聖書のみことば
2016年4月
  4月3日 4月10日 4月17日 4月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月24日主日礼拝音声

 憐れみ深い者
2016年4月第4主日礼拝 2016年4月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章1節〜7節

5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。<4節>悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。<5節>柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。<6節>義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。<7節>憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 ただ今、マタイによる福音書5章1節から7節までをご一緒にお聞きしました。7節に「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」とあります。
 「憐れみ」ということが、ここに取り上げられています。何かの辛い事情や苦しい状況に置かれている人を見るとき、私たちの心には自然と同情する思いが沸き起こってきます。ごく最近ですと、熊本や大分の地震の出来事や、未だに揺れ動く中で生きていかなければならない、そういう状況を見聞きするにつけ、私たちの心の中には、「本当にお気の毒だ」という憐れみの気持ちが芽生えてきます。辛い状況に置かれている人たちの様子や悲しんでいる人の姿を見て、気の毒に思って、何とかお助けしたいという気持ちになるということは、誰からも責められるようなことではないでしょう。むしろ、そういう気持ちが起きるということは、歓迎されるのだと思います。そして、ただ心に思うだけではなく、実際に行動を起こしてボランティアに出かけたり、必要とされている物資を送り届けたりするならば、そう行動した人たちは、周りの人たちから感謝されたり褒められたり尊敬されたりします。実は、多くの人が「憐れみ深い者になりたい、親切な人になりたい」と思うが故に、実際にそのように行動している人を見ると、その人を賞賛する思いというものが芽生えるのです。
 人間のする憐れみの行い、親切な行為というのは、それがよく考えられ配慮されて行われるならば、多くの場合は受け入れられます。しかし、そうであっても、人間の親切心というものは、決して翳りのないものではありません。そこには一つの暗い影がどうしてもつきまとうのです。すなわち、人間の親切心から出る憐れみの場合には、結果としてどうしてもそこに、憐れみを施す側と受ける側という区別が生まれるのです。憐れみをかける時、それがどんなに思いやり深く慎み深いものとして行われたとしても、その志が人間に由来する限りは区別が生まれ、施す側は尊敬され、受ける側は不憫に思われてしまう、そこに光と影が生じるのです。

 ところで、弟子たちが主イエスから「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と教えられた、その「憐れみ」は、先ほど申し上げた「人間に由来するもの」とは別のものです。主イエスが教えられた「憐れみ」、そこで中心に立っておられるのは、人間ではなく、神ご自身です。ヤコブの手紙に語られているように、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」のです。
 私たちは平素、神を忘れ、神抜きで当たり前のように暮らしています。ですから、「憐れみ」の事柄というのも、「神から始まる憐れみ」というものがあるということをあまり考えません。「憐れみ」というものはいつも、人間の志から始まるのだと考えてしまい、親切な行いをしている人を見るとその人を尊敬したり褒め讃えたりするのです。教会の交わりにおいてすらそうです。時に、教会が何かの手助けをしたとすると、あたかも教会の群れやそこで活躍している一人一人の人間が行ったかのように思われ、褒められてしまうということがあります。
 しかし、聖書においてはそうではありません。使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、人間の施しを賛美し崇拝しようとする傾向に対して苦言を呈しています。コリントの信徒への手紙一4章6節7節に「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」とあります。神の御前にあっては、もはや、憐れみをかける人、あるいは高ぶった恩人のような顔をして立つことのできる人は誰一人いないのだと、パウロは教えています。「あなたがたが何か見事な業をできるとしても、それは頂いたものに過ぎない。あなたから始まっているものではない」と、パウロは言います。神の御前では、私たちは例外なく「憐れみを受ける側の人間」でしかありません。
 教会の交わりの中では、詩編123編の詩人が謳っているように、すべての人が、ただお一人の憐れみの源であるお方を見上げて、そのお方からの憐れみを待ち望むのです。1節2節に「【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よ。御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます」とあります。人はただ、神から憐れみを受ける者となって、そしてその次に、贈り物として頂いた憐れみを隣人に取り次ぐという、それ以外の仕方では、憐れみ深くあることはできません。自分が受けている憐れみを、感謝をもって更に次の人たちに及ぼしていく、そういう人たちこそ、今日の箇所で主イエスが教えておられる「憐れみ深い人々」なのです。

