聖書のみことば
2017年1月
1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月1日主日礼拝音声

 悪霊を追い出す主
2017年1月第1主日礼拝 2017年1月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第8章28〜34節

8章<28節>イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。<29節>突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」<30節>はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。<31節>そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。<32節>イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。<33節>豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。<34節>すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

 ただ今、マタイによる福音書第8章の28節から8章の終わりまでをご一緒にお聞きしました。まず28節に「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」とあります。主イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り込んで、ガリラヤ湖の対岸に渡って行かれた先での出来事がここに語られています。
 ここには、湖を渡りきった一行が着いた土地が「ガラダ人の地方」だったと言われています。ここは、マルコによる福音書やルカによる福音書を見ますと「ゲラサ人の地方」と言われていまして、少し違う地名が書かれています。マタイによる福音書は使徒マタイが書いた福音書ですが、マタイがこれを書いた時には、既にマルコによる福音書が書かれ、その写本があちこちの教会に出回っておりました。マタイもそのうちの一冊を手元に置いて、つまりマルコによる福音書を参考にしながら、マタイによる福音書を書いたらしいということは、広く知られている事実です。ですから、手元にマルコによる福音書があるにも拘らず、違う地名が書かれているということは、マタイが何らかの意図を持ってマルコによる福音書に訂正を加えたということになるのですが、しかしその意図は分かっていません。聖書を研究する学者たちの中には、マルコが言う「ゲラサ人の地方」というのは、湖のそばではなく、大分内陸に行かないとたどり着けない場所であるために、まさかそのような内陸の奥地から豚の群れが押し寄せて来て溺れ死ぬなどということは考えにくく、マタイはそのことを知って、湖に近い「ガラダ人の地方」としたのかもしれないと推測する人もおります。案外そうかもしれません。
 因みに、まずマルコが書き、マタイが「ガラダ人の地方」と書き直し、その後に書かれたルカによる福音書では、再び「ゲラサ人の地方」と書かれており、マルコの記述に戻っています。ルカによる福音書の筆者であるルカは医師であり、エルサレムに住む文化人でガリラヤ湖の対岸の地理にあまり詳しくなかったようだということが知られています。ルカによる福音書を読んでいますと、ガリラヤの地名についてはつじつまが合わないことが多くあります。これはルカがガリラヤに行ったことがなかったためだと思われますが、ルカは手元にあったマルコとマタイの福音書を見比べながら、地名の違いに気づいた時に、より古く書かれたマルコによる福音書の記述を取って、「ゲラサ人の地方」と書き戻したようです。ですから、結果的には、マタイだけが「ガラダ人の地方」と言っていることになります。

 地名のことはともかく、この箇所についてのマタイによる福音書の記述は、マルコによる福音書やルカによる福音書と比べてみると、ずい分、違っているところが多いのです。主イエスが悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出すのですが、例えばマタイでは、悪霊に取り憑かれた人が2人いたと書かれています。けれども、マルコによる福音書を読みますと、悪霊に取り憑かれた人は1人です。ルカによる福音書でも1人です。ですから、どういうわけかマタイは、悪霊に取り憑かれた人を1人から2人に増やしています。このように違いがあることを見せられますと、私たちは気になります。
 しかも、変更しているのはここだけではありません。マルコによる福音書では主イエスの前にやってきた人は1人ですが、その人は、肩をそびやかして虚勢を張り、自分たちは「レギオン」だと名乗ります。これはルカにも出てきます。マルコによる福音書5章9節に「そこで、イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った」とあります。悪霊たちが言っている「レギオン」という言葉は、もともとローマの軍隊の5,000人〜6,000人規模の軍団を表す呼び名です。ですから、悪霊たちは主イエスから名前を尋ねられて、「俺たちはとても大勢で、ローマの軍団のように強いのだ」と主イエスの前で強がって見せたということになります。ところがマタイでは、大変印象的なこの「レギオン」という言葉を思い切りよく削除してしまっています。その結果、マタイによる福音書ではどうなっているでしょうか。悪霊に取り憑かれた人は2人と人数は倍になり、しかもその2人について「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」と紹介されているにもかかわらず、主イエスの前で凄んでいるようなそぶりは全くありません。ただ、自分たちと関わりを持たないでほしい、「後生だから、苦しめないでくれ」と懇願するような記述になっています。大変凶暴だという2人が主イエスの前ではとても低姿勢です。
 そして更に言いますと、この物語として大変重要なことなのですが、マルコやルカでは、主イエスが悪霊を追い出すというこの物語の後に、悪霊を追い出していただいた人が「主イエスに従いたい」と願うという場面が出てきます。その申し出に対して、主イエスは、マルコでもルカでも従ってくることをお許しにならず、その土地の留まって出会う人たちに自分の身に起こったことを話すようにとお命じになりました。その結果、悪霊を追い出してもらった人が、大勢の人に自分が主イエスにしていただいたことを告げ知らせたという後日談が語られています。しかし、マタイではそういう後日談もバッサリと削られています。これは一体どうしたことでしょうか。マタイは元々のマルコの記事をかなり思い切って書き替えたことがわかります。

