聖書のみことば
2017年1月
1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月15日主日礼拝音声

 憐れみゆえの招き
2017年1月第3主日礼拝 2017年1月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章9節〜13節

<9節>イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。<10節>イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。<11節>ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<12節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。<13節>『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ただ今、マタイによる福音書第9章の9節から13節までをご一緒にお聞きしました。9節に「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。マタイという人が主イエスに従って行ったという出来事が述べられています。
 このマタイという人は、今聞いていますマタイによる福音書を書き表した人物です。ですから今日の箇所は、マタイが自分自身のことを、主イエスの弟子に招かれた日のことを思い起こしながら記していると言ってよいでしょう。自分自身のことを書くのですから、マタイはこの箇所に限っては、自分の思いのままに自由に書き記しても構わなかっただろうと思いますが、しかし、マタイはそうはしません。前にも申しましたが、マタイは、マルコによる福音書を手元に置き、参照しながらマタイによる福音書を書きましたが、この箇所をマタイとマルコで比べてみますと、二つは驚くほど似ていることが分かります。ほとんど逐語的に同じです。ということは、マタイは、自分の出来事でありながら、マルコ福音書の記事を最大限尊重して、いくらか短くした以外には手を加えず書いたということになります。そして、そうであるだけに、今日の箇所でマタイが手を加えた2か所の部分は、マタイが深く考え抜いて書いたということが分かります。今朝は、そのところを中心に聴いていきたいと思います。

