聖書のみことば
2019年4月
  4月7日 4月14日 4月19日 4月21日 4月28日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月21日主日礼拝音声

 復活
2019年イースター礼拝 4月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第24章1〜12節

<1節>そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。<2節>見ると、石が墓のわきに転がしてあり、<3節>中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。<4節>そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。<5節>婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。<6節>あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。<7節>人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」<8節>そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。<9節>そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。<10節>それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、<11節>使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。<12節>しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 ただ今、ルカによる福音書24章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。その終わりの方、11節に「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と述べられています。
 最初のイースターの朝に、空の墓から帰ってきた婦人の弟子たちが「主のご復活の知らせ」を告げ知らせた時、主イエスの11人の使徒たちは、その話を「たわ言だと思った」と述べられています。
 主イエスが死者の中から甦えられた。そして永遠の命の初穂となって今日もなおこの世界の上におられる。その福音は教会の信仰の中で最も重要な内容です。ところが、「主イエスが甦られた」という福音が告げられた時、地上で主イエスと最も近くを歩んできた弟子たちは、当初、これを本当のことだと受け止めることができませんでした。こういう聖書の記事を読むにつれ、聖書というのは何と正直に人間の姿を書き記しているものかと思わされます。

 「主イエスが復活しておられる。そして私たちと共にいてくださるのだ」という福音は、まさにそのまま信じるに足る事柄です。けれども、それは同時に、私たち人間にとって決して受け取りやすいものではありません。11人の弟子たちが婦人の弟子たちの伝えてくれたことを「たわ言だと思って信じなかった」、これは別の言い方をすれば、復活の福音を聞かされた時に、使徒たち全員が少なくとも一度はこれにつまずいたということです。今日はイースター礼拝ですので多くの方がおられますが、もしかすると「十字架にかかった主イエスが、死んで復活した」ということについては受け止めにくいと感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。受け取りにくいと感じることは不自然なことでも不思議なことでもありません。ここには、12弟子自身が復活の知らせを受け取り損なったと言われています。主イエスの最も近くを歩んだ弟子たちですら、主イエスの復活を受け取れなかったのですから、ましてここにいる私たちが簡単に復活を受け止められないとしても、それは決して妙なことではありません。「主イエスが甦られた」という知らせ、教会が信じている福音は、これを聴く人にとってつまずきを覚えるようなところがあり、そういう福音なのだということを、今日はまず聞かされ、覚えたいと思います。
 そしてその上で、ルカによる福音書は、主イエスの復活の福音につまずきを覚えた人たちが、どのようにして主イエスの復活を受け入れるようになっていったのかを伝えようとして書いている、そんなところがある福音書なのです。

 例えば今日の箇所ですが、12弟子に先立って復活を信じた婦人の弟子たちがいます。けれども、この婦人の弟子たちも最初から信じることができたわけではなく、最初は大変戸惑っています。それがどのようにして信じるようになっていったのかということが、今日の箇所で語られていることです。また今日は12節までですが、先を読みますと、ペトロをはじめとする男性の弟子たちがどのようにして主イエスの復活を信じるようになっていったのかということが語られています。そこには二つの印象的な出来事が語られ、そして最後には、復活の主イエスが弟子たちを祝福され天に昇って行かれ、天に昇られた主イエスを伏し拝んで礼拝を捧げ大きな喜びに満たされている弟子たちの群れが生じたというところで話が結ばれていきます。つまり、ルカによる福音書の一番終わりは、「主イエスの復活を信じることができなかった弟子たちが、どのようにして信じるように変えられていったのか」が語られているのです。
 そしてそう思って、ルカによる福音書の書き始めはどうだったかを見ますと、ルカがテオフィロというローマ帝国で高い地位にいた人にこの福音書を献呈するという挨拶が書かれています。そして、1章4節でルカは「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」と言っています。テオフィロが受けていた教えとは何か、それは「主イエスが復活された」という福音です。つまりルカは、テオフィロに対して、すでに聞かされている「主イエスが十字架の死から復活された」という教えが間違いのない確かな教えであることをはっきり伝えようとして、この福音書を書き出しているのです。
 ですから、この福音書が「主イエスの復活が間違いのない確かなことなのだ」と示すことを目的に書かれているのだとすると、どのようにして人々が復活を信じるようにされたのか、そのことを聞きたいのです。

