聖書のみことば
2017年10月
10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月1日主日礼拝音声

 洗礼者ヨハネの死
2017年10月第1主日礼拝 2017年10月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第14章1節〜12節

14章<1節>そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、<2節>家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」<3節>実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。<4節>ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。<5節>ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。<6節>ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。<7節>それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。<8節>すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。<9節>王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、<10節>人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。<11節>その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。<12節>それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 ただ今、マタイによる福音書14章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている』」とあります。ここでヘロデが何気なく語っている言葉から、久々に洗礼者ヨハネの消息が聞こえてきます。それによると、ヨハネは既にこの地上にはいないのでした。予想もしなかったような政治家たちのスキャンダルに巻き込まれて、ヨハネは非業の死を遂げています。このような知らせを聞くと、私たちの心は痛みます。どうして聖書はここでヨハネの死の出来事を伝えるのでしょうか。
 今日のところは、主イエスのことには直接触れてこない箇所です。なぜここでヨハネの消息が語られるのか。聖書仲介者の一人は「ヨハネが領主ヘロデによって首を斬られてしまったこと、それは元を辿って考えると、ヨハネがヘロデの行い、特に結婚について聖書の律法に照らしてみた場合、正しくないと歯に衣着せずに言ったからに他ならない。ヨハネは預言者の最後の者であって、主イエスからは預言者以上の者であると言われているが、旧約聖書の預言者たちはいずれも苦しめられ捨てられ殺されていく、ヨハネもまたそういう預言者が辿る道を通ったのである。そして、そういう歩みを通して、主イエスの道行きを指し示すという道備えを果たしているのだ」と説明しています。まさしく、洗礼者ヨハネという人は、主イエスを示す先触れであって、自らの生と死をもって主イエスを指し示す指となって生き、死んだのでした。
 私たちは今日、「ヨハネの死」の姿を通して、ヨハネが指し示している「主イエス・キリストの死」について、聞き取ることができると思います。

