今朝、私たちはテサロニケの信徒への手紙一の最後の箇所に共に聴きました。今日の箇所の直前まで、パウロはテサロニケの人たちに「主が再び来られる日」の希望について語りました。テサロニケの信徒たちは、「主の日の希望」によって励まし合い、共に教会を建て上げて行くように言われます。そして、本日共に聴いた聖書箇所から「教会生活で信仰者はどうふるまうのか」という話が始まります。
「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい」。12節から13節にそう記されます。当時のテサロニケの教会は、まだ出来たばかりの若い教会でした。しかも、最初に指導したパウロたちは早い時期にテサロニケを離れざるを得ませんでした。当時の教会には、今の私たちが教会の指導者として思い浮かべる牧師、役員会のような組織はまだ整えられていなかったかもしれませんが「日夜、教会の人たちのことに心を砕いて労苦している指導者たち」が居たに違いありません。
そのように労苦する人たちを重んじ、心から尊敬しなさい。「互いに平和に過ごしなさい」と13節の最後に記されます。教会の指導者たちを重んじ、心から尊敬する気持ちがなくなると「教会から平和が失われて行く」。ここでは、そのようなことが、言われているように思います。
続く14節から話がさらに信徒全員へのお勧めに広がります。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい」と記されます。ここでは、教会員どうしの事柄が言われております。主の日が近いという事で熱に浮かされ、浮き足だっている者がいたかもしれません。まわりの異教の神々を崇める多数派の人たちからの迫害で、弱気になる人もいたでしょう。信仰がぐらつく人も出てくるでしょう。この手紙の3章5節には誘惑する者に惑わされて、動揺するテサロニケの人たちの姿も記されておりました。こうした事柄について、指導者たちだけに任せず、あなたがた全てがそれぞれに、互いに戒め合い、励まし合い、助け合いなさい。パウロはそう言います。
しかも、こうした「問題を抱える人たち」に関わる時に「全ての人に対して忍耐強く接しなさい」と14節の最後に勧められます。さらに15節でお勧めのハードルが高くされます。「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、全ての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい」と記されているからです。「教会の外の人たちに対しても、いつも善を行うように」と言われるのです。
ここまで、5章12節から15節に記されたことの背景に、何かテサロニケの教会に具体的な問題が起きていたのかどうか、私たちにはわかりません。後にパウロが記すコリントの信徒への手紙では、教会の中で「私はパウロにつく」「わたしはアポロに」と教会員が言い合うような状況が読み取れます。これに対して、このテサロニケの信徒への手紙からは、教会の指導者をめぐる問題、教会員相互の深刻な対立は、大きくは聴こえてきません。しかし、パウロはこの手紙の結びの部分で、これから教会を建て上げて行く中で生じてくる問題を見据えているのかもしれません。テサロニケの人たちの行く末を本当に心配して、気にかけている。今まで述べた事に加えて是非触れなければならない問題に、手紙の最後に筆を進めているのではないでしょうか。ここで言われているのは、手紙の末尾のたんなる補足事項ではないと思うのです。
「教会の指導者として労苦する。心を砕く」とは、どういうことでしょうか。パウロ自身、テサロニケで伝道をした時に、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えるために労苦したことが2章9節以下に記されておりました。お金を目当てに口あたりの良いことを言う説教者たちと、福音のみを語る自分たちは違うのだということを、パウロは強調しなければなりませんでした。パウロには、自分の後継者となる指導者たちが直面する労苦が、遠く離れていても「目に見える」ようにわかったに違いありません。
そして、異教の地で信仰を貫く一人一人の教会員が、圧力や誘惑で動揺させられることも既にテサロニケの教会が経験したことでした。今後も教会員どうし励まし合い、助け合わなければ、教会が立っていけなくなることを、パウロは既に見据えていたのでしょう。だから、この手紙の結びの部分で、「教会の指導者たちを心から尊敬し、教会員どうしが戒め合い、励まし合い、助け合うことの大事さ」からパウロは語り始めました。
しかし、既に「忍耐強く接しなさい」「悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」と記されましたように、「怠けている者」「気落ちしている者」「弱い者」に対する時に、私たち人間は「悪を持って悪に報いるような」行動に出る時がある。行動は自制出来ても、気持ちの中ではそのような気持ちで接してしまうところがあるのではないでしょうか?逆に、私たちが教会の他の人からの戒められるときに、平和な気持ちでそれを受け容れることが出来るでしょうか? ましてや、教会の外の全ての人に対しても、例えば教会の外から迫害してくる人たちに対しても「善を行う」「悪を持って悪に報いることのないようにしなさい」などと言われると、これは理想論に過ぎないと思わされるのではないでしょうか?
