聖書のみことば
2019年4月
  4月7日 4月14日 4月19日 4月21日 4月28日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

4月7日主日礼拝音声

 命を贖うもの
2019年4月第1主日礼拝 4月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第27章1〜10節

<1節>夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。<2節>そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。 <3節>そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、<4節>「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。<5節>そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。<6節>祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、<7節>相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。<8節>このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。<9節>こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。<10節>主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」

 ただ今、マタイによる福音書27章1節から10節までをご一緒にお聞きしました。ここでは、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダの死の出来事が述べられています。5節に「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」とあります。本当に悲惨なユダの末路です。このように辛い惨めな亡くなり方をしたユダという弟子は、他の11人の弟子たちと一体どこが違っていたのでしょうか。イスカリオテのユダという名前を聞くと、裏切り者の代名詞のように感じるかもしれません。けれども、先に結論を申しますが、主イエスの12人の直弟子と言われる人たちは、全員がそれぞれの仕方で主イエスを裏切り見捨てています。主イエスを裏切っているのはユダ一人ではないのです。

 しかしそれでも、「ユダ以外の弟子たちの裏切りは、主イエスが突然捕り方に囲まれるという思いがけない場面に出会ったため、つい逃げてしまい、結果的にそうなったのであって同情の余地がある。けれどもユダだけは初めから彼自身の思いで、いわば計画的に主イエスを敵の手に売り渡したのだから、その罪は明らかに他の弟子たちよりも重い」と考える方がおられるかもしれません。確かにその通りです。イスカリオテのユダは、彼自身の企てによって敵を手引きしました。その逮捕の出来事から始まって、主イエスは、人間的に言えば暗い将来へと向かっていくのです。大変不公平な裁判が開かれ、本当は死に値することは何もなさらなかったにも拘らず、主イエスは死刑を宣告され十字架に磔にされて亡くなっていきます。そういう結論を考えると、イスカリオテのユダがしでかしてしまったことは、本当に深刻な結論を招いたのです。ユダのしたことの結果、重大な出来事が生じたことを思う時に、確かにユダの罪は見過ごしにできないだろうと思います。
 けれども、ユダが犯した過ちについて確認しておかなければならないことがあります。それは、敵を手引きして主イエスを捕えさせたその時に、ユダ自身は、その後このような結末を迎えるということを予想していたかどうかということです。仮に、やがて主イエスが十字架に架けられて殺されてしまうだろうと、ユダが予想した上で裏切っていたのだとすれば、そこには非常な悪意があったと言えると思います。しかし、悪意は全く無かったとは言えないでしょうが、一般的に考えられているように非常に底意地悪く主イエスを裏切ったのかというと、そうでもないだろうと思います。そのことは、3節でユダが裁判の成り行きを知って大いに動揺し後悔している姿の中に表れています。もしユダが初めから主イエスの処刑を予想して、承知の上で敵の手に渡したのであれば、主イエスの有罪判決を聞いても後悔などしなかったでしょう。3節「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し」とあります。ユダは自分のしたことが取り返しのつかない結果となろうとしているのを知って後悔しているのです。そして、「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとした」とも言われています。自分が主イエスの身代金として手にした銀貨30枚を返そうとしているということは、確かにユダは敵の手引きをしましたが、しかしユダ自身の思いとしては、「一旦は捕らえられるけれど、嫌疑不十分で釈放されるに違いない」と思っていたことになります。捕らわれても釈放されると思っていたのに、そうならず、有罪判決が下ってしまった、このままでは処刑されてしまう、そう思ったからこそユダは、慌てて銀貨30枚を持って大祭司や長老たちを訪ねているのです。裏を返せば、こんな結論になるとは、ユダは全く思っていなかったということです。
 ペトロ他11人の弟子たちにとっては、主イエスを突然捕り方が取り囲むということ自体が思いがけない出来事でした。ユダにとっては、捕り方が来ることは分かっていましたが、しかし、有罪判決が下されることは予想外だったのです。ユダはもっと安易に考えていました。主イエスは何も悪いことをなさっていないのだから、どんなに裁判をしても有罪判決を受けるはずはない。ですから、捕らえられても釈放されると、ユダは安直に考えていました。

