2020年8月 |
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8月2日 | 8月9日 | 8月16日 | 8月23日 | 8月30日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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獣と戦う | 2020年8月第1主日礼拝 8月2日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第19章21〜40節 |
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<21節>このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。<22節>そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。<23節>そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。<24節>そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。<25節>彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、<26節>諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。<27節>これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」<28節>これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。<29節>そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。<30節>パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。<31節>他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。<32節>さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。<33節>そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。<34節>しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。<35節>そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。<36節>これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。<37節>諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。<38節>デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。<39節>それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。<40節>本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。 |
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ただいま、使徒言行録19章21節から40節までをご一緒にお聞きしました。21節に「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」とあります。伝道の働きのために一生を捧げ世界中を旅することになったパウロの口から、「ローマ」という町の名前が飛び出しました。パウロが自分の伝道計画の中にローマを含めて考えるようになったことを示す一番最初の箇所です。 パウロがこの後、計画を実行に移した際には、なかなか思うように事は運びませんでした。使徒言行録のこの先を読みますと、パウロはエルサレムに行って献金を手渡して、まずエルサレム教会を訪問する目的を達成することができましたが、その直後にエルサレム神殿に詣でた際に暴動に巻き込まれ、更にはローマ軍の守備隊に逮捕されてしまい、そこからパウロは自由に行動できなくなりました。2年間ほど、カイサリアのローマ軍の兵営の中に監禁され、それからローマ皇帝にローマ市民として裁判を受けたいと申し出てローマに行きますが、それは囚人として護送されてのことでした。使徒言行録の最後は、パウロがローマに到着したところで終わっており、パウロはローマで家を構えますが、そこに軟禁状態でいて、訪ねてくる人たちに自由に主イエスを宣べ伝えたと書かれていて終わっています。 そのことを覚える時、私たちもこの社会の中で様々な困難がありますが、伝道の志を受け継ぐ者として、私たち一人一人も数えられているのだということを覚えることができるのではないでしょうか。まずは私たちが与えられている主イエスの福音の恵みを一人一人が心ゆくまで味わい、次には、隣の人たちに手渡していく。私たちの周りにいる愛する人たち、家族や親しい友人たちに福音を手渡してく。そういうことを私たちも求められているのではないでしょうか。 さて、そのようにパウロが「ローマに、イスパニアに」と立ち上がった時、今パウロが暮らしているエフェソの町で、思いもしなかったようなこの世の抵抗に出会ったのだということが語られています。 デメトリオの仕事は銀細工師で、アルテミス神殿の模型を作って販売していました。1世紀の時代にも、今と同じように観光旅行が行われていました。一生に一度は見ておきたい光景というものが世界の七不思議という言葉で言い伝えられており、エフェソのアルテミス神殿も七不思議の一つに数えられていました。旅行の思い出に、あるいはエフェソの女神アルテミスの御利益を少しでも身近に感じたい、そう思う人たちが先を争うようにして、デメトリオが作ったアルテミス神殿のミニチュアに手を伸ばし買い求めていました。 