ただ今、マタイによる福音書28章16節から20節までをご一緒にお聞きしました。
16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」とあります。過ぐる日曜日に、私たちはここでイースターの礼拝を捧げました。午後からは愛餐の時を共にして、主イエスのご復活を皆でお祝いいたしました。
ところで、イースターの祝いとは、一体何を祝うのでしょうか。イスーターの喜びとは何なのか。そう尋ねられれば、多くの方は「イースターは主イエス・キリストの甦りのお祝いである。主イエスのご復活を私たちは喜んでいるのだ」とおっしゃるでしょう。確かにその通りです。しかし、どうして主イエスのご復活が私たちの喜びになるのでしょうか。主イエスが復活されたことで、私たちに何かの良い影響が与えられているのでしょうか。あるいは、お祝いはしているけれども、私たちは何も受けていないのでしょうか。
今繰り返して読みました聖書には、主イエスの11人の弟子たちには、確かに影響があったのだと語られているように思います。 つまり、11人の弟子たちは、実際に、ユダヤから出てガリラヤまで出かけて行って、そこで「山に登る」という行動を起こしています。これは、主イエスが「甦られた」ということの直接の結果と言ってよいと思います。もし主のご復活がなかったら、弟子たちが山に登るなどということはなかったに違いありません。主イエスのご復活は、主の直弟子である11人に対しては確かに力を与えて、ガリラヤに向かわせ、山に登らせるという影響を与えています。
そして、主イエスがそのように弟子たちを山に登らせたということ、それは決して無駄な労力を払わせたということではありませんでした。弟子たちがガリラヤに導かれて行ったのには、はっきりとした理由がありましたし、そして、弟子たちはその目的を達成しています。それは、「甦りの主イエスと出会う」という目的でした。先週聞きました28章7節に天使の声として「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」とあります。弟子たちは、主イエスの復活を肉眼で見たのではありません。主イエスが復活したという知らせを、このように天使から聞かされたのです。「主イエスは復活されて、先にガリラヤに行かれる。主イエスにお目にかかれるのだよ」と聞かされたからこそ、弟子たちはガリラヤに出かけて行ったのです。「ガリラヤに行こう」という思いが与えられる、力が与えられたのです。主の復活によって、「主イエスとの交わりが与えられる」という良い影響を与えられたのです。主イエスに会えると思って行ったのに空振りだったというのではありません。そこには確かに甦りの主イエスが居てくださった、待っていてくださった、そして主イエスにお目にかかることができた、それがイースターの喜びなのです。
イースターの喜びとは、ただ主イエスのご復活を喜んでいるということでなくて、「甦りの主イエスが、弟子たちと出会ってくださる」ということです。私たちキリスト者が主イエスとの交わりの中に確かに置かれる、そういうことが起こっている、それが、私たちがイースターを祝う喜びなのです。
また、その主イエスとの出会いというのは、失われていたと思っていた絆がもう一度回復されたという喜びだけではありません。主イエスの復活はアリマタヤのヨセフのお墓で、確かにこの地上で起こったことですが、しかし、主イエスは地上の命に生き返られたのではありません。地上の命に生き返ったのであれば、一時生きても、また死の時を迎えます。しかし、復活の主イエスが弟子たちと出会ってくださる、それは期限付きの一定期間ということではありません。主イエスは「永遠の命」に甦ってくださっているのです。ですから、イースターの後、弟子たちは何度も主イエスとの交わりの時を与えられましたし、また2000年を経た今日、私たちもまた、大変不思議なことですが、「甦りの主イエスとの交わりへと招かれ、主イエスとの交わりを与えられて生きる」、そういうことが起こっているのです。
11人の主の弟子たちがガリラヤに行き、山に登る。そういう力が与えられたのと同じように、今日、私たちは、日曜日の朝に教会へ出かけ、そしてここで主イエスを見上げ、神を礼拝する、そういう思い・あり方を与えられているのです。ですから、私たちも主イエスの復活によって力を与えられていると言えます。