 ヨハネはどうして殺されてしまったのでしょうか。そのことを知るために、この事件の背景となった領主ヘロデの結婚のことから考えてみたいと思います。発端に立つのは、直接首をはねたヘロデではなく、その父親であるヘロデ大王です。ヘロデ大王は、クリスマスの時に、生まれたばかりの主イエスを殺そうとして、ベツレヘム付近にいた2歳以下の男の子を皆殺しにしたことが知られています。大勢の男の子の命を巻き添えにして奪っても何とも思わなかったヘロデ大王、それがこの箇所のヘロデの父親です。
 ヘロデ大王には沢山のお妃がいました。今日、歴史家が調べて系図上で確定しているところでは10人のお妃がいます。ヘロデ大王が死んだ時、その領地は4つに分けられて、3人の息子たちが治めました。
 ヘロデ大王の第一夫人・正妻はマリアンネ一世と言われ、彼女からアリストブロスという息子が生まれています。彼は一番上の息子ですから、順当に行けば、ヘロデの後を継いで王になるはずの息子でした。ところが、彼はあろうことか父親であるヘロデ大王に暗殺されてしまいます。ヘロデ大王が自分の息子に王座を奪われることを恐れたためだと伝えられています。アリストブロスはそのように命を落としますが、その時すでに、アリストブロスには多くの子供がおり、そのうちの一人は使徒言行録にアグリッパ王として出てくるアグリッパ一世です。そしてアグリッパ一世の妹に当たるのが、今日の記事に出てくるヘロディアという女性です。
 ヘロデ大王の第二夫人は、面白いことに正妻と同じ名前でマリアンネという人で、紛らわしいのでマリアンネ二世と呼ばれているようです。彼女から生まれた子供にヘロデ・ボエトゥスという息子がいるのですが、この息子が最初にヘロディアと結婚します。親類同士の結婚です。そしてヘロデ・ボエトゥスとヘロディアの間に生まれたのがサロメという一人娘です。1組の家族ができたわけですが、ところが、ヘロデ・ボエトゥスはヘロデ大王が死んだ時に、どういうわけか領地を受け継ぐことができませんでした。このことがきっかけになって妻であるヘロディアは夫であるヘロデ・ボエトゥスを見限り、娘サロメを連れて夫の元から出て行ってしまいました。そして親類のヘロデ・アンティパストいう人を頼って身を寄せます。それが、今日問題になっている結婚です。
 恐らくマルコが勘違いしたのだろうと言われているのですが、聖書には皆、ヘロディアの夫はヘロデ・フィリポだと書いてあります。けれども、最初の本当の夫はヘロデ・ボエトゥスです。
 ヘロデ大王の第三夫人はマルタケという人です。マルタケから、長男アルケラオスと次男アンティパスが生まれます。長男アルケラオスはヘロデ大王が死んだ時に、4つに分割された領土の一番広い部分、ユダヤの地を相続します。ところが、アルケラオスは大変小心者で猜疑心が強く、父親譲りの残忍で頑固な性格でしたので、ユダヤの地を受け継いで間も無く、国を治めることができなくなります。ヘロデ大王も恐怖政治を敷いて力づくで国を治めていったことが知られていますが、アルケラオスは更に厳しく国を治めようとしたために、民衆から反発され暴動が起こり、その責任をローマ皇帝から問われて失脚してしまいました。その結果、ユダヤの国には領主がいなくなり、ローマ帝国の直轄地となります。そこでローマ総督が領主に代わる支配者となりました。それがポンテオ・ピラトという人物です。このようにアルケラオスが失脚したために、主イエスがお生まれになった時にはヘロデ大王が領主でしたが、十字架に架けられた時にはピラトが治めていたのです。次男のアンティパスは兄に比べると、より狡猾な人物です。主イエスが「狐」とあだ名を付けたことが知られていますが、アンティパスは4つの領土のうちのガリラヤとペレアを受け継ぎます。この2つを足しても、ユダヤの3分の1位の広さしかありません。しかし、アンティパスは領土を守り、ヘロディアはこのアンティパスの元に身を寄せるのです。
 ヘロデ大王の第四夫人は、エルサレムのクレオパトラと呼ばれた女性ですが、彼女からヘロデ・フィリポが生まれました。フィリポが4つの領土のうちの残りの1つであるトラコンを受け継ぎました。フィリポはヘロディアの娘のサロメを妻に迎えることになりますので、フィリポがヘロディアの夫と間違われたのかも知れません。

