ただいま、マタイによる福音書27章の45節から56節までをご一緒にお聞きしました。45節に「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。主イエスが午後3時に、これは神殿で犠牲の子羊が屠られる時間なのですが、その時間に主イエスがお亡くなりになるに先立って、正午から深い暗闇の時が臨んだと述べられています。これは恐らく日食のようなことがあったのだろうと、ごく簡単に考える人たちもいないではありません。けれども、これは明らかに日食ではありません。日食であれば、3時間も暗黒の時間が続くことはあり得ませんし、そもそも過越の祭りの季節というのは、満月の夜に近い季節ですので、月の暦から考えてこの時に日食が起こるはずはないのです。日食は満月の時ではなく、新月の時に起こる現象だからです。
ここに語られている「暗闇が臨んだ」という出来事は、旧約聖書に述べられていた事柄が下敷きにあると考えることができます。アモス書8章9節です。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」。「その日が来ると」と言われている「その日」は、神による恐るべき裁きが地上に臨む、終わりの日のことを指しています。「神の裁きが全地に臨む時に、真昼に太陽は沈み、白昼に大地が闇となる」とアモス書は語ります。主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、世界の歴史は一度、最後の時を迎えました。そのことに気づいた人は、ほとんどいなかったかも知れません。けれども、この聖金曜日からイースターにかけて、間の土曜日は暗黒の土曜日、ブラックサタデーと言われますが、この三日間は、地上において神に裁きが行われ、古い一つの時が滅ぼされ、新しい命の初穂となる主イエスが復活して弟子たちの前に現れるまでの歴史全体が大きく揺すぶられ、更新されていく、そのような時でした。
今日、西暦の暦は、主イエスがお生まれになったクリスマスを境にして、紀元前、紀元後と歴史を分けていますが、マタイによる福音書は、まさにそれと同じような意味で、「主イエスが息を引き取られる」この時を境に大きな一つの断絶があったのだということを語っています。
神の怒りが地上に臨み、裁きが行われる。全てが滅んで過ぎ去り、一つの歴史が終わり、そして新しい命が与えられて新しい時が始められ今に至っている。そのことをマタイは「暗闇が臨んだ」という言い方で伝えようとしているのです。
全てが裁かれていく古い時代の終わりの時になって、この時まで十字架上で人間のなすがままにされ、嘲られ罵られても一言も口を開かず沈黙しておられた主イエスが、一声、非常にはっきりした言葉をおっしゃいました。46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と主イエスが叫ばれた時に、十字架のたもとで見張りをしていたローマの兵隊たちは、よもや十字架上で磔になっている囚人が口を開くとは思っていなかったようです。出し抜けに「エリ、エリ」と叫び始めた言葉を聞いて、兵隊たちは、これが旧約聖書の預言者エリヤに向かって「助けてくれ」と呼び求めている叫びなのだと勘違いしました。しかし、この時主イエスは確かに「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とおっしゃったのだと、マタイは語っています。
これは考えてみますと、まことに不思議なことです。十字架のたもとにいて、最も近く主イエスの言葉を耳にしていたはずの人たちが、主イエスの言葉を聞き取り損ねています。それに対して、群衆の中にいて遠くからこの言葉を聞いたはずの誰かが、主イエスの言葉をきちんと聞き取っているのです。神というお方は、ご自分が憐れもうと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なになさるお方だとローマ書に語られていますが、同じ主イエスの言葉を聞いても、その言葉をある人は「神さまがわたしのためにお語りくださった御言葉だ」と喜んで聞くこともありますし、その同じ言葉を別の人は「これは教会の中でいつでも語られる、言い古された陳腐な言葉だ」とだけ受け取って家路に着くこともあります。物理的にただ距離が近ければ、あるいは音声としてはっきり聞き取れる距離にいさえすれば、いつでも御言葉が御言葉として聞き取れるとは限らないようなのです。
この日、十字架のたもとにいたローマ兵たちには、主イエスがおっしゃった言葉が届かず響かず、理解できませんでした。しかし主イエスは間違いなく、この時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とおっしゃいました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とおっしゃいました。これは聞きようによっては、深く激しい絶望を言い表した言葉だと受け取ることもできます。主イエスご自身がこのような言葉を口に上らせておられる、そのことに強い衝撃を受ける人は昔から多くいます。また、「どうして主イエスはこのようなことをおっしゃったのだろうか」と頭を悩ます人たちも多くいます。そしてそういう人たちは、「主イエスはご生涯の終わりまで、ただ神さまに信頼して歩んでこられたけれど、遂に、十字架の上に至った時に、まさにここで神さまへの信頼を失ってしまったのではないか。神さまへの信頼がぐらついて、不安や絶望の言葉を口に上らせているのではないか。どうして主イエスともあろう方が、そんなことになったのか」と不思議がります。あるいは、もう少し主イエスに同情的な人たちは、「十字架刑とはそれほどまでに辛く厳しいものなのだ。血を流し力を失っていく中で主イエスは一時的に意識が混濁して、あらぬ言葉を口走ったのだ」と、人間的な肉体の弱さや精神の限界というようなところから、この言葉を説明しようとするのです。