礼拝の中では何が起こっているのでしょうか。聖書が朗読されて、神の御言葉が説き明かされます。これは、信仰のない人たちにとってみれば、人間の思いで書かれた本が読まれて、人間がその本の話をしているということになるでしょう。けれども、実際に教会の中で起こっていることはそうではありません。確かに私たちは、人間の言葉で書かれた聖書を読んで、人間の言葉で牧師の説き明かしを聞くのですが、しかし、私たちが御言葉を読み、語り、聞くという時には、そこに甦りの主イエスご自身が立っていてくださるのです。その場に主イエスのお姿を見ることはできませんが、しかしまさに、礼拝をお捧げする私たちが、甦りの主イエスの御言葉をここで聞くのだと信じて礼拝する時に、主イエスご自身が私たちに語ってくださるということが起こるのです。
今日の箇所で、弟子たちが「山に登った」と記されていますが、それは、はっきりと主イエスが指示された山だったと言われています。「イエスが指示しておかれた山に登った」のです。弟子たちは、かねてから、主イエスに「あの山に登りなさい」と言われていたのです。そして、弟子たちがその山に出かけて行った時に、主イエスが先に来てくださっていて、そこで出会いが起こっています。
私たちのこの礼拝でも同じことが起こっています。私たちは、自分の心の中のこととして、いつでも自分の好きな時に主イエスを思い起こしさえすれば、甦りの主イエスと出会うということではありません。「日曜日の午前中のこの時間は『礼拝』の時ですから、あなたは教会に行けば、わたしの言葉を聞くことができますよ」という、主イエスの招きの言葉を聞かされて、それで私たちはそれを信じて、この礼拝の場へとやって来るのです。そしてまさに、主イエスはここに居て、私たちを迎えてくださるのです。
主イエスと弟子たちとの出会いが、果たして肉眼であったのか、あるいは何か他の仕方で「わたしはここにいる」と示してくださったのか、実はそれは、聖書を読む限り、あまりはっきりとは分かりません。けれども、私たち自身がこの礼拝を通して経験することを考えてみますと、主イエスがここに共に居てくださるということは、肉眼で主イエスを見るということではありません。そうではなく別の仕方で、甦られ永遠の命を生きておられる主イエスとの交わりを、この礼拝の場で経験させられます。私たちが、「主イエスは今もわたしと共にいてくださる。わたしがここから生きて行く新しい一週の生活に、主イエスも共に歩んでくださる」と信じて生きるということが起こるとすれば、それは、主イエスが復活してくださっているからです。甦りの主イエスが私たちを迎えてくださって、私たちに伴ってくださっているからこそ、私たちは「主イエスと共に歩み出す」ことができるのです。
弟子たちが山に登り、甦りの主イエスと出会ってしたこと、それは礼拝でした。17節「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあります。最初の弟子たちは、甦りの主イエスの前にひれ伏して礼拝しています。ちょうど、今ここで私たちがしていることです。そしてここで、大変面白くもあり、また私たちにとっては慰めでもあるのですが、ひれ伏していながらも「疑う者もいた」とマタイは記しています。実は、甦りの主イエスとの交わり、礼拝を捧げているその最初の時から、弟子たちの間には、主イエスの前にひれ伏すという信仰のあり方と、疑いとが同居していたことを聖書は告げています。しかも、11人の直弟子の中にそれがあったのです。それは、11人のうちの10人はひれ伏したけれども、残りの1人は疑ったという、そういうことではないと思います。そうではなくて、11人のそれぞれの中に、主イエスにひれ伏す思いもあったし、疑う思いもあったのだということを示しているのです。
そうであるならば、今日私たちが礼拝に集う時に、私たちに疑いがあっても、不信仰があっても、不思議ではないのではないでしょう。もしかしますと私たちは、自分以外の人がとても立派に見えるということがあるかもしれません。「皆さんは本当に真剣にまっすぐに神に心を向けて礼拝しているようだけれども、でもわたしは違う」というような寂しい思いになることがあるかも知れません。けれども、聖書が語っていることは違います。一番最初の時から、甦りの主イエスに出会ってその前にひれ伏している弟子たちの中に、信仰と不信仰があった。主イエスの前で、弟子たちは、信仰と不信仰の間を行ったり来たりしていたと書いてあるのです。