 「主イエスの中に憐れみ深い神が働いてくださる」、そのことを認めて、「主イエスを通して神の憐れみを求める人たち」、こういう人たちは、新約聖書の特に福音書の中に度々登場します。例えばマタイによる福音書では、9章で、二人の目の不自由な人たちが主イエスに向かって神の憐れみを願い求めています。27節に「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た」とあります。この場面で、二人が「わたしたちを憐れんでください」と願っている憐れみとは、一体何でしょうか。同情して欲しいとか、気の毒に思って欲しいということではないと思います。そうではなくて、「主イエスというお方を通して、神の憐れみや力が自分に臨むこと」を願っています。ですから、続く28節で主イエスが二人に、「わたしにできると信じるのか」と問うと、二人は、「はい、主よ」と答えています。そして主イエスが二人に「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われますと、大変不思議ですが、二人は見えるようになりました。二人が願ったことは、主イエスの同情を引きたいという心の事柄ではありません。心や気持ちの事柄が「憐れみ」と言われているのではないのです。ここでは「神の憐れみの御支配が、今実際に、このわたしの生活に現れて欲しい」と願われています。また同じように、15章にも、主イエスの憐れみを求める別の人が出てきます。カナンの女と呼ばれる人です。21節から始まりますが、22節に「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」とあります。ここでも、この女性は主イエスに同情を求めているのではなく、実際に神の憐れみの御支配が自分と娘の生活の上に現れることを願います。そして28節を見ますと、この女性の場合にも主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われ、「そのとき、娘の病気はいやされ」ました。
 この二つの箇所では、「神の憐れみ」は、病気や悪霊といった生活上の苦しみや困難からの解放という形で現れました。しかし、神の憐れみというのは、病気の癒しや悩み事の解決というところにだけ現れるのではありません。この二つの箇所では、病気の癒しということが大きなことだと思われるかもしれませんが、実はどちらも「主イエスに期待し信頼する」ということが先に起こっています。そして、主イエスがおっしゃったことは、「あなたの願った通りになるように」ということでした。主イエスに何を願い、何を期待しているのか、あるいは主イエスが何を起こしてくださると信じているのか、そのことが問題になっているのです。そして、「あなたの願った通りになるように」と言われて、癒しの業がなされるのです。

 神から憐れみをいただいて生活することの中心には、聖書によれば、「主イエス・キリストというお方に出会って、このお方に期待し信頼を寄せ、そしてこの方に導かれていくようになる」ということです。「主イエスに信頼し、主イエスに従って生きる」、そのことこそが「神の憐れみを受けて生きる」生活なのです。
 このことが非常によく分かる箇所があります。主イエスが徴税人マタイを、ご自分の弟子にと招かれた時の出来事です。収税所に座っているところを、主イエスから弟子にと招かれたマタイは、自分の知り合いの徴税人や罪人と言われていた人たちを自宅に招いて、主イエスと一緒に食事をします。ところが、当時のユダヤ人社会の中で自分は一廉の者だと思っていた人たちは、「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って、主イエスを非難します。その時に、主イエスは、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9章13節)と、お答えになりました。
 主イエスは一人一人と出会ってくださいます。そして、その一人一人をご自身の弟子として招くことによって、神の憐れみを実際にその人の生活にもたらしてくださるのです。弟子たちと一緒に生活して下さりながら、その一人一人がよく分かる時まで教え導いて、主イエスが何のためにここにおられるのか、そのことをお伝えになります。ご自身の十字架の意味を教えて、そのことが理解できるまでにしてくださるのです。主イエスを通してもたらされる神の憐れみ、それは「罪人を招いて、その人が新しい生活をできるように導く」、そういう憐れみです。ですから主イエスは、非難する人たちに対して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という神の言葉を、もう一度学び直してくるように言われるのです。
 確かに、主イエスが共に食卓を囲んでいた人たちは罪人と呼ばれていた人たちです。神抜きで、神とは関わりないと思って、自分自身を主人として生きていた人たちです。しかし主イエスは、そういう自己中心な生き方から離れさせようとして、交わりを持ってくださっているのです。そして、それは私たちも同じです。教会に来るまでは、自分の人生は自分が中心であるのは当たり前だと誰もが思っていたに違いありません。何のために自分の人生を生きるのか。それは、自分の願いを実現させるため、自分の思いが成るためだと思いながら暮らしていたと思います。誰も疑うことなくそう思っていたに違いないのです。ところが、主イエスは、そうではない生き方があることを教えてくださいました。自分中心に生きることがどんなに虚しいことかを、弟子たちに教えられます。そして、そういう自分中心な生き方から一人一人を逃れさせ、さらに隣人にも神の慈しみを伝えるという新しい生き方へと招いてくださるのです。

