聖書のみことば
2017年1月
1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月22日主日礼拝音声

 新たなる命〜花婿に伴われて
2017年1月第4主日礼拝 2017年1月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章14節〜17節

<14節>そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。<15節>イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。<16節>だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。<17節>新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 ただ今、マタイによる福音書第9章の14節から17節までをご一緒にお聞きしました。14節に「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」とあります。「そのころ」という言葉で始まっていますが、原文を読みますと「その時」と書いてあります。ですからこれは、先週聞いた出来事と、起こった時が同じだということです。主イエスが徴税人マタイを弟子に招いて、大勢の徴税人や罪人たちと食卓を囲んでいた「そのとき」に起こった出来事なのです。
 先週聞いたところでは、ファリサイ派の人たちが来て、主イエスの弟子たちに向かって「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と尋ねました。そして、今日のところでは、それに引き続くように洗礼者ヨハネの弟子たちが来て、今度は弟子たちの行動について「あなたの弟子たちは断食しないのですか」と主イエスに尋ねるのです。ファリサイ派の人たちは主イエスのことについて弟子たちに尋ね、洗礼者ヨハネの弟子たちは、主イエスの弟子たちのことを主イエスに尋ねています。主イエスのことなら主イエスに、弟子たちのことなら弟子たちに直接尋ねれば良いと思うのですが、そうではなくて、どうも何か屈折したところが見受けられるところです。

 さて、「あなたの弟子たちは断食しないのですか」との問いですが、一口に「断食」と言っても、食べ物をある一定の期間摂らないという理由は一つではないと思います。私は、健康のためと言って「週に一度、食べ物を摂らないと決めている」という人に会ったことがあります。そういう健康法もあるのかなと思います。あるいは、健康診断の前には、前日の食事を控えてくるようにと言われることもありますし、治療のために一定期間食べないということもあるでしょう。もちろん、今日の箇所で言われている断食は、健康管理のためではなく、宗教的な意味を持つものです。
 しかし、宗教的意味を持つ断食と言っても、私たちにはあまり馴染みがないかもしれません。私もそのような意味での断食はしたことがありません。けれども、若い頃、一人暮らしをしていて、食べ物もお金も底をついて、お給料日まで水だけで生き延びなければならないという経験をしたことがあります。宗教的でも自分の意思でもなく、そういう状況に追い込まれてしまったのですが、実際に食事を絶ってみますと、いろいろなことを感じられるものだということを知りました。まず、空腹になると、それだけで肉体が痛めつけられている感じが起こってきます。特に仕事が夜勤でしたので、頭の中で脳細胞が死滅していくのが分かるというような感覚を経験しました。それから、自分の肉体が弱っていって、自分が「ボロ雑巾のようだなあ」と感じました。雑巾を固く絞ってコロンと転がすと絞った形のままで床に転がっていますが、空腹を抱えてアパートの部屋に転がっていますと、そのボロ雑巾になったような気分でした。空腹というのは、気持ちからしますと惨めですが、しかし同時に、貧しくて惨めな自分が「それでも、ここで生きて良いと神さまから言われているからここにいるのだ」と感じることもできました。
 これは想像ですが、宗教的断食というのは、そういう苦痛を自分の体に繰り返し与えて「自分の体は貧しいものなのだ」ということを自分の体に教え込んでいく、そういうところがあるのだと思います。「わたしは本当に神さまに支えられているのだ」ということを覚えるために、繰り返し繰り返し一定期間食事を摂らないという方法をとって、「自分は神の前に敬虔な者だ」と思っていた人がいたのでした。
 ファリサイ派の人たちも、ヨハネの弟子たちも好んで断食の時を持っていたことがここに記されています。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食している」。どうもここはマタイによる福音書だけを読んでいると分からないのですが、マルコによる福音書を見ますと、丁度この日、つまり主イエスが徴税人たちと食事をした日が断食の日だったようです。ファリサイ派の人たちもヨハネの弟子たちも断食をしていたのに、主イエスは徴税人たちと食事をしていたわけですから、「どうしてあなたの弟子たちは断食しないのか」という問いになったのです。食事を摂らない生活が繰り返されていくと、身体的にも特徴が出てきます。まず痩せて体が締まってきます。手足はカサついて、冬にはあかぎれが出やすくなります。定期的に断食している人は、自分の体で経験していますから、他の人を見れば瞬時にその栄養状態が分かるのです。ですから、ヨハネの弟子たちからすると、主イエスの弟子たちには全く切迫感が感じられずに「断食をしていないのではないか」と思ったのかもしれません。