 ヘロデ大王にはこの他にも妃がいますので、大勢の子供をもうけていて、家族関係が大変入り組んでいます。洗礼者ヨハネは、その入り組んだ血縁関係にまっすぐに光を当てるということをしたのです。今日の箇所で問題になっているのは、ヘロデ・ボエトゥスの妻だったヘロディアをヘロデ・アンティパスが妻に迎えたということです。これはボエトゥスとヘロディアの夫婦関係が悪かったということだけではなく、アンティパスの側にもスキャンダルがありました。アンティパスは元々、シリアにあるナバテア王国の王女を妻に迎えていたのですが、彼女を離縁してナバテア王国に帰してしまいました。ですから、形の上では独身に戻ってヘロディアを妻に迎えたのです。体面は整ったとアンティパスは考えたのですが、しかしこの再婚は、「兄弟の妻を娶ってはいけない」という旧約聖書の律法に触れてしまう行いでした。レビ記18章16節に「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」とあります。ヘロデ・アンティパスとヘロデ・ボエトゥスは兄弟ですから、その妻と結婚してはならないとはっきり書かれているのです。
 この律法を理由として、洗礼者ヨハネは、ヘロデ・アンティパスを諌めて、ヘロディアを妻に迎えることを思い止まらせようとしましたが、アンティパスは聞き入れませんでした。洗礼者ヨハネは当時、民衆に人気が高く、ヨハネの言ったことはたちまち民衆に広がってしまいますので、ヨハネ自身の影響力の大きさもあって、ヨハネはアンティパスに捕らえられ、ガリラヤ湖の辺りに立っているマルケス城の地下牢に幽閉されてしまいました。5節には、「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである」とあるように、ヘロデはヨハネを殺そうとしていました。領主ヘロデにとっては、自分のやりたいこと、やろうとすることに、正面切ってノーを唱える預言者ヨハネが目障りでした。できれば暗殺してこの地上から抹殺してしまいたい、自分を厳しく批判するヨハネの口を塞いでしまいたいと思っていたのです。
 ところが、ヘロデはなかなか上手くヨハネを殺せませんでした。それはなぜか。理由は、ヘロデが民衆を恐れていたからです。ヘロデが恐れていたことは、民衆が自分の行いを見ているということです。ヘロデ自身が自分の行いに心配を持っているということではありません。何の罪も過ちもない、そういう人間を自分が決断を下して死に至らせてしまって良いのだろうか、そういう良心の呵責から来る恐れではありません。ヘロデ自身の思いからすると、目障りなヨハネを消してしまいたいのに出来なかったのは、群衆がヨハネを支持して預言者だと思っていたからです。ヘロデ自身はヨハネを邪魔な存在と思っていただけで、預言者とは思っていません。ところが、民衆の支持を受けているヨハネに迂闊に手を下してしまったら、群衆が怒り暴動を起こして、兄のアルケラオスの二の舞になってしまうと思って、ヘロデは身動きとれませんでした。
 そういうヘロデの状況でしたから、今日のところで、ヘロディアの娘サロメが洗礼者ヨハネの首をお盆に乗せて持ってきてほしいと要求した時に、ヘロデは当然、一方では「心痛めた」とありますように困ったに違いありませんが、しかし同時に、深い本音のところでは、それまでためらっていて出来なかったことを、やっと行うことが出来ると喜んだかもしれません。自分がどうしてもやりたいと思っていながら出来なかったこと、それをサロメが言いだしてくれたおかげで実行することができたのです。

 ここで、「ヘロデは民衆を恐れた」と書かれていますが、マタイによる福音書を読んでいますと、26章3節から5節に、これと全く同じ種類の「恐れ」というものが出てきます。「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とあります。読んでいてお分かりになるように、人は違います。「祭司長たちや民の長老たち」がカイアファという大祭司と相談して、「何とか主イエスを殺そうとしている」のです。この人たちにとって、「イエス」という男は目障りであって、口を封じたい相手でした。
 ところが、この人たちも堂々と主イエスを逮捕することができないと思っているのです。どうしてでしょうか。「民衆の中に騒ぎが起こるといけない」、つまり「エルサレムで民衆が騒ぎ出すと、自分たちがエルサレムで持っている政治的な権力を失うことになってしまう。自分たちは今、指導者であるけれども、ローマの信任を失うと、そういう立場から追い落とされてしまう」。ヘロデが恐れていた恐れと全く同じ恐れが、ここには語られています。2つの恐れは、自分の行いが間違っているか、誤りではないかというような恐れではありません。自分がやりたいことははっきりしているけれども、ただ、自分がやりたいようにやった結果、周りの人からどう見られるだろうか、そのことが不安なのです。周りの人たちから、「あなたは悪いことをしている」と見られて反発を受けるのではないか、そういう恐れを宿しているのです。

