聖書のみことば
2017年1月
1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月29日主日礼拝音声

 信仰から生まれるもの
2017年1月第5主日礼拝 2017年1月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章18節〜26節

9章<18節>イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」<19節>そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。<20節>すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。<21節>「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。<22節>イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。<23節>イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、<24節>言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。<25節>群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。<26節>このうわさはその地方一帯に広まった。

 ただ今、マタイによる福音書第9章の18節から26節までをご一緒にお聞きしました。ここには、長い間出血性の病気で苦しんでいた女の人が主イエスによって癒されたという出来事と、今死んだばかりの少女が主イエスによって再び命に戻されたという二つの出来事が、重なり合うようにして述べられています。
 この記事は、最初にマタイが記録したのではありません。これは元々、マルコによる福音書に書かれていた記事を、マタイが簡潔に書き改めて自分の福音書に取り入れたものです。ですから、マルコによる福音書では、この記事は全体で23節もあって詳しく書かれているのに比べて、マタイによる福音書では僅か9節に縮められた形で記されています。そのように大変簡潔ですので、マタイによる福音書だけでは一体何が起こったのか理解するのが難しいですので、まず少し、マルコによる福音書からも聞いてみたいと思います。マルコによる福音書5章21節から43節のところです。
 はじめに、21節〜24節「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。会堂長としてユダヤ人の会堂を管理し、安息日の礼拝を取り仕切っていたヤイロという人物が主イエスのもとを訪ねて来たのだと言われています。そして、「どうか、自分の家に来てほしい。重い病気を患っている娘の上に手を置いて病気を追い出していただきたい」と願います。ですから、このヤイロという人は、主イエスのことを何か不思議なことを行える人物だと考えていたということになるでしょう。「主イエスから命の力が流れ出て、手を置いていただいたなら病気や死の勢力は退くだろう」と期待していたのです。主イエスもヤイロの願いを聞いて、彼の家に行こうと出かけられます。ところが「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」と言われているように大勢の人が主イエス取り囲んでひしめき合っているので、なかなか前に進んで行けません。
 そうこうしている間に、その群衆の中に、長い間出血が止まらずに苦しんできた女性が現れて、この女性との関わり合いが起こることになるのです。そして、その関わりのために時間を取られることになりましたから、ヤイロはさぞかし気を揉んだに違いありません。
 25節〜28節に「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。この女性は、「病気を癒していただきたい」という一心で主イエスの服に触れたのだと言われています。主イエスのもとに来るまでに、様々なことを試していたようです。方々の名医と呼ばれる医者を訪ねたようですが、一向に病気は良くならなかったのです。むしろ、「ますます悪くなるだけであった」と言われています。彼女は、方々の名医に診てもらっても治らないので、とうとう一つの願いを抱くようになります。それはもはや医者に頼むのではなく、「何か不思議な力が出て来ると評判のあの人物に何とか触れて、その人から力を得たい」という願いで思い詰めています。彼女は人混みに紛れて後ろからそっと主イエスに近寄り、衣服の房に触れました。そうすると、まるで力の流れが起こったかのように、この女性の出血の元が乾いて「癒される」ということが起こりました。
 ところが、そういう出来事が起こるや否や、主イエスは「誰かが自分に触れた」とことに気付いて、「わたしに触れたのは誰か」とお聞きになります。30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」とあります。この女性は隠しきれないと気づいて恐れおののいて、主イエスの前にひれ伏して、自分の身に起こったことを全て包み隠さず打ち明けます。すると主イエスは、彼女を励まして言われました。34節「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。主イエスがこうおっしゃっているところに、今度はヤイロの使いがやって来ました。そして「重い病気を患っていたお嬢さんは亡くなりました。事情がこうなったからには、もはや、先生に来ていただくには及ばないでしょう」という家人の判断をヤイロに伝えました。ところが主イエスは、この言葉を聞くとすぐに行動を起こし、周りの人たちが呆気に取られているのを尻目に、3人の弟子だけを連れてヤイロの家に向かわれました。ヤイロの家では既に葬りの支度が始まっていましたが、主イエスは家人を皆、外に出し、娘の両親と3人の弟子だけを連れて死の床に近づかれます。そして、少女の手を取って、「タリタ、クム」と呼びかけられました。「少女よ、起きなさい」という意味です。すると少女は起き上がって、周りの人たちがびっくりして見守る中を歩き回りました。これが、マルコによる福音書に記されていた記事のあらましです。

