ただ今、マタイによる福音書12章46節から50節までをご一緒にお聞きしました。その最後の50節に「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とあります。
広く知られていることですが、聖書の中では、人類全体の歴史を語るのにアダムとエバという最初の家庭の物語から語り始められています。旧約聖書の中で、神の救いの歴史が始まるところにも一組の夫婦が登場しています。神の救いの約束を聞かされそれを信じて生活する信仰者の歴史が、アブラハムとサラの家庭から始まります。それだけではありません。旧約聖書でも新約聖書でも、神による救いの歴史は、いつも様々な家庭や一族の具体的な出来事を舞台として先へ先へと持ち運ばれて行きます。そこに登場する家庭は、必ずしも人間的に見て円満な家庭ばかりというわけではありません。
例えば、ルツ記に登場するルツは、夫と息子たちに先立たれ、年老いた義理の母ナオミを助けて生き抜こうと懸命に働きます。そして、ルツと家庭を持つことになるボアズは遊女ラハブの息子として誕生しています。ラハブの半生は旧約聖書の中で詳しくは語られませんが、しかし当時の社会状況の中で遊女に身をやつして生活しなければならなかったということは、ラハブが不遇な家庭環境に生まれ育ったことをそれとなく示しています。さらに、預言者サムエルの母となったハンナは、家庭内での大変な争いを抱え、夫のもう一人の妻だったペニンナから酷くいじめられたと語られています。このように、家族間の上手くいかない間柄というのは、イスラエルの祝福の始まりとなったヤコブの家庭でも伝えられています。聖書の中では、いかにも円満で悩みがなさそうに見える家庭だけが御業に用いられるとは限りません。深刻な問題を抱えていたり、深い悩みを持っている家庭、あるいはそこに生きている一人一人を神はご覧になって、支え、用いてゆかれます。
旧約聖書の中には幾度となく系図が出てきます。それは神の救いの出来事の担い手たち、そしてまた、神の救いを受け継ぐ者たちという意味を込めて系図が載せられているのです。そして、そういうものの考え方が新約聖書にも受け継がれ、マタイによる福音書の1章やルカによる福音書の3章に救い主イエス・キリストの系図が載せられています。系図を念頭に置いた上で、ルカによる福音書2章4節には、クリスマスに読まれる箇所の一部ですが、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と記されています。「ダビデの家に属し、その血筋であったので」と、血筋が問題にされています。つまり、聖書はここで、主イエスがユダヤのベツレヘムでお生れになったことによって、父ヨセフという人物を通してダビデの血筋につながっていると伝えています。
主イエスは救い主としてこの世においでになりましたが、それは、忽然とこの地上に姿を現したというのではありません。そうではなくて、主イエスはある一つの家庭に生まれ、具体的な家族の絆の中で地上のご生涯を始められました。ヨセフを父と呼び、マリアを母と呼び、そして弟たち妹たちと一緒に生活をなさいました。主イエスはマリアの長男として弟や妹たちと一緒にお育ちになったのです。
後に、主イエスの郷里のナザレの人たちは、主イエスがナザレを訪ねられた時に、「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言ってつまずいたと聖書に記されています。もし主イエスがご自身の身の上を隠したいと思っていたのであれば、ナザレを訪ねることはなさらなかったでしょう。主イエスは、ご自身が救い主としての御業を行っていかれる上で、ご自身の家族の繋がりを脇に押しやったりするようなことはなさいませんでした。むしろ、主イエスご自身は、家族たちから必ずしも理解されたり受け入れられたとは言い難いのですが、しかしそれでも、家族の一人一人を思いやって地上の生涯を歩んでいかれました。
そして、その姿は十字架の上にまで続いて行きます。十字架に架けられた時、主イエスは、十字架のたもとに母マリアが佇んでいるのをご覧になります。夫のヨセフも亡くなっていましたから、主イエスが亡くなった後には、母マリアの頼る先がないことを主イエスは心配なさって、マリアをご自身が愛された弟子に任せられました。ヨハネによる福音書19章25節以下に「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。このように主イエスは、ご自身が家族の一員であることに忠実であり、家庭を大事になさったのでした。聖書の中では、家庭や家族の交わりが大切なものとして扱われています。
