今朝は、普段別な時間に礼拝を捧げている教会学校の子供たちと大人とが、一緒に礼拝を捧げています。これは本当に嬉しいことだなと思います。
先週の月曜日は休日でしたが、教会学校の先生たちの勉強会が愛宕町教会でありました。山梨県全体から、そして長野県、静岡県からも、教会学校で働いている先生方が集まってきて、お話を聞きました。そのお話の中で、私はとても驚いたし、また教えられたことが幾つもありました。その中の一つですが、日本の教会の多くでは教会学校は朝9時くらいから、そして大人の礼拝は10時過ぎくらいから守られていて、子供の礼拝と大人の礼拝が別々の時間に持たれているのが普通だそうで、愛宕町教会もそうですが、そのようなやり方は、世界中で見ると大変珍しいことだそうです。日本では「大人の礼拝」と言いますが、世界中の教会ではほとんど聞かれない言葉だそうです。
主イエスは、どのように言っておられるでしょうか。ある時、主イエスが人々を教えておられたところに、大勢の人たちが子供たちを連れて来たことがありました。生まれて来たばかりの赤ちゃんまで連れて来ました。その時、主イエスの弟子たちは恐い顔をして「ダメダメ。ここは大人の人たちがイエスさまのお話を聞くところだから、子供なんか連れて来ては駄目だ」と言ったそうです。ところが主イエスはその様子をご覧になっていて、弟子たちを叱って、「子供たちをここに来させなさい。邪魔してはいけない。神さまの御国というのはこの人たちの国なんだよ」と言われました。確かに聖書にそう書いてあります。
ですから、世界中のほとんどの国では、日曜日の朝に礼拝をする時に子供と大人を分けないのだと教えられました。そうなのかと思いました。私も幼い頃から教会学校に通っていて、「高校生になったら大人の礼拝に出ましょうね」と教えられていましたから、それが普通のことだと思っていましたが、そうではないことを知りました。そのお話を聞いたばかりで、今日の日曜日になり、このように大人も子供も一つの礼拝に招かれて、同じ聖書を読み、同じ讃美歌を歌って礼拝できることは、本当に嬉しいことだなと思っています。
ですから、いつも一緒に礼拝できたらいいなとも思いますが、教会学校で使っている讃美歌と大人が使っている讃美歌は違っていますから、いつもいつも一緒にということはなかなか難しいかもしれません。けれども、たとえ別々の時間に礼拝していたとしても、「本当は、教会は一つなのだ」ということを覚えておきたいと思います。大人の方々も、大人だけの礼拝というものが当たり前になっていますが、「この礼拝に子供たちを招くためにはどうしたらよいか」ということを考えてもらえると嬉しく思います。
さて、今日の聖書の箇所ですが、大人の礼拝ではマタイによる福音書を続けて聞いていますが、今日は、教会学校で最近聞いている旧約聖書のアブラハムのお話を、今、ご一緒にお聞きしました。その中の最後のところ、13章18節に「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」とあります。「アブラムが祭壇を築いた」と言われています。大昔のことですから、立派な教会堂などありません。「祭壇」とありますが、「祭壇」とは「繰り返しその場所にやって来て、神に献げ物をお献げして、神を賛美し祈る」、そういう場所のことです。建物はありませんが、私たちが今こうして礼拝している礼拝堂のような場所を決めて、アブラムは祭壇を築いたのです。
「祭壇」というのは、私たちの教会で言えばどこを思えば良いだろうかと考えましたが、今皆さんの前にある「聖餐卓」が祭壇に近いかなと思います。アブラムが献げ物をしたように、私たちも献金の時に集めた献金をここに置きますし、また、主イエス・キリストの十字架を覚えて聖餐式のパンとぶどう酒を分ける時にもここに置きますから、ここが祭壇に一番近いかなと思います。教会の聖餐卓は建物の中にありますから木製でも大丈夫ですが、アブラムが作った祭壇は、建物の中にあるのではないので、雨風にさらされることを考えて、恐らく石積みの頑丈なもので、一番上に平らな岩を置いて聖餐卓のようにしたのだと思います。
アブラムは祭壇を作り、繰り返し祭壇に来て神を礼拝するということを大事にしたので、引越しをして新しい場所に来た時、「一番に祭壇を作った」と今日の箇所に語られていますけれど、それは実は、アブラムが以前に大失敗をしたからなのです。教会学校では先週聞いたお話の繰り返しになってしまいますが、私たちは皆、大人も子供も、アブラムと同じような失敗をしてしまうのではないかなと思います。
私たちは、日曜日ごとに教会に来て礼拝を捧げるという生活をしています。ところが、そのようにして讃美歌を歌ったり、お祈りしたり、聖書のお話を聞く生活をしているうちに、私たちはいつの間にか「神さまがいらっしゃる」ということについて、よく分かっているようなつもりになってしまうのです。そして、「神がいることは分かっているのだから、特別に教会に行って礼拝を捧げなくても大丈夫」と思ってしまうことがあるのです。「別に教えられなくたって、神さまがいることなんか知っている。分かっているさ」という気持ちになってしまうのです。そうすると、「わたしは、もう分かっているのだから」と、礼拝に出席していても何か身が入らなくなってしまいます。「何か困ったことがある時には神に祈って頼れば良い」と思うけれども、普通の時には「分かっているからいいよ」と思ってしまって、お祈りしなくて良いと思ったり、忘れたりするのです。自分が祈らなくても、周りの人が祈ってくれれば良いと思うこともあるかもしれません。実は、アブラムは一時、そうなってしまいました。