 そういう不安や恐れはどこから生まれるのでしょうか。自分がやりたいことははっきりしているけれども、「それをしたら世の中には通らないだろう。人々には非難されるだろう」と思うところから生まれています。ヘロデの場合には、ヘロディアを妻に迎えることが律法違反であることははっきりしています。仮に、一般民衆がこの「姦淫の罪」という律法違反を犯したならば、石打ちの刑に処されなければならない、そういう罪であることをヘロデは知っています。けれども、自分は領主であり権力を持っているのだから、その自分に対して正面切って指摘し反発するような人はいないだろうと高を括ってヘロディアを迎えたのでした。ところが、ヘロデが予想しなかったことですが、洗礼者ヨハネに罪をはっきりと指摘されてしまう。ヨハネさえ消えてくれれば、あとは自分の思い通りにできるつもりで、ヨハネを投獄し幽閉し、最後には首を切ってしまいました。まさに暴君の振る舞いです。
 そして、この同じことを、後に、エルサレムの祭司長たちや長老たちが行ったのだと言われています。主イエスの存在が目障りで、主イエスの言動が、自分たちの気に入らない。だから何とかして主イエスを抹殺してしまおうと思うのです。どうしてそのようなことを思うのでしょうか。それは、エルサレムの祭司長たちや長老たちの行いは、「上辺では正しそうに見えるけれども、決して正しくない」と主イエスから批判されているからです。祭司長たちや長老たちの行いは、「真実に神に向かって、平らな思いで神に仕える」というものではありませんでした。「彼らの言っていることは正しいけれども、行いを真似してはいけない」と、主イエスは言われたのです。そして、そう言われることが分かっているので、祭司長たちや長老たちは主イエスの口を封じたいと思ったのです。自分たちは、そうすることができるだけの権力を持っていると思っているのです。自分たちが権力を振りかざして凄んで見せれば、「無理が通れば道理が引っ込む」と思っているのです。

 実は、「ヨハネが殺されていく、その死」というのは、「主イエスがどのような経緯で殺されていくのか」ということを、そのまま表しているような死であるのです。
 ヘロデは、ヨハネさえ消すことができたら全てが終わる、そして何事もなかったかのように思い通りに権力を振るって生きていけると考えました。けれども、ヘロデがそう思っていたことは幻想だったのだということを、今日の箇所は語っています。
 ヘロデ・アンティパスは、ヨハネの首を斬りました。そこで終わるはずでした。ところが「終わらなかった」と、ここに語られています。まるでヨハネの亡霊が出てきたかのように、ヘロデ・アンティパスは感じました。主イエスの評判がヘロデ・アンティパスの耳に入った時に、「自分はヨハネの首を斬ったはずだけれど、しかしヨハネは生き返っているようだ」と感じてしまいました。首を斬って黙らせたのだから何事もなかったかのように流れていくかというと、そうはなりません。ヘロデは、自分が首を斬ったヨハネのことが気になって仕方ありません。まだどこかに生きているような気がするのです。
 今日の箇所は、そもそもヘロデが主イエスの評判を聞いて、「あれはヨハネの生き返りだ」と不安を口にしたところから始まっています。2節に「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」とあります。ヘロデは、「主イエスが奇跡を行う力を持っている」と言っています。これは大変皮肉なことです。この直前の13章58節には「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と書かれていました。主イエスが故郷のナザレにお帰りになったけれども、そこでは主イエスは奇跡をほとんどなさいませんでした。主イエスはご自身の力を現すことを控えられたと書かれています。
 ところが、そのすぐ続きの14章2節では「あれは洗礼者ヨハネだ。奇跡を行う力が彼に働いている」と言って、ヘロデは主イエスがなさってもいない奇跡に怯えているのです。主イエスは奇跡をなさらなかったのに、ヘロデは「イエスには奇跡を行う力がある」と怖がっているのです。ヘロデが心配しているようなことは、実は起こっていません。主イエスはヨハネの再来ではありません。ヨハネが生き返ったのではありません。どうしてここでヘロデが恐れているかと言うと、それは、実際にヨハネが生き返ったからでも、ヨハネの亡霊が現れたからでもなく、ただヨハネが指摘したヘロデの誤ったあり方を、ヘロデ自身が依然として行っているからなのです。