 「断食」ということですが、かつて主イエスは弟子たちに「断食について」教えられたことがあります。それは、「断食しても良いが、他の人に気付かれないように注意深く行いなさい」という教えでした。マタイによる福音書6章16〜18節に「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とあります。
 どうして「断食するときには、他の人に気付かれないようにしなければならない」のでしょうか。「断食している」ことが分かると、その人を特別な目で見て、敬虔さを褒めるような場面が起こってくるかもしれないからです。
 「神に対する敬虔な思いから自分の肉体の弱さを自分の肉体に感じさせ、そして同時に感謝する」、それだけであれば、断食は「良い行い」になり得ます。しかしそれは、自分の弱さを通して「神が本当にわたしを支えてくださっている。心だけではなく肉体においてもと感じる」、それで終わるのであればということです。
 ところが「断食」という行いは、人の目が触れた途端にとても厄介なことをもたらします。それは、どんなに「人目を気にしない」と言っても、人は「自分が周りの人たちからどう思われているか」と思いながら生きている者だからです。「このわたしを認めて欲しい、承認されたい」という欲求は、どなたでも例外なく持っているものです。自分には決してそんな思いはないと言われる方もいらっしゃるでしょう。しかしそれば「自分を認めて欲しい」という欲求を、自分の中で押し殺しているだけだろうと思います。私たちは、たとえキリスト者であっても、気づけば、しばしば神を忘れて神抜きで生きているということがあります。それと同じくらいに、私たちは、「自分を認めて欲しい」という欲求を根強く持っているものなのです。そして、「断食」という行いは、「『本当にこの人は神の目に敬虔に歩んでいる人だ』ということを周りの人たちに認めさせたい、認めて欲しい」という思いを実現する手段として容易く用いてしまう、そういう危険に陥らせるものです。もともと断食は、神と自分との間のことで、神の前で「自分は本当に貧しい者だ」ということを覚えるためのものだったはずです。しかし、いつの間にか他者から認められるための行いにすり替わってしまうのです。
 このように、断食は、人に知られると堕落してしまう恐れが多分にあります。いえ、断食だけではなく、自分たちの敬虔な行いというものは皆、そういう危険をはらんでいると思います。自分がいかに敬虔かということが周りの人に見えてしまった途端に、周りから見られている自分が妙に気になってしまうのです。そうすると、無邪気に純真に神にだけ向かっていられなくなるような弱さを、私たち人間は例外なく持っています。そういう堕落の危険が伴いますから、主イエスは、「断食をするときには、くれぐれも他の人に気づかれないように注意しなさい。頭に油をつけ、顔を洗い、朗らかに、まるで断食などしていないように生活しなさい」と教えられました。

 さて、今日の箇所で主イエスに質問しているのは、主イエスの弟子たちではなく、バプテスマのヨハネの弟子たちです。彼らは「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と主イエスに問いました。主イエスの弟子たちが主の教えに従って断食していたとすれば、ヨハネの弟子たちは、主イエスの弟子たちの断食に気づかなかったのかもしれません。ですから、一つの答え方としては「いや、わたしの弟子たちは断食しているけれど、それを気づかれないようにしているから、あなたたちには分からないだけだ」と答えることも可能性として有り得たと思います。ところが主イエスは、そうはおっしゃらずに別のことを言われました。主イエスは、ヨハネの弟子たちに分かりやすいように返事をしておられます。15節に「イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる』」とあります。
 主イエスは、ご自身のことを「花婿」だと言っておられます。花婿が花嫁の家を訪れて結婚式は始まります。「婚礼が行われている間、つまり披露宴の最中、皆が一緒に飲み食いしながら喜びを表す時には、あなたがたも断食などしないだろう。言ってみれば、わたしが弟子たちと一緒にいるこの時というのは、待ちに待った花婿が花嫁の家にやって来た時のようなものなのだから、弟子たちは今ここでは断食はしないのだ」とおっしゃったのです。ここで主イエスがご自身を「花婿」に譬えられたことは、わざとなさったことで、ヨハネの弟子たちにはよく分かる事柄でした。どうしてかと言いますと、彼らの先生であるバプテスマのヨハネが、主イエスを花婿に譬えたことがあるからです。
 かつて、ヨハネの弟子たちと主イエスの弟子たちがライバル関係のようになった時がありました。しかも主イエスの所に多くの人たちが集まっているのを見て、ヨハネの弟子たちが先生であるヨハネに問うたことがありました。ヨハネによる福音書3章22節〜30節に語られています。26節〜30節に「彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない』」とあります。バプテスマのヨハネが弟子たちに対してこのように教えていたことを、主イエスは今日のところで持ち出しておられるのです。ヨハネが「主イエスは花婿であり、自分は花婿の介添え人である」と言ったことを持ち出して、「今は花婿が来ているのだから、弟子たちは大いに喜んで食事をしているのだ」という返事をされました。