そして、指導者を心から愛をもって尊敬することも、時に難しくなります。先ほどコリント教会の中で誰を指導者として仰ぐかで内部対立があったということに触れましたが、そのようなことは言うまでもなく、いつの時代の教会にもあることです。だから、教会において「互いに平和に過ごしなさい」という言葉は重い言葉で、当たり前の状況ではありません。
では、パウロは手紙の総括の部分で理想論を述べて、テサロニケの人たちに「指導者を敬い、お互いに助け合って、しっかりやって行くように」というエールを送っているだけなのでしょうか?本当に指導者を心から尊敬し、そして互いに戒め合い、励まし合って行く困難さを知っている私たちは、この箇所を真剣に受け取ろうとすると、少し重苦しい気持ちになる時があります。私たちは、この課題を目の前にして、どのように教会の中でふるまうのでしょうか?どのようにして、信仰者として外の社会に対して安心して出て行くことが出来るのでしょうか?信仰を与えられ、教会生活を送るということは、信仰を与えられなければ負わなくても良かった重荷を背負うだけなのでしょうか?長く教会生活を送って行きますと、教会のことで重荷を背負うことがあると思います。そんな時に私たちは「そんなに辛いのに何で教会に行くの?」と言われるのではないでしょうか?同胞からの迫害にさらされながら、苦難の道を歩んでいたテサロニケの人たちにもそのような外からの声が、あるいは心の中からの誘惑の声があったのではないでしょうか。「教会にとどまるから『苦しい』のではないだろうか?」という誘惑が、信仰者の心の内からも、教会外の世界からも聴こえてくる時があります。
続く5章の16節から18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と記されます。これは、本当に答えになっているのでしょうか?「苦しい。辛い」とつぶやいている時、私たちは喜んでいません。喜んでいない人に向かって「いつも喜んでいなさい」というのは、普通の意味では答えになっていないでしょう。この世的な知恵が私たちに言うことは、苦痛があればその原因を取り除くという対処策です。この考え方を突き詰めて行けば、信仰が苦しみを伴うものならば、捨ててしまえば良い。教会が重荷を伴うなら、行かなければ良いというところまで行くのです。
しかしここには「いつも喜んでいなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」と記されています。まず何より先に神さまが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい」と私たちに求めておられる。それがキリスト・イエスにおいて私たちに示された神さまの御心だと言うのです。
それは、どういう事でしょうか?ここで私たちはこの手紙の5章9節から10節に立ち戻ってみたいと思うのです。5章前半は「主の日」について、盗人が夜来るように突然に破滅が襲うと記します。しかし、信仰によってキリストと結ばれた者は「光の子」「昼の子」とされているから、主の日が夜の盗人のように突然襲う事は無い。信仰者にとって「主の日」は希望の日であると言います。何故、主の日が希望の日なのか?その根拠が記されたのが、5章9~10節でした。お読みします。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです。主は、私たちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。
神さまはイエスさまによって私たちをお救いになることを定められたので、イエスさまは「私たちのために」死なれた。それは私たちが目覚めている時も眠っている時も「主と共に生きるようになるため」であったと記されます。目覚めている時も眠っている時も「主が共にいてくださる」。これが私たちの救いとなる。そこに安心がある。「主と共に生きる」ことによって、神さまとの間にどんな時にも揺るがない平安が与えられます。苦難の中では「主と共に生きる」ことの恵みはいっそう満ち溢れます。そのことをパウロは知っておりました。パウロはその喜びに突き動かされて伝道しました。「主と共にある」ことを感謝して、どんな状況でも絶えず祈りました。パウロたちは「苦しみの中で主がなお共にいてくださる」ので「いつも喜んでいました。絶えず祈りました。どんなことにも感謝していました」。