 そういう安易さを持っていたのであれば、そのユダの安易さは非難されることですが、しかしこのユダの失敗も、ほんの出来心程度のことだったと言えなくはないのでしょうか。3節にありますようなユダが後悔する姿は、もしかすると、このマタイによる福音書の中では、今日の箇所の一つ前の箇所、主イエスを三度知らないと言ってしまって最後に大泣きしている弟子のペトロの後悔する姿と並べるようにして記されているのかもしれません。ペトロの後悔とユダの後悔が並んでいますが、比べて読みますと、ペトロよりユダの方が、人間的には率直で素直だと言えるかもしれません。
 主イエスに有罪判決が下ったのを知って、ユダは、手に入れた銀貨30枚を持って祭司長たちや長老のもとを訪れて、自分の過ちを正々堂々と告白しています。4節でユダは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言っています。原文で読むと、ここはもっとはっきりしています。ユダは明らかに自分の非を認めています。「罪を犯しました」とまず言い、「罪のない人の血を売り渡したことで」と言っています。ユダは非常に安易に出来心で「銀貨30枚を手にできるなら」と主イエスの身柄を売り渡しました。けれども、自分の見込み違いがあったことに気づくと、直ちに「失敗だった。自分は罪を犯してしまった」と本当に率直に、ユダは祭司長たちに告白しているのです。
 では、同じように後悔しているペトロはどうでしょうか。ユダの裏切りによって主イエスが捕らえられてしまう、そして散々な辱めを受けておられるのを見ていながら、しかし、自分は主イエスの弟子だと名乗り出ることはできませんでした。最後までペトロは、「あの人のことは知らない」と言い張ってしまいます。そしてそのことのために、鶏が鳴いた時に、主イエスを知らないと言ってしまった自分に深く失望して嘆き悲しんでいるのです。祭司長たちや長老の前に進み出て、「わたしは失敗して、罪を犯しました。あの方は何も悪いことをしていない。あの方はわたしの先生です」と名乗り出る勇気の点では、イスカリオテのユダの方が、遥かに勝ってペトロよりも上だと言えるように思います。
 ところが結果的には、ユダは首をつって滅んでいってしまいます。一方ペトロは、失敗をしたけれど救われて、原始教会の土台を担う一人となっていきます。ユダとペトロの違いは一体どこにあるのでしょうか。先週の礼拝でも言いましたが、マタイによる福音書では、ペトロの否認の記事の扱いが他の福音書と違っています。マルコ、ルカ、ヨハネではいずれも、復活した主イエスがペトロを案じて出会ってくださって、出会いの中でペトロは自分の罪を言い表し、悔いる気持ちを言い表して、ペトロの改心からペトロの回復という記事が語られています。けれどもマタイによる福音書だけには、それがありません。ペトロの否認の記事は、自分の裏切りを知って深く悲しみ嘆いているところで終わっています。

 マタイによる福音書には、ペトロが罪を言い表し立ち直っていく姿は出てこないのですが、ではどうして語られないのでしょうか。それは、マタイによる福音書が人間の行いより神のなさりようの方に、より重心をおいて語っているからだと思います。「インマヌエル、神共にいます」というところから始まって、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。だから、あなたたちはわたしが教えた通り、すべての人を弟子にして、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」というところで終わっています。マタイによる福音書は、「罪を犯し破れ果てている人間と、神が共におられるのだ」ということを、ずっと言い続けている福音書なのです。そこでは、人間が神に従って行こうとする改心とか服従する姿が描かれるのではなく、どんなに欠けや破れを多く持っていても、過去を振り返れば到底神の民の一人などとは言えないような者であっても、そういう者に神の方から歩み寄ってきてくださり、「わたしに従って来なさい。そして、すべての人をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたたちに教えておいたことをすべて守るように教えなさい」、そういう神の招きがあるということに重きが置かれているのです。
 そのような神の招きのもとにある出来事として、ペトロの失敗の出来事があったと、この福音書は語っています。主イエスを3度も知らないと言ってしまった、そうしてしまった事の落とし前をペトロが後で着ける、そういう記事は出て来ないのです。そういうことよりも、今からのあり方を示します。主イエスが「わたしを知らないと言ったあなただけれど、そのあなたとわたしは一緒にいるよ」と招いてくださった、その招きを信じて従順に生きていくかどうかということが、マタイによる福音書では大きな問題となるのです。
 私たちは、過去を変えることはできません。どんなに残念な過去であっても、自分として悔いている過去であっても、私たちの人生は過去のその時に戻ってやり直すことはできないのです。過去の失敗は確かにある、けれども、ペトロはなお「わたしはあなたと共にいる」と言ってくださる主イエスの言葉を聞きながら新しくやり直すことができたのです。「問題なのは、今、あなたが従って来るかどうかだ」と、マタイによる福音書は語っています。誰であっても、「わたしはあなたと共にいる。だからわたしに従って来なさい。あなたはやり直せる」と呼びかけられる、そこにマタイによる福音書の福音があります。