 今日の24章では男性の弟子たちに先立って女性の弟子たちが信じる者と変えられていったということが述べられています。婦人の弟子たちも、空の墓を見て最初から主イエスの復活を信じ喜んだということではありません。女性たちは、何とか主イエスの体に香料を塗って差し上げたいと思って主イエスが葬られたお墓へと向かいます。1節に「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とあり、香料を準備していますから、出かけた時点では当然、お墓には主イエスの亡骸があると思っていたのです。ただそこで問題だったのは、墓の前にある石をどうするかということでした。ところが、お墓の前に来ると大きな石は取りのけられていて、婦人の弟子たちは首尾よくお墓の中に入ることができました。
  そこまでは良いのですが、そこで、目指す主イエスの亡骸が見当たらないという出来事に遭遇しました。その時、婦人の弟子たちの様子はどうだったでしょうか。当惑しました。3節4節に「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」とあります。お墓が空だったために「途方に暮れている」と述べられています。ですから、「墓が空だった」という事実によって、すぐさま、「主イエスが復活した」という喜びに繋がるのではないのです。遺体がそこにあると思っている人にとって、お墓が空だったということは、その人を不安にさせる出来事です。喜びではなく戸惑いを起こします。女性たちは途方に暮れました。それが最初の出来事です。では、そのように途方に暮れていた女性たちが、どのようにして復活を信じるようにされていったのか、それがこの箇所に語られていることです。
 途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」と言われています。これは神から遣わされた天使たちを表わしています。そして、この天使たちが語ることによって、婦人たちは力づけられていくのです。天使たちは率直に語りました。5節「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか』」。「主イエスは復活して生きておられる」、イースターの出来事は、まさにこの天使たちの言葉の通りなのです。一方では主イエスが復活しておられるので、お墓は空です。しかしその一方で、婦人の弟子たちは復活を悟りませんでした。婦人の弟子たちが主イエスを深く愛していたことは確かです。彼女たちは墓の中に当然あるはずの主イエスのご遺体に香料を塗って差し上げたい、ぞんざいな仕方では葬りたくないと、真剣で真実な思いを持っていました。けれども、彼女たちはどうしようもなく、主イエスが死の中にあるという思いに捕らえられてしまっているのです。天使はその点に対して意義を唱えました。「主イエスは確かに十字架で死なれた。けれども復活して生きておられる。あなたたちは、なぜ、生きておられる方を死者だと決めてかかるのか」と語りかけ、そしてその上で、婦人の弟子たちが知らなくてはならないことを伝えました。6節「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。

 「主イエスは確かに十字架で死なれた。けれども復活して生きておられる」、教会が2000年の間ずっと信じてきたのは、この事柄です。どのようにしてこのことを信じるようになったのでしょうか。婦人の弟子たちが空のお墓を見つけて、自分たちで「主イエスは復活したのだろう」と思ったり考えたりしたということではありません。人間の理性を用いた推測によって「墓が空だから、復活した」と分かったわけではないのです。そうではなく、復活したことを語り聞かせているのは天使です。人間に語りかける天使の言葉は、神の言葉です。
 私たちは、イースターを「主イエスがご復活なさった。お祝いしよう」と言って教会に集まって来ています。毎年そうですから、イースターに主イエスのご復活について語られることは当たり前だと思っていますけれど、しかしどうして私たちに「復活」が分かるかというと、それは人間の理性で分かることではないのです。これは、ただ神の側が私たち人間に向かって「主イエスは復活なさったのだよ。だからお墓は空なのだ」と語ってくださっている言葉を聞き取り、信じることによって、分かるようになるのです。
 けれども、そうだとすると問題があります。私たちは毎日たくさんの言葉に囲まれて生活していますから、その中で、何が一体神の語りかける言葉で、何がそうではないのか、私たちに分かるのでしょうか。その点について、天使は続けて語ります。6節後半から7節「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。「人の子が言われたことを思い出しなさい」、つまり「主イエスが言われたことを思い出しなさい」と言っているのです。この言葉を聞いているのは主イエスとずっと一緒にいた弟子たちですから、主イエスが語っておられたことを聞いて来ました。「あなたたちが主イエスから聞いたことを、もう一度思い出してみなさい」と、主イエスの御言葉に注意を向けるようにと、天使は促しているのです。主イエスを通して語られていることは、間違いなく神の語ってくださった言葉だからです。そしてその中で特に繰り返し主イエスが語ってくださった言葉を、ここで天使自身も繰り返して聞かせています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そして今ここで起こっている「お墓が空だ」という出来事は、まさに主イエスがおっしゃった通り、「復活するということが起こったことによるのだ」と伝えているのです。
 神の御言葉を間違いなく私たちに伝えてくれるのは誰か。それは主イエスです。主イエスの直弟子たちは主イエスと一緒に過ごしていたので、主イエスの言葉を思い出しながら、「これが神さまが私たちに伝えてくださったことだ」と悟るようになっていったのです。