しかし実は、主イエスがここでおっしゃっている言葉、これも旧約聖書の中である詩人が歌っている言葉です。旧約聖書の詩編22編2節です。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。詩編22編は旧約聖書全体の中でもとりわけ印象的な詩の一つです。この詩を書いた詩人は、すっかり敵に取り囲まれて万策尽きてしまった、そういう状況の中にあります。人間的にはどうやってここから状況が打開されていくのか、見当もつかない、しかしそういう中にあって、この詩人はなお神に叫びをあげる、それがこの詩です。どうやって自分が助かっていくのかは見当もつきませんが、しかしそれでも神がすべてを成し遂げ、すべてを成就してくださる、そのことを待ち望んでいる待望の歌です。22編の一番最後は「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう」となっていきます。
主イエスは、この詩編の詩をすべて語り終える前に命が尽きてしまいました。従って、主イエスの口に上ったのは、この詩編の最初のところだけです。けれども、主イエスご自身はこの詩の言葉を口になさった時に、当然、詩の全体を覚えながら語っておられるのです。
主イエスは今、十字架にかかっておられます。木にかけられ、およそ人間が経験するどん底の苦しみの底の底、一番深いところに下って行かれます。もはや神の威光も届かないと思えるほどの深い暗闇の中に、主イエスはその身を沈めておられます。人々から嘲られ罵られるだけでなく、神からも捨てられていくという真に辛い経験をしておられます。「木にかけられた者は神の厭う呪われた者だ」という言葉の通りに、主イエスは今、十字架にお架かりになっているのです。
十字架とはローマ帝国の処刑方法の一つですが、旧約聖書では「木にかけられる死」というのは、神抜きに生きてしまい、そのために神からも見捨てられ、遂に神抜きで死んで滅んで行かざるを得ない、そういう人間の裁かれた姿なのです。主イエスは、ご自身が今架かっておられる十字架が、そのような人間の罪に対する神の厳しい裁きの姿であることを承知しておられるのです。
ですから、主イエスが十字架上で、一見絶望の言葉と受け取れるような言葉を口に上らせていらっしゃるということは、私たちにとっては救いの言葉となります。主イエスがこれほどまでに深く低い暗闇にまで下って行かれる、この言葉を叫ばずにはいられないほど深いところを下っておられるということは、逆から言えば、神から捨てられて裁きを受けて滅んでしまわざるを得ない人間のところにまで、主イエスが下ってきてくださり、そして共にあろうとしてくださっているということだからです。
マタイによる福音書を振り返ってみますと、主イエスは公生涯にお入りになる時に、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、ご自身の働きをスタートさせました。洗礼の際に、ヨハネは主イエスの清らかさを見抜いて、自分が主イエスに洗礼を授けることを躊躇しました。「わたしの方こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか」とヨハネは言い、主イエスが洗礼をお受けになることを思いとどまらせようとしました。ヨハネにしてみれば、自分が主イエスに洗礼を授けることなど、あべこべのことだと思いました。ところが主イエスは、この時「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです」と言われました。主イエスがあの日、「正しいこと」とおっしゃったのは何でしょうか。それは主イエスが、私たち罪ある人間の只中にお立ちになり、私たちと同列の一人の人間として歩み始める、ということでした。
そして実は、そのことの直接の結果が、今日この十字架上で起こっている出来事なのです。主イエスはここで、二人の犯罪人と一緒に木にかけられ、神から捨てられた呪われた者の一人として死んで行かれます。しかしそれは、主イエスが罪ある者とどこまでも共にある者として、人間と同列に歩む者として、この地上のご生涯を歩み始めてくださり、終わりまでそういうお方として歩んでくださった、その結果生じていることなのです。
今晩聞いている箇所の直前のところには、十字架上の主イエスに向けられた激しい嘲り、罵りの言葉が何重にも記されています。たまたま通りがかった群衆が、主イエスのことを知っているわけでもないのに罵り嘲っている。そしてそれを隠れ蓑にしながら、祭司長たちや長老たちも主イエスへの憎悪を表しています。そしてまた、主イエスと同じように処刑され、今まさに死にゆく両脇の囚人たちも、主イエスを罵り嘲っていました。こういう嘲りや罵りは、神から捨てられ、もはや誰からも憐れんでもらえない、「呪われた死」を主イエスが今、経験しておられるということを表しています。