 まずは、マタイがマルコの記事を書き改めている箇所ですが、それは「マタイ」という名前です。マルコでは、収税所に座っていて主イエスに招かれて弟子となった徴税人は「レビ」だったと書かれています。マタイによる福音書の次に書かれたルカによる福音書でも、やはり徴税人は「レビ」だと書かれています。より正確に言うならば、マルコやルカでは、徴税人の名前を「アルファイの子レビ」と記しており、いかにも由緒正しい生粋のユダヤ人だったということを強調するような口ぶりで書いています。ところが、マタイによる福音書に限っては、徴税人の名前は「マタイ」だったと言っています。マタイだけが名前を書き改めたのですが、どうしてでしょうか。
 これは、マタイが「主イエスの弟子に招かれた」ということを本当に深く感謝を持って受け止めたからです。おそらく、マタイの元々の名前は「レビ」という名前だったのでしょう。ところが、主イエスは弟子たちにあだ名を付けるのがお好きで、漁師上がりのシモンには「ペトロ」と付け、徴税人だったレビには「マタイ」とお付けになりました。聖書の中には、いろいろな機会に主イエスが弟子たちにあだ名を付けられた記事が書かれています。ペトロが「頑固であり、それでいて脆いところがある」ことを見て取って、「お前は『岩=ペトロ』だ」と言われました。あるいは、ヤコブとヨハネの兄弟が二人揃って気が短いのをご覧になると「雷の子=ボアネルゲス」とお付けになりました。弟子だけではありません。主イエスが住んでおられたガリラヤ地方の領主はヘロデ・アンティパスでしたが、この人が非常に狡猾で抜け目なく立ち回る人で、またバプテスマのヨハネの首を斬るという残忍なところもあることを見て取ると、「あれは狐だ」と、領主にあだ名を付けたりもしました。
 主イエスは徴税人レビにも「マタイ」と名付けられました。マタイはそのことをとても感謝して、その後、「わたしはマタイです」と名乗るようになりました。この名前の意味は「神さまからの贈り物」という意味です。主イエスがレビを「マタイ」と呼ばれたこと、それは、主イエスご自身が「レビが弟子に加えられた」ということを深く喜ばれたのだということを表しています。主イエスはマタイに、「お前は神からの贈り物だよ」と言って名前を付けてくださいました。9節に「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とありますが、主イエスからしますと、収税所にレビという人がいることを初めから知っていて弟子にしようとして出かけられたという訳ではないようです。むしろマタイとの出会いは、主イエスご自身にとっても予想外のことだったでしょう。恐らく、初対面のような出会いだったと思います。それでも主イエスはマタイに、「わたしに従いなさい」と、この時に呼びかけられました。本当に短い招きの言葉です。ところが、この招きがマタイにとってはすべてが変わる発端の出来事となりました。マタイは招かれた時、即座にその招きに従います。それまでは収税所の中に座っていましたが、主イエスの招きを聞いた時、すぐに立ち上がって主イエスに従って行ったのです。ほとんど初対面の人に呼びかけられて、すぐに従うことができたということ、これは一種の奇跡だと言ってよいと思います。主イエスから従うようにと招かれた時に、どうしてこんなに率直に、即座に従う準備がマタイの側に整っていたのか、詳しいことは分かりません。もしかすると、徴税人という仕事について悩んでいたのかもしれませんが、それもはっきりとは分かりません。
 しかし、主イエスの方では、マタイが弟子への招きに即座に応じたことの背後には、神のご計画と配慮に満ちたお導きがあったのだということを見て取られました。そして、従ってきた「徴税人レビ」に、「あなたは神からの贈り物だ。マタイだ」という名前をお付けになりました。マタイはこの出来事を大変深く受け止めたのです。それで、他の弟子たちが元々の名前である「レビ」と呼んでも、マタイ自身は「わたしはあくまでもマタイなのだ。主イエスへの神からの贈り物として、今ここに主に従う者となっているのだ」と言って、マタイと名乗りました。聖書の中にそのようなマタイの姿が記されていることは、私たちにとっても、本当に感謝すべきことだと思います。たとえ初対面の人であっても、主イエスが「従ってきなさい」と招いてくださっている。その招きを聞いたならば、その招きを信じて従うということがあり得るのだということを、このマタイが身をもって表してくれているからです。
 私たちには時折、主イエスの御言葉に励まされて、そして主に従っていく信仰生活を、極めて人間的な尺度で考えてしまうようなところがあります。すなわち、主イエスが「わたしを信じて従ってきなさい。今日からはあなたと一緒にわたしが人生を歩いて行ってあげよう。あなたの人生にわたしが伴ってあげよう。あなたがどこで何をするにしても、いつもわたしが共にいて、あなたを慰め、支え、導いてあげよう」と呼びかけて下さって、そして私たちがそのことを感じることがあっても、実は私たちには、自分で自分を抑制してしまうような力が働く場合があります。「自分は教会に連なるようになってからまだ日が浅い。自分のようなものが主イエスを信じると言い表してキリスト者になるなんて、まだ早い。それはまだまだ先のことだ」と考えて、自分で尻込みしてしまうということがあるのです。しかし、それは実は、本当に思案のしどころだと思います。主イエスの招きを信じて、主イエスに伴われて生きるようになる。それは実は、主イエスの招きを聞いた時にしか起こらないことです。考えてみますと当たり前のことですが、主イエスに従うのであれば、主イエスのおられないところでは、そんなことは起こりません。主イエスが共にいて「わたしに従ってきなさい。いつもあなたと一緒に歩いてあげるから」と呼びかけてくださる、その呼びかけがあるからこそ、私たちは従うことができるのです。
 そうであるなら、主イエスから「わたしに従ってきなさい」と言われた時には、率直に応じられるということは、大変良いことなのです。マタイはまさに、その千載一遇のチャンスを得て、立ち上がって、主イエスの弟子になっていきました。