 ヘロデは律法の定めに従おうせず、権力さえあれば良いと思っていました。それをヨハネから諌められましたが、ヨハネは人間ですから、その口を封じさえすれば、全ては消えて無くなるとヘロデは思っていたのです。ところが、ヨハネが語ったことは、「ヨハネの口を通して神が語られた言葉」です。ヘロデは、ヨハネから問題にされているのではなく、神からそのあり方を問題にされているのです。ヨハネが死んでも、ヘロデ自身の問題は何も変わっていないので、主イエスの噂を聞いた時に、彼は大変恐れました。「ヨハネが再び現れたと思った」と言われていますが、それはヨハネが再び語ったということではなく、「主イエスがおいでになって、神の言葉が再びヘロデの耳に聞こえて来た」のです。首を斬られて語られなくなったはずの神の御言葉が、再び自分の元に聞こえてくるようになった、ヘロデ・アンティパスはそのことを耐え難いことのように感じたのです。ヨハネを通して指摘されていたヘロデの罪が放置されたままになっている、そこに主イエスの声が聞こえて来た時に、ヘロデは再び自分の過ち、落ち度を指摘されたと思ったのでした。

 こういうことは、ヘロデだけに起こることでしょうか。主イエスを亡き者としようとした祭司長や長老たちも、自分自身の生き方の過ちを指摘されて、主イエスを目障りな者と思いました。過ちを指摘する主イエスにつまずいて、腹立ち紛れに、主イエスを十字架へと追い上げ、抹殺してしまったのです。このようなことを聖書が語っていることを聞きますと、これは彼らだけの問題なのかと問われます。ここにいる私たちはどうなのでしょうか。私たちは天使のように無垢な者として地上を生きているのでしょうか。そうでないとすれば、私たちもまた、聖書の御言葉を聞く時に、自分自身の過ちが語り聞かせられているということがあるのではないでしょうか。
 私たちは教会に来る時に、「この一週間、あなたは立派でしたね」と褒めてもらおうと思って来るのではないと思います。そうではなく、私たち自身が忘れているわたしの暗い部分、破れが、御言葉の光に照らされて、気づかされて、そういう破れを持ちながらも「ここからもう一度行きて良い」と神に言っていただきたいと思って、ここに来るに違いありません。「主イエスが十字架に架かってくださっている、あなたの過ちは、主イエスが十字架に架かって清算してくださっているから、あなたの今までの罪、過ちは赦されるのだから、ここからもう一度、新しい者となって生きていきなさい」という言葉を聞こうとして、私たちは教会にやって来るのです。
 もし私たちが、聖書の言葉を耳にして、自分自身に思い当たることがあったならば、私たちは神に罪を告白して、「どうか、新しい命に生かしてください。主イエスによって赦された者として、もう一度ここから生きる者とさせてください」と祈り、悔い改めて新しく生きるべきなのです。そのように生きた方が、自分の今のあり方を正当化して生きていくよりは、ずっと心が落ち着きますし、安らかに、心軽く生きていくことができます。
 ところが私たちは、一方では主イエスの十字架の贖いの命に生きていきたいと願うのですが、どういうわけか、完全に自分で悔い改めることができない、そういうところもあるのです。赦されていることは喜んで聞き、ここからもう一度新しくされた者として生きていこうと願うのですが、そのように歩み出して一週間終えた後に、意気揚々と「今週は清められた者として、天使のように生きて来ました」と言えたためしはありません。私たちはどうしても、どういうわけか、本当に悔い改めることができない、頑なな自分の思いにこだわってしまうのです。まさしく、ヘロデがヨハネの諌めの言葉を聞いても変わらず、ヨハネの首を斬ってしまいたいと思ったように、あるいは祭司長たちや長老たちが、主イエスから「あなた方は正しく生きていない」と言われた時に、本当にそうだと思うのではなく、逆に、主イエスを磔にしてしまったように、私たちも、自分自身の誤ったあり方について、心の底から悔い改めて新しく生きて行こうとするのではなくて、どこかで誤魔化しが紛れ混んで、悔い改めたことにして歩んでしまう、そういう自分自身を抱えているのです。