 今マルコから聞いた記事を、マタイは自分なりに短くして、新しい別の物語に仕立てています。マタイは、マルコの記事を使う際に、必要のない部分をどんどん省いています。例えばマタイでは、「長血の女性を助けられなかった医者のこと」、あるいは「群衆に取り巻かれていた時の弟子たちの言葉」「主イエスが口になさったアラム語の呪文のような言葉」は出て来ません。本当に思い切りよく、マルコの記事を削っています。今日の記事でマタイによる福音書が語っていることは、もっぱら、「主イエスというお方が悲しみや苦しみの中に陥っている人たちとどのように出会われたか」ということだけになっています。驚くほど大胆に、マタイはマルコの記事を自由に書き改めました。
 マタイとすれば、今日の記事を通して「主イエスこそが本当に頼りになる救い主であるということを是非とも知ってほしい」と、そう願っています。「主イエスこそ力ある救い主である」ことを際立たせるために、マルコに元々あった、出来事を浮き彫りにするような背景の記事を全部書かずに済ませてしまいます。
 確かにマタイはここで、「ある人が手を置いたら、その人から命の力が流れ出て、手を置かれた人が癒される」、そういう古い時代の奇跡物語のような話を書いてはいますが、しかし、マタイがここでこういう書き方をしているのは、決して人をびっくりさせたいというような思いからではありません。そうではなく、「主イエスというお方からどんなに自由と喜びがもたらされるのかということを知ってほしい」、そう願ってこういう書き方をしています。
 ですから、今日聞いているマタイによる福音書の記事で大切なことは、逐一物語られているその出来事なのではありません。ここに述べられているのは徴としての出来事であって、この徴を通して伝えられようとしている事柄の方が大事なのです。もし仮に出来事の方が大事であったなら、マタイがマルコの記事をこのようにはしょったりする筈はありません。起こった出来事は、別のことを伝えるための徴として起こったことだと思っているからこそ、マタイはこのように書き改めたのです。