そしてそれは、私たちもそうだろうと思います。毎週この礼拝に来る際に、何の不安も思い煩いもなく、全く無垢な気持ちで、「さあ、イエス様、あなたを礼拝します」と言って、いつでも私たちはここに集まれるかと言いますと、そう言えない時もあるのではないでしょうか。一週間の生活に心底疲れきってしまって、悩みが深くて、悲しい気持ちや苦しい気持ちをどうすることもできなくて、それでも仕方なく、この場に来ているということもあるかも知れません。あるいは、自分が密かに抱えているこの嘆き、思いは、誰かに慰めてもらいたいと思っているけれど、しかし、教会の人であっても、本当には誰も分かってはくれないのではないかと、砂を噛むような思いで礼拝に来ることもあるだろうと思います。私たちは、恐れも不安も嘆きも悩みもないまま、天使の群れのようにここに集まっているのではありません。自分の抱えている深い悩みに主イエスは気づいてくださるだろうか、このわたしの思いを甦りの主イエスは果たして癒してくださることができるのだろうか、そういう疑いのようなものがありながら、しかし、やはり主イエスにこそ癒していただきたい、そう思って、この礼拝の場において、主イエスの前にひれ伏すということが、今日の私たちにもあるのだと、そう思います。
主イエスは、そのように弟子たちが信仰と不信仰の間を行ったり来たりして、主にひれ伏しながら疑うという、まさしく二心を抱えつつ礼拝に来ているのをご覧になりながらも、全く動じられません。どうしてでしょうか。弟子たちが人間であることをご存知だからです。人間というのは、そもそも心が定まらなくて、あちらを向いたりこちらを向いたりしてしまう者なのです。私たちも自分のことを考えてみますと分かると思いますが、自分ではその時「絶対にこうだ」と思っていても、次の場面では全く違うことを言っているということは、よくあることだと思います。「絶対」という言葉がありますが、私たちは決して「絶対」とは言えない者です。主イエスに対して信仰を持っているという瞬間があっても、また疑うという瞬間もあるのです。そして主イエスは、そのことをよくご存知です。弟子であっても、疑い、不信仰になることがある。けれども、主イエスはそういう弟子たちに、ご自身の側から、むしろ率先して近づいて来てくださって、御言葉をかけ、「ここにわたしがいるのだよ」とご自身を示してくださるのです。
18節に「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』」と語られています。弟子たちが、自分の恐れ、痛み、苦しみ、悩みに果たして応えてもらえるのだろうかと思いながら主の前に集ってくる時に、主イエスはここで、弟子たち個々のそういう事柄に対するのとは全く違うことを話しておられます。とても不思議です。私たち人間同士の間柄であれば、もし「この人は辛いのだろうな」と思ったとすれば、その人に寄り添ってあげようと思うことが多いのではないでしょうか。「あなたの悩みは、私にはよくわかる」などと、分からなくても言ってしまうこともあります。けれども、主イエスはそんなことはおっしゃいません。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と、突然、主イエスご自身のことを話し始められるのです。どうしてでしょうか。私たちに無関心だからでしょうか。私たち一人一人が抱えている嘆きとか苦しみとかに無関心で、ご自身が甦ったことが嬉しくて仕方ないので、自分のことを言いたくてたまらなくて、こんなことをおっしゃっているのでしょうか。いえ、そうではありません。主イエスは、本当に「天と地の一切の権能を持っておられる方として、弟子たちの前に立っておられる」ことを示してくださっているのです。
「天と地の一切の権能」とは、別の言葉では「権威」と言ってもよいのです。「権威」とは、一つの力ですが、しかしそれは、相手に無理強いして言うことを聞かせるという、そういう力ではありません。他人に無理強いする力というのは、「権威」ではなく「権力」です。あるいは、嫌がる相手をそれでも従わせようとする力であれば、「暴力」と言われることもあります。そして、この世にある権力というのは、大抵、暴力装置を持っているのです。
それに対して、権威の力というのは、周りの人たちを従わせようとはしないものです。権威とは、むしろ、そこに本当のもの、正しいものが成り立っているが故に、周りの人たちが進んでそれに従おうとする力なのです。例えば、心臓の権威と呼ばれる医者がいたとして、その方は、周りの人を従わせようとするのかと言えば、そうではないだろうと思います。その方の周りには、向上心に燃えた若い医者たちが集まってきて、その権威ある医者がどのように病む人を診察するのか、どう診断を下すのか、どう治療するのかと観察します。そして、できれば自分もその方のような医者になりたいと思う。この場合、当事者であるこの医者のやり方が正しいが故に、病気に対して真実な治療がなされているので、周りの人たちがそれに従おうとする、それが権威の力というものです。