 主イエスに従って弟子になったマタイは、すぐに他の弟子たちと共に、主の食卓に連ならされたのだと、10節に述べられています。10節に「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」とあります。ルカによる福音書では、この食事はレビの家で、即ちマタイの家で行われたのだとはっきり書かれていますが、マタイによる福音書では、どこの家での食事だったのかはあまり大事なこととは考えられていません。ただ単に「その家で」と書かれていて、これですと誰の家での食事なのかよく分かりません。マタイの家か、あるいは主イエスの家か、ペトロの家か、はっきりしない書き方です。これはマタイが弟子になってすぐの頃の話ですから、もちろん、マタイ自身がこの食卓の中にいて、どこの家での食事だったのか憶えているはずです。ところがそのことについては、はっきりと書いていない。ということは、マタイにとってそのことは重要ではないということです。マタイにとって重要なのは、それよりも、この食卓が主イエスや他の弟子たちが同席している食卓で、そこにマタイのような徴税人や罪人と呼ばれる人たちも大勢連なっていたということです。マタイはそう思っています。
 そして、徴税人や罪人と呼ばれる人たちが大勢食卓に連なるということは、主イエスが主催なさる食卓の特徴だと言って良いと思います。今日の箇所だけではなく、福音書を読んでいますと、主イエスはしばしば、徴税人や罪人、あるいは娼婦たちとも食事を共にして親しい交わりを持っておられます。「徴税人や罪人」とありますが、「徴税人」は、領主であったヘロデ・アンティパスやローマ帝国に納めるための税金を徴収していた人たちのことです。また「罪人」とはどういう人かと言いますと、注解書を読んでいますと、ヘブライ語では「地の民」と呼ばれる人たちだと説明されています。普通のユダヤ人や、特にファリサイ派の人たちからすると、生活に問題のある低俗な人たちだと見なされた人たちが「地の民」と呼ばれた人たちです。一般のユダヤ人たちは律法の定めに従って生活します。安息日には礼拝堂に行って礼拝を捧げ、様々な清めのしきたりを守り、収入の10分の1を献金しました。ところが、職業や様々な理由のために、そういうユダヤ人たちの一般的な暮らしができない人たちがいました。あるいは、できるのにしない人たちがいました。そういう人たちが一般的なユダヤ人からは「罪人」と言われて、一段劣った者だと見なされていました。
 ところが、主イエスはそういう人たちとも積極的に交わりをお持ちになって、食事を共にされました。ご自身の食卓から、そういう人たちを締め出したりなさらなかったのです。この日も、そのように徴税人や罪人たちと食事をしておられたと記されております。すると、そういう主イエスの有り様に対して、ファリサイ派の人たちが横合いから出て来て、文句を言うのです。しかも、主イエスに直接、疑問や質問を投げかけるのではなく、弟子たちに文句を言うのです。11節に「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」とあります。主イエスに直接言うのではなく、弟子たちに言ったというところに、ファリサイ派の人たちの屈折が感じられます。
 実は、ファリサイ派の人たちも食卓の交わりを大切に考えていました。主にある兄弟姉妹が共に集って過ごす食卓の交わり、それは神がすべてを完成してくださる永遠において、私たちが招かれて親しく神の食卓に連ならされる天の宴会の先取りだと考えていたので、ファリサイ派の人たちはとても大事にしていたのです。ですから、ファリサイ派の人たちにとっての食事というのは、単に人間的な仲の良さで共にするものではありません。とても宗教的な行いとして食事を大切にします。そういうファリサイ派の人たちの考えからからすると、食卓の交わりは天の国の宴会の先取りですから、そこに入れない人がいては困るのです。徴税人や罪人、娼婦たちは、神のお求めになる生活をしていないのですから、終わりの日に神の国に入れるはずがないと考えていました。そういう人たちが食卓に入ると、天の国の宴会の先取りを壊してしまうことになりますから、そういう人たちには入って欲しくないと考えたのです。
 ところが、主イエスの食卓を見ますと、罪人たちが大勢集っているというのです。主イエスが確信犯的に徴税人や罪人たちと食卓を共にしている、それがファリサイ派の人たちには我慢ならないのです。ですから、イエスのことは放っておいて、主イエスに繋がっている弟子たちを一人、また一人と主から引き離そうとして、ここでは弟子たちに向かって尋ねるのです。しかしこれは、弟子たちから答えを引き出したいわけではありません。質問の形を取っていますが、はっきり言ってしまえば「あなたたち、あんな先生に従っていたら、あなたがたも神の永遠に繋がる食卓を失うことになるよ」という警告をしているのです。別にファリサイ派の人たちの食卓ではないのですから、お節介なのですが、この人たちは親切心から言っています。「今のうちに、あんな先生や罪人たちとは縁を切って、真っ当なユダヤ社会の一員になった方が良い。さもないと、あなたがたはこの社会のアウトサイダーになってしまう。普通の交わりから締め出されることになるよ」。ファリサイ派の考える正しさから言えばそう言わざるを得ません。弟子たちは「自分たちが従っていくべき先生だ」と思っているのに、「あんな先生はだめだ」と言われて、どう答えたらよいかと、きっと困ったに違いありません。