 では、私たちの場合はどうでしょうか。私たちは地上の生涯を歩まれた主イエスと出会ったことはないのですが、ではどうやって私たちは主イエスと出会っているのでしょうか。どうして「主イエス」という名を知るようになったのか、そこから考えてみてもよいと思います。どうしてイエス・キリストを知るようになったのか。私たちの上に霊感が働いて知るようになったのか。どうして私たちが主イエスを知り、教会に集まって来ているのか。それはとても単純なことで、誰かがその名前を教えてくれたということがあるからです。そしてそのことをずっと遡って辿って行くと、この新約聖書に行き着くことになります。
 天使は婦人の弟子たちに向かって、「主イエスがまだガリラヤにおられたころ、あなたたちにお話しになったことを思い出しなさい」と言いましたが、では私たちはどこを見て何を思い出すべきなのでしょうか。それはさしずめ、聖書の中に語られている一言一言に思いを向けるようにということになると思います。聖書の言葉に思いを向けるということは、聖書の言葉を単なる情報として受け取り、自分の中で考え、最終的に自分の理性で結論を導き出すということではありません。理性に基づいて考えるならば、死んだ人が甦ることを信じられるはずはありません。婦人の弟子たちが「主イエスは復活なさったらしい」と伝えたとき、男性の弟子たちは「それはたわ言だ」と言ったと語られています。どうして、たわ言だと思ったかと言うと、婦人の弟子たちの言葉を情報として処理したからです。人間の理性で考えれば、「主イエスの復活などあり得ない」という結論にしかなりません。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1章23節で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」と言っています。ユダヤ人がどうしてつまずくかと言うと、神の独り子が殺されるはずはないと思っているからです。異邦人というのは、この文脈の中では、理性と知恵を重んじるギリシャ人たちのことです。理性で物事を判断する人たちからすれば、十字架にかかった人が復活するなどと言うことは愚かなこと、あり得ない話でしかないのです。けれども24節「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」とパウロは言っています。
 教会は2000年の間、十字架につけられてお亡くなりになった主イエスが復活させられたのだ」と伝えています。婦人の弟子たちは、主イエスが地上におられたとき、「わたしは十字架につけられて死ぬけれど、三日後には甦る」とおっしゃった言葉は何かの譬え話だろうと思って聞いていただけで、本当起こることだとは思っていませんでしたから、空のお墓の前では復活を思わずただ悲しんでいました。けれども、天使が「ガリラヤにおられた時の主イエスの言葉を思い出してごらんなさい。おっしゃっていた通りのことが起こっているのだよ」と教えてもらったからこそ、「そうなのか」と確信するようになったのです。

 天使が語ってくれて思い出していくうちに、「そうだ」と気づくようになったのは、天使の語る一言一言の背後に、主イエスご自身がおられたからです。私たちは、聖書の言葉を聞くときに、情報として処理するのではなく、この言葉の背後で語っておられる主ご自身、神と出会わされるのです。理性的に考えると不思議なことです。なぜこの書物を通して神が出会ってくださるなどと言えるのか、理性で考えれば、そんなことを言うこと自体が愚かだということになります。教会がここで毎週礼拝を捧げ、聖書が読まれ、聖書の言葉を通して神に出会わされ、慰められ勇気づけられ力づけられ、自分は様々な問題を抱えているけれど、「ここで生きていて良いのだ」と思って生きるようになる。そんなことは、理性で考えれば、「あるはずない」と思うのです。けれども実際に教会は、聖書の言葉を通して語りかけてくださる神と交わりを持ち、実際にそこで生きている人たちが慰められ勇気づけられ、力づけられて、「本当にこれが真実だ」と信じてきたからこそ、2000年の間続いてきているのです。
 私たちは、聖書の言葉を聞くときに、この聖書の言葉の背後におられる主イエスと出会わされる。神が私たちに語りかけてくださっているその出来事を、まさに礼拝の中で経験させられるのです。「主イエスは復活して、今、私たちと共にいてくださる。ここにいるあなたと主イエスが共にいてくださる」、この言葉に私たちは励まされ、慰めを与えられ、そして、自分の人生をもう一度ここから、「主イエスが伴ってくださる者として生きてよいのだ」と信じて生きるようにされるのです。婦人の弟子たちは、そのようにして主イエスの復活を信じる者へと変えられて行きました。

