聖書のみことば
2020年8月
8月2日 8月9日 8月16日 8月23日 8月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月9日主日礼拝音声

 幸いな者
2020年8月第2主日礼拝 8月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第20章1〜12節

<1節>この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。<2節>そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、<3節>そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。<4節>同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。<5節>この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、<6節>わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。<7節>週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。<8節>わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。<9節>エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。<10節>パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」<11節>そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。<12節>人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

 ただいま、使徒言行録20章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節に「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」とあります。「この騒動」とは、19章に記されている銀細工師デメトリオがパウロを狙って起こした迫害のことです。その迫害は何とか収まったのですが、その後もエフェソの町にはキリスト教会とキリスト者に対する不穏な空気が漂っていました。エフェソのキリスト者たちは、日々何となく心細い思いで生活したようです。
 エフェソにパウロが留まっていた時に書いたコリント教会宛の手紙、コリントの信徒への手紙一16章5節から9節でパウロは、「わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」と語っています。最後のところに記されていることが、恐らく当時のエフェソの町の空気を最もよく言い表していると思います。先にエフェソでは、パウロの伝える福音が力を持ち多くの人たちの生き方を変えていました。魔術的な仕方で周囲を欺いて人々を操ろうとしていた大勢の人たちが悔い改め、新しい生活を始めていました。
 けれども、サタンは敗北を喫したら、きっとその仕返しをしようとします。デメトリオの仕掛けた迫害もその現れの一つでした。その中で、エフェソ教会はパウロによってなおしばらくの間、信仰を励まされ強められなければならなかったようです。「五旬祭まではエフェソに滞在します」とあります。パウロが五旬祭まではエフェソにいて、その後どうしたのかは定かに分かりません。けれども、使徒言行録のこの先を読みますと、「次の五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので旅を急いだ」と言われていて、この五旬祭は翌年のことですから、今日の箇所の1節から6節までのところは、おおよそ1年かかっての旅だと思われます。この1年間のうちの3ヶ月を、パウロはコリントで過ごしています。「マケドニアを通ってコリントに行き冬を越す」と言っています。地中海は冬には季節風が激しくなり東風が吹くので、西から東へ移動することが難しくなります。例年11月から2月頃まで航路が閉鎖されます。パウロはちょうどその時期をコリントで過ごしたのでしょう。それは紀元55年から56年の冬のことでした。パウロはこのコリントでの滞在時に、ローマの信徒への手紙を書いています。

 さて、春になって航路が再開した時に、パウロはシリア州からカイサリアの港に上陸してエルサレムを目指すという計画を持っていたようです。ところが計画を実行に移そうと思った矢先に、不穏な知らせがもたらされました。それはコリントの港か、あるいはシリアに向かう船上でパウロを暗殺しようとする刺客が紛れ込んでいるらしいという知らせでした。それで、パウロたちはフィリピまで陸路を取り、ミネアポリスの港から船出してトロアスまで行きました。それはヨーロッパとアジアが一番近づいているところで、少しでも船に乗る時間を短くしようしたのだと思います。
 パウロがそのように命を狙われたのには理由がありました。ユダヤ教の総本山ともいうべきエルサレムでは、パウロを捕らえて亡き者にするという御触れが出されていましたので、パウロは指名手配されていたようなものでした。ところがパウロはそのエルサレムに向かって行こうとしているのですから、大変危険なことと言わざるを得ません。後にパウロは実際にエルサレムに行き、そこで発見されリンチされかかり、本当に危ないところを、そこを警備していたローマ軍の守備隊によって身柄を保護され、そのまま囚人としてローマへ護送されることになります。
 パウロ自身は、自分の身が危険であることをよく承知していました。主イエスはかつて弟子たちに向かって、弟子たちを伝道の働きに遣わすにあたって、「わたしはあなたがたを遣わすけれども、それは狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ」とおっしゃったことがありました。パウロは、その言葉を「まさに本当だ」と思いながらエルサレムに向かって行ったのでしょう。
 伝道者は、この世の危険を目の当たりにしても、だからと言って怯むわけにはいかないのです。パウロはエルサレムに行くことを躊躇いません。