けれども、それならば、家族の繋がりがあらゆるものに優先する最も大事で最終的なものと聖書に語られているかというと、決してそうではありません。その点は、旧約聖書も新約聖書も同じです。聖書の中では、家庭は確かに重んじられますが、それはそれ自体として価値があると考えられているのではありません。家庭の繋がりというのは、神の御国に繋がっていくものとして評価され、神の御国へと繋がっていくあり方です。そのことを抜きにして、何にもまして家族・家庭が大切というような家庭至上主義とかマイホーム主義というあり方が聖書の中にあるわけではありません。
家族という結びつきは、あくまでも神の御国の中に位置付けられ、御国に関わるもの、神に繋がっていくものとして意味を持ちます。具体的に言えば丁寧に考えなければならないことがありますが、しかし大雑把に言えば、仮に神の御国を取るか、家族を取るか、どちらかを選ばなければならない場合には、神の御国のことがまず最初に考えられて、家庭のことはその後で考えられなくてはなりません。そういうことですから、祝福の一番最初にいるアブラハムは、神の御命令が下った時に、御旨に従って親と別れ、神が示される道に向かっていったのです。もし、家族が何にも増して大事だということであれば、そもそもアブラハムは旅に出ることはできなかったはずです。これは、洗礼者ヨハネについても、十二弟子の場合も同じです。神の御国に従って生活する時に、家族から離れて、ヨハネは荒れ野に、十二弟子は主イエスに従って行きました。
このようにどちらを選ぶかの緊張関係をよく伝えているのが、ルカによる福音書の2章41節以下に語られている、12歳の時の主イエスのエピソードです。主イエスが12歳の時、両親は主イエスを連れてエルサレム神殿に上って行きました。神殿詣での帰り道に少年イエスの姿が見当たらなくなります。両親はてっきり道連れの中にいるものだと思って、一日をナザレに向かって帰ってしまったのですが、そこでイエスが見当たらないので、捜しながらエルサレムに戻って行きました。そしてエルサレムに着くと、神殿の境内で少年イエスがラビたちに神のことを聞いていました。その時の両親とイエスの会話が2章48節49節にあります。「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」。神の御国の事柄について肉親が無理解な場合には、時として、その肉親が御国に生きることの妨げになってくる場合があります。少年イエスが神殿に残って神の御言葉に耳を傾けていたこと、それは自分としては当たり前だと考えたのですが、しかし、マリアもヨセフもそのことを悟りませんでした。「なぜこんな所にいるのか」と叱りつけたのですが、少年イエスは「いや、まだ神の言葉を十分に聞き終わっていないのだから、ここにいても当然ではないですか」と返事をしています。けれどもその後、主イエスは帰って両親に仕え、共にお暮らしになっています。
旧約聖書のヨブについても似たようなことが伝えられています。ヨブは神から激しい苦しみを与えられました。その時に、一番近しい間柄の妻は、「神を呪って死になさい。そんな苦しい思いを神はあなたにさせているのだから」と言いました。ヨブは「何をお前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸いをいただいているのだから、災いもいただこうではないか」と言って、神を呪うようなことはしなかったと言われています。私たちにとっては、場合によっては最も近しい家族が、神に仕えて歩んでいくことの妨げになってしまう場合が有り得るのです。それは、愛していないからではありません。むしろ、愛しているからです。人間は人の思いを全て分かっているわけではありませんから、その人のことを本当に思っていても、しかし正しいことを言えるとは限らないのです。ヨブの妻は、ヨブのことを思って、見るに見かねて「神を呪え」と言ってしまいました。けれどもヨブは、そのように生きるべきではないと思ったのです。
使徒パウロは生涯を独身で通しました。独身を通した理由をパウロは、コリントの信徒への手紙一の7章32節から34節、そして38節で述べています。「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。…要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです」。「もっとよい」と言っているわけは、神に仕えて生きることに専念できるからです。それでパウロは独身を通していくのです。家族が神に仕えることの妨げになることが起こり得る、そのギリギリの状況に臨んで、主イエスは「家族を捨てる」というような極端な表現も敢えてなさいました。主イエスのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父母、畑を捨てた者は皆、その百倍の報いを受け永遠の命を受け継ぐのだと、主イエスは教えられました。血の繋がりよりも、信仰による兄弟姉妹の繋がりの方が、もっと大きなものなのだと教えられたのです。