主イエスは「天と地の一切の権能を授かっている」と言われました。もちろん、主イエスがそう言ったからと言っても、それを信じないという人は大勢いると思います。ですから、主イエスは権威ある方であるけれども、この世界の中で権力ある者のように人々に対して力を行使することはなさいません。けれどもしかし、「わたしは本当に権威ある者としてここにいるのだ」と言ってくださるのです。どんな時にも、その場その時に相応しく、真実に判断し正しく行動できる、そういう主イエスが、今ここに、私たちの前にいてくださるのです。ここにいる私たちが行き詰まり、途方に暮れてしまう時、悲しみや寂しさに塞がれてどうしようもなくなる時、苦しく辛くて生きていられないと思う時、そういう時に、甦りの主イエスが、「わたしはあなたと共にここにいる。わたしはここで、本当に真実に、正しい判断をしてあなたと共に歩んで行くよ」とおっしゃってくださるのです。
そして、主イエスがそのように私たちに言ってくださるためにご自身がくぐってくださった関門が、十字架なのです。十字架を負わないで、「わたしは権威ある者」と言われても、私たちからすればたまったものではありません。「イエスさま、あなたはわたしの苦しみを経験なさったことないでしょう」と言って、主イエスに従うことなどないでしょう。しかし、主イエスは十字架にかかってくださいました。周りの者から見捨てられ裏切られるという深い悲しみ、また辱められ、侮られる、そういうことを全て経験なさった上で、「わたしは一切の権能を神から授けられた者として、今ここにいるのだ」と、語りかけてくださるのです。
一切の権能を持っておられる主イエスが、私たちと交わりを持ってくださる。それがイースターの喜びです。私たちは、この主イエスから真実に慰められ、力を与えられ、勇気付けられて、私たちそれぞれに与えられている務めに向かっていくことができるようにされているのです。もちろん、主イエスが伴ってくださると言っても、私たちがそれで急に強くなったり、不死身になったりするわけではありません。私たちは弱く、脆いものに過ぎません。しばしば傷ついたり判断を誤ります。そういう私たちが、真実に権威ある主イエスに伴われて、この地上でどんな歩みをするとしても、曲がりくねった困難な道を歩んでいくとしても、最後には、神の御前での完成に至るようにと、主イエスが導いてくださるのです。そして、そのことを喜んで、世界中でイースターが祝われるのです。
そして、主イエスが「あなたと共にいる」と言ってくださいますから、その言葉を信じた弟子たちは、この喜びを自分一人で味わうのではなくて、この場に自分の隣人を連れて来ようと考えるようになるのです。教会の群れの下に一人一人を連れて来よう、出来ることなら、主イエスに伴われる人生を生きるようになってもらおうと考えるのです。そしてそれは、私たちが思うだけではなく、主イエスご自身が、全ての人に対して望んで下さっていることなのです。19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け。あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われます。「すべての民」というのは、遠い所に住んでいる人たちのことだけを言っているのではなく、「すべて」なのですから、私たちのすぐ側にいる人たちのことも含まれているに違いありません。
どなたであっても、一人や二人の気にかかっている人、また生きてきた中で負担を強いられたり関わりを持たなければいけない家族や友人、知人がおられるのではないでしょうか。そういう方々の必要を満たすために、その人を支えようとして、時として私たちの方がすっかり疲労困憊してヘトヘトになってしまうということも経験する場合があります。しかし、たとえそんなことがあったとしても、大変だなと思うことがあるとしても、私たちはそういう方々の傍に寄り添って、必要を満たしてあげなければならないのです。どうしてでしょうか。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、主イエスが言われるからです。「行って」とおっしゃっています。これは、大変なことだなと思います。相手から相談をされたり、相手がやってくるのを待ったり、あるいは相手がこちらが差し出すものを上手く受け取るまで待てばよいというのではないのです。「こちらから出て行け」と主はおっしゃるのです。相手が何を本当に必要として、どんなことに関心を寄せて、何を求めているのか、その必要を知って応えるのだと、おっしゃるのです。そういう「すべての