それで、アブラムはどうなったでしょうか。アブラムはエジプトに下っていく時に、お祈りすることを忘れていたのです。もちろん、アブラムはアブラムなりに懸命に生きていました。けれども、礼拝をすることはありませんでした。お祈りも忘れがちになっていたのです。そうするとどうなったでしょうか。アブラムの心の中から、次々に、不安な気持ちや嫌な思いが湧き上がって来て、それをどうすることもできなくなってしまいました。
アブラムには、サライというとても綺麗な奥さんがいました。アブラムは、自分の心の中で「わたしの奥さんは美人だから、もしかしたら、エジプトの人たちがサライを見た時に、サライを自分の奥さんにしたいなと思うかもしれない。そうしたら、サライを奪うために、わたしを殺してしまうかもしれない」と思って、安心できなくなりました。アブラムは、祭壇を築いて礼拝をしていた時には、そんな思いをすることはありませんでした。様々な不安や嫌なことはたくさんありましたが、礼拝をする度に神の声が聞こえていたのです。「大丈夫だよ。あなたはいろいろと弱いところがあったり、不安なこともたくさんあるかもしれないけれど、神さまは確かにあなたのことをご覧になっているし、いつも守ってくださっているよ。あなたが間違った道に歩みそうになった時には、違うよと教えてくださるよ」と言ってくださり、実際に教えてくださったのです。「あなたは安心して良いのだよ。あなたはこの礼拝から一週間歩んで行きなさい」と励まされ、勇気づけられていたのです。
ところが、アブラムは「それは当たり前のことだ」と思っていましたから分かっているつもりになっていたのですけれども、実際に礼拝から離れてしまうと、いつの間にかそのことを忘れてしまいました。そうすると、何でも自分でやらなければダメだと思い、とても不安になったり嫌な気持ちが次々と心の中から出て来て、どうすることもできなくなってしまったのです。
それで、アブラムはどうしたでしょうか。不安になり恐くなってしまったので、奥さんのサライに、「どうかエジプトの人たちには本当のことを言わないでください。あなたはわたしの奥さんではなく、妹だということにしてください」と嘘をつくようにお願いしたのです。
「嘘をつく」ということも、弱い心の表れです。世の中では、「嘘をつくのは悪いことだ」と教えられます。確かに私たちの中にある悪い心の表れだと言えなくもありませんが、けれども実はそれは、私たちの中にある弱い心が元になっているのです。
アブラムは、サライに嘘をついてもらったお陰でどうなったでしょうか。サライは本当に美人だったので、エジプトの王であるファラオの奥さんになってしまいました。それで、アブラムはサライの兄ということなので、たくさんの褒美をファラオから貰うことになりました。
ところが、「嘘」は、いっとき誤魔化すことができても、いずれバレてしまうものです。アブラムとサライの嘘はバレて、エジプトの国から追放されて、元いたカナンの国に戻ることになりました。アブラムは、嘘がバレた時には、とても恥ずかしい思いをしたに違いありませんが、カナンに帰る道すがら、いろいろと考えたと思います。そして、「一体どうして、わたしは嘘をついてしまったのだろう。こんなことをする気持ちはなかったはずなのに」と思った時に、気づいたことがありました。「そう言えば、昔のわたしはそうではなかったのに、この頃のわたしは不安な気持ちや嫌な思いを抱くようになってしまった。考えてみるとそれは、神さまを礼拝しなくなってからだな」と気づきました。
13章2節から4節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」とありますが、アブラムはカナンに戻って来た時に、「彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」つまり「一番最初に祭壇を築いて礼拝をした場所」に帰って来たのだと聖書に書かれています。アブラムは、もう一度カナンで生活を始めるという時に、自分が一番最初に礼拝して神の名を呼んだ、その場所に帰って来ました。神を自分の生活の真ん中に置いて、「もう一度ここから始めよう」と言って生活を始めたのです。
今日の話は、このように、「神を生活の真ん中に置いて神を礼拝する生活をしていたから、アブラムは、どんなに辛いことがあっても、真っ直ぐに歩くことができたのだ」という話なのです。