 ではマタイは、どのようなことを伝えようとしているのでしょうか。まず注目させられるのは、マタイによる福音書9章22節の言葉です。「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」とあります。この言葉も若干短くなっていますが、ここで際立たされているのは、「あなたの信仰があなたを救った」ということです。主イエスはここで、「信仰にこそ、全てがかかっている」とおっしゃっているのです。
 しかしそれならば、主イエスがここで強調しておられる「信仰」とは、どういうものなのでしょうか。どういうふうに信仰が言い表されているでしょうか。この記事からしますと、主イエスが「信仰がある」と言っておられるものは、普段私たちが思っているのとは少し違った形で表れているように思います。
 ここでは、長年病気で苦しんできた、そういう人が、主イエスのもとににじり寄って来ます。「主イエスの服に触れさえすれば治してもらえる」と思っているからです。この人は主イエスに信頼し切っています。この人はそれまで、自分の事情が良くなるようにと様々なことを行いました。けれども、自分が期待して行った全てのことが水の泡になるという経験を重ねてきています。そしてここでは、「これから先、自分にはもうできることは多くない。主イエスという方に手を差し出して、その服の房に取りすがることぐらいしかない」と、非常に切羽詰まっていて、人の目から見れば本当に覚束ない姿だと見えます。「『主イエスに触れる』ということに、そんなに重きを置いてしまって良いのだろうか」と思うでしょう。
 私たちも信仰を持って生きていますが、私たちの信仰はそんなふうに、「主イエスに全てをかける。全てを委ねる」ということではないだろうと思います。むしろ、聖書を開いて「主イエスから何かを学ぶ」というようなことがあるかもしれません。けれどもこの人は、そういう意味では、主イエスから何かを教えてもらおうとしているのではありません。自分が今までやってきたことは何も上手くいかない。体は悪くなるばかりである。でも「この方の服に触れさえすれば、なんとかなる」と思っているのです。
 私たちが考えている信仰というのは、例えば、十分に理解できているかどうかは別として「信仰箇条を受け入れて生活する」とか「倫理的な定めを満たしながらキリスト者らしく生きる」とか、「信仰は少なくとも人間の人生を導き整えていくものだ」と、そんなふうに思っているのではないでしょうか。
 ところがこの人は、「自分としては八方手を尽くしたけれども、もうなす術がない。ただ主イエスの方に身を向けるしかない」と思い詰めています。そして主イエスは、そういうこの人の姿の中に、「信仰がある」とおっしゃるのです。信仰というと、私たちはつい、自分自身を振り返りたくなります。自分がどれくらい主イエスに信頼を寄せているか。どれくらい神に従う清らかな生活を送っているか。どれくらい周りの人たちに穏やかに接することができているか。どれくらい社会的正義を求めて生活しているだろうか。私たちはつい、そういうことを「信仰」という言葉のもとに考えたくなってしまいます。そして「自分は信仰が薄い、弱い、信仰が無い」と言って、すぐに俯いてしまいます。
 けれども、この人はどうでしょうか。この人は、自分自身には目もくれてないのではないでしょうか。自分が深刻な状況にあるということは、身をもって十分承知していますが、それに対して、自分でどうにかしようとはしていません。決定的なことはもはや、自分にはできない。「自分で自分を救うことはできない」ということを弁えているのです。そして、自分ではどうにも出来ないからこそ、自分自身のあり方を問題にするのではなく、目の前に来ておられる主イエス・キリストというお方に目を注いで、この方ににじり寄って近づいて、何とかこの方に触れようとする、そういうあり方を通して、主イエスに何とかして取りすがろうとする、それがこの人の姿です。
 自分がこうなることについては、当然、ためらいもあったでしょう。「そんなに主イエスに触ることに重きを置いて良いのか」と、周りの人が思っている以上に、この人も「果たしてこんなことをしても良いのだろうか」と思っていたことでしょう。「服に触れたからと言って、何も起こらないかもしれない」と考えたかもしれません。ためらいがちに、しかし非常に率直に、あるいは「治らないかもしれない」という不安を抱えながら、それでも期待に満ちている。そういう意味では大変不思議な姿です。「『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである」と簡単に書いてありますが、実際のところ、この人の思いは、「触れさえすれば治る」と言うような大船に乗ったような気持ちではなかったかもしれません。けれども、「自分にはもうこれしかない。だからこうするしかない」と、「自分自身の中では恐れを持ちながら、しかし期待する」「不安におののきながら希望を持つ」、こういうこの人のあり方が、聖書の中では「信仰」と呼ばれているのです。そのことを覚えたいと思います。