 それに対して、主イエスご自身がお答えになります。12節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』。こういう言い方で、主イエスはファリサイ派の人たちの言い分を一部認めるのです。すなわち、徴税人や罪人たちの生活のあり方が、問題に満ち病んだものだということをお認めになります。主イエスが徴税人や罪人、娼婦たちと交わるのは、この人たちが主イエスを受け入れ、受け止めてくれるからではありません。あるいは、この人たちのあり方がファリサイ派の人たちのあり方より正しく好ましいものだと思っておられるからでもありません。主イエスがこの人たちと親しく食事をなさるのは、こういう人たちが主イエスを必要としているからです。病気にかかった人たちが医者を必要とするように、こういう人たちも主イエスを必要としています。
 もっと踏み込んで言うならば、この人たちは主イエスの背後におられ主イエスを送ってくださった神の保護と導きを必要としています。ですから主イエスは、この人たちを積極的にお招きになって、この人たちと交わりを持とうとされるのです。そしてマタイは、主イエスがこの食卓の時におっしゃった言葉を印象的に覚えていて、ここに書き込みました。マルコによる福音書にはない言葉です。13節の前半、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
 「行って学びなさい」というのは、当時のラビがしばしば使った言い回しで、「よく考えなさい。じっくりと考えて実行しなさい」という意味です。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』、この言葉の意味をじっくり考えなさい」と言われたのです。マタイは、主イエスのこの言葉を書き加えました。

 この言葉は旧約聖書ホセア書6章6節に出てくる言葉です。一体何を言っている言葉なのでしょうか。ホセア書6章6節に「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」とあります。この言葉は、ちょっと聞いただけでは、神がもはや「焼き尽くす献げ物」に代表される儀式としての礼拝を喜ばれないと言っているようにも聞こえます。いわゆる献げ物をする祭儀的な礼拝の時は終わり、これからは神の御心を知って行う、愛を行うことこそが喜ばれる、そういう時代が来ているのだと受け取ることもできます。けれども多分、この箇所は、「動物犠牲の礼拝」と「神の御心にある愛を知る」ということが互いに対立しあうこととして考えられているのではありません。そうではなく、礼拝はいずれにしても献げ物を献げる礼拝ですが、ここで礼拝される神は、「神を知ることで私たちの心の内に愛が生まれることを望んでおられるお方なのだ」ということを語っているのです。「形だけ献げ物をしていれば良いのではなく、本当に神に真っ直ぐ礼拝を献げて、神の御心を知る時に、本当にその神の愛によって生きて行くようになる。そのことが求められていることなのだ。今日、自分の隣にいる隣人に対して、もしあなたが憐れみ深くないなら、愛を行わないなら、どんなにあなたが多くのいけにえを献げ、どんなに正しく清らかに立派に生きてみせたところで、それは虚しいものでしかない」、そうホセアは語りました。主イエスは、このことを、今日のところで思い起こさせようとしておられるのです。

 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」、そして続けて、本当に驚くようなことを、主イエスは言われました。13節の後半「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 「罪人を招く」、そのために主イエスは来られたのだと言っておられます。この招きは、口先だけの招きではありません。ファリサイ派の人たちも言ったように、この地上を超えた永遠の、天の国の宴会に連なる時には、神に連なる者となるのですから、本当に清らかな人でなければそこに連なることはできないはずです。清い者だけが天の宴会に連なることができる。そして、自分たちの地上での食事は、この天の国を表すのだから、清くない者が宴会に連なることは良くないというのがファリサイ派の人たちの言い分です。それは実際、尤もなことで、その通りです。
 けれども、そこで問題になるのは、では天の宴会に出席できるほどの清らかなあり方を、どうすれば私たちは手に入れることができるのかということです。神の前にあって、傷もシワもシミも何一つない、本当に清らかな者だと認められるほどの清らかさというものを、私たちは一体どこから手に入れられるのでしょうか。ファリサイ派の人たちは、それは、一生懸命に聖書を読み、そこに書かれていることを守りさえすれば良いと教えました。そう思っていたのです。けれども、主イエスはその点ではもっと厳しいことを言われました。「あなたがどんなに聖書を読んだとしても、その言葉を忘れることがあるでしょう。神様に従って歩もうとしても、ふと忘れて自分の思いになることがあるでしょう。そういう生活をしているあなたは、清らかだと言えるのか」という目で私たちを見ておられます。人間の努力や情熱では、そう簡単に清らかさなど手に入りません。
 では、神の宴会に連なることのできるほどの清らかさとは、どのようにして私たちに与えられるのでしょうか。実は、本当の清さを私たちは持ち得ません。本当の清さ、それは主イエスだけがお持ちです。その清らかな主イエスが、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださる。私たちが神に背き、神なしで平気で生きてしまうような神に対する罪を、主イエスが「十字架の苦しみと死」を通して支払ってくださって、その罪を清算してくださったがゆえに、主イエスが持っておられる真の清らかさを私たちに贈り物としてくださったのです。そういうことがあるからこそ、私たちは、天の国の宴会に連なることができるようになるのです。主イエスはそのようにお考えになって、徴税人や罪人たちと食卓を共になさいます。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主イエスは言われました。これは、ただ一緒に食事をしようという口先だけの呼びかけではありません。「あなたが神の前で清らかに生きられるように、あなたの罪はわたしが全部、十字架にかかって支払ってあげるから、そのことを信じてあなたは、清らかな食卓に連なる者として、ここに来て一緒に食事をしなさい。そういう者としてあなたは、歩んで行きなさい」と、主イエスが招いてくださっているのです。
 このことを示すために、主イエスはホセア書の言葉を引用し、深く考えるようにとファリサイ派の人たちに言われました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」、この言葉を、主イエスは、ご自分が十字架にかかることで本当のこととしてくださいました。神は私たちに「憐れみのもとに生きる」ことをお求めになります。
 神の憐れみをもたらすために、主イエスは自らが犠牲となってその身を献げてくださいました。そのことを信じる、そういう者として、「わたしは主イエスに招かれた者だ。『あなたは神からの贈り物だよ』と主イエスが言ってくださって、主イエスに従う者とされている」ことを、マタイは深く感謝して、ここで、「マタイ」という名前と「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉を、今日のこの箇所に書き加えたり、書き直したりしているのです。

