2017年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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五千人の給食 | 2017年10月第2主日礼拝 2017年10月8日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第14章13節〜21節 |
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14章<13節>イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。<14節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。<15節>夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」<16節>イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」<17節>弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」<18節>イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、<19節>群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。<20節>すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。<21節>食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 |
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ただ今、マタイによる福音書14章13節から21節までをご一緒にお聞きしました。13節に「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」とあります。「イエスはこれを聞くと」と始まっています。主イエスがお聞きになったのは「洗礼者ヨハネが首を斬られた」という知らせです。領主ヘロデによって、ヨハネは無残な最期を遂げてしまいました。 13節の言葉は、聞きようによっては、ヨハネの死を知った主イエスが臆病風に吹かれて、弟子たちも捨てて、自分一人だけで逃げ出したとも聞こえる言葉です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とあります。「ひとり退いた」とありますから、まるっきり一人で出て行かれたように読めてしまいます。しかしこれは、実際には、主イエスが一人で逃げ出したということを言っているのではありません。先生を失って激しく傷つき怯えているヨハネの弟子たちをも含めて、主イエスご自身の弟子たちを引き連れて、「自分たちだけで」人里離れた寂しい場所に退いたのだということを言い表しています。 今日の箇所は「五千人の給食」の話、そして次の箇所は「主イエスが湖の上を歩き、弟子たちのもとに来られる」という奇跡の話です。この2つの奇跡の出来事を経験して、弟子たちがどのように変えられていったのかということが先を読みますと分かります。14章33節に「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。これが、主イエスが弟子たちを決定的に力づけられた結果なのです。 主イエスは弟子たちを気遣いながら、ガリラヤを離れて対岸へ向かわれました。ところが、実際に向こう岸に着いてみると、そこは主イエスの予定外の状況になっていたと語られています。主イエスは、人里離れた場所に弟子たちを導こうとなさいました。人との関わりを絶ったところで弟子たちを落ち着かせ、休ませてあげようなさったのです。しかし、主イエスと弟子たちが舟に乗って出かけるのを見ると、大勢の群衆たちが徒歩で岸辺づたいに主イエスを追いかけ、先回りして待ち構えていたのです。このことが、今日の出来事を理解する上では大変大切なことです。主イエスが岸辺に着いた時、そこには既に、主イエスを必要とする大勢の人たちが待っていました。14節に「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。岸辺に着くと、「主イエスは大勢の群衆をご覧になった、そして憐れみを覚えられた」と語られています。それは、この群衆たちもヨハネの弟子たちと似ているからです。飼い主のいない羊のように、世話をし導いてくれる人がいないまま、放置されているのです。そのために彼らはすっかり疲れ果て、憔悴しきって魂が飢え渇いている。そして、そうであるからこそ、群衆は主イエスにしつこく付きまとって来るのです。主イエスによって癒されたい、心の支えを得て元気を取り戻したいと思って、懸命に付いて来るのです。 しばしば「隣人愛に生きるように」と言われます。そうすることが正しいことだと思って、愛の業に励むという方も大勢います。けれども、今日の記事を読んでいますと、主イエスの場合にはそういうこととは違っているということに気づかされます。主イエスの場合には、隣人愛が大切なのでそれに従って行動するという理屈が先にあるのではありません。そうではなく、主イエスの場合には、実際に目の前に助けを必要としている人が現れるのです。そうであれば、そのことのために自分を懸命に用いるということをなさっているだけです。「隣の人を愛しましょう」と教えられたのでそうするという、そういうあり方ではありません。ここには主イエスが「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。主イエスの行動にはいつも、「深く憐れむ」という原理が働いています。隣人愛が大事、正しくあることが大事というような自分の生活信条のようなものではなく、主イエスは出会う人々に憐れみを覚えてしまう、心を寄せてしまうので、その人たちのために手を尽くされるのです。 15節から17節に「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません』」とあります。主イエスが深く憐れんで、人々に教えたり癒したりなさっている間に、時間は過ぎあっという間に夕暮れになりました。主イエスは人々に仕えておられるのですけれども、結果として人々を引き止めてしまっているために、人々は大変な困難に遭うということにもなって行くのです。