聖書のみことば
2020年1月
  1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月5日主日礼拝音声

 命の源
2020年1月第1主日礼拝 1月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第11章1〜18節

<1節>さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。<2節>ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、<3節>「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。<4節>そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。<5節>「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。<6節>その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。<7節>そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、<8節>わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』<9節>すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました<10節>こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 <11節>そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。<12節>すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。<13節>彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。<14節>あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 <15節>わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。<16節>そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。<17節>こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」<18節>この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

 ただいま、使徒言行録11章1節から18節までをご一緒にお聞きしました。1節に「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」とあります。異邦人であるコルネリウスが神の言葉を受け入れたという噂は、恐らく瞬く間にエルサレム教会の人たちのもとにもたらされたと思われます。
 ここにいう「神の言葉を受け入れた」というのは、漠然と神が何かを語ったということではありません。あるいは、神についての何らかの教えというのでもありません。使徒言行録の中で「神の言葉」と言われる場合には、主イエスの十字架と復活の出来事を伝える福音の言葉を指して言われています。使徒言行録5章の最後に、使徒たちが、大祭司によって逮捕されていた牢屋から出された後、公然と主イエスの福音を告げ知らせたと語られています。そのことの要約として「神の言葉」と言われているのです。5章42節「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」、ここで使徒たちが告げ知らせていた言葉は「メシア・イエスについての福音」です。そして、このことを受ける形で、6章7節に「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。十字架の主イエスの受難と復活を伝える言葉が「神の言葉」と言われていることが分かると思います。
 ですから、今日の箇所で、異邦人のコルネリウスたちが神の言葉を受け入れたというのは、漠然とした神の話を聞いたということではなく、「主イエスが十字架で殺されてしまったけれど、神は主イエスを三日目に復活させ人々の前に現してくださった」という言葉でした。

 ペトロがカイサリアのコルネリウスの家を訪ねて、主イエスの十字架の御受難と復活の福音を告げ知らせたとき、まさに目の前で話を聞いていた異邦人たちに聖霊が降るということが起こりました。「十字架で死なれた方が復活させられた。そしてこの方は今も生きておられる」、ペトロはそういう話をしましたが、普通であれば、この話を聞いた人は「愚かな作り話だ」と言って退けることが当たり前でしょう。ペトロはそれまでも多くの人々に主イエスの十字架と復活のことを伝えて来ましたから、冷めた態度で受け流されるということも経験して来ています。コルネリウスたちは異邦人ですから、ペトロの話に興味を持って招きはしたものの、やはり「そんなことはあり得ない」と受け流されたとしても、ペトロ自身は少しも驚かなかったことと思います。
 ところが、ペトロの予想とは裏腹に、コルネリウスたちはペトロが話してくれたことを真剣に聞き、信じて、神のなさりようを賛美し、「神さま、ありがとうございます。こういう仕方であなたはわたしに出会ってくださいました」と祈り始めました。ペトロは驚き、「聖霊が働き、主イエスの出来事は本当のことだったと異邦人たちに受け止めさせてくださった」と確信しました。聖霊が働いて主イエスの福音を信じるようになった、その瞬間にペトロは立ち会わされました。それでペトロはコルネリウスに、「主イエスの名によって洗礼を受けるように」と勧めました。コルネリウスも同意したので、この家の人たちが洗礼を受けました。それが1節に言われている「異邦人も神の言葉を受け入れた」という出来事です。
 この出来事をエルサレムの人たちに伝えた人物の名前は出てきませんが、コルネリウスたちが信仰を持ったのはカイサリアでの出来事で、この嬉しい知らせを伝えた人は、一刻も早く伝えようと羽根でも生えたようにエルサレムに向かったものと思われます。