 「花婿が来て結婚式が始まるのを、花嫁も家の人たちも心待ちにしている。その花婿が今やって来て、婚礼が始まっているのだよ」と主イエスが教えられた相手は、バプテスマのヨハネの弟子たちです。主イエスがヨハネの弟子たちにこのように教えてくださったということは、実は、今日ここにいる私たちにとっても幸いなことであると言ってよいと思います。「花嫁の家に花婿が訪れてきてくれて、その声が聞こえるところでは、皆が共に喜びに招かれているのだ」
ということを、主イエスがここで教えてくださっているからです。私たちは今、ここで、礼拝を捧げています。この礼拝の中では、聖書が朗読され、御言葉が説き明かされています。私たちはここで、主イエスの姿を肉眼で見ているわけではありません。しかし、実はまさに、聖書の朗読を聞き説き明かされているこの時は「主イエスが花嫁である教会を訪れ、主イエスが親しくご自身の宴へと招いてくださって、主イエスの言葉を聞かせてくださっている」そういう時なのです。私たちは今、この状態で、一人の例外もなく、主イエスの祝いの宴、喜びの宴会に招かれて共に集っているのです。
 嬉しい宴会というと、私たちはクリスマスのことをすぐに思い出すと思います。クリスマスには皆集まって祝会をし、賛美や降誕劇、出し物をして楽しみながら食事を共にして、クリスマスの訪れを皆で祝います。しかし、教会の本当に嬉しい宴の時というのは、クリスマスのような特別な日だけということではありません。毎週毎週、この礼拝堂で礼拝を捧げる時、ここで主イエスが聖書を通してご自身の御言葉を私たち一人一人に親しく語りかけてくださる、その主イエスの語りかけてくださる声の聞こえるところで、私たちはそれぞれに歩んできた一週間の生活の疲れ、重荷をひととき下ろして、ほっとさせられるのです。神の独り子である主イエスが、私たちのために人間となってこの地上に現れてくださいました。そして私たちにも分かる人間の言葉で親しく語りかけてくださるのです。
 主イエスは、この礼拝のたびごとに、ご自身がお架かりになった十字架を指差しながら、「あなたの罪は、あの十字架の上で赦されているのだよ」ということを、私たちに宣言しておられます。「もしかすると、あなたは、過ぎた一週間の間に、神を忘れ神抜きで歩んだことがあったかもしれない。神の御心に背いて自分の思いを先立たせて歩んでしまったことがあったかもしれない。それは決して赦されることではなく取り返しのつかない失敗ではあるけれど、しかしそのあなたの罪は、確かにあの十字架の上で清算されているのだから、あなたはもう一度ここから、神の御前に生きていくことができる。神はいつもあなたを顧みてくださる。ここから始まる一巡りの間、あなたはいつも神の保護のもとに、神の導きのもとに置かれて、ここからそれぞれの生活を歩むのだよ」、私たちは、そういう主イエスの御言葉を、この礼拝に集うたびに親しく聞かされます。「あなたは神の宴に招かれている。だから、本当に喜んで生きていって良いのだよ」と、神によって認められている一人として、ここから歩んで良いのだと、主イエスから語りかけられているのです。
 そして、主イエス・キリストによる赦しの御言葉を聞くということこそ、御言葉を聞くということこそ、私たちの信仰生活にとっては最も大切な土台となる言葉なのです。それは、私たちの喜びの源でもあります。ですから、私たちの教会生活においては、御言葉を聞くということが大変重んじられてきます。礼拝において聖書が朗読され説き明かされるだけではありません。愛宕町教会で言えば、水曜日と木曜日の祈祷会、金曜日には聖書に親しむお母さんの集いや金曜礼拝、土曜日にはマルコの会が持たれ、婦人会や壮年会、青年会でも聖書が開かれます。そういう一つ一つの場面で、私たちは主イエスの御言葉へと向かわされていくのです。私たちに語りかけられている主イエスの御言葉、神の言葉、私たちはそれを聞くことへと招かれ、導かれているのです。
 そして、親しく主イエスの御言葉を聞かされながら、私たちは、与えられているそれぞれの人生を生きることができるようにされます。主イエスが共に歩んで御言葉を聞かせてくださるので、私たちはそれに慰められ、ほっとさせられ、勇気付けられて、日々の生活を歩んでいけるようにさせられます。
 私たちの信仰生活は、いつも御言葉をもって主イエスが訪れてくださる、そういう中に置かれています。主イエスが共に歩んでくださっている、だから、「あなたは断食をして自分の弱さに目を落とさなくても良い」のです。