 福音書に出てくる主イエスの癒しや奇跡の出来事の記事は、多くの場合は、「主イエスがそこにおいでになったことで神の御国、神の御支配がそこに生まれた。その現実の目に見える徴が、病気が治ったとか、悪霊が退散したとかいう形で表された」という書き方になっています。ですから、癒しや奇跡の後には、普通、「病気が治ってよかった。悪霊が追い出されてよかった」と言って終わるのではなく、それを見た人たちの反応が続いて語られます。「多くの人はこの出来事を見て神の御名を崇めた」とか、「本当に驚き戸惑った。不思議だと言い合った」とか、本当に神の支配がそこに現れた、それが目に見える形で起こったので、周りの人間たちがそれをどのように受け止めたかということが必ず最後についてくる書き方、それが奇跡や癒しの一般的な書き方です。
 ところが、ここではそうではありません。主イエスはここで悪霊を追い出しますが、そのことで話が終わります。マタイによる福音書のここの記事は、普通の癒しや奇跡の出来事とは違う異質な記事になっています。通常の奇跡の出来事、悪霊を追い出した出来事としてマルコが書いていた記事を、マタイは、出来事としては同じですが意味合いとして全く違うものに書き替えています。マタイはここで、奇跡が起こって神の支配が目に見える形で示されているということと違うことを伝えようとしています。一体何を伝えようとしているのでしょうか。

 実はマタイは、今日の全体を通して、「主イエスというお方は、悪霊や罪と死の勢力に対してどこまでも戦いを挑む方である。そして勝利される方である」ということを非常にはっきりとさせようとして語っていると思います。今日の箇所全体を見ますと、主イエスは大変寡黙です。どこで言葉を発していらっしゃるかを注意しながら読みますと、32節に一言「行け」とおっしゃっているだけなのです。32節に「イエスが、『行け』と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ」とあります。この「行け」という言葉もマルコやルカの福音書と比べますと、マタイは意図的に縮めて一言だけにしています。そうすることでどういう効果があるかと、ここを読む人が主イエスの言葉に注意して読むならば、この一言に集中するという効果があります。つまり、主イエスが悪霊に向かって「行け」とおっしゃっている、その言葉にスポットライトが当たる、皆の思いが向かっていくような、そういう伝え方をしているのです。
 この「行け」という言葉は、別の日本語に訳すならば「退け、去れ」とも訳されます。あるいは、この言葉を使って婉曲に死の出来事を表す場合もあります。「行く、去る」が「世を去る」という意味で使われます。ですから、主イエスが「行け」と言っておられるのは、婉曲には「お前たちはここから去れ」と言っておられるのかもしれません。主イエスは悪霊たちに「行け」と一言おっしゃって、断固、この2人から立ち去るように言われました。この言葉は断固として言っておられる言葉ですから、決して、「豚の中に入りなさい。豚の中になら居てもいいですよ」というような妥協を含んでいる言葉ではありません。主イエスはガラダ人の地方で出会った2人の人から、すっかり悪霊を取り去ろうとなさいます。悪霊に譲歩したり取引をして、その場に近いところに留まっていることを許すなどという妥協は一切なさらず、完全に退けておしまいになる、それがこの記事です。