さて、アブラムにはどんな辛いことがあったのでしょうか。アブラムにずっと最初からついて来てくれていた人は、奥さんのサライの他に、甥のロトでした。ところが、もう一度カナンに戻って生活を始めた時に、甥のロトとアブラムは上手くいかなくなってしまいました。どうしてでしょうか。今読んだところに「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とありますが、それは、エジプトのファラオから贈り物にもらったものを持っていたからです。しかし実は、甥のロトもたくさんの家畜や金銀をもらっていました。
最初は「儲かって、良かったな」と思っていたかもしれませんが、多くの家畜を飼うことになると、ロトの家畜とアブラムの家畜が一緒の場所にいることが難しくなっていきました。ロトの家畜の世話をする人、アブラムの家畜の世話をする人の間で喧嘩が起こるのです。家畜に水を飲ませるための井戸が取り合いになり、いざこざが起こりました。家畜に食べさせる牧草地についても同じです。それで、アブラムは大変困って考え、甥のロトに言いました。「ロトよ、どうも私たちはエジプトから帰って来てから、上手く行かなくなったね。それは、それぞれにたくさん家畜を持っているから、牛飼い、羊飼いたちが井戸や牧草地を取り合って喧嘩をするからだね。だから私たちは、別々の道を行くことにしよう。お前が先にどちらに行くか決めていいよ。お前が右ならわたしは左に、お前が左ならわたしは右に、反対方向に行くからね」と言って、ロトとお別れすることにしたのです。それは、致し方ない出来事でした。
けれども、ロトと別れたものの、アブラムはロトのことが心配でたまりませんでした。それはどうしてかと言うと、ロトが「わたしはこちらに行きます」と言って出かけた方向がソドムという町の近所だったからです。確かにソドムの町の近所は平らな土地で、草もたくさん生えていて、家畜を飼うには良さそうな所でしたが、しかし、ソドムの町の人たちは問題のある人たちでした。13節にはソドムの町のことについて「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と書いてあります。「嘘をついたり悪いことをしていても、人に見つからなければ大丈夫だ」というずるい気持ちや弱い思いの人たちが大勢、ソドムの町には暮らしていました。アブラムは、自分がエジプトで嘘をついて恥ずかしい思いをしましたから、そういう人たちがいる町は良くないと思っていましたが、ロトにはそういうことが分からず、ソドムの町の近くに行ってしまったのです。
アブラムは大丈夫だろうかと心配していましたが、案の定、心配していた出来事が起こりました。ロトは最初、ソドムの町の近くで家畜を飼って暮らしていました。けれどもやがて、ロトは「家畜を飼っているのなんて、馬鹿馬鹿しいことだ」と思って、家畜を飼うのをやめて、ソドムの町の中で暮らすようになってしまったのです。アブラムからするとロトは、ずっと小さい時から育ててきた甥です。子供のいなかったアブラムからすると、ロトは甥とは言っても、自分の息子のような存在でした。ですから、いつもロトのことを心配していたのです。そのロトが、家畜を飼いながら一生懸命働くのを止めてしまって、町の中で住むようになってしまったことがアブラムには辛く、悲しくて仕方ありませんでした。
ロトの方では、「いや、町の中ででもお金を上手く稼いで行くことはできるさ」と言って何も気づきませんでした。ですから、アブラムは「ロトのことでは、大変な失敗をしてしまったかな」と悲しく辛くなっていたのです。
けれども、そういう時に、神は礼拝を通してアブラムを励ましてくださいました。「あなたが住む場所、あなたが生きて行く所を、わたしが確かにあなたに用意したのだよ。だからあなたは、わたしを信じて生きて行きなさい。ロトのこともきっと守ってあげるから。だから、わたしを礼拝して、わたしの言葉に励まされながら、一日一日の生活を生きて行きなさい」と、神がアブラムに言ってくださったのです。
その言葉に励まされて、アブラムは、雨に濡れても風に吹かれても崩れない、しっかりした石段を築いて、それを「ここは、祭壇です。わたしの生活の真ん中にある礼拝の場です」と言って、生活を始めました。
実は、毎週教会にやって来る私たちも同じです。教会で礼拝を捧げて、聖書のお話を聞きます。その時に私たちは、聖書の言葉から励まされるのです。私たちは、不安なこと、嫌なこと、辛いことをたくさん持っています。子供たちは、「大人はいいな。早く大人になりたいな」と思うことがあるかもしれませんが、大人は逆に「子供はいいな。子供の頃に戻りたいな」と思うかもしれません。それは、大人であっても子供であっても、自分の生活は大変だからです。生きて行くことは、楽しいことばかり、良い事づくめなのではありません。ですから誰もが、自分以外の者になりたいと思う時があるのです。
私たちは本当に弱いところがあり、辛い思いをすることもありますが、しかし、神がそういう私たち一人一人に「あなたは今日、そこで生きて良いのだよ」と、毎週毎週、声をかけてくださるのです。神が毎週、聖書を通して私たちに言葉を語りかけてくださって、私たちを守ってくださる中で、私たちは生活して行くのです。
その神を忘れたり、神抜きにならないように、ここにこの教会が建てられていて、そして私たちが毎週ここに来るようにと招かれていることを、今日は大人も子供も共に覚えたいと思います。 |