 主イエスは、ヨハネの弟子たちへの返事の中で、「花婿が取り去られて御言葉が聞けなくなる」、そういう場合も有り得るのだということを示唆しておられます。これは少し、私たちにとっては不安になるような言葉です。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と言われました。花婿が取り去られてしまうと、花婿の声に慰められている人たちは自分の弱さをつくづくと思い知るようになるのだと、主イエスはそう言っておられるのです。実はこれは、聞いているのがヨハネの弟子たちですから、ヨハネの弟子たちを思いやって、このようにおっしゃったのだと言われています。
 というのは、まさにヨハネの弟子たちは、この人たちにとっての花婿がいない境遇を過ごしているからです。マタイによる福音書4章12節のところで、バプテスマのヨハネはヘロデ・アンティパスによって捕らえられて、今、マルケス城の地下牢に繋がれているということが起こっています。主イエスが、花婿が取り去られる時のことをわざわざお話になったのは、主イエスの弟子たちがそういう日を迎えるということよりも、むしろ実際に先生を捕らえられて、今先生であるヨハネと言葉を交わすことができずにいるヨハネの弟子たちを気遣っておっしゃっておられるのです。「あなた方も、あのヨハネが一緒にいた時には、さぞ心強かっただろう。けれども、今、ヨハネが牢に捕らえられているこの時には、本当に心細くて、そうであるから、断食に精を出して励んでいるのだよ」と教えておられるのです。人は皆、自分を導いてくれるもの、導き手を見失ってしまう時には、本当に貧しい者になっていくのだということを教えておられるのです。

