2019年8月 |
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8月4日 | 8月11日 | 8月18日 | 8月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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命がこの身に現れる | 2019年8月第2主日礼拝 8月11日 |
宍戸尚子牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第4章1節〜15節 | |
4章<1節>こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。<2節>かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。<3節>わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。<4節>この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。<5節>わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。<6節>「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。<7節>ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。<8節>わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、<9節>虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。<10節>わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。<11節>わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。<12節>こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。<13節>「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。<14節>主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。<15節>すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 |
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ただいま、コリントの信徒への手紙二4章1節から15節までをご一緒にお聞きしました。1節に「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」。 理由がいくつか挙げられますが、1節の初めに「こういうわけで」とあるのが一つの理由です。直前の3章には「福音を授かっているキリスト者の姿」が描かれていましたので、「こういうわけで」とは「福音に与っているので、福音を授かっているので」、だから「落胆しません」となります。何かを持っている、得ているということではなく、「福音を与っている、だから落胆しません」とパウロは言っています。ですから1節は「神からの憐れみ、慈しみ深い御心を受け取ったので、落胆しません。そしてその福音を伝えるという務めも与えられているのですから、落胆しません」と言っています。 更にパウロは、福音を信じて救いに入れられた人は、同時に福音を伝える人になる務めを委ねられていると語ります。私たちは日常生活の中で、仕事など、与えられた務めを日々果たすように生きていきますが、ここには、「私たちには伝道の務めが授けられている。だから落胆しない。それが信じる者の姿なのだ」と語られています。私たちは救われた者、キリスト者として生きることを通して、主を証しする者として生きることになります。「キリストを信じて生きる人は、キリストを伝える人となる」ということですが、その際に、どのように生きるのが相応しいのか、パウロはいくつかのことを挙げています。2節に「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」とあります。伝道する上で、「卑劣な隠れた行いを捨てる」というのは、福音を正しくまっすぐに伝えることができるように、福音の輝きを隠してしまう行いを捨てることです。また「悪賢く歩まず」とは、福音を伝える上で悪賢く歩まない、純粋に伝えて歩むという意味です。そしてそれが「神の言葉を曲げない」ことになりますし「真理を明らかにする」ことになっていきます。 私たちは力無い者ですが、その私たちを伝道の器として主が用いてくださるのだと、聖書は約束しています。私たちはこの御言葉にどう答えたらよいのでしょうか。また、私たちが伝えても信じない人もいるかもしれません。私たちが「キリスト者になることは素晴らしいことなので」と、様々な形でお誘いをして、福音が曲げられることなくまっすぐに届けられたとしても、聞いた人全てが信じる生活をするわけではないかもしれません。むしろ、よく経験することですが、伝道の困難を感じさせられる方が多いのです。それは「福音に覆いがかかっているようなもの」だと3節に語られています。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら」とあります。福音は、ある人たちに対しては覆われたようになっていて、その人たちは福音を聞くことができないと言っています。それは滅びの道を辿る人にとってそうだと言われます。「滅びの道を辿る人たち」とは、今この時、福音を受け入れることができない人たちのことを表しています。この世の力によって目が眩まされて、福音の姿が見えないようにさせられている人たちがいます。 そしてそれは、4節にあります「この世の神、悪の力」、すなわち「神から私たちを引き離そうとする力が働いて、私たちの目から福音を見えなくする」と言われます。私たちの生活の中で、「悪の力」というのは目に見えませんが、私たちが福音に耳を傾け従おうとすることを喜ばず、神から離れさせようとする、そういう力であると聖書は語っています。 さて、続く5節では、キリストを宣べ伝える伝道のことが語られています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」。大変シンプルな言葉で、伝道とは、伝道者・教会の務めとは何かを語っています。牧師や伝道者だけではなく、キリスト者全てが、イエス・キリストを宣べ伝える務めに任じられています。 このようなキリスト者の姿を、6節で「光を与えていただいた者」と言い表しています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。主なる神が、「闇から光が輝き出よ」と命じられたというのは、旧約聖書の創世記1章の天地創造のことを表しています。「光あれ」とおっしゃった主なる神が、時間を創造し、そこに光をもたらされました。その同じ神が、私たちの心の内に輝いてくださり、つまり「光を与えてくださって」、キリストの御顔に輝く神の栄光、つまり「キリストによる神の救いをくださった」、だから私たちは心のうちに光を持つ者であるということです。それは、私たちの内側から輝き出るようなものではなく、神から与えられ、神の栄光を悟る光です。イエス・キリストの救いの光であり、私たち罪人を十字架によって赦し、復活によって新しい命へと導く福音の光です。この福音以上に輝かしく美しい光は、世界のどこにもありません。これ以上に力強く、全てに優るものはありません。私たちは、何にも比べられない福音の光を心のうちにいただいています。そして、すべてのことをこの福音の光において見るように求められています。 その福音の光は、私たちから出たものではない、宝なのだと、パウロは語ります。7節に「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」とあります。信仰を与えられ、福音を信じた私たちは、宝を持っている。「信仰を与えられることは宝をいただくことであり、教会生活をすることは宝を携えて生きることだ」と聞かされるとき、私たちは聖書がこのように描き出す生き方をしているだろうかと考えさせられます。 けれども、8節9節を見ますと、それは必ずしも上手くいかないと言われます。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。パウロ自身がキリストの福音を伝える時に、四方から苦しめられ途方に暮れ、虐げられ打ち倒されるという経験をしました。しかもそれは何度となくあったことが、この手紙の後半にも記されています。確かにそうなのですが、「それでもわたしは行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされず今がある」と語ります。そしてこれは、パウロだけに当てはまることではなく、キリストの福音を伝えよう、何とかキリストに従って生きていこう、神の御心に従って生きる生活をしようと志す全ての人にとっての真実です。 多くの人たちは、自分の人生を自分の思うままに操ることができると思っていて、思い通りにならないと怒りを爆発させたり、怒りを他者に向けて滅んでいったりしてしまいます。けれども、聖書の言葉によれば、私たちの人生は、主キリスト、神のものです。十字架のキリストが罪を滅ぼし、赦し、新しい命をくださったからです。「キリストの死とキリストの復活の命が私たちの身に現れる」、主イエスの命がこの体に現れてくださいます。好き勝手に自分の思うがまま自分中心に生きてきた者が、「イエス・キリストが自分のうちに生きてくださって、キリストのうちに生かされている」と分かったのですから、これまでと全く異なる人生が始められたということになります。 私たちが教会生活をするということは、本当に、今までと全く違う生き方を始めたということです。キリストに生かされる私たちの人生が、もはや自分のための自分の目的を成し遂げるための人生ではなくなることは当然です。12節には「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」とあります。 |
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