つまり、人里離れていて食料を調達できない場所に引き止められてしまったのです。日が傾いてきましたから弟子たちは気が気でなく、ついに主イエスに「ここは人里離れた所で、もう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と進言します。すると、主イエスは弟子たちの進言に従うどころか、むしろ逆に「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と弟子たちにお命じになりました。「とんでもないことを主イエスはおっしゃる」と、弟子たちは驚いたことでしょう。とにかく、弟子たちは自分たちの手元に持っているものを確認しました。持っていたのは「パン五つと魚二匹」でした。 けれども、弟子たちは目の前の大群衆に圧倒されてしまって、実は、最も大切なことを見忘れてしまっているのではないでしょうか。つまり、「主イエスが自分たちの只中に共にいてくださる」ということを、弟子たちは忘れているのです。「主イエスが自分たちの間におられることは、よく分かっている。でも、主イエスがいても、こんな場合に何の役に立つのか」と思われる方もいるかもしれません。しかし、弟子たちの間におられる主イエスとは、どういうお方でしょうか。ご自身に力があって大勢の人でも養えるから「どうぞいらっしゃい」とおっしゃる、そういう方ではないのです。そうではなく、目の前に助けを必要としている人がいるならば、その相手のために精一杯自分を用いようとしてくださる、それが主イエスです。ヨハネの弟子たちを迎えた時、ご自分に弟子を抱える余裕があるから弟子に加えてくださったということではありません。あるいは、群衆の数を見て、ご自分の能力からして、このくらいであれば何とかなる人数だから来ても良いとおっしゃったのではありません。主イエスは、ただ、目の前に「救いを必要としている人たちがいる」ことをご覧になって、そうであるならば、この人たちに仕えなければならないと思っておられるのです。途方に暮れてどうして良いか分からなくなっている人に出会うと、決して放ってはおかれません。その人のために手を尽くしてくださるのです。 私たちが教会に集まるときに、「救いがここにある」ことを聞いています。もし「良い話を聞いた」と言って、それで終わってしまうならば、それは私たちにはあまり関わりない話です。私たちの周りには、私たちが聞かされているように救いを必要としている人たちが大勢いるのですが、その人たちのところに、私たちが実際にその救いを運んでいくのでなければ、人が救いに与るということは生まれてこないのです。「あの人も教会に来ればいいのに」と思っているだけでは、救いは生まれません。実際に主イエスの救いを伝えようとすると、反発を受けることもあります。そう考えると私たちは腰が引けてしまって、なかなか信仰の話を他者にしづらいということがあります。けれども、何も知らせないということが反発を受けるということよりも良いのかというと、そうとも言えないと思います。反発は無関心に勝るのです。たとえ、その人がその時反発したとしても、反感を持つとしても、それは実は、何も知らないこと、まったく関心を持たないことよりは、はるかに良いことなのです。 主イエスは今日の箇所で、実は、すっかり尻込みして「自分たちの持っているものだけでは、この大群衆を養えない」と言っている弟子たちを、ご自分の御業の中に巻き込んで、「主イエスがこの群衆を養う」という出来事の中で弟子たちを用いようとなさっているのです。それが、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という主イエスのご命令です。 今日のマタイによる福音書の箇所でも、18節から20節に「イエスは、『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」とあります。この時の様子は、大変自然に語られています。主イエスが「五つのパンと二匹の魚がある」ことをお聞きになると、それを持って来させ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られます。つまり、今自分たちに与えられている「五つのパンと二匹の魚」が神からの贈り物であると感謝し、それを裂いて弟子たちにお渡しになるのです。弟子たちは、そのパンを同じように人々に裂いて配ります。 今日の記事の始まりには、先生であるヨハネを失って目当てを失った弟子たちが途方に暮れて主イエスのもとにやって来て、主イエスが、そういう弟子たちを「わたしの群れの中に加わって良い」と招き入れてくださったという出来事がありました。主イエスは、ヨハネの弟子たちに向かって特別に同情したり優しい言葉をかけておられるわけではありません。ただ弟子たちを招いて、そこで憐れみの主としての働きを精一杯なさっておられるのです。その中で弟子たちが、「私たちは今、生かされている。ここでなお生きることができる」ことを知り、力を与えられて歩んでいく、そういう営みが行われているのです。 弟子たちは最初、「私たちが持っている物はあまりにも乏しい。働きに対してできることは僅かだし、わたしには何もできない」と思って、初めから諦めていました。けれども主イエスは、「あなたが持っているもの、あなたが与えられているものをここに出してみなさい」とおっしゃるのです。「あなたが持っているものは僅かだと思えるかもしれない。しかしそれは確かにあなたが持っているもので、あなたが隣人に与えることができるものだ」と言われ、そして天を仰いで感謝し、賛美の祈りを捧げ、「これをもってあなたが生き、これをもって隣人に仕えなさい」と言って、手渡してくださるのです。主イエスによって祝福された、その賜物をもって、弟子たちが群衆の中に分け入って、ついには、そこにいた群衆も満腹になるということが起こっていくのです。 今日の記事を通して、私たちは、自分自身が置かれている状況というものを考えさせられるのではないでしょうか。主イエスは弟子たちの上にも、また群衆の上にも深い憐れみの眼差しを向けてくださいます。そして、実は私たちも、その中にいるのです。私たちはまさに、主イエスから憐れみの眼差しを向けられ、与えられているものをもう一度確かにしていただき、「それをもって生きていってよい」と言われている一人一人です。私たちは、主イエスにそのように覚えられた者として印をつけられ、主イエスの御業にお仕えするようにと招かれながら、同時に豊かな顧みの中に包まれて、今この時を生きる者とされているのです。 |
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