 何れにしても、断食によって自分の体に弱さを思い知らせる、そういう仕方で神を求めるというやり方は、「花婿がいる」という生活の中には似つかわしくないものです。花婿がいる時には、花婿の言葉に耳を傾けて大いに喜び、慰められ、力を受けて歩む方がずっと相応しいことです。
 しかし私たちは、いつでも礼拝を守れる、教会の諸集会に出席して御言葉に耳を傾け続けられるかと考えますと、病気になって家を出られなくなったり、健康であっても様々なこの世の事情によって教会から遠ざけられてしまうこともあるのです。物理的に御言葉を聞けないという境遇に置かれる場合が有り得るのです。そしてそういう時には、ヨハネの弟子たちのように、自分たちが従うべきものから引き離されて、御言葉が聞けないという時があります。そうなる時に、私たちはどうなるでしょうか。つい、断食に代表されるような自分自身の個人的な敬虔さに依り頼むということが起こってくるのです。
 御言葉を聞いてほっとすることができる、そういうことがある間は、私たちは喜んで生活を続けることができます。けれども、それが取り去られてしまうと、私たちはほっとできず、緊張状態が続くようになります。そして、そういう緊張状態の中から、つい、教会の悪口を言ったり、兄弟姉妹の信仰生活のあり方を批判したり、なじったりしてしまうというような失敗も起こってくるのです。ちょうど、今日のところに語られている、ヨハネの弟子たちがそうです。主イエスはヨハネから洗礼を受けているのですから、本当から言えば、ヨハネの弟子たちは主イエスの兄弟みたいなもので、本来なら攻撃してくるような人たちではありません。福音書を読んでいますと、他の箇所では全く敵対はしていません。
 ところが、今日の箇所だけなのですが、ヨハネの弟子たちが主イエスの弟子たちをなじるかのような口調で「なぜ断食しないのですか」と言っています。これは、ヨハネの弟子たちが本当に心細くて、緊張状態の中に置かれてしまっているために、寛容さを失ってしまっているからです。そして、誰も彼もが自分たちと同じように、自分たちの個人的敬虔さの業に励むべきだと思い込んでしまっているために、主イエスの弟子たちを攻撃するということが起こっているのです。
 しかし、そういう個人的な敬虔さに頼ろうとすることは、主イエスの十字架による赦しの御言葉を聞いて慰められ励まされて生きるという態度と、突き詰めて考えますと、両立しないことです。主イエスの十字架によって、私たちは「本当にあなたは、主イエスの十字架によって罪赦されている。罪赦された者として歩んで良いのだよ」という言葉を聞かされた中で生きるようにと招かれているのに、そのことには目も耳もくれずに、「わたしは自分の敬虔さによって生きていくのだ」ということになりますと、十字架の御赦しの意味が見失われていってしまうのです。

 そのように「両方が共に並び立つということが難しい」ということは、一方がもう一方を引き裂くようなことになるのだという警告を、主イエスはこの後、ヨハネの弟子たちになさいました。それが16節以降のところです。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」。洋服の譬えとぶどう酒の譬えが二つ出てきますが、両方の譬えに共通していることは、一方が他方を引き裂いて破れさせ、そして遂にはどちらも使い物にならなくなってしまうとう結果です。
 主イエスの十字架によって、私たちの罪、神を忘れ神抜きで生きてしまう罪が赦される、そして神の保護のもとに置かれて生きることができているのだという福音を信じるのであれば、そのことに励まされて歩むことが相応しいことです。しかし私たちは、時に、そういう神への感謝を表したいばかりに、見事な信仰の証しを立てたいと願うようなところがあります。「神によってキリストに結ばれ新しい者とされたのだから、新しくされた自分を見事に生きて見せたい。そして、それを通して神への感謝を表したい」、そう思う中で、新しくされている者としての自分の実感を心ゆくまで味わいたいと望む、そういうところがあります。それはある意味、神への感謝の応答として起こってくる感情ではあります。
 けれども、私たちがあまりにも、信仰者としての自分の見事さということにこだわりすぎてしまうと、そこでは柔軟性のない新しい布のようになって、頑なになってしまって、十字架の主によって赦されているという歩みをしている兄弟姉妹たちの信仰生活を批判して傷つけて引き裂いてしまうということが起こり得るのです。あるいは、新しいぶどう酒がどんどんエネルギーに溢れて発酵して、自分の中からエネルギーを出したくて仕方なくて、そういう場合には、既に与えられていた古い皮袋を引き裂いて破ってしまうのです。その結果は、結局、自分に与えられた教会の生活も破壊され、自分自身もどこに歩んで行ったら良いのか分からなくなって、袋から流れ出てしまい、無駄になってしまうのです。
 そうならないようにと、主イエスはヨハネの弟子にも、また主イエスの弟子たちにも教えておられるのです。

 「花婿が今、あなた方のもとを訪れている。あなた方は、その花婿に伴われて、本当に喜ばされる新しい生活に入れられているのだから、そこに留まり続けることが良いのだ」と主イエスが教えてくださっている言葉に、私たちは心して耳を傾けるようでありたいと思うのです。
 そして、何にも増して、主イエスの御言葉を慕い求めて、御言葉に励まされ、慰められ、勇気を与えられて、私たちに与えられている今日の生活に向かって歩んで行きたいと願うのです。

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