユダヤの人です。そして、この言葉を聞いたユダヤの人々は、それによって何が言われているかを、すぐ悟ります。
「ダビデの子」
それは、彼らが待ち望んでいる、神から遣わされる人物のことです。盲人は、この「ナザレ」から出られた方を、キリスト、メシア、救い主と、告白するのです。
盲人であるこの人物には、ほかの人たちよりも、事情がずっと明らかに見えています。盲人の彼がその目に捉えるのは、主であられます。人生の上に重くのしかかる、寄る辺ない事情にまさって、偉大であられるお方。また、人の心から湧き上がる、憎しみや敵意や弱気や破壊にまさって、力強くあられるお方。盲人の彼がその目に捉えるのは、憐れみの主であられます。彼は、その御方が、ちっとも気にすることなく、この世の泥沼に足を突っ込み、歩んでゆかれることを知っています。人生と折り合いを付けられないでいる人々の兄弟となり、友となられることを知っています。

このような信仰告白が、この盲人の叫びの中に込められています。そのことが、この盲人の叫びを魅力あるものとしています。けれども、それにしても、この盲人は、そのような理解を、どこから与えられたのでしょうか。彼が人々からそれとなく聞かされたのは、ただ、つぎの言葉だけでした。
「ナザレのイエスのお通りだ。」
 いったい、この盲人はなにによって、そのような理解を深めることができたのでしょうか。特別な“勘”が働いたのでしょうか。いろんな点で障害のある人には、その障害があるために、かえって、すぐれた繊細な感覚や敏感なセンスが磨かれていくと言われます。この盲人の場合にも、そうであったのでしょうか。
 ところが、主イエスは、それを盲人の“勘”であるとはおっしゃいません。それとは違った言い方をなさいます。42節「そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」
 「あなたの信仰。」ですから、この盲人が、思いつめたように、根気よく、憐みを叫び続けたその背後にあるもの、“キリエ エレイソン”を叫び続けたその背後にあるものが、「信仰」と呼ばれます。「ナザレのイエス」こそ、「主、ダビデの子。憐れみの主、メシア、救い主」であると言い続けた、その無鉄砲さが「信仰」と呼ばれます。
 それならば、信仰とは奇跡なのでありましょうか。ベツレヘムで生まれ、ゴルゴタで死なれたナザレのイエスが、キリストであることを知るのは、いわば“内なる”目が開かれる、奇跡でありましょう。かのナザレの大工が世の光であり、旅する説教者が救い主であり、十字架に付けられて死なれた方が勝利者であり、墓に葬られた方が永遠に生きておられる方であることを知る、いわば“内なる”目が開かれる、奇跡でありましょう。
  “奇跡”と申しました。決して言い過ぎではありません。実際、エリコでもどこでも、そういうことが起こります。信仰の小さな火花が飛び交うところ、そこでは、人の心に、このように偉大な出来事が燃え上がります。そのことが起こるためには、この記事が示しているように、実際に目が見えているとか見えていないとかいうことは、関係がありません。そもそも、私たち人間の側で、何かを持っているとか持っていないとかいうことは、全く関係がありません。そこには、主イエスがおられればよろしいのです。エルサレムに向けて歩まれる、主イエスがおられればよいのです。
 この盲人が癒された、その事自体を“奇跡”と呼ぶのは、言い過ぎです。新約聖書は、このような出来事を、“奇跡”とは言わないで、“しるし”と呼びます。ある人の内側で、目に見えない、把握しがたい奇跡が生じていることを、目に見え、把握できるような形で伝える“しるし”です。より大いなる事柄を示す、目に見え、把握できる“しるし”です。そして、この、より大いなる事柄というのは、誤解され侮られつつ道をたどるイエス・キリストの中に、世の光を認めるようになるということです。聖霊の支えのもとに、イエス・キリストの中に、神の否と然りを聞き取るということ、神の裁きと神の恵みを認めるということです。-そして、そのようにして、命へ、自由へと歩んでゆくことです。
 これが、私たちが祈り求め、待ちわびる、信仰の奇跡です。礼拝では、それ以外のものを期待しません。礼拝するというのは、ナザレのイエス、ダビデの子、救い主、憐れみの主が、この世を通って行かれる時に、その道端に、私たちが盲目で、愚かで、惨めな者として座る、ということです。けれども、礼拝するということはまた、主が私たちのそばに静かに立って下さり、私たちの「キリエ」に答えて、主が私たちに語りかけ、尋ねてくださるのを待ちわびる、ということです。「何をして欲しいのか」と。
 そして、そのとき、私たちもまた、
「主よ、目が見えるようになりたいのです」
 と申し上げたいのです。私たちには、信仰への願い、私たちの目や耳や心が開けることへの願いにまさって、大きな願いはありません。あらゆる閉塞状態、頑なさ、不自由な状態から解放されることにまさって、大きな願いはありません。私たちは、私たちの口が開け、私たちの舌が緩むものでありたいのです。そして、私たちの人生が、このエリコの盲人の物語が最後に終わっているように、復活の始まりを経験し、新しい、祝福された生活となるように祈りたいのです。43節
「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」
 この日、私たちは、上よりの聖霊の訪れを受け、その聖霊に支えられて、私たちの真の救い主、主イエス・キリストにまみえ、そして、当時の民衆とともに、「こぞって神を賛美」するものでありたいのです。

祈り
聖なる御神!
 今日、また、新たな日曜日を迎えることを許されました。心より感謝いたします。
 地上にあるかぎり、私たちは、さまざまな重荷を背負いつつ、歩まざるを得ません。そして、その理由がどこにあるのかを、殆ど知らずに過ごします。
 しかし、今日、私たちは聞かされます。その置かれている事情がどのようでありましても、この地上にあるかぎり、救いの主、憐れみの主に出会わされる機会が、誰にも備えられているのであることを、教えられます。
 今、私たちは祈ります。どうぞ、私たちにも、“キリエ エレイソン”と叫び求める心を、そして、その叫びを口に言い表す力を、お与えください。そのようにして、まことの憐れみの主にお目にかかれた喜びを、兄弟姉妹もろともに証しする人生を全うさせてください。
 この祈りを、私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。
 アーメン

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