 では、どうしてそのように激しい失敗をした人でも新しい将来が開けるのかと言うと、それは「主イエスがすべての人の身代わりとなって十字架にかかってくださっている」からです。主イエスが十字架上で、すべての人の過ち、罪を清算してくださっている。「わたしがあなたの罪をこの十字架で清算したのだから、あなたはわたしに従って来なさい」という主イエスの御言葉が、この福音書を貫いているのです。ペトロは、そういう主イエスの御言葉を聞かされ、信じて生き直す人として語られているのです。

 一方、イスカリオテのユダですが、ユダが自分が明らかな過ちを犯したと認める潔さでは、ペトロより勝っていたと言えるかもしれません。ペトロよりずっと勇気を持って、何とかしてその失敗の帳尻を合わせようとして祭司長たちのところへ行って過ちを認めるのです。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言ったユダの勇気は見上げたものだと思います。この率直さは、ユダの良い点なのだろうと思います。ただ惜しむらくは、ユダは、その罪や悔いを言い表す相手を間違えているのです。ユダは、自分の過ちはどこにあるのかを、あくまでも祭司長たちと自分の間にあると考えました。神の前に自分が罪を犯した者だというのではない。祭司長たちに向かって、「銀貨30枚をもらったのは間違いでした」と言っています。
 そう言った時に、ユダが期待していることは何かというと、ユダの反省と悔いの念を相手も認めてくれて、「確かにあれは間違ったことだった。だからこれはもとに戻して無かったことにしよう」と言ってくれることを期待しているのです。ユダはただ自分で自分を責めているだけではありません。相手もこの過ちを認めてくれて、自分に同意してくれることを期待しているのですが、ところが、祭司長たちや長老は、ユダが正しいことを言っているにも拘らず、それを認めようとはせず、逃げるのです。ユダと祭司長たちは共犯関係にあるのですが、共犯者であることを認めないで否定します。4節「しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った」とあります。
 道理を考えれば分かることですが、もちろんこれは、ユダ一人だけの問題であるはずはありません。ユダが手にしている銀貨30枚は、ユダに手渡してユダに裏切りを働かせようとする黒幕がいて、それに乗せられたからこそユダは持っているのです。ですから、「お前の問題だ」というのは偽りの言葉です。確かにユダの問題ですが、同時に、銀貨を手渡した祭司長たちの問題でもあるはずなのです。ところが彼らはそれを認めず言い逃れてしまいます。
 実は、「お前の問題だ」という言葉は、この先でもう一度出てきます。27章24節で、今度は、総督ピラトが祭司長たちや長老たちや扇動されたユダヤ人に対して全く同じ言葉を口にしています。「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」。ピラトは目の前の群衆に向かって「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言い放ちました。お前とお前たち、単数と複数の違いはありますが、言っていることは全く同じです。そして、ユダに対して祭司長たちが語った言葉が嘘であれば、ピラトが目の前の群衆に語っている言葉も嘘です。もしピラトがこれを自分の問題として扱わないのであれば、主イエスが十字架にかかる筈はないのです。十字架刑はローマ帝国の処刑法ですから、ローマ総督であるピラトが「死刑」という判決を出すのでなければ、ゴルゴタの丘に十字架が立つ筈はありません。どんなにユダヤの祭司長たちや群衆が「殺せ」と叫んでも、ピラトがはっきりと「この人には罪がない」と言っていれば、十字架は立たない。「この人の血について、わたしには責任がない」というのは全くの嘘です。ピラトは主イエスの十字架について、明らかに責任があるのです。ところがピラトは、その責任を「お前たちの問題だ」と、目の前のユダヤ人たちになすりつけました。
 こういう姿というのは、古くから人間につきまとっている姿なのです。罪の姿とはこういうものだということが、聖書の初めに語られています。創世記に出てくる、最初の人アダムとエバは、神から「取って食べてはいけない」と言われていた善悪の知識の木から実を取って食べました。神から「何ということをしたのだ」とその理由を追及された時、アダムは何と答えたかというと、自分の責任ではなくエバのせいにしました。またエバも自分の責任ではなく、蛇が騙したのだと言いました。アダムは言いました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。「エバ」と名前すら呼びません。神に向かって「あなたが悪いのです。あなたがあんな女とわたしを一緒にしたので、つい食べてしまいました。わたしは悪くないのです」と言っています。エバも同じです。
 実は、イスカリオテのユダが「自分は罪を犯しました」とはっきり言おうとしても誰も受け止めてくれなかったのは、目の前の祭司長たちや長老たちが特別に酷い人間だからなのではありません。人間というのは、皆、そういうところを持っているのだと聖書は語っています。ユダの悲劇は人間に期待し過ぎたところにあります。自分が「あれは間違いだった」と言えば、自分に向き合っている相手の人たちも、同じようにその過ちに気づいて謝罪を受け入れてくれるに違いない。そして間違いを正し、一緒に良い方向に向かってくれるに違いないと期待したのです。ところが人間というものは、アダムとエバの時代から自分の過ちを認めたがらないところがあるのです。イスカリオテのユダは、結局、そういう罪をどうしようもなく自分が抱え、「お前の問題だ」と言われて破滅へと向かってしまうのです。「自分は確かに罪を犯した。そこから逃れようはない」と思い、首をつって死んでしまったと聖書は語っています。