 「あなたの信仰があなたを救った」と、ここに言われています。「信仰がある」、そこでは、重荷と苦しみの人生が軽くされます。破壊されていたものが繕われます。出来損なっていたものが新しくされます。キリスト教の教理を正しく理解しているかとか、キリスト者らしい倫理的な生活をしているかとか、そういうこととは別に、「ただひたすら主イエスにご信頼申し上げる。主イエスに期待する」という態度、そのあり方が、この人を救っています。そして、私たちにも聖書は呼びかけています。「あなたは主イエスに触れさえすれば救われる。重荷が軽くされる。苦しみを主イエスが担ってくださる」と。
 もちろん、教理や倫理が不要だということではありません。それはそれで大事です。けれども、どれほど正しく聖書の理屈を理解し、あるいは自分の生活をその形に当てはめることがあったとしても、根底のところで「主イエスに対する深い信頼を持って生きる。主イエスに取りすがって歩む」ということがないならば、私たちは救われることはないと思います。
 私たちがどうして聖書の中の教えの理屈を知ろうとするのか。どうして聖書に照らして相応しい者として生きたいと願うのか。それは、根底には「主イエスこそが、わたしを導いてくださる。主イエスに触れることを通して、私たちは救われていくのだ」という信仰があるからです。「信仰」とは、自分が貧しく失われた者であることを知った人が、主イエス・キリストに出会い、主イエスに触れるところに成り立っていくものなのです。主イエスを信じ、主イエスに期待を寄せてこそ、私たちはキリスト者になります。この女性に見られるように、どんなに内気でたどたどしく、覚束ない有様であっても、そこに主イエス・キリストに対する心からの信頼があるのなら、それはまさしく信仰なのです。
 そして、そういう信仰には、力が伴います。どうしてかというと、その信仰は、本当に主イエスに期待するからです。自分の力で歩もうとするものではないからです。
 今日の箇所では「あなたの信仰があなたを救った」と言われています。あなたのパフォーマンスがあなたを救ったとは言われていません。主イエスの方に手を伸ばしたという行いが正しいのではなく、その行いに向けるあなたの信仰がそこにあると言われています。主イエスに期待する。主イエスに委ねて歩む。そのことが癒しをもたらし、この女性の健康を回復させています。

 しかしこの癒しの出来事は、「信仰に力があることの徴として起こっているのだ」ということを考えないならば、誤解が生じるかもしれません。信仰が、いつでもどんな病気でも治すことのできる万能薬のように思うならば、恐らくそれは間違いです。この世の医師たちも様々な病気を治してくれます。患者が治ることの手助けをしてくれます。そのことで、医師たちは多くの患者から感謝され頼りにされます。しかしどんな名医であっても、目の前にやってくる患者全てを癒すことなどできません。そして、信仰もそうです。信仰さえあればどんな病気でも癒せると考えたり言ったりするならば、それは軽率な物言いだと言わねばなりません。無責任な言葉だと咎められても仕方ないと思います。
 信仰を持てば全ての病気が癒されるというのであれば、私たちは誰も死なないことになります。けれども私たちは、病気もするし、地上の生活を終える日も迎えます。しかしそうであっても、信仰には力があるのです。信仰は、私たちの心の中の思いとか、頭の中の考えに留まるものではありません。信仰は、私たちを突き動かして、生活全体に関わってきます。その点をはっきり知らなければなりません。信仰は心の事柄だと思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、心の事柄ではなく、私たちの生活の事柄です。私たちが信仰によって生きる時には、それが面にも表れてくる、力を持って私たちを動かすようなことが起こってくるのです。
 信仰によって私たちは、主イエスに触れ、そして、主イエスが導いてくださるということが実際に起こります。その時には、私たちは自分の人生に対して、「主イエスが主人」であるように、本当に自由な「主」として、自分の一生を歩んでいくことができるようになるのです。暴君のように「自分の思い通りにならなければ嫌だ」と、私たちはつい、そういう思いに捕らわれがちですが、そういうところから離れて、たとえ思うようにならない出来事が人生にあるとしても、痛みや苦しみがあるとしても、それでも、そういう自分を主イエスに動かされて生きていくならば、私たちは、今置かれているこの人生に対して主人になることができるのです。「ここで、わたしはどう生きるべきなのか。主イエスがどう導いてくださっているのか」と考えながら、今置かれているここから立ち上がって、ここでなすべきことを自分で考えて、自分の足で歩んでいくことができるようになるのです。信仰から出る力には、そういう意味では限界がありません。私たちがどんな時でも、どこにいても、信仰が私たちを動かす、そういう力を持っています。
 教会の礼拝に集まっている時だけ、この力の元に置かれているということではありません。この礼拝から去り、自分の生活に入っていく時、そのそれぞれの場所で、主イエスに伴われて、信仰の力を与えられて、そして健康を回復されて歩んでいくことができるようになるのです。信仰の力は、私たちが家庭に戻ろうが働きや学びの場に赴こうが、そこで終わって届かなくなるというものではありません。どんな時にも私たちを支え歩ませてくださる、そういう力に満ちています。小さな梃子が大きな物を動かすのにも似て、私たちが深い憂いに捕らわれたり、思い煩いに苦しめられる時、嘆いたり、痛みや悲しみを覚える時、そこでも信仰は途切れません。私たちの生活のあらゆる場面に働いて、力を発揮します。
 信仰によって主イエス・キリストに強く結ばれている人は、どんな時にも、信仰によって今与えられているこの命を得ることになるのです。

