2019年4月 |
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4月7日 | 4月14日 | 4月19日 | 4月21日 | 4月28日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神の約束が実現する | 2019年棕櫚の主日礼拝 4月14日 |
宍戸尚子牧師(文責/聴者) |
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聖書/コリントの信徒への手紙二 第1章15〜22節 | |
<15節>このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。<16節>そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。<17節>このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。<18節>神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。<19節>わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。<20節>神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。<21節>わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。<22節>神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。 |
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ただいま、コリントの信徒への手紙二第1章15節から22節をご一緒にお聞きしました。15節に「このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました」とあります。パウロが「コリント教会を訪問する計画を立てた」と語り出しています。 「コリント教会を訪問して神さまの恵みに与りたい。救いの御言葉を聞いて、十字架のイエス・キリストの贖いの御業を共に賛美したい」そういう思いで計画を立てたわけですが、そのことについて、コリント教会から苦情が出されたのではないかと考えられています。16節にあるように、「まずコリントに行き、そしてマケドニア州に赴き、再びコリントに戻ってユダヤへ向かう計画」でしたが、何らかの事情でそれが不可能になったのではないかと言われています。詳しい事情は分かりませんが、コリント教会の人たちからしますと、パウロが二枚舌を使う、つまり「来ると言いながら、来ない。信用ならない」、そういう不信感を抱く状況になっていたようです。そして、教会のそのような状況を、パウロは何らかの仕方で知ることになったのです。16節には「そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした」というパウロの思いが記されています。 けれどもパウロの場合は、心の定まらない私たちの様子とは少し違って、自分の決心がつかずにコリント訪問ができなかったということではなかったようです。止むを得ずという事情があった、その中で、「イエスとノーがはっきりしていない」という批判を受けました。そこで、ムキになって言い訳をしようとは考えていませんし、また「そんな誤解を受けるなら、もう関わらない」と、教会を切り捨てるようなこともしませんでした。 そして、19節になりますと、パウロたちが伝えたのは、「神の子イエス・キリストに他ならない」と語られます。「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」。「この方においては、いつも『然り、イエス』となっている」、このことは、キリストの救いの出来事を表しています。「この方がおいでになったからには、『然り』が実現した。今も後もこの『然り』は揺らぐことがない」ということです。「キリストが父なる神のもとから遣わされ、地上を生き、十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、今も聖霊を送ってくださり、私たちと共にいてくださる。このことに神の人間に対する最大の『然り』、神の救いが実現した出来事が表されている」と、パウロは救いの話をしていきます。確かに私たちが聖書を通して聴いていることは、「神の救いが御子イエス・キリストにおいて実現した」ということです。「あなたは神さまと離れていたけれど、今や御子の贖いによって救われ、新しい命をいただいて、生きている時も死の後も神さまの保護の中にいる。神さまの『然り』の中にいる」ということです。 2000年前のベツレヘムで家畜小屋に誕生した御子が神のもとから地上へと遣わされてきたクリスマスの出来事は、その事実が起こったという時点で神の救い、神の恵みが世界全体をすっぽりと包んでしまったようなものです。クリスマスのあの日以来、私たちは、神がこの世界に「然り」を語ってくださったということを知らされています。そして、私たち一人一人の取るに足りない小さな人生もまた、キリストの救いの出来事を通して「然り」の印が付けられているのです。『それでも人生にイエスという』という書物がありますが、人生の困難な時、暗闇の中を行く時、どこにも神の恵みが働いていて、神はキリストによる救いをもたらしてくださっています。イエス・キリストがおいでくださったからには、もはや解決できない闇はないし、私たちは決して見捨てられることはない、神の約束がことごとくイエス・キリストにおいて実現したからです。私たち人間の事情がどのようなものであっても「神さまの然りが実現している」、このことを知る人は、神のご計画の深さ、憐れみ深さに、ただ神を讃える他ない思いにさせられる。それで20節後半には、「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」とあります。 さて、パウロは、このようなキリスト者のことを21節22節で表しました。自分たちと教会の人たちは、キリストに結びつく者とされた、その恵みを語っていきます。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」。「キリストに固く結び付けた」とは、キリストの弟子としてくださったということです。「私たちは、キリストに結ばれて、その弟子とされた。そうしてくださったのは神である」と、パウロは話を進めます。キリストの弟子とされた、その上で、キリストに結ばれた者がどのような恵みを受けるかということを語っていきます。 21節22節で、2つめにパウロが語るのは、「証印を押していただいた」ということです。「この人たちはわたしのものだ」と、神が判を押してくださっているということです。私たち自身は迷いやすく、疑いやすく、自分が何者であるのか分からなくなるような不安定さや弱さを持っていますが、自分で自分を保つことができずに揺らいでいる私たち自身をよく見てみると、そこに、神の証印、判が押してあって、「この人はわたしのものだ」と神が証明してくださっているのです。私たちは、自分の罪の姿に目を留めて、そこで終わってしまうことがありますが、「よく見るように、聖書から聴くように」と促されています。「私たちの罪は、既に、イエス・キリストの十字架によって覆われて赦されており、それゆえに『この人たちはわたしの保護のもとにいる者だ』と、神の側の判が押されている」ということを、よく聴くようにということです。 さらにパウロは、神の証印が押されている保証として、私たちには「霊が与えられている」と語っています。神が私たちに聖霊を授けてくださる、それが三つ目のことです。私たちの心に聖霊が与えられていることは、主イエスご自身も、十字架におかかりになる前に約束され、「父がわたしの名によって、聖霊をお遣わしになる。この方が永遠に、あなたがたと一緒にいてくださる。だから、あなたがたは孤児にはならない」とおっしゃってくださいました。私たちは聖霊をいただいて、ますます主なる神を信じる者とされ、一人ではないこと、神が永遠に共にいてくださる、そういう恵みの中に入れられました。パウロはこのことも教会の人たちに伝えて、共に喜ぼうとしています。 初めは、コリント教会への訪問の計画についての話で、教会の人たちから非難されたパウロでしたが、神に「然り」が語られていること、キリストによって神がすべてのものに「然り」を与えてくださったということを語ってきました。そして、今日の箇所の最後の21節22節では、キリスト者、キリストの弟子の姿を描き出して、教会の人たちがどんなに恵み深い神のもとにあるかということを伝えようとしています。 |
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