 さて、この嬉しい知らせを受けたエルサレムの人たちは、どう思ったでしょうか。知らせを携えて行った人たちは、自分たちがカイサリアで味わったのと同じような喜びがエルサレムでも起こるに違いないと信じて大急ぎで駆けつけたようです。ところが、知らされた人たちは、大変複雑な思いになったということがここに述べられています。2節3節に「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」とあります。知らせが届き、その後にペトロがカイサリアから戻って来ましたが、そこでかけられた言葉は「本当によかったね」という喜びの言葉、労いの言葉ではなく、非難でした。ペトロが割礼も受けていない異邦人のもとに行って、家に入り、食事まで共にしたこと、そしてまた、コルネリウスの家に滞在したこと、それは非常に問題だという声が上がりました。
 このような展開は、私たちからすると、すぐには理解できないようなことだと思います。今日の私たちの感覚からすると、幼い子供であれ、成人の求道者であれ、何とかして一人でも多くの方にこの場所にいていただきたいと思いながら、私たちは礼拝しています。一人でも多くの方を礼拝の場にお迎えして、共に、私たちに命をくださる神に感謝し、賛美したいと思っています。今日初めて教会に来たという方であっても、私たちであれば「よくいらっしゃいました」と歓迎するに違いありません。そういう私たちからすると、カイサリアのコルネリウスたちが福音を受け入れたということは、本当に嬉しいことだと思いこそすれ、なぜこのことが非難の対象になるのか分からないと思います。どうしてエルサレムの人たちはペトロの行動を咎めたのでしょうか。
 2節を見ますと、ペトロの行動を非難したのは、割礼を受けている者たちだったと言われています。エルサレムに建てられていた教会は全員がユダヤ人からなる教会ですから、その教会の男性は皆、割礼を受けています。全員割礼を受けているのですから、ここで敢えて「割礼を受けている者」と言わなくても良いと思いますが、ペトロを攻撃した人たちには、「自分たちが割礼を受けている」ということが大層大切だったということです。愛宕町教会には、割礼を受けそれが大切だと思っている人はいませんので、それで彼らの思いがピンときづらいのです。

 ですから今日は、聖書の言葉からこのことを考えてみたいと思います。「割礼」とは、どういうことなのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙5章3節に、パウロの言葉が出て来ます。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」。割礼とは、ユダヤ教に入信するための儀礼です。何を意味しているのかと言うと、「わたしはモーセの律法に命じられている戒律をすべて守ります。神さまのご命令の通りに暮らします」と言い表し、「これからは神さまのものとして生活しますので、わたしを守ってください」という契約が結ばれるしるし、それが割礼です。
 律法の中には、例えば、食べても良い動物と食べてはいけない動物という決まりがありました。鶏肉と牛肉は良いが、豚肉はダメというような宗教的な決めごとです。割礼を重んじる人たちは、そういう律法をすべて守らなければ神の民とされないのだと考えていました。ですから、自分の生活がすべて神の戒律に従っていなければいけないと思っている人にとって、ペトロが異邦人であるコルネリウスの家に行き食事を共にしたということは、それだけで、ペトロが神の民として生活することを放棄したと等しい振る舞いをしたと思うのです。コルネリウスは異邦人で律法を知りませんから、食べてはいけない動物があるなどとは思わず食事を出してくれて、それを一緒に食べたとすれば、ペトロは律法を重んじる生活から外れているということになります。ですから、ペトロが洗礼を授けたということは良い出来事のように思いますが、割礼を重んじる人たちは、それ以前に、ペトロ自身が神の民として生活することを止めてしまっているのではないかと考えました。ペトロが異邦人たちを神の民へと招き入れたのではなく、ペトロの方が異邦人たちの方に引き込まれてしまって神の民であることを止めてしまった。だから割礼を重んじる人たちは、「何ということをしたのだ」とペトロに食ってかかりました。