そして、今日私たちが聞いた箇所において、まさしくそう考えておられる主イエスと家族の者たちの間で起こった出来事が語られています。46節47節に「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った」とあります。主イエスが家の中にいて、大勢の群衆に話をしておられた時に、主イエスの家族がやって来たとあります。今日風に例えて言うならば、主イエスが礼拝堂で説教をなさっている時に、突然、主イエスの携帯が鳴り出して、家からの電話によって話の腰が折られてしまうような、そんな出来事が起こっているのです。今日であれば、主イエスは携帯の着信を一旦切って、話を続けられたに違いありません。せっかく主イエスが群衆の前に立って、神の御国の福音を宣べ伝えている、神の事柄を伝えるために仕えておられる、その最中に、家族の者たちが、「人々の前に立って話をしている、あのイエスに、私たちは用事があるのだ」と言って、詰めかけている人たちの前に進み出ようとしたのです。そういう行動に出たものですから、主イエスは厳しい姿勢でこれを退けました。立錐の余地もない家の中で、あるいは玄関の外で、人々をかき分けるようにして前に出ようとしている、そういう家族を前にして、主イエスは家族にではなく、弟子たちの方を指して言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。
なぜこんなに厳しい態度で主イエスは臨まれるのか、ここでの主イエスの態度は、見ようによっては冷たい態度に見えます。こんなに撥ね付けなくても、とりあえず家族を前に呼び寄せて、話を聞いたらいいじゃないか思われる人もいるでしょう。どうしてこのように厳しい態度で臨まれたのかという理由は、マタイ以外の他の福音書を読むと、よく分かります。例えば、ヨハネによる福音書7章5節を見ますと、主イエスの兄弟たちは主イエスを信じていなかったと書かれています。あるいは、マルコによる福音書で、今日のマタイの箇所と同じようなことを語っている3章21節では、主イエスが気が変になったのだと思って、身内の者たちが取り押さえに来たのだとも語られています。主イエスの家族にとっては、主イエスが人々に神の御国の福音を宣べ伝え、そしてやがて十字架に向かっていく、その道のりがよく理解できないのです。主イエスを十字架へと駆り立てていく一切のことが、家族にとっては何もかも心配の種なのです。
もちろん、この時はまだ、主イエスが十字架に架かるなどとは思っていなかったでしょう。しかし家族にしてみると、主イエスは12歳の時にエルサレム神殿の境内でラビたちと熱心に神のことを学んでいたことは知っていたでしょうけれども、その後、どこかの有名なラビについて律法を学んで律法学者になったわけではないのに、突然、主イエスが巡回説教者となって活動を始める。しかもその活動は、律法学者やファリサイ派の人たちと激しく衝突しているのです。当時の一般的なものの考え方からすれば、ファリサイ派の人たちや律法学者たちこそが一般の敬虔なユダヤ人たちを指導する最も適切な導き手だと思われていました。ところが、そういう人たちと主イエスは激しく衝突し、しかもそこに聞こえてくる噂には、彼らが主イエスを亡き者にしようと相談したらしいという話も含まれているのです。ですから、家族にしてみれば気が気でないでしょう。このまま主イエスが活動を続けてエスカレートしていったならば、どこかで暗殺されるのではないか。そうなるくらいだったら、今のうちに身内で主イエスの身柄を取り押さえて、座敷牢の中にでも幽閉しておいた方が良いのではないか、そう考えます。家族は主イエスの身を案じているのです。主イエスが伝えていることが本当だとは信じません。けれどもそれでも、家族は主イエスを愛しているからこそ、主イエスの活動を妨げようとするのです。
ところが、主イエスにとっては、十字架に向かっていく道こそが神から与えられている使命なのですから、この点を決して譲ることはできません。ですから、今日の大変厳しい家族への応対が生まれてくるのです。家族が主イエスに話したいこと、それは何か。「もうこんなことをしているのは止めて、家に帰りなさい」と言いたいと思っているのです。もし話を聞かないのであれば、力づくででも連れ帰ろうと思っています。主イエスはそういう家族の行動に対して反発しておられるのです。ここで家に連れ戻されるわけにはいかない。これからまだ福音を伝えながら十字架に向かって進まなければならない。「わたしに最も近しい家族は、あなたがたなのではない。父の御心を行う者たちだ」と言われるのです。