 ユダは、人間の間で罪のたらい回しをし誰に責任があるのかを求め何とか良くしようとしても出口がない、そういう惨めな人間の姿に対して、「神がなさろうとしている御業がある」ことを忘れています。神は、そのような人間の罪の身代わりとして主イエスをお送りくださり、主イエスは罪人の身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。ユダが本当に残念だったのは、主イエスが側近くに歩んでくださったのに、主イエス・キリストというお方を遂には見上げることなく、自分で全て人生の責任を取らなければならないと思って生きてしまったところにあります。「自分は本当に惨めな失敗を重ねてきた者だけれど、この方がわたしの罪を引き受けて、わたしのためにも十字架にお架かりになり死んでくださった。だからわたしは罪赦されて、もう一度生きてよいのだ」という始まりを、ユダは遂に見いだすことができませんでした。

 マタイはここで、ペトロとユダの姿を並べて赤裸々に書き表すことを通して、私たちに教訓を語っていると言ってよいと思います。神が主イエス・キリストを通して私たちに語りかけてくださっています。
 マタイによる福音書は、最初から終わりまでずっと、「わたしはあなたと共にいる。あなたと共に生きよう。だからあなたは、わたしとの交わりのある者として生きなさい。どんな失敗をしたとしても、どうしようもない過ちを犯しているとしても、それでもあなたは、わたしを信じてもう一度、そこから生き直してよい。生きていきなさい」という主イエスの招きを語っています。この語りかけに耳を貸そうとしないで、あくまでも神の憐れみや恵みを度返しして、人間の力、人間にだけ期待して生きていこうとする人は、人間の惨めさに裏切られ、大変惨めな滅びに至ってしまうという教訓が、ここには語られているのです。

 そういう惨めな歩みをしてしまいがちな私たちに、主イエスが呼びかけてくださっているということを、今朝、私たちはもう一度覚えたいと思います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だからあなたは、すべての人をわたしの弟子として招くような生き方をしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、そしてあなたがたに教えておいたことを守って生きるようにと人々に伝える、そういう生き方をしなさい」と、主イエスは私たちを招いてくださっています。
 主イエスが共に歩んでくださるから、私たちは、今日の生活に力を与えられ、たゆみなく進んでいくことが許されています。そのことを感謝して、御言葉を慕い求めつつ歩む者とされたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