 さて最後に、どうして主イエスは、復活されて後すぐにペトロのところへ行かれなかったのでしょうか。どうして婦人の弟子たちが先に出会わされているのでしょうか。このことを考えてみたいのです。
 今日では男性も女性も同じように扱われますが、当時は違いました。男性の言葉には一定の重みがあると認められていましたけれど、女性の言葉は重んじられませんでした。裁判でも二人または三人の証言によって判決が確定すると言われていましたが、その証人になることができたのは男性だけでした。女性の言葉は、何人いたとしても確かなこととして受け止めてはもらえなかった、そういう時代です。けれども、そうだからこそ、主イエスの復活の知らせは最初に女性にもたらされました。
 主イエスの復活の知らせは、何名かの女性の弟子たちを震源として周囲に伝わっていったことが、どの福音書にも語られています。それはどういうことを表しているかというと、話している人を信じるということではなく、聞かされた事柄を聞いた人が信じるかどうかに全てがかかってくるということなのです。社会的に信用のある立派な人が言っていることだから、その内容は分からないけれど信じようということは、私たちの社会にもあることです。けれども、そういうことではない。話している人がどうこうではなく、聞かされている事柄を聞いた人がそれを本当だと信じるかどうか、女性の弟子たちが最初に伝えてくれたということには、そういう意味があるのです。「主イエスは、かつてお語りになっていた通りに今ここで復活なさった。だからお墓は空になっている」、それは、「聖書の中で、主イエスがそうお語りになっていたでしょ。それを思い出しなさい。甦られた主イエスは、今、あなたと共に歩んでくださっていますよ。あなたはそれを信じますか?」と男性の弟子たちも聞かされ、そして私たちも聞かされているのです。

 主イエスはイースターの朝、確かに甦られました。この知らせは、確実でそのまま受け入れて良い知らせです。その知らせというのは、私たち自身が「それは本当にそうなのだ」と信じることによってしか、私たちの中に留まらない、そういう知らせなのです。誰か権威のある人がそう言っているからそうなのだろうと信じるのではありません。そういう仕方では、私たちの中に留まりません。「あなたはこの知らせを信じて受け取るのですか?」と、私たちはイースターのたびに、聖書からそのように聞かされます。そして教会は2000年の間、毎週毎週この知らせを聞かされながら、「本当にそうだ。主イエスはわたしと歩んでくださるのだ」と信じて歩んで来たのです。教会は「これは真に信じてよいことなのだ」と言い続け、立ち続けてきました。信じない人にとっては愚かなたわ言に聞こえることです。けれども信じる人にとっては、「主イエスは復活してわたしと共にいてくださる」という知らせこそが本当に嬉しい知らせであり、「神が主イエスに免じてわたしの罪を赦してくださった。主イエスの十字架と復活によって清くされた命を、あなたはここから生きて良い。そういう者として生かされているのだから、あなたのこの地上を歩んでいきなさい」と聞き取ることができるのです。

 福音を信じた人は2000年の間、自分の人生と命を「神から与えられ、今日を生きてよい命なのだ」と受け取り、喜んで生きてくることができました。そして私たちは、そういう教会の群れの歴史の一番新しいところにいるのです。私たちも今日、弟子たちと同じことを知らされています。「主イエスは確かに甦っておられる。だからお墓は空だ。あなたは様々な失敗をしているかもしれないし、そのことで本当に上手くいかないことも多くあるかもしれない。けれども、あなたは今日、主イエスの十字架を見上げ、本当に赦され、そこから生きてよいと言われている語りかけを聞いて、それを信じて生きてよいのだ」と呼びかけられています。
 私たちはこの朝、代々の聖徒たちと共にこの福音に耳を傾け、それを信じて生きる者とされたいと願います。

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