 そして実は、そうであるからこそ、主イエスは十字架に向かって歩んでくださっているのです。私たちがもし、主イエスの十字架の執り成しを知って心の底から悔い改めて天使のように生きていくことができるのであれば、主イエスは十字架についての可能性を教えるだけで良かったはずです。「あなた方が、もし、間違ったあり方をして平気でいるようならば、わたしが十字架に磔にされなければならないのだよ。でも、悔い改めてくれるのであれば、わたしは身代わりの死を死ななくても良いのだ。だから、頑張って天使のようになって生きなさい」と励ますだけでよかったことでしょう。けれども、私たちは神の御心に従って悔い改めて生きていきたいと願ってもどうしてもできない、惨めなところを抱えている、そうであるからこそ、主イエスが十字架に向かって歩んでくださり、私たちの罪を十字架の上で身代わりになって清算してくださるということが起こっているのです。そしてヨハネは、そういう「主イエスが私たちのために死んでくださっているのだ」という死を指し示して、死んでいきました。
 ヨハネの死は、この事件だけを切り取ってみれば、大変むごたらしい死です。非業の死と言う他ありません。それだけではなく、ヨハネが神に従って生きるべきことを教えたにもかかわらず、誰もそれに従うことができなかったのですから、そういう人生は失敗だったとさえ言えるような歩みでもあります。人生をかけて行ったことは、結局、終わりまで果たすことができなかった。ヨハネ自身は自分の思いとは別のところで、運命に翻弄され、酷い仕方で一生を終えなければならなかった。ところが、そういうヨハネの一生が、主イエスの十字架の贖いの死を指し示す指のような役割を持っているのだと聖書は語っているのです。
 ヨハネの死は、ヨハネの死としてだけ考えていたのでは、解決しないことです。ヨハネの死は、主イエス・キリストの福音が世界中の隅々にまで広がっていくための大きな繋がりの中に置かれている、一つの小さなリングのようなものです。「神の御国」というものは、嬉しい喜ばしいことも、あるいは悲しみや苦しみに満ちたこともたくさんありますが、その全てが私たちの思いを超えて展開していきます。そして、その神の御国の建設ために用いられていく一人一人の働きは、たとえ人間の目にはどんなに見すぼらしく見えるとしても、どんなに不完全で哀れなもののように見えるとしても、決して無意味にはなりません。一人一人の歩みは、必ず、神の御国が成り立っていく上で必要なパーツとして用いられていくのです。

 私たちの地上の歩みは、天使のような清らかなものではないでしょう。悩み苦しみ、嘆きの日々を繰り返して、私たちは一生を歩み、一生を終えていくかもしれません。けれども私たちは、主イエス・キリストに出会わされて、主イエス・キリストの福音の出来事に結ばれた者として、この地上を生きる一人一人とされていることを覚えたいのです。
 私たちの人生が、どれほど慎ましやかで変わり映えのしないものであったとしても、それでも「神が私たちを御計画のうちに用いてくださって、主イエスの御業に結んでくださっている」、そういう中に、私たちの今日の生活があるのだということを覚えたいと思います。
 私たちの生も死も、私たちの輝かしい歩みもまた破れた歩みも、その全てが、この世界の中に神の救いが満ち溢れていくための道具とされているのです。私たちの今日の生活が神に覚えられ、主イエスの十字架の贖いに結ばれている者の歩みとして持ち運ばれていることを知らなくてはなりません。
 そして私たちは、主イエスに結ばれている者として、与えられた今日の生活を歩んで行きたいのです。洗礼者ヨハネの生涯と死の出来事を通じて、このことを確認させられたいと願います。

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