エフェソで起こった騒動の背後に、そんな成り行きがあったのだという説明を聞きますと、これはもはや、古い時代の神々にまつわる話ということではないと感じます。ここで憤りながら仲間に話しているデメトリオの言い分は、私たちにもよく分かることです。仮に、私たちが日毎の食い扶持に関わって生活が脅かされるようなことが起こる時には、困ることでしょう。収入がなくなることに不安を覚え、いきり立つようなことも起こるのではないでしょうか。 いつも言っていますが、キリスト者の信仰は、決して心の中だけに留まるようなことではありません。信仰というのは、私たちの生き方を変えていく、そんなところがあります。例えば目に見えることで言えば、私たちが礼拝を捧げるために日曜日の午前中に教会に来こと、それだけではなく献金を捧げ、そしてここからそれぞれの一週間の生活へと歩み出す時に、おそらく一人一人、今までとは違う生活を過ごしていくようになるのです。「主イエスが共にいてくださる。主がここから新しく生きて良いと言ってくださるので、清められた者として生きていく」という志が与えられて人間が生きる時には、その人の生活の様子が変わります。信仰というのは、心の中に押し込められていることではなく、生活の中に現れてくるようなことなのです。 エフェソの町で、パウロが福音を語ったことで大勢の人たちの生活が変わっていく、そのことにデメトリオは気付いて抵抗しようとしました。それで、デメトリオがパウロの伝道は自分たちにとって不利益だと主張したところで、この町に大きなうねりが起こりました。人々は「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と、自分たちの民族意識が呼び覚まされたようになり、弾かれたように家を出て野外劇場に向かいました。そこは普段、集まって集会をする場所です。野外劇場に向かう途中で、パウロの同行者だったガイオとアリスタルコを捕らえて劇場に引き入れました。その時点で、皆、冷静さを失っています。満員になって気が立っている人たちの中で、この先何が起こるか見当もつきません。 さて、そのような状況において、聖書では、大声や叫び声が上げられる時、そこには悪魔的な働きがあると語られています。それは、主イエス・キリストが近づいておられることに気付いて怯え不安がる、サタンの叫びなのです。例えば、主イエスが捕らえられてピラトの前に来た時、群衆の中から「十字架につけよ」という大きな叫び声が上がりました。裁きを行う総督ピラトは、主イエスが十字架にかけられる理由があるのか、疑問に思っていました。そういう時に、「十字架につけよ」と群衆が叫ぶという仕方で、主イエスに対する恐れを持っているサタンの叫びが上がりました。あるいはヨハネの黙示録18章では、「大バビロンが倒れる」というところでも大きな叫び声がします。「不幸だ、不幸だ」と叫ぶ声です。これまで大バビロンによって良い生活をしてきた人たちが叫び続けます。まるで、不真実がこの世の常であり、偽りやごまかしや見せかけがいつまでも通用するかに思っていたのに、それをすべて与えていた大バビロンが倒れる様子を見て、「不幸だ、不幸だ」という叫ぶ、そのようなことが聖書の最後の箇所にも記されています。 さて、こういう異常な状況の中でパウロは一体どうしているのでしょうか。パウロはなぜここに出てこないのでしょうか。パウロは、ガイオとアリスタルコが捕らえられて野外劇場に連れ込まれたと聞くと、すぐにパウロ自身も劇場に乗り込もうとしました。パウロとすれば自分の同行者を助けに行くのは当たり前だと思って行動しようとしましたが、しかし、信仰の仲間たちがパウロを引き止めました。また、2年間で親しくなっていたエフェソの町の高官たちも引き止めました。そういう人たちは、もちろんパウロの身を案じていたのですが、それ以上に、もしパウロが野外劇場に行けば、民衆の興奮状態がいよいよ激化してもはや町の秩序が保てなくなることを恐れたものと思われます。パウロはそういう中で思い止まりました。 騒動は最後にどうなったでしょうか。エフェソの町の書記官、今風に言えば市長のような人ですが、この人が現れて演説を試みました。彼はまず、興奮している群衆に媚びるようなところから話を始めます。この人は知識人であって、女神アルテミスに本心から心を寄せているわけではありません。35節「そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。『エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ』」とあります。「女神を否定することはできないのだから、落ち着くように」と言います。そのように群衆を宥めながら、親しげに「今日のところは解散した方が良い。そうしないと、この騒ぎが暴動だとローマ皇帝の耳に届いてしまうかもしれない。そうなれば軍隊が来てしまう。また捕らえた二人は、神殿を荒らしたわけでも、女神アルテミスを冒涜したわけでもない。訴えたい人がいれば裁きの日に地方総督に訴えれば良いだろう」と語りかけました。 教会には、見るべき美しい何かがあるでしょうか。プロテスタントの教会はがらんとした箱のようなものです。けれども、私たちはなぜここに集まって来るのかと言えば、それは、真の神が主イエスを救い主として送ってくださって、主イエスが甦って私たちのもとを訪れてくださっているという福音が語られているからです。主イエスが確かに私たちを支え、持ち運んでくださる。そして、そのことを聞いて信じた人たちが本当に慰められ勇気を与えられ生きる。生活が変わっていくということが起こっているので、教会はここまで存続し続けているのです。 女神アルテミスは、古代のエフェソの人たちにとって誇りでした。現代でも、アルテミスのような人々を魅きつけるものがたくさんあるでしょう。けれども、甦りの主イエスを知らされている人たちは、いつも落ち着いて、「主イエスこそ私たちの主」と賛美します。「本当の神、救い主である方は、十字架におかかりになり復活された主イエスである。私たちは主イエスにより頼み、平安でいます。私たちは昼も夜も主に結ばれた中で生活し、主の愛に支えられて歩みます」。私たちは、そういう賛美を落ち着きを持って捧げ、賛美のうちに歩む者とされたいと願います。 |
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