2019年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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復活 | 2019年イースター礼拝 4月21日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第24章1〜12節 | |
<1節>そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。<2節>見ると、石が墓のわきに転がしてあり、<3節>中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。<4節>そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。<5節>婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。<6節>あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。<7節>人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」<8節>そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。<9節>そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。<10節>それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、<11節>使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。<12節>しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。 |
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ただ今、ルカによる福音書24章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。その終わりの方、11節に「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と述べられています。 「主イエスが復活しておられる。そして私たちと共にいてくださるのだ」という福音は、まさにそのまま信じるに足る事柄です。けれども、それは同時に、私たち人間にとって決して受け取りやすいものではありません。11人の弟子たちが婦人の弟子たちの伝えてくれたことを「たわ言だと思って信じなかった」、これは別の言い方をすれば、復活の福音を聞かされた時に、使徒たち全員が少なくとも一度はこれにつまずいたということです。今日はイースター礼拝ですので多くの方がおられますが、もしかすると「十字架にかかった主イエスが、死んで復活した」ということについては受け止めにくいと感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。受け取りにくいと感じることは不自然なことでも不思議なことでもありません。ここには、12弟子自身が復活の知らせを受け取り損なったと言われています。主イエスの最も近くを歩んだ弟子たちですら、主イエスの復活を受け取れなかったのですから、ましてここにいる私たちが簡単に復活を受け止められないとしても、それは決して妙なことではありません。「主イエスが甦られた」という知らせ、教会が信じている福音は、これを聴く人にとってつまずきを覚えるようなところがあり、そういう福音なのだということを、今日はまず聞かされ、覚えたいと思います。 例えば今日の箇所ですが、12弟子に先立って復活を信じた婦人の弟子たちがいます。けれども、この婦人の弟子たちも最初から信じることができたわけではなく、最初は大変戸惑っています。それがどのようにして信じるようになっていったのかということが、今日の箇所で語られていることです。また今日は12節までですが、先を読みますと、ペトロをはじめとする男性の弟子たちがどのようにして主イエスの復活を信じるようになっていったのかということが語られています。そこには二つの印象的な出来事が語られ、そして最後には、復活の主イエスが弟子たちを祝福され天に昇って行かれ、天に昇られた主イエスを伏し拝んで礼拝を捧げ大きな喜びに満たされている弟子たちの群れが生じたというところで話が結ばれていきます。つまり、ルカによる福音書の一番終わりは、「主イエスの復活を信じることができなかった弟子たちが、どのようにして信じるように変えられていったのか」が語られているのです。 今日の24章では男性の弟子たちに先立って女性の弟子たちが信じる者と変えられていったということが述べられています。婦人の弟子たちも、空の墓を見て最初から主イエスの復活を信じ喜んだということではありません。女性たちは、何とか主イエスの体に香料を塗って差し上げたいと思って主イエスが葬られたお墓へと向かいます。1節に「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とあり、香料を準備していますから、出かけた時点では当然、お墓には主イエスの亡骸があると思っていたのです。ただそこで問題だったのは、墓の前にある石をどうするかということでした。ところが、お墓の前に来ると大きな石は取りのけられていて、婦人の弟子たちは首尾よくお墓の中に入ることができました。 「主イエスは確かに十字架で死なれた。けれども復活して生きておられる」、教会が2000年の間ずっと信じてきたのは、この事柄です。どのようにしてこのことを信じるようになったのでしょうか。婦人の弟子たちが空のお墓を見つけて、自分たちで「主イエスは復活したのだろう」と思ったり考えたりしたということではありません。人間の理性を用いた推測によって「墓が空だから、復活した」と分かったわけではないのです。そうではなく、復活したことを語り聞かせているのは天使です。人間に語りかける天使の言葉は、神の言葉です。 では、私たちの場合はどうでしょうか。私たちは地上の生涯を歩まれた主イエスと出会ったことはないのですが、ではどうやって私たちは主イエスと出会っているのでしょうか。どうして「主イエス」という名を知るようになったのか、そこから考えてみてもよいと思います。どうしてイエス・キリストを知るようになったのか。私たちの上に霊感が働いて知るようになったのか。どうして私たちが主イエスを知り、教会に集まって来ているのか。それはとても単純なことで、誰かがその名前を教えてくれたということがあるからです。そしてそのことをずっと遡って辿って行くと、この新約聖書に行き着くことになります。 天使が語ってくれて思い出していくうちに、「そうだ」と気づくようになったのは、天使の語る一言一言の背後に、主イエスご自身がおられたからです。私たちは、聖書の言葉を聞くときに、情報として処理するのではなく、この言葉の背後で語っておられる主ご自身、神と出会わされるのです。理性的に考えると不思議なことです。なぜこの書物を通して神が出会ってくださるなどと言えるのか、理性で考えれば、そんなことを言うこと自体が愚かだということになります。教会がここで毎週礼拝を捧げ、聖書が読まれ、聖書の言葉を通して神に出会わされ、慰められ勇気づけられ力づけられ、自分は様々な問題を抱えているけれど、「ここで生きていて良いのだ」と思って生きるようになる。そんなことは、理性で考えれば、「あるはずない」と思うのです。けれども実際に教会は、聖書の言葉を通して語りかけてくださる神と交わりを持ち、実際にそこで生きている人たちが慰められ勇気づけられ、力づけられて、「本当にこれが真実だ」と信じてきたからこそ、2000年の間続いてきているのです。 さて最後に、どうして主イエスは、復活されて後すぐにペトロのところへ行かれなかったのでしょうか。どうして婦人の弟子たちが先に出会わされているのでしょうか。このことを考えてみたいのです。 主イエスはイースターの朝、確かに甦られました。この知らせは、確実でそのまま受け入れて良い知らせです。その知らせというのは、私たち自身が「それは本当にそうなのだ」と信じることによってしか、私たちの中に留まらない、そういう知らせなのです。誰か権威のある人がそう言っているからそうなのだろうと信じるのではありません。そういう仕方では、私たちの中に留まりません。「あなたはこの知らせを信じて受け取るのですか?」と、私たちはイースターのたびに、聖書からそのように聞かされます。そして教会は2000年の間、毎週毎週この知らせを聞かされながら、「本当にそうだ。主イエスはわたしと歩んでくださるのだ」と信じて歩んで来たのです。教会は「これは真に信じてよいことなのだ」と言い続け、立ち続けてきました。信じない人にとっては愚かなたわ言に聞こえることです。けれども信じる人にとっては、「主イエスは復活してわたしと共にいてくださる」という知らせこそが本当に嬉しい知らせであり、「神が主イエスに免じてわたしの罪を赦してくださった。主イエスの十字架と復活によって清くされた命を、あなたはここから生きて良い。そういう者として生かされているのだから、あなたのこの地上を歩んでいきなさい」と聞き取ることができるのです。 福音を信じた人は2000年の間、自分の人生と命を「神から与えられ、今日を生きてよい命なのだ」と受け取り、喜んで生きてくることができました。そして私たちは、そういう教会の群れの歴史の一番新しいところにいるのです。私たちも今日、弟子たちと同じことを知らされています。「主イエスは確かに甦っておられる。だからお墓は空だ。あなたは様々な失敗をしているかもしれないし、そのことで本当に上手くいかないことも多くあるかもしれない。けれども、あなたは今日、主イエスの十字架を見上げ、本当に赦され、そこから生きてよいと言われている語りかけを聞いて、それを信じて生きてよいのだ」と呼びかけられています。 |
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