 パウロがエルサレムを目指した理由は二つありました。
 一つはキリスト教会の一致ということです。教会は世界中のいろいろな町に建てられていますが、一つ一つの教会は決して、別々に育ってはなりません。見かけ上は、地上に無数の教会が存在していますが、すべての教会は、同じ一つの土台の上に建てられて、同じ根から栄養分を吸収し育っていくのでなければならないのです。ユダヤ人の教会と異邦人の教会が別々になってはいけません。
 パウロは、すべての教会が一つなのだということを見える形で証し立てるために、パウロが伝道して建てたすべての異邦人教会に一つの提案をしました。一番最初に聖霊が降ってこの地上に成立したエルサレム教会は母なる教会という位置にありますが、ユダヤ教の真ん中に立っている教会ですから、エルサレムの町の中では一番後回しにされるような生活を送らなければなりませんでした。エルサレム教会は大変貧しい教会でした。母なる教会ではあるけれど貧さを余儀なくされていたエルサレム教会のために、兄弟姉妹の思いに根ざした献金を送ろうという提案です。
 パウロは1年余りの時間をかけて、エルサレム教会に届ける献金がまとまり、献金を携えてそれぞれの地方教会の代表者たちと共にエルサレム教会を訪ねようとしていました。それがこの計画を立てた者の責任だと、パウロは考えていました。それでパウロはどうしてもエルサレムに行かなければならないと思っていたのでした。
 ところで、パウロにはもう一つ気になっていることがありました。それは、単にキリスト教会の中だけが一つになって仲良くなれば良いということではなく、キリスト教会とユダヤ教の会堂の一致ということもパウロは考えました。もちろん、ユダヤ人の側から言えば、エルサレムではパウロを殺せという御触れが出ているくらいですから、ユダヤ教の側からすれば分裂は決定的です。けれども、それはあくまでも人間同士の話です。神の側からこれをご覧になれば、別のことを言われるかもしれません。
 ユダヤ人たちのパウロに対する憤りや怒りがどんなに険しく、また根深くあっても、それでもパウロは、ユダヤ人たちも神の民であるということに希望を繋ぐのです。
 エルサレムに向かう途中、コリントに留まっていたパウロがローマの教会に宛てて書いた手紙、ローマの信徒への手紙9章1節から5節に「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」とあります。
 ここで言っている「兄弟たち、つまり肉による同胞」とはユダヤ人のことです。もしキリスト教会とユダヤ人たちが一致できるのであれば、自分の体だけでなく自分の救いが犠牲になっても良いと思っていました。ですからパウロは、至る所に暗殺者がいるかもしれないことを承知の上で、エルサレムに向かって行きます。

 エルサレムに向かって行くパウロに、7人の同行者がいたことが今日の4節に記されています。一人一人の出身地を見ます。「ベレア出身の、テサロニケの」とは、地域で言うとマケドニアの町です。「デルベ出身の」、またテモテは「リストラ出身」ですが、これはガラテヤ地方の町です。それから「アジア州出身」は、エフェソのあるアジア州です。ギリシアの一番南のコリント、ここは名前が出ていませんが、パウロはコリントの牧師をしているわけですから、パウロ自身がアカイアやギリシア、コリントを代表しています。さらに、名前は記されていませんが、使徒言行録を書いているルカがフィリピから加わっています。ですから名前が記されているのは7名ですが、1名加わってパウロと共にエルサレムに向かっています。
これらの人たちは、それぞれの教会でエルサレム教会を覚えて献金をしましたから、献金を携えてエルサレムに向かうのですが、それだけではなく、エルサレム教会に挨拶をして、顔と顔とを合わせて交わりを持とうという狙いもありました。教会同士の交わりは、単にお金だけでやり取りするというものではありません。そこに人が行き交って、互いに顔が見える間柄で同じキリストの福音の上に立っている者同士だということが確認されていく必要があります。

 しかし、8人とパウロ、これだけの大人数が一緒に行動していますと、どうしても目立ちます。暗殺者に狙われているパウロにとっては危険が高まることになります。そこで、パウロだけ単独で行動しています。同行者たちを先にトロアスに向かわせ、パウロはルカと共にフィリピから5日かけてトロアスに到着したと言われています。6節です。「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した」。この先もパウロはしばしば単独で行動していますが、それは恐らく、暗殺者を巻くためだったと思われます。
 パウロは、「除酵祭」つまりイースターまでをフィリピで過ごしました。エルサレムには「五旬祭」つまりペンテコステまでに着く予定でしたが、それまでの受難節には、心を許し合っているフィリピ教会の人たちと礼拝して過ごしました。その間に同行者たちは先回りしてトロアスで待っています。パウロは、フィリピ教会の人たちに見送られ、恐らくルカの手引きで安全な船でトロアスに向かい、そこで7人の同行者たちと落ち合っています。トロアスに7日間いたというのも、この先の安全をルカが見定めていたのかもしれません。あるいは、航路が再開されたばかりの春先に海が荒れて船出できなかったのかもしれません。