この手紙では、テサロニケにパウロたちが初めて来た時からのことが、1章から2章にかけて「ありありと」思い起こされていますが、実際にテサロニケでのパウロたちの伝道の様子はそのようなものであったことがわかります。パウロたちは「激しい苦闘の中で」テサロニケで神の福音を語ったと記されます。そして、テサロニケの人たちも「ひどい苦しみの中で」、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたのでした。パウロはテサロニケの人たちが「主にしっかり結ばれている」ことをテモテから聴いて「今、わたしたちは生きていると言える」と喜びに溢れました。そして「あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと」夜も昼も切に祈っています。まさにテサロニケでのパウロたちの伝道は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という事を証ししたものでした。テサロニケの人たちが苦難の中でも「主と共にいる」ことを聞いて喜ぶ。パウロたちも苦しみの中で「主と共にある」ことに慰められて、喜ぶ。だから、どんな時にも、パウロたちは喜び、祈り、感謝に溢れていました。
テサロニケの人たちの信仰は、そのパウロたちの姿を見て、育まれました。パウロたちの「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」信仰の後ろ姿を見て、それに「倣うもの」とされた信仰でした。パウロは、今後のテサロニケの人たちの歩みの先に様々な困難を見据えつつ、どんな状況の中でも「主と共に生きること」の恵みを知らせたいと思いました。この手紙の最後に、テサロニケの人たちにその事を、改めて思い起こさせたかったのではないでしょうか?あなたがたには、私たちと同じように、これから苦難がある。しかし「目覚めていても、眠っていても、いつも主が共におられるではないか」!だから「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とパウロは記します。
このようにテサロニケの人たちが「主と共に生きる」恵みに生かされたのは、この手紙の1章6節の言葉によれば「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたから」でした。1章5節には「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記されておりました。教会が御言葉によって生かされ、福音を宣べ伝える器として建て上げられて行くには、聖霊の働きを妨げてはなりません。だから、教会の中でなされる預言も聖霊の賜物であれば軽んじられてはいけませんが、偽物の預言もあるから、よく吟味されなければなりません。そのことが19節から22節に「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。全てを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と記されます。こうして吟味して良いものを大事にし、悪いものから遠ざかること。これも、神さまの助けがなければ、出来ないことです。テサロニケの人たちも私たちも、自分を頼みにしている限り、安心して進んで行くことは出来ません。
ですからパウロは最後に祈ります。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私たちの主イエス・キリストの来られる時、非の打ちどころのないものとしてくださいますように」。私たちが主の日に「非の打ちどころのないもの」とされるのは「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた」からです。その神さまは信頼できるお方である。だから、私たちは全てを主イエスに委ねて良いのです。まさしく「あなた方をお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます」と24節に断言されている通りであります。
私たちはそのようなお方である神さまから罪を赦された者として、指導者を尊敬し、互いに戒め合い、励まし合い、助け合い、全てを吟味して良いものを大事にしながら、教会を建て上げて行きます。その道は「目覚めていても眠っていても、主と共に生きる」喜びで感謝に溢れ、いつも祈りに導かれる道です。祈る時、聖霊により、キリストが必ずその場に望んでくださることを喜びます。それは、主の日に非のうちどころのないものとされる希望に照らされた道です。私たちを招いておられるお方が真実であり、必ずその通りにしてくださることに全てを委ねて、主に従って歩んで行きましょう。
お祈りを捧げます。
「主イエス・キリストの父なる御神さま。私たちは様々な過ちを犯すものであります。しかし、あなたがその独り子を私たちのために地上にお与えくださり、私たちが光の子、昼の子として歩む道を開いてくださったことを感謝します。私たちがキリスト者として招かれていることは、まことの幸いであります。そのことを覚えて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きる者としてくださいますように。どうぞ、終わりの日まで私たちの信仰を固く立たしてくださいますように。これらの感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって、御前に捧げます。アーメン。」 |