 この福音書を記したマタイは、この「信仰の力」をはっきりと伝えようとしました。そのために、マルコによる福音書を書き改めているのです。すなわち、私たちの命が途絶えるような時にも、そこでも信仰の力が終わらないことを明確に語ろうとします。その点で、マタイの書き方は、ただマルコを縮めているだけではなく、一歩を踏み出しています。
 どういうことかと言いますと、マルコによる福音書を見ますと、最初にヤイロの娘は病気で苦しんでいます。ですから、初めは「癒して欲しい」という病気の癒しの話です。途中から「死んで生き返らされる」という話になっています。マタイではどうでしょうか。娘は最初から亡くなっています。ですから、普通であればもう後戻りできない、のっぴきならない所から話が始まっています。手の施しようがない死の出来事が起こってしまった。しかし「そこに主イエスが関わりを持ってくださったらどうなるのか」ということが、マタイによる福音書の記事なのです。
 18節に「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう』」とあります。いきなり死の出来事が指さされます。私たち全ての者が言葉を失う、何もできなくなる、そういう状況の中にあっても、ただ一人、言葉を発することがおできになる方がおられるということを、ここに指し示すのです。この娘はどうしようもなく死の出来事に捕らえられています。そして、家では既に葬りの支度が始まっています。主イエスはその家に入って行かれ、葬りを行おうとしている人たちを皆、外に出して言われます。24節「言われた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った」。誤解のないように言わなければなりませんが、これは主イエスが仮死状態ということを言っておられるというのではありません。死の出来事は確かに起こっています。死の現実があるのです。そして、私たち人間は、死の現実の前では無力になります。死の前では、何もなす術がないと思ってしまいます。
 ところが、そのように私たちがどうしようもないと思っている、その所に主イエスが踏み込んで行かれる時に、死は最後のことではなくなるのです。
 主イエスはここで、死を避けて通るのではありません。死の出来事が無かったかのように顔を背け脇を通って行かれるのではありません。そうではなく、正面から死の出来事と対決をして、死の中に踏み込んで行かれるのです。そして、そういうお方として「少女は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃるのです。
 主イエスが乗り出し、乗り込んできてくださるところでは、死はもはや最後の言葉ではなくなります。「復活と永遠の命」こそが、最後の言葉になります。「あなたは死んでも生きる」と、主イエスから言っていただいている。ですから、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われるのです。
 この眠りは、起こされる眠りです。死の出来事の眠り、それは「起こされる眠りである」と聖書が語っていることを覚えたいと思います。人が亡くなると「永眠」という言葉がしばしば使われますが、聖書に照らして言いますと、永眠は誤りです。永眠は永久に眠り続けるということだからです。しかし、私たちが迎える死は永眠ではないのです。今この地上を去る「逝去」はしますが、私たちは永久に眠るのではなく、起こされる眠りに赴くのです。