 一週間が経ち、明日は出発という晩のことでした。一同がパンを裂くために集まったと言われています。ですからこれは、パウロたち一行の送別会というのではありません。主の日の礼拝だったようです。
 礼拝は日曜日の午前中にするのが一般的ですが、1世紀の教会では日曜日が礼拝の日とはなっていませんので、日曜日にも社会的な仕事をしていて働いていました。一日の務めを終えた後、夜の時間になって集まり、礼拝を捧げ、聖餐式も行われました。場所はどこかの家の3階の部屋で、8節に「たくさんのともし火がついていた」と言われています。部屋の戸も窓も開け放たれた状態ですから、エウティコという青年は窓に腰をかけていました。窓が開け放たれているのも、部屋にたくさんのともし火が焚かれて明るくなっているのも、「外から部屋の様子がよく見えるため」ということがありました。キリスト教の礼拝が悪い噂にならないように配慮していたのです。誰からも見えるように、キリスト者は光の元で礼拝しました。
 パウロはこの晩が最後でしたから、今まで各地で告げ知らせてきた主イエスの福音をもう一度まとめのように語ったようです。話が長くなって深夜までに及びました。部屋が狭かったせいか、エウティコは窓枠に腰をかけていて、ついうたた寝をして外へ転落し、亡くなってしまうという事故が起こりました。
 パウロは、この出来事を大変心配しました。トロアスの教会が若い教会であって、町の人たちにもまだ認知されていないとすると、ここで起こったことが教会の将来に悪い影響を与えるのではないかと心配しました。この出来事が町の中で「不祥事だ」と噂になって、「キリスト者の神は人を死に導く神」あるいは「悪魔」のように言われると、教会に集う人たちはどんなに肩身の狭い思いをしなければならないかを思い、またエウティコを思い、懸命に祈りました。パウロは、「主イエスが復活なさった」と宣べ伝えていましたから、「命と死を御支配なさる神が、エウティコの命をどうかエウティコの中に呼び返してくださるように」、またそのようなことが起これば、「どんなにか教会の人たちは励まされるか。きっと、甦りの主イエスの福音もどんなに確かで頼もしいものかということが分かって、力を与えられることになるだろう」と様々に思いながら、パウロは祈りました。
 そして実は、パウロ自身もこの時、死を恐れず、死を超える命の希望があるのだという慰めを必要としていました。
パウロが懸命に祈る、そこで、大変不思議なことですが、青年エウティコが生き返るということが起こりました。

 その夜、たくさんの明かりの中で、真夜中に聖餐式が行われました。それはどんなに明るく晴れやかな聖餐式だったことかと思います。青年の名は「エウティコ」ですが、意味から言うと「幸いな者」です。それはこの場の出来事があって後から、この青年にあだ名としてつけられ周囲がエウティコと呼ぶようになったのか、元からそういう名前だったのかは分かりません。しかし確かにこの晩、命へと戻された青年を伴って皆で守った聖餐式は、本当に幸いな人たちの群れの聖餐式でした。エウティコという青年の名前と共に、この出来事は、ずっと記憶されるようになりました。
 けれども、幸いなのは、エウティコ一人ではありませんでした。この場で確かに「神は命の主である」ということを示され、「私たちは甦られた主イエスに与り、共に聖餐に与ることができた」ことを想うことができた一人一人は、幸いな人たちです。神の命の証人とされました。

 命の危険に取り巻かれていた中、パウロたちは、「確かに私たちは、十字架と復活の主イエスの御支配のもとにある」ことを確認させられながら歩んで行ったのだと語られています。私たちの教会はどうでしょうか。例えば転落の危険はないとしても、私たちの教会もトロアスの教会と同じようなところをもって、毎週の礼拝を捧げているのではないでしょうか。私たちもまた、死と滅びの危険を孕んだ、そういう人生を送っています。
 そういう中で時には、私たちの間で死の出来事が起こる場合もあります。私たちの間から兄弟姉妹が神の元に召されて、葬儀が行われるたびに、私たちはそこで確認させられるのではないでしょうか。「天に召されて地上の生活を終えられた方も、また地上を歩んでいる私たちも、等しく、永遠の命の主の御支配のもとにあるのだ」と、これはキリスト者でなければこのようにはなかなか言えないだろうと思います。死の出来事が起こる時には「もう全てが終わってしまった。どうしたらいいのだろう。愛する人はどこか分からない遠くに行ってしまった」と思うだけだろうと思います。
 けれども私たちは、「この方は神のもとに行かれたのだ。永遠の命の中に、神さまを賛美する群れの中に匿われている。私たちとは場所が違うけれど、礼拝を捧げることにおいて、召された方と私たちとは一つの群として、神さまによって結び合わされている」と確認させられながら生きていくのではないでしょうか。

 そういう礼拝の中で聖餐式が行われる時には、「主イエスが私たちのために十字架にかかり、復活して、ここにいてくださる。私たちは共に、主イエスの御赦しのもとに生かされながら、永遠の命に結ばれて生きるのだ」という希望を持って生きるようにされています。
 今日の礼拝も、私たちはここで主イエスが共にいてくださり、私たちの命の拠り所となってくださっていることを確認させられているのではないかと思います。
 他ならない私たちが、甦りの主イエスに伴われ、命へと招かれている幸いな者であることを覚えて、ここから歩み出したいと願います。

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