マタイによる福音書の始めのところ、1章23節には、クリスマスの記事の中で、「やがて生まれてくる幼子は、インマヌエルと唱えられるのだ」と語られています。「インマヌエル」というのは、「神さまが私たちと共におられる」という意味ですが、主イエスがインマヌエルだということについてもう少し詳しく説明しますと、神から捨てられ神の裁きを受けて、命の源から切り離された、そういう生活を歩むようになっている私たち人間にも神が伴い共にいてくださる、そういうお方として幼子が生まれる、それが「インマヌエル」と言い表されている事柄です。主イエスは今まさに、人と伴うお方、インマヌエルなお方としてこの地上においでになり、公生涯を歩み始められ、そしてその生涯の終わりに至るまで真実に「インマヌエル」という生き方を貫いてくださいます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは、正にインマヌエルなるお方だからこそ発せられた叫びです。そしてこれは、どこまでも深く人間たちを愛し、罪の滅びの淵の中に沈み込まないようにと、人間たちを尋ね求めてくださる主イエスの呻き声でもあるのです。
すべての人間が好き放題に主イエスを扱い、主イエスのお身体を十字架に磔にして省みない、嘲りの言葉をかけて何とも思わない、そういう状況の中で主イエスはひたすら押し黙って、そのような人間と共に歩んでくださいました。
けれども、正に人間の罪をすべて背負ってご自身が十字架上でお亡くなりになる時に、すべての罪が清算されるその時になって、主イエスは改めて、最後に皆に聞こえるように「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大きく叫んでくださっている、その叫び声を、私たちは今晩、覚えたいのです。
主イエスがこれほどまでに身を低くしてへりくだってくださっている。そうであるからには、私たち人間は、どんな者であっても、主イエスに伴っていただけない人間などというものは居なくなっているのです。どんなにひどく失敗をして、とても人並みには生きていけないと思える人間であっても、あるいはどんなに衰えて、自分はもう息をしているのがやっとで体が重くて仕方ない、もはや自分はこの地上を生きている人間の列の中に加わっている資格がないのではないかと思うほど弱っている人とも、主イエスは共にいてくださるのです。
主イエスは、どんな者とも共にあろうとして、深く低いところに下ってくださり、そこで神に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と呼びかけてくださっています。「主イエスの死は、私たち人間の罪を贖うためだった。救い主メシアとしての死であった」としばしば言われます。それは、このお方がどこまでも身を低くして私たちを尋ね求めてくださり、そしてこのお方が出会ってくださったからです。主イエスの死は贖いの死であり、救い主の死なのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という主イエスの叫びは、このお方がどこまでも、私たち一人ひとりを探し求め、尋ね出そうとしくださっている御言葉です。主イエスは私たちの代わりに、この言葉を呻きつつ、私たちを尋ね求めてくださるのです。
こういうことが知られてきますと、この受難週に私たちが何を覚えるべきかということも分かってくるのではないでしょうか。受難週には、もちろん、十字架の主の御受難を覚えるのだと言われていますが、それは主イエスの痛みや苦しみを思って私たちが同情するということではありません。同情するのではなくて、主イエスの方がどこまでも私たちを求めてへりくだってきてくださっている、そのことを感謝し、そしてその招きに応じて新たに歩み出す、そのような志を持つことこそ、受難週に私たちが考えるべきことではないでしょうか。
主イエスが十字架上で苦しまれた苦しみというのは、私たちが苦しまなければならない、私たちが滅ぼされなければならない、その苦しみ滅びを、身代わりとして主イエスご自身が受け止めてくださった、その苦しみです。「主イエスが私たちのために十字架に架かってくださった。それはまさにわたしのためだった」と聖書から聞かされますと、「それはあまりにも畏れ多いことだ」と思う方がおられるかもしれません。「こんな汚れたわたしたちのために苦しまなくてもいいのに。もったいないことです、主イエスさま」とお感じになる方もいるかもしれません。けれども、いくら私たちが恐れ多くもったいないと思ったとしても、十字架の出来事自体は、もう既に歴史の中で確かに起こってしまっているのです。もったいないから止めてくださいと言っても、もはや取り消すことはできません。主イエスがゴルゴタの丘に立てられた十字架にお架かりになった事実は、もはや取り消せないのです。
ですから、私たちとすれば、畏れ入ったりもったいながったりするのではなく、むしろ、主イエスがそうしてくださったのは何のためだったのかということを深く受け止め考えるべきだろうと思います。そしてそれは、私たちが十字架の上を見上げて、「主によって、わたしは新しくされているのだ。新しくここから生きてよいと言われている」、このことを受け止めて、さらに今与えられている命を生きるためです。
受難週のこの時、苦しんでいる主イエスに同情するのではなく、むしろどこまでもわたしを主イエスが尋ね求めてくださっている。そして新しい命をここから生きるようにと招いてくださっている。その招きの声をしっかり聞き取り、その御声に聞きつつ歩む、その決意を新たにされたいのです。
「インマヌエル。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と呼びかけてくださる主イエスがおられます。この主の御言葉を聞きつつ、信仰によって新しくされた者として、ここから歩み出したいと願います。 |