 マタイという人は、マルコやルカと違って、十二弟子の一人です。ですから、直に主イエスに接した人です。ただ、このガラダ人の地方での出来事の時にこの場にいてこれを目撃したかと言うと、若干曖昧なところがあります。というのは、マタイによる福音書を読んでいますと、この先の9章9節になって、マタイが弟子に招かれるという記事が出てきます。ですから、この福音書が時間順に書かれているのだとしますと、マタイが弟子になったのは、ガダラの出来事の後ということになりますから、この時マタイはまだこの場に居なかったかもしれません。けれども、マタイが直にガラダ人の地方での出来事を目にしていなかったとしても、主イエスの側近くで寝起きし、他の11人と共に直弟子として従った経験から、主イエスがどういうお方であるかということは、深く知っていたに違いありません。主イエスは確かに「神の国」の訪れを宣べ伝えて、共に神が歩んでくださる徴として、方々で癒しの業や奇跡を行ったということを、マタイは知っています。そして、その中の幾つかは実際にマタイも目撃したことでしょう。
 しかし、そういうマタイは同時に、「悪霊を追い出す」という主イエスの御業は、他の癒しや奇跡と少し違っている点があるということを、主イエスの側で過ごしながら、肌で感じていました。主イエスがおいでになる所、行く先々では、悪霊が退いて「悪の力、死の勢力」が逃げ去っていくということが確かに起こります。それは、主イエスが断固として、そういう勢力に立ち向かっておられるからなのです。

 今日のところで主イエスが悪霊におっしゃった「行け」という言葉を、主イエスは「荒れ野の誘惑」の時に、サタンに対して言っておられます。日本語訳ですと別の言葉ですので気づきにくいのですが、マタイによる福音書4章10節に「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」とあります。「退け、サタン」、この「退け」という言葉が今日の「行け」と同じ言葉です。「退け、サタン」という言葉は、サタンに対する断固たる言葉です。主イエスは、サタンが主イエスの近くにやって来た時に、「わたしから離れろ、退け」と言われました。同じように主イエスが「十字架に向かう使命」を初めて弟子たちに語られたところで、ペトロが主を脇にお連れしてお諌めしようとした、その時にもペトロに向かって同じ言葉をおっしゃいます。マタイによる福音書16章23節に「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」とあります。ここで「引き下がれ」と言っておられる言葉が「行け」、あるいは「退け」という言葉です。主イエスはサタンや悪霊に出会う時に、決して妥協や取引をなさいません。サタンが近寄ってきて誘惑する、あるいは悪霊が現れる、その時に主イエスは断固として、これらを滅ぼすまで戦われる、「退け、行け、去れ」という厳しい姿勢をお持ちになっているということを、マタイによる福音書は所々に語流。それは、マタイが主イエスの側近くにいて、主イエスというお方がどういうお方であるかということを良く知っていたということの反映なのです。主イエスは愛に満ちたお方ですが、一方で、悪霊に対しては断固として戦われる。マタイは、この主イエスの厳しい一面を福音書を、記すにあたって書き記しているのです。