ところで、この日主イエスを取り押さえに来た家族の中には、主イエスの母マリアもいたと言われています。兄弟たちが主イエスを信じなかったことはヨハネによる福音書にはっきりと書かれていますが、母マリアは信じなかったのでしょうか。ある意味、最も近しい間柄にあった母マリアが福音書の中にあまりたくさん出て来ないことは、注目に値することだろうと思います。
福音書の中で、マリアはどのような現れ方をしているでしょうか。一番最初は主イエスがお生まれになったクリスマスの場面、そして十字架にお架かりになる場面、甦りの場面にも出て来ます。しかし、それ以外にマリアが出てくる時には、いつも決まって主イエスから鋭い批判をぶつけられています。今日の箇所もそうですし、先ほど話しました12歳の主イエスを叱りつけた時もそうでした。あるいは、主イエスが一番最初に奇跡を行われたカナの婚宴での出来事もそうです。婚宴の席でぶどう酒がなくなった時、マリアが主イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と伝えた際、主イエスは「婦人よ、あなたはわたしとどんな関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。今日の箇所でも、「あなたとの関わりは、あなたが思っているようなものではない。天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言っておられます。主イエスの母マリアが、地上の生涯を歩んでいた主イエスの前に現れる時には、いつも決まって主イエスの使命については無理解な者として登場しており、またそのことを主イエスから指摘されています。
けれども、母マリアがこのように数回しか出て来ないのに、出て来た時には必ず無理解な者として登場しているということは、マリアが主イエスをあまりに身近な存在と考えすぎていたからかもしれません。マリアはクリスマスの出来事の後、見聞きしたことを全て自分の胸に納めて思いめぐらしていたと言われています。その意味では、マリアは、自分に与えられた嬰児イエスが何か特別な役割と働きをするために生まれて来たらしいということを知っていたのです。気づいていたのです。ただ、それから実際に、赤ん坊、子供、少年、青年と成長する中で、あまりにも主イエスがへりくだって、他の人間と何ら変わらない態度で両親に仕えておられましたから、つい、公生涯を歩まれる主イエスの姿につまずくということがあったのだろうと思います。主イエスが十字架に向かって歩むのだと聞かされても、それがすぐにクリスマスの出来事と結びついて思い当たるということにはならないのです。むしろマリアの中では、自分が幼な子の時から面倒を見て大事に育てて来た、そういうことの方が大きいことのように思えてしまうのです。
そういう中で今日の出来事が起こっているとすれば、実は、今日の箇所では主イエスがマリアに厳しい言葉をかけておられるのですが、それは、マリアや兄弟たちだけにかけられた言葉ではないのかもしれないと思います。もしかすると、教会に連なっている私たちも、このマリアのように、兄弟たちのようになってしまうことがあるかもしれないと、この箇所を読んでいて思わされます。つまり、私たちは毎週この場所で聖書の御言葉に触れ、主イエスの話を聞かされます。私たちにとって主イエスは、決して見知らぬ方とか、初対面の方というわけではありません。私たちにとっては、いつの間にか、主イエスが大変身近に感じられますし、教会の交わりというものは、主イエス以上に私たちにとっては身近なのです。
私たちの教会はキリストの体であって、私たちはキリストの体の交わりの中で、兄弟姉妹としての交わりをする中で、主イエスとの交わりを経験しながら生きているのですが、しかしこの交わりは、私たちにとっては本当に身近な、自分の人生の一部と言っても良いような関わりを持っているものです。そして、実はこの私たちの地上の教会生活の中にも、主イエスが大変身を低くした形で、私たちと歩んでくださるということが起こっているのです。その時に私たちは、もしかすると、主イエスのへりくだっておられる姿が当たり前だと思うが故に、人間的に教会のことを考えたり、信仰のことを考えたりしてしまって、そのために本当に私たちが聞くべき事柄、信じるべき事柄を見落としてしまうということがあるかもしれないと思うのです。
主イエスは弟子たちと本当に近しく交わられ、今日の箇所でも、弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言っておられます。ところが、ここで主イエスから「わたしの兄弟、姉妹、母である」と指し示された弟子たちは、やがてどうなっていったでしょうか。私たちは聖書を通して聞かされています。地上で主イエスと最も近しいところを歩んで、本当に親密に交わりを持った12弟子でさえ、最後の時には、主イエスを見捨てて逃げ去り、本当には主イエスを信頼していなかったということが露わになってしまうのです。そういうことを聖書から聞かされる時に、私たちも、教会生活の中でお互いが親密でありさえすれば大丈夫、人間的なスクラムを固く組んでさえいれば私たちは間違いなくキリストの体である教会を成り立たせているのだと言えるのだろうか、そのことを私たちは考えざるを得ないような気がします。
