2017年8月 |
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8月6日 | 8月13日 | 8月20日 | 8月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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御言の種蒔き | 2017年8月第2主日礼拝 2017年8月13日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第13章1節〜23節 |
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13章<1節>その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。<2節>すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。<3節>イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。<4節>蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。<5節>ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。<6節>しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。<7節>ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。<8節>ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。<9節>耳のある者は聞きなさい。」<10節>弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。<11節>イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。<12節>持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。<13節>だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。<14節>イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。<15節>この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』<16節>しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。<17節>はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」<18節>「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。<19節>だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。<20節>石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、<21節>自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。<22節>茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。<23節>良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 |
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ただ今、マタイによる福音書13章1節から23節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた」とあります。たくさんの群衆が、あちこちの町や村から続々と、ガリラヤ湖畔におられる主イエスのもとにやって来ました。それはまるで、かつての日、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けたときの光景さながらでした。集まって来た群衆の数があまりに多く、なおも集まり続けるので、このままでは主イエスがひしめき合う人に押されて湖に落ちてしまいそうなほどでした。そのため、舟を頼んで沖合まで漕ぎ出してもらい、主イエスはそこから、岸辺に立っている群衆に語りかけられます。こういう場面だけをとらえて考えますと、主イエスの宣教活動というのは、大きな反響を持って迎えられ、大成功を収めていたように受け止められるかもしれません。 ところが、弟子たちがこのように有頂天になっている最中、主イエスご自身は一つの譬え話をなさいました。それが今日聞いている「種蒔き」の譬えです。この譬え話を通して、主イエスは、「今という時は、まだ、全てが順調に進んで完成を迎えて行く終わりの時ではない。あなたたちのところに天使がやって来て、豊かな収穫を倉に収めるまでには、まだ時が必要である。今はまだ働きが始まったばかりであり、大切なのはここからである」と、弟子たちを戒められたのでした。 主イエスが初めてこの譬えを弟子たちに教えられた当時、弟子たちは神のご支配、天の国がそのようにして成り立って行くということを知らずにいました。従って弟子たちは、この譬えの意味を最初のうちは受け止めかねたのです。主イエスが語られるこの譬えは「天の国の秘密を現している」ということが分からなければ、この種蒔きの譬えの意味は分からずじまいになってしまいます。私たちには大変不思議に聞こえますが、13節で主イエスは、「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と言われました。弟子たち以外には譬えを用いて話すが、それは、彼らには天の国の秘密を知ることが許されていないからだというのです。 主イエスはここで、4つの種の話をなさいます。まず最初の種について、4節に「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」とあり、この種の説きあかしは19節に「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」とあります。つまり「鳥に食べられてしまう種」というのは、悪いものがやって来て、心の中に蒔かれた種が奪い取られた状態だとおっしゃるのです。主イエスはここで、御言葉の種蒔きが行われ、私たちの心の中に御言葉が聞こえてくるところでは、いつでも、一種の戦いが起こっているのだと教えておられます。神の側は私たちの中に御言葉の苗を植え付けようと懸命に種を蒔いてくださるけれども、神と御言葉を聞いている私たちとの間に、どこからか悪いものが忍び込んで来て、蒔かれた種を片っ端から奪い取って取り去ろうとする、そういう戦いが蒔かれた種を巡って行われているのだと、主イエスは言われました。それはまるで、結婚式で行うライスシャワーの時に起こる出来事と似ています。新婚の二人を祝福して皆でお米を蒔く、その先から雀たちが飛んで来て、跡形なく食べ尽くしてしまうのです。 次に第2番目の種です。5節6節に「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」とあり、この種の説き明かしは、20節21節に「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」とあります。特に21節には「御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人がいる」と教えられています。ですからやはり、御言葉の種が蒔かれるということは、一つの戦いなのです。御言葉の種が蒔かれるばかりに、そこに戦いが生まれるということが起こります。 さて、三番目の種です。7節に「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった」とあり、説き明かしは22節に「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」とあります。22節には、「世の思い煩い」と「富の誘惑」ということが並んで登場してきます。「世の思い煩い」というのは、自分の生活をどう成り立たせていこうかという煩い、自分がどう生活しようかとあくせくすることですから、「富の誘惑」と並んでいるのは不思議な気がします。「世の思い煩い」と「富の誘惑」というのは、逆のことではないかと思うのです。しかし、よくよく考えますと、本当に貧しくて慎ましやかな生活をしなければならない時には、私たちはもはや、飢えや寒さを怖がったりしている暇がないということも言えると思います。もちろん、貧しいことや乏しいことを喜ぶはずはありませんが、そこから抜け出すことができればそれに越したことはないと思いますが、しかし生活の困窮の中で自分が歩んで行く時には、もはやそこでいたずらに不安がったり怖れたりしている暇がないのです。何とかして生きていかなければならない、そのためには多少辛くても大変でも耐え忍んで先に行こう、そう思って生活して行くのです。ですから「世の思い煩い」というのは、本当に貧しい人たちが抱えていることではなくて、むしろ生じっか財産がある人が、それを失ったらどうしようかと考えることなのです。今あるものを使ってもっと豊かになろうとか、更に贅沢に暮らしたい、そう望む人たちが「世の思い煩い」を経験することになります。そして、一応食べる心配がなくなった時には、今度は自分が世間からどんなふうに認めてもらおうかと、社会的な名誉や義務のことで思い煩ったりするのです。 主イエスはこのように、3つの種のことを前もってお話になりました。そしてその後で、第4の種のことが教えられるのです。8節に「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とあり、その説き明かしが23節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。今までは実を結べなかった種の話を聞いてきただけに、最後に語られる「実を結ぶ種の話」というのは、喜ばしい嬉しい知らせになっています。この4番目の種の話があることで、この譬え話には救いがあります。そういう意味で、4番目の種の話は真実の福音と言ってよいようなものです。 4つの種の譬えを聞きながら、最後に、はっきりと弁えたいことがあります。「今はまだ、種蒔きの時である」と主イエスがおっしゃっていることです。ですから、今すでに熟したと私たちが考えるならば、それは考えが早まっているのです。神のご計画の中では、今はまだ種蒔きの時であり、もしその中で少しでも実りらしいものが生まれているとすれば、それは早なりの実ということになります。今はまだ、採り入れの時期ではありません。採り入れの時期ではなく、種が蒔き続けられている時だからこそ、地上で教会が盛んに活動していて、私たちは毎週日曜日になると、この場所で御言葉の種を蒔かれるという経験をするようになっているのです。 今の時代に、種蒔きをしながらキリスト者一人一人が生きていく、その時には、私たちは、最初に読みました詩編126編に出てくる農夫のようなことになるのです。5節6節に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」とあります。私たちに蒔かれた御言葉が、私たちのうちにあって豊かに実を結び、100倍、60倍、30倍にも豊かにされる日を待ち望みつつ、私たちは、与えられている今日の生活に勤しむ者とされたいと願うのです。「十字架に架かってくださった主イエス・キリストが私たちの罪の重荷を全て引き受けてくださって、私たちを完全に身請けして、清らかな者にしてくださる。その主イエスによって、私たちが、やがての日、完全に清められた者として神の前に立たされる。そういう日が来る」ことを信じ、その時を望み見ながら、今日この時を歩みたいと願います。 私たちは、御言葉の種を蒔かれています。その御言葉は、「確かに私たちの中で豊かな実を結ぶ」と約束されていることを信じて、私たちはなお、ここから歩み続ける者とされたいと願います。 |
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