 最初に申し上げましたが、私たちは、何よりもまず、主イエスを通して神の憐れみを頂く者とされ、そして次には、贈り物として与えられている憐れみを隣人に取り次いでいく、そういう生活へと、主イエスによって招かれています。それ以外の仕方で、真実に憐れみ深くあるということは、私たちにはできないのです。
 このことを弟子たちに伝えようとして、主イエスが語られた譬え話があります。それは、自分が莫大な借金を許してもらいながら、友人に貸した僅かな借金を許さなかったために、主人からその責任を問われてしまった家来の話です。マタイによる福音書18章に語られていますが、特に33節から35節までに「『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」とあります。ここで「憐れんでやるべきではなかったか」と言われる「憐れみ」とは、何でしょうか。有り体に言えば、それは「借金を許す、負債を免除する」ということです。「あなたは負債を免除されたのだ。そうであるならば、あなたも隣人の負債を免除してあげるべきだろう」と言われています。
 では、私たちが負っている借金とは何でしょうか。私たちは、誰一人、自分で生まれてきたのではありません。私たちが今生きている命というのは、神から与えられて、この地上を生きる者とされている命です。そして、私たちが毎日生きているのも、私たちはあまり意識していませんが、神がお支えくださっている毎日なのです。私たちは眠っている間であっても、心臓が動き、息をしています。これは、私たちがそうしようと思ってそうしているわけではありません。眠っている時でも、ひとりでに動く体を神から与えられて生きることができているのです。それで、もし神がその働きを止めてしまわれたなら、私たちは、夜の間にこの地上の生活を終えてしまうことも有り得るのです。私たちは自分で生きているのではないのです。命を与えられ、命を支えられて、そして今日を生かされています。この命は授かりもの、神からの贈り物なのですから、感謝して、贈り主である神に全生涯を献げて生きてもおかしくないはずです。
 ところが実際には、私たちはそうではありません。私たちはどのように生きているでしょうか。キリスト者であったとしてもそうですが、いつの間にか、自分の命は自分の思ったように生きるものなのだと思ってしまうのです。命というのは、私たちのものではなく、与えられているものなのですから、与えてくださっている方、神に喜ばれるように生きても良さそうなものですが、私たちはそうなれない、そこに私たちの負債があるのです。私たちは生きてしまったら生きてしまっただけ、毎日毎日借金を自分の人生の中でどんどんと大きくしているのです。神に対して借金を積み重ねてしまう、そういう生き方をしているのです。
 ところが、神はその借金をどうなさったのでしょうか。ご自身の独り子をこの地上に送ってくださって、独り子である主イエスを十字架に架けるという仕方で、私たちの借金を帳消しにしてくださったのです。「あなたの借金は帳消しにするから、今からは新しくされた者として生きて良いのだよ」と、語ってくださっているのです。そして実は、「憐れみ深い人たち」というのは、そういう主イエスの憐れみに与っている人たちのことなのです。