 このことに対してペトロはどうしたでしょうか。4節に「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」とあります。ここでペトロが語ったことは、10章ですでに2度、繰り返し語られて来たことです。かいつまんで言いますと、次のようになります。ペトロがカイサリアに招かれたとき、ペトロはヤッファにいて幻を見ました。お昼頃、空腹だったとき、天から四隅を吊るされた布が降りて来て、その中に様々な動物が入って来ました。その中にはユダヤ人が食べてはいけない動物も入っていました。ところが幻の中で天から声が聞こえて、「あなたは、目の前にいる動物を屠って食べなさい」と言われました。ペトロはその時点では、割礼を重んじる人たちと同じ考えでしたから、「主よ、とんでもないことです。汚れているとされている動物を、これまで口にしたことはありませんし、そんなことはできません」と答えました。すると天からの声が「神が清められたものを清くないなどと、あなたは言ってはならない」と語りかけました。ペトロはこの幻を3度も見せられ、これは一体なんだろうと思っていると、それは、神がカイサリアの異邦人の家にペトロを遣わそうとして、その準備のために見せてくださった幻なのだということに、ペトロは気付きました。
 カイサリアからコルネリウスの使者が来たときに、聖霊がペトロに「ためらわず、コルネリウスの家に行きなさい」と語り、背中を押されたのだと言われています。11章11節12節に「そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです」とあります。それでペトロはカイサリアへ行き、求められるままに主イエスの十字架と復活について語りました。すると驚いたことに、目の前の異邦人たちが神を賛美し始め、ペトロは「これは聖霊の働きに違いない」と思ったと語っています。
 ですから、ペトロが順序正しく説明したということの中で最も力を入れて語ったことは「これは聖霊による出来事なのです」ということでした。

 ペトロにしてみれば、このように順序正しく説明すれば分かってもらえるだろうと思って話しましたが、しかし実は、ペトロがここで敢えて話していないことがあります。そして、ペトロが敢えて話していないことにとても深い意味が隠されています。ペトロが話さなかったことは何かというと、自分が洗礼を授けた相手の名前です。「コルネリウス」という名前をペトロは一度も口に出しませんでした。そしてこのことは、この箇所を読み解く上で昔からよく言われて来たことですが、もしここでペトロが「コルネリウス」という名を出し、その人となりを少しでもエルサレムの人たちに説明していたならば、たちどころにペトロに対する非難は収まっただろうと言われています。どうしてかと言いますと、コルネリウスの人となりについては、10章1節2節に「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあります。コルネリウスは割礼を受けていませんから、そういう意味ではユダヤ教の改宗者とは言えません。けれども、コルネリウスの生活態度は非常に敬虔なものでした。ほとんどユダヤの敬虔な人たちと変わらない生活をしていました。ですから、もしもペトロが「なぜお前はあんな異邦人に洗礼を授けたのか」と問われたとしても、「それはコルネリウスだからです。コルネリウスはこういう人です」と、コルネリウスの人となりを語れば、割礼を重んじる人たちもコルネリウスの洗礼に賛成したに違いないのです。

 では今日のところで、なぜペトロは、順序正しく説明する中でコルネリウスの人となりを語る代わりに、自分に示された幻のこと、あるいは自分が福音を語ったときに聖霊が降ったことなどを話したのでしょうか。それが大変重要な事柄です。明らかにペトロは、そう説明することの方が、コルネリウスたちが洗礼を受けたことの説明として順序正しく理に適っていると思ったということです。ペトロはどうしてこう語ったのでしょうか。それは、主イエス・キリストに結ばれる洗礼は、洗礼を受ける人の人柄とか、能力によって起こることではないからです。ペトロは、そのことをはっきりと言わなければならないと思いました。
 洗礼は、人格が良いとか、宗教的な感受性が鋭いとか、人生や社会に対する洞察力に優れているとか、そういう人間的な条件によって起こることではありません。そうではなく、聖霊がその人の上に働いて、別の言葉で言えば、神がその人を招いてくださり、「あなたはわたしのものだ。あなたはそれを認め、受け入れ、わたしの民に加わりなさい」という呼びかけを聞くことで生じることなのです。
 神は、教会の礼拝や教会の群れを、神を伝える伝道のためにお用いになります。教会が求道者や子供たちを招くということはあります。けれども、それだけではなく、神は教会の外でも働いてくださいます。それまで教会と全然関わりがないと思っていた人たち、今日初めて教会に来た人にも、神は働いてくださいます。そして、まるでトンネルを掘るときのように、トンネルのこちら側と向こう側から掘り進めて、山の中腹のあたりで両方の穴が結合することによってトンネルが開通するように、教会の努力だけで伝道がなされるのではなく、神が教会の外にも働きかけ、人々を教会へと向かわせる力も働かせてくださるのです。
 様々な入り口を通って教会に行くという道を、神は今も教会に与えてくださっています。今日も初めて教会に来られた方がいらっしゃると思いますが、それは本当に不思議なことです。来られた理由は様々だと思いますが、とにかく「神さまに向かう」という入り口を与えられているお一人お一人なのです。
 神はそういう入り口をお与えくださり、そして、そういう生活を送らせる中から、不思議なことに「わたしは神さまに支えられています」という思いも与えてくださるようになるのです。ですから、主イエスのことを伝えられた人が洗礼を受けるようになるということは、何か型通りに、教会がこうすればクリスチャンが生まれるというようなことではありません。教会はもちろん、受洗者が起こされますようにと祈りつつ待っていますが、洗礼を受ける決意は、神がその人に与えられるものです。