 では、どうしてマタイがこのようなことをしたのかということが、次に考えるべきことです。どうしてマタイは、このガラサ人の地方での出来事を普通の奇跡の出来事としないで、元々のマルコの記事に手を加えてまで、断固として悪霊と戦う主イエスの姿を際立たせるという記事にしたのか。その理由を考えてみますと、まさしく当時の教会が悪霊との戦いに苦闘していたからに他ならないのです。今日の箇所では、「主イエスがガラダ人の地方で、弟子ではなく、たまたま出会った2人の人が主イエスの御言葉によって悪霊を追い出して頂いた」のだという記事として書かれています。しかし実際には、悪霊が手玉にとる人間というのは、弟子たち以外の人たちだけではないのです。教会生活を送っている人たちの上にも、サタンの手が伸ばされて、悪霊が忍び寄ってくる場合があるのです。
 新約聖書を読んでいますと、生まれたばかりの初代教会が、悪霊や死の勢力の脅威にさらされて、それらとの戦いに真剣に取り組んでいたことを知ることができる、そういう箇所が幾つか出てきます。例えば、よくわかる箇所ですと、コリントの信徒への手紙二11章14、15節に「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう」とあります。当時のコリントの教会に、いかにも義に支え、主イエス・キリストに仕えて生きているような顔をしているけれども、実際には違うものに仕えて虚しい人生を生きている人たちがいたことが分かります。前後を読むと分かりますが、それは教会員の中にいたというだけではなく、偽の使徒であり、ずる賢い働き手と言われるような人たちが出てくるのです。つまり、信徒ではなく教職たちの中に、真実に主イエスに仕えているのではなく、それを装いながら実際には違って自分の思いに仕えている人がいたということが分かります。
 そして、そういう偽善的なあり方が教会の中に忍び込んで来るとどうなるでしょうか。最初は目立たないように活動していても、次第に教会の中に居場所を見つけて真ん中に居座るようになり、最後には、主イエスの御業だったり、使徒たちが伝え続けてきた教会の中で信じられている事柄を軽々とあしらって圧倒するところにまで成長していくのです。教会の中にあって、いかにも主イエスの仕えていますという顔をしていながら、実際には人間的な思いの方が大事だということが中心になって、本来教会が信じるべき信仰を覆すところにまで行ってしまったのです。そういうものとの戦いがコリントの教会にあったことが、この手紙の中から窺えることなのです。

 今日私たちが聞いているマタイによる福音書の記事では、悪霊に取り憑かれていた2人は「非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」と紹介されています。サタンの誘惑に乗せられて、悪霊の働きに縛られてしまうとこういうことが起こり得るのだということを、マタイは警告しています。もし実際に、悪霊の働きに動かされているような勢力が教会の中に生まれてきてしまうと、教会は誰もその周りを通れないほどに混乱してしまいます。
 実際に、主イエスの前に現れた悪霊たちは、自分勝手に時を定めて、今は自分たちが活動できる時だと主張しています。悪霊が主イエスに抵抗して言っている言葉は、29節「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか』」です。「まだ、その時ではないのに」と、主イエスが「行け」とおっしゃっている時に、悪霊が「まだ、その時ではないのです」と主イエスに教えているような不思議なことが起こっています。
 全く不思議なことですが、悪霊たちには、主イエスがどのようなお方なのかということが、よく分かっているようです。それはこの箇所に限ったことではなく、福音書のあちらこちらに見られます。主イエスが礼拝堂に入ってこられた時に、悪霊に取り憑かれた人が「ナザレの子イエス、わたしに関わらないでくれ。お前が何者か分かっている。神の聖者だ」と叫んだという記事が出てきます。礼拝堂にいる他の人間には、主イエスがどういうお方であるのか、よく分かりません。人間には分からないけれども、悪霊は「ああ、神の独り子がやって来た」と分かるのです。どうして分かるのでしょうか。恐らく、神ではないのに、悪霊は自分が神のような顔をして世界を支配するようなふりをするからだろうと思います。神のようなふりをする、そういう偽りを行っていますから、本物がやって来ると、自分たちとは異質だと感じて敏感に反応するのです。自らが偽物であるだけに、本物に出会うとすぐに分かってしまうのでしょう。
 悪霊は「神の子、かまわないでくれ」と叫びます。「かまわないでくれ」とは、どういうことでしょうか。神抜きで、自分たちでやりたい放題やっている「今の暮らしをそのまま続けさせろ」と要求しているということです。神から遠く離れて、神がおられないようなあり方であれば、それは可能かもしれません。しかし実際には、目の前に神の独り子である主イエスが来ておられる。しかもその方が「神の子である」と分かっている。そういう場面で、なお、神抜きの生活ができるかというと、できる筈はありません。もしそれを続けるならば、はっきりと神をないがしろにして生きているということになります。
 「まだ、その時ではない」と悪霊は言いますが、その「時」は神が定められて、実際に主イエスに出会わされているのですから、今この時こそ、神との出会いの「時」なのです。けれども悪霊は、「そうではない。時は自分たちが勝手に設定できるのだ」と言い張るのです。