 先ほど、主イエスが弟子たちを招いて、何のために主イエスがおられるのかを教えようとされた、そこに憐れみがあるのだと申しました。なぜそれが憐れみなのか分からないと思われる方もいらっしゃるでしょう。主イエスは、私たちのために身代わりとなってご自身を献げて十字架に架かってくださる、そのことを伝えようとしてくださっているのです。私たちは、十字架の主イエスの前に立たされて、十字架の主イエスの言葉を聞かされています。主イエスが私たちのために命を投げ出してくださった、そういう憐れみの元に生かされている一人一人なのだと、私たちは聖書から聞かされているのです。そして、主イエスによって完全に罪を赦していただいて、もう一度ここから新しく生きることができるようにと、贈り物として与えられた人生を生かされているのですから、この贈り物を独り占めするのではなくて、隣人に及ぼしていくのです。「わたしは、これまでは自分の思いを満足させる、そのことだけに生きてきてしまったけれど、本当はそうではなかった」と、そのことを隣人に伝えていくのです。そして、自分が主イエスによって新しい命を与えられて生きることがどんなに嬉しいことなのか、どんなに素敵なことなのか、あるいはそういう命を生きることは、この世にあってどんなに朗らかに生きることができるということかを、自分なりに証しして生きるのです。
 隣人にもこの贈り物が与えられている、そのことを、自分の経験を通して伝えていく。主イエスが私たちを招いてくださる、その御言葉を証しして、伝えていく。それが「憐れみ深い」と言われていることなのです。「憐れみ深い」ということは、まず何よりも「御言葉を宣べ伝える業に励む」ということです。この務めを果たさないで、自分が憐れみを経験しただけで、そこで止めてしまうならば、それは、灯火を灯して升の下に置くようなことです。せっかく頂いた1タラントンを、穴を掘って埋めてしまうようなものです。そういうあり方は決して憐れみとは言えないし、むしろ憐れみとは程遠いのです。ですから、「主イエスを通して私たちが罪赦され、新しくされる」、このことが実は、私たちの憐れみの業の原動力であるし、教会の伝道を推進するためのエネルギーでもあるのです。救いを経験して赦しを与えられた人は、神の恵みとしてもう一度新しい命を与えられるのであり、そしてこの天から与えられている贈り物を埋めておかないで、自分が身を運ぶ所であればどこへでも持って行く、それこそ世界の果てにでも、神の恵みの知らせを持ち運んで行かざるを得なくなるのです。憐れみを感謝し、そしてさらにそれを次に出会う人に取り次いでいく、及ぼしていく、それが実は、一番最初の主イエスの弟子たちの姿でした。
 使徒ペトロは、彼らの伝道を通して出来上がった小アジアの教会に向かって手紙を書き送っています。ペトロの手紙一2章10節に「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」とあります。主イエス・キリストというお方を通して、その十字架によって、自分中心に生きて神と関わりのなかった者が、「新しい生き方をして良いのだ」と聞かされ、信じて生きるようになっている。このようにして「神の民として受け入れられた」ことが、「憐れみを受けている」ということなのだと、ここには言われています。神の民の一人とされていることを知らされた者が、次の人に同じことを伝えていくことが、憐れみを持ち運ぶ業として聖書に教えられていることを、まず覚えたいのです。

 しかし、主イエス・キリストの十字架の御言葉を伝えるという形での憐れみの業の他に、それに伴うしるしとして、主の御名のゆえに、必要を感じている人たちに手を差し伸べるという、そういう形での憐れみの業もあるのです。主の御名のゆえに、裸の者に着せ、飢えている者に食べさせ、乾いている者に一杯の冷たい水をあげる、そういう憐れみの業です。そして、そういう憐れみの業というのは、聖書の中で一種独特の意味を持つことになります。聖書の中で、普段私たちが行う憐れみの業が語られている箇所では、世の中が考える慈善とか、支援とかとは少し違う事柄が出てきます。聖書の中では、何か品物を提供するとか、能力を提供するとか、それだけが憐れみだと考えられていたのではありません。もっと大きなものを手渡しているということを考えながら、一つ一つの業が行われています。
 マタイによる福音書25章31節以下に、最後の審判について語られます。31節には、主イエスが栄光の座にお着きになる時、すべての人はより分けられると言われています。そこで問題になるのは、「最も小さい者の一人に何をしたのか」ということです。40節に「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」とあります。この「この最も小さい者の一人」というのは、災害に遭って物資が欠乏している人たちであったり、あるいは生活に困窮してお腹を空かせている、そういう人たちのことだけが考えられているのではありません。物に困窮しているというだけではなくて、同時に卑しめられ、辱められ、そのことに苦しんでいる人たちのことが考えられているのです。
 35節36節に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とあります。「食べさせ、飲ませ、着せ、見舞う」、そういうことであれば、確かにこの世においてなされることです。けれどもここには、それを超えることが語られています。「旅をしていたときに宿を貸し、牢にいたときに訪ねる」、ここには通常考えられる支援以上のことが考えられています。「つまはじきにされている人、いじめられている人、低く見られている人、軽んじられている人」、そういう人たちの前で、その人たちと同じ目線に立って連帯するということが、ここにはあります。「憐れみ深い」ということは、ここでは「辱められ、中傷され、あるいは罪を犯してその償いをしている人、そうされても仕方ないと思われている人たちの側に立つ」ということです。
 そしてもし、憐れみ深いこととして、私たちがその人たちの側に立ったとすれば、当然、私たち自身も、愚かな行いをしている者として、この世からつまはじきにされるということが有り得るのです。主イエスがまさにそうでした。主イエスは「なぜ、徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と言って非難されました。憐れみ深いということは、自分の名誉に汚点を残すような交わりを自分の生活の中から無くしてしまうということではありません。自分は神の前に清らかで正しい者であることを誇りたいがために、ファリサイ派の人たちは、そういう交わりを断ち切ろうとしました。ですから、彼らからすれば、主イエスの行いは全く理解できないのです。