 本日はこれから、教会が大切に守っている聖餐式に与りますが、私たちは、聖餐式を守る上で信仰の目を開き、この食卓に与る者とされたいと願います。神が私たちを信仰者として教会に招いてくださるということは、私たちの方が神を探求した果てに神にたどり着くというようなことではありません。本当に不思議なことですが、私たちがまだ何も知らず分からなかったときに、神の方で独り子である主イエスをこの世に送ってくださり、私たちが神に背を向けている罪を精算してくださるために主イエスを十字架につけてくださいました。十字架に架けられた主イエスご自身は、そういう神のなさりようが人間にはなかなか分からないことを承知の上で、しかしご自身が歩まれる道がきっと、人間が神の慈しみを知ることのために用いられるのだと信じて、十字架までの道を歩み、十字架にお架かりくださいました。
 そして、そういう主イエスのあり方が、私たちにしてみれば、「本当に神さまに信頼して良いのだ」ということを知る目当てになることになっているのです。主イエスのあり方が本当に神の御心にかなう正しいあり方だったので、主イエスは十字架に死なれましたが、死の虜になったままではなく、神によって復活させられ、再び生きるようになっているのです。
 ですから、私たちが聖書から聞かされている福音は、神が独り子をさえ惜しまずに与えてくださり、また主イエスも神の御心に従うことがどんなに大変であっても神に従って歩むという生き方を歩まれ、十字架の上でも従い尽くされたので、私たちは十字架を見上げながら、自分の人生にどんな大変なことが起こるとしても、「神はここにもいてくださり、わたしを見ていてくださる」と励まされるという恵みなのです。
 キリスト教信仰は御利益信仰ではありません。信じたら何か良いことがあるということではありません。キリスト者は、変わらず大変な人生を送りますけれども、そういう生活の中で、まさに「神さまがわたしを愛してくださり、支えてくださっている」ことを知ります。主イエスの十字架は、そのことを私たちに教えてくださるために起こった出来事なのです。困難や嘆きや痛みや苦しみの中にあって、「それでも神さまが、わたしを支え持ち運んでくださる」という平安が、キリスト者にはもたらされてくるのです。そして、そのことを現すのが聖餐式であるということを受け止めたいと願います。
 主イエスが確かに私たちのために肉を裂き、血を流し、私たちが神に背を向けて来た罪を精算してくださっていますが、その御業は、今すでに信仰を言い表して今日聖餐式に与る人にだけ向けられているものではありません。今日の段階では信仰を言い表すには至っていないけれど、しかし神が確実に働きかけてくださっていて、やがて教会の民に加えようとなさっておられるすべての人の上に、聖餐式の恵みが及んでいるということを覚えたいと思います。
 やがてすべてが完成される終わりの日には、神から名前を呼ばれたすべての人が神の民に加えられ、皆で一緒に神の食卓に与るという日がやって来ます。私たちは、今日、その前味として聖餐に与り、そして、力を与えられ勇気を与えられて、神の民とされている生活を歩むようにと、ここから導かれています。私たちは、そのような神のなさりように背中を押されながら、この地上で一人一人に与えられている馳馬へと歩み出したいと願います。

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