 このような悪霊の姿を通して、私たちは、自分のことを考えることができるのではないでしょうか。主イエスに出会わされる。そして「神があなたの上におられる」ということを聞かされながら、それでもなお「わたしは神とは関わりがない」という素振りで生活をすることがあるとしたら、それはもしかすると、私たち自身の中に、今日の箇所で悪霊が主イエスに抵抗しているのと同じ質の悪霊が入り込んできているのかもしれません。そして、そういう生き方は決して心地よいものではないはずです。そうではなく、「救い主がわたしのところに来てくださっている、主イエスが私と共に歩んで下さっている」と認めて生きていく方がずっと心地よいに決まっています。
 そして、今日の記事が語っていることは、そのように私たちの中に働く悪霊に向かって、主イエスが「行け。この人から出て行け」と一喝してくださるのだということです。
 私たちは、自分自身、本当に力無い者であるということを感じざるを得ません。振り返りますと、「主のもの、神のもの」と思っていながら、気づくと、神のことも主イエスのことも忘れて、自分自身の思いや願いを実現することに夢中になってしまっている。あるいは逆に、自分の思い通りに生きられないために拗ねたり落ち込んだり、引きこもってしまったりする。そういう弱さを私たちは皆、持っています。けれども、そういう私たちに向かって主イエスが「行け」と悪霊を一喝してくださるのです。「この人は悪霊のものではなく、神のものである」と宣言して、主イエスと共に生きる道へと導き返す力が、主イエスの言葉にはあるのです。

 なぜ、悪霊に取り憑かれた人が2人なのか。ユダヤの国では、「本当のこと」を1人が強く言っても確定しません。2人または3人の証人の口を持って「本当のこと」が確定します。ですから、悪霊に取り憑かれた人が、1人で主イエスに向かって「あなたは神の子だ」と言っても、それは確定したことになりません。しかしここで、2人が言ったとすれば、それは本当のことなのだということになります。ですから、ここでは癒された人数が問題なのではありません。悪霊は逃げ腰で「神の子、かまわないでくれ」と叫びましたが、悪霊の言ったこの言葉が「本当のこと」であることを、マタイは示そうとしています。「真実な神の子であるお方が、私たちの前に来ておられる。そしてこの方は、私たちが悪霊に支配されることを決してお許しにならない。清らかな神の民として歩むことを望んで下さっている。だから、私たちの中に兆す様々な悪霊の力、サタンの力を一喝して追い出し、私たちを救い出してくださる。そういうお方が、今、私たちと共にいてくださるのだ」ということを、マタイは伝えようとしているのです。
 私たちの日々の生活の上にも、主イエスが常に伴ってくださって、そして、生活の様々な時に、このような頼もしい言葉をかけてくださるということを覚えたいと思います。私たちは悪霊の支配から救い出されて、主イエスによって清められ、神のものとされた者として、私たちに与えられている日々の生活を歩む者とされたいと願います。
 繰り返し繰り返し、主イエスは、私たちの中に手を伸ばしてくるサタンや悪霊の勢力を一喝して追い出してくださいます。私たちが、そういう主イエスの言葉に清められて、新しく生きて行く時、私たちは、湖の中になだれ込む豚の群れではなく、主イエスの御声を聞き分けて、そこから慰めと導きを与えられて歩む「羊の群れ」として、この地上を歩んでいくことになります。私たちは、そういう群れとして、主イエスから「悪霊よ、去れ。退け。この人から出て行け。この人は間違いなく神の民の一員なのだ」と呼びかけられている、その声を聞き取る者とされたいと願います。

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