 主イエスに招かれ、主イエスによって清められて生かされるというのであれば、私たちはどうあるべきでしょうか。まずは、主イエスが「罪人を救うために来たのだ」とおっしゃった言葉を信じて、主イエスの招きに従うということが第一だろうと思います。「わたしに従いなさい。あなたと共にいてあげるから」という言葉を信じて、「わたしはついて行きます。あなたがわたしに伴ってくださるお方であることを信じます」と告白して、主イエスに従うことが第一だと思います。「主イエスの十字架の死、あれは、わたしのための十字架でもあるのだ。主イエスが十字架にかかってくださったから、わたしは本当に清められたのだ」と信じることが第一です。
 そしてその後は、そのようにしてせっかく神の交わりの中に入れられたのですから、私たちも教会の交わりの中で、共に主の食卓に与って、共に主イエスの御言葉を親しく聞いて慰められり、励まされたり、勇気付けられたりしながら日々の生活を味わっていく、信仰を養われていくということが大切になるでしょう。
 マタイが、主によって清められた罪人たちと一緒に主イエスの食卓に加わり、親しく主イエスと交わって、慰められたり勇気付けられたりしたように、私たちも一人ひとりが、そういう生活を送っていくことができるのです。「あなたも、教会の親しい交わりの中で力を与えられて生きることができる」と、主イエスが招いてくださっている、その招きに与ることが大切なことだろうと思います。

 そして、第3のことがあります。マタイは、仲間の多くの徴税人や罪人たちと共に主の食卓に座りました。私たちも、自分の親しい友人や知人、あるいは
愛する家族たちを主イエスのもとに招いて、皆で食卓に与るということができます。主イエスがお架かりになった十字架は、ただ私たちだけの十字架ではありません。「わたしに従って来なさい。あなたと一緒に生きてあげるから」という主イエスの呼びかけを聞き取ったならば、誰でも清められるのです。そういう十字架に主イエスはお架かりくださっているのです。ですから、私たちも、自分に近しい愛する一人ひとりのために祈り、また礼拝へと誘うことができるのです。「あなたも主イエスの十字架のもとに置かれている。あなたも主イエスを信じて、本当に清らかな者として、この地上を歩んでいくことができる。いけにえよりも憐れみを求めてくださる神が、主イエスを通してあなたに伴ってくださる」そういう招きが、ここにはあります。神の憐れみのゆえに、私たちが祈り求める全ての方々が、きっと救いに入れられる、そのことを信じて祈って、またその一人ひとりが神の言葉を聞いて慰められ強められて生きることができるようにと、私たちがそのことに仕える者でありたいと願います。

 私たちは主イエスを通して示されている神の憐れみのもとに置かれています。そして、一人ひとりが主イエスによって神から与えられた贈り物として生きる生活を、今日、与えられていることを覚えたいと思います。私たちは、ここに

「マタイ」と名付けられた弟子と同じように、一人ひとりが神の慈しみを受け、そして神に支えられて生きる、そういう者となるように招かれています。その招きを聞き分けて、「主イエスに従います」と言いながら、日々の生活を歩む者とされたと願います。
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