 この25章の譬えにおいて、祝福されている人たちというのは、ファリサイ派の人たちから見れば、愚かな行いをしている人たちです。そして、それでいてこの人たちは、自分では何か良いことをしたとは全く思っていないのです。どうしてでしょうか。それは、この人たちがまず「自分は憐れみを受けている」と思っているからです。神から憐れみをいただいている、そういう者として、この人たちは、この世で上手く人生を歩んでいない人たちと一緒に生活することができるのです。
 もちろん、犯罪を犯して牢に入れられている人のしたことが良かったなどということは出来ません。「本当に失敗してしまったね」と言いながら、そういう人たちに手を差し伸べることは愚かだと言われたとしても、しかしそこに共にいる、共に歩むということです。そして、そういう生活が特別に褒められた生活なのだとは、その人たちは思っていないのですから、神から褒められて「あなたたちは祝福を受ける側に入るよ」と言われて、面食らっているのです。37節「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と言っています。憐れみを受けて、そしてそれを手渡す人というのは、「自分は、憐れみを受けている者である」という思いしかないのです。従って、一番最後の裁きの時には、神によって、自分の人生は過分な取り扱いをして頂いていると感じて、驚きながら感謝しているのです。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と、主イエスは教えてくださいました。「憐れみ」というのは「受けるもの」なのです。それは、私たちが自分の手で取り下ろせるようなものではありません。私たちは憐れみに触れながら、受けながら、そしてその憐れみを手渡しながら生きて行くのですが、その時に私たちに関わってくる憐れみというのは、私たちのすぐ近くにあって簡単に手に取ってすぐに誰かにあげられるようなものではないのです。それは、ずっと高みにあるものであり、しかし、その高みから私たちにもたらされているものなのです。クリスマスの日に、天の高みから神の独り子であるお方が、この地上においでになって、私たちの間に親しく交わりを持つようになってくださいました。そのお方が、「わたしに従って来なさい」と招いてくださって、私たちと一緒に生きるようになってくださった、その時から、私たちに身近なものとなっているのです。
 私たちは、この主イエス・キリストというお方を通して、神の憐れみを受け取ることができるようになったのです。主イエス・キリストが、私たちの隣人になってくださって、そして永遠の憐れみを私たちに手渡して、そしておっしゃるのです。「あなたは、わたしの言葉によって生きていて良いのだよ。わたしがあなたのために、実際に肉を裂き、血を流して、あなたの罪を清めたのだから、あなたはここから新しい人となって生きて良いのだ。そして、このことをあなたの隣人にも伝えてあげなさい。兄弟姉妹、皆でこの恵みを分かち合いながら生きていきなさい」と。
 私たちはこういう主イエス・キリストの御言葉を毎週毎週、この礼拝において聞かされ、励まされながら、今、自分に出来る範囲での愛の業に励んで生きるようにと招かれています。
 私たちは御言葉に支えられながら、与えられた生活を一つ一つ、目の前の務めに仕えながら歩む者とされたいと願うのです。

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