私たちもまた、主イエスのことを人間的には非常に身近に感じておりながらも、しかしまさに、主イエスが自分にとって身近な存在だと思っているがゆえに、本当に信仰が問われるような場面で、つまずいてしまうということが有り得るのではないでしょうか。
主イエスは今日のところで、「天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。主イエスは、弟子たちを指してそこまで言われたのですが、しかし同時に、一番最後の時が来ると弟子たちが逃げ去るということも承知しておられました。そうであれば、主イエスが指し示す地上の家族というのは、主イエスご自身にとっては大変寂しいものだったと言えるかもしれません。誰が家族かと問われた時に、主イエスが「マリアや弟たちではない。この弟子たちこそがわたしの家族だ」とおっしゃった、その弟子たちが裏切ってしまうことをご存知であったのならば、主イエスご自身は大変に侘しい、寂しい思いを持ちながら、しかし「これがわたしの家族だ」と言って弟子たちと歩んでおられたということになります。
どうして主イエスは、そのように侘しい者を家族だとおっしゃるのか、それは、地上の十字架までの歩みでは明らかにならないのです。十字架までの道のりしか見ないのであれば、この地上でどういう交わりをしたかということしか見ないのであれば、主イエスの言う家族など幻想だったということになるでしょう。
しかし終わらないのです。十字架の後、主イエスが復活して、そこから全てが始まるからです。
主イエスが十字架に架かり、三日経って復活された、その時に、あれほど主イエスのことを理解できずに、主イエスと上辺だけでしか繋がっていなかったように見えた弟子たちが、そこで真実に主イエスを信じる者となって、そして自分たちは主イエスの僕であり、「主イエスの兄弟姉妹と呼ばれた者です」と言って、交わりの中で立ち上がることができる者とされたのです。使徒言行録の1章14節には、そういう弟子たちが母マリアや兄弟たちと共に集まって、熱心に祈っていたのだという様子が語られています。そしてその中で特に、主イエスの弟たちの一人が、兄弟ヤコブとして、聖書の中に名を残すようになって行きました。
主イエスの地上の人間関係、家族関係に寂しさがあったか無かったかと言えば、寂しさがあったということは否定できないと思います。しかし主イエスは、この地上の自分の家族の交わりだけをご覧になっているのではありません。この地上を超えたところで、なお、完成させられていくものがある。本当に主イエスのことを自分たちの主だと言い表して、一つになって歩んでいくようになる、そういう交わりが与えられている。このことを信じながら、主イエスは、十字架までの道のりを歩んで行かれたのです。
私たちにも、そういうことがあるのかもしれないと思います。地上の家族関係で寂しさを覚える方がいらっしゃいます。あるいは教会での交わりの中に本当の兄弟姉妹、家族の関係を見出したいと願って、教会の交わりをなさる方がおられます。しかしそういう中で、もしかすると、時に、人間臭い破れというものを目にして、がっかりしたり寂しい気持ちになることがあるかもしれないのです。
けれども、たとえ地上でギクシャク、ギスギスしていても、そういう交わりの全体が、他ならない主イエスの贖いの元に置かれているのだと聖書に教えられていることを、私たちは覚えたいと思うのです。
私たちは、今の自分たちの、様々な失敗や欠けある生活だけを見て悲しむのではなく、主イエスが、破れに満ちているかもしれない交わりを共に歩んでくださって、やがては清らかな光の中に一人一人を受け止めてくださって、そして本当の家族の交わりに生きる者にしてくださる、そういう約束の元に、今、私たちを持ち運んでくださっているのだということに心を留める者とされたいと願います。
たとえ、破れを抱え、悲しみや寂しさを覚えることがあるとしても、私たちはこの地上の事柄だけで全てが決まるのではありません。私たちと共に歩んでくださる主イエスが復活して、私たちの主として、また私たち一人一人を、「この者は、わたしの兄弟、姉妹、また母、父なのだ」と呼んでくださる、そういう交わりの中に私たちが入れられていることを覚えたいと思います。
主イエスの贖いに包まれた者として、ここから私たちは、教会の交わりを共に経験し、本当に主イエスに結ばれている者として相応しい営みを歩んで行きたいと願うのです。 |