 私たち自身、肉体の終わりからは逃れようがありません。それは事実です。けれども、その死に主イエスが乗り込んで来てくださって、「あなたはそれでも生きる者だ。永遠の命に結ばれている者だ」とおっしゃってくださるのです。ここで一度は地上の生活に戻されたこの少女も、やがて死ぬ時が来ます。あるいは、出血性の病気を癒していただいた女性も地上の命を終える時が来ます。しかし、そういうことがあるとしても、「この人は眠っている。そして起こされるのだ。あなたの死は、永遠の命に向かって新しい状態に変えられる、その入り口なのだ」と主イエスから言われていることを覚えたいのです。

 今日の記事は、「たった一人、死に正面から立ち向かって、そして、死から命に甦って行かれるお方」を指し示そうとしている記事です。私たちの死を十字架の上で引き受けてくださり、そして三日目に復活なさった、そういう主イエスがここで「死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃっています。私たちのために十字架の上でお亡くなりなった方、そして死を隅々まで経験なさって、本当に人間の死というものがどんなに手強い敵であるかということをよく理解しておられるお方が、その死を乗り越えて、甦って、命の初穂となっておられるのです。そういうお方が、ここで語っておられます。
 この方を信じるとき、この方に触れる時、信仰によってこの方に結びつく時、「あなたは死んでも生きる」と、聖書は語っています。

 このことが本当であるということを、どこで確認できるのでしょうか。私たちは日常的には、死が私たちの人生の最後のものであるということを嫌というほど見せつけられています。特に、親しかった愛する者のお墓の前に立つような時には、私たちは「命は終わって死がある」という思いを深くせざるを得ません。主イエスが死に勝る力を持っておられることを、どこに行けば確かめられるのでしょうか。主イエスの命が死に勝る、そのことは、死の場合のように証し立てるのではありません。お墓の前に立って「ここに死がある」というように、主イエスの死がここにあると確かめられるということではありません。そうではなく、「主イエスが差し出してくださる復活の出来事、それを私たちが手を伸ばして、しっかりと捕まえる」そのところで、私たちは「この命が死に打ち勝っているのだ」ということを確かなこととして知らされていくのです。
 長い間病気に苦しんでいた女性は、自分ではもはや病気を乗り越えられない、この先には死があるだけだと思い定めていましたが、しかしそれでも、主イエスなら何とかしてくださるだろうと思って主イエスににじり寄り、その服に手を伸ばしました。私たちもそうなのです。「この主イエスというお方にこそ、本当に私たちの命の源がある。このお方に信頼して、この方により頼んで生きるならば、わたしの命は死に打ち勝つことが許される。死を超えてなお生きる者とされる」という確信を持つことができるようになるのです。
 既に主イエスは、私たちがそういう確信を持つことができるように、この地上においでになり、行動を起こしておられるのです。ご自身が十字架にお架かりになり、そして復活され、その甦りの土台の上に教会が建てられました。そして2000年もの間、この地上で、毎週毎週、この週の初めの朝に「主イエスは甦られたのだ」ということが語り続けられています。「主イエスが死と正面から立ち向かい、死に勝利して甦っておられる」ことを、私たちは毎週、この場で聞かされています。そして、そのことを「信じるように」と招かれているのです。私たちがなすべきことは、そのようにして目の前に甦りの主イエスが与えられている、示されている、その主イエスに手を伸ばして、主イエスを我がものだと受け取ることです。

 今日は1月最終の日曜日ですから、この礼拝の中で逝去者記念式が行われます。私たちはその時に、ただ召された方々を人間的に懐かしく思い出すだけではなく、それらの方々が永遠の命の中に匿われている、移されているのだということを信じる者とされたいと願います。
 そしてまた、今日は礼拝後に教会総会が予定されています。私たちが新しい一年になしていくことは、まさに「主イエス・キリストにある命が死を超えたものだということを信じて、信仰によって、身をもって証し続けていくこと」ではないでしょうか。主イエスが私たちの歩みに伴ってくださる。そして様々な限界や、破れや問題や悩みを越えて、私たち一人一人の命を更に先へと持ち運んでくださることを信じ、希望を持って、与えられている人生の道のりを先へ先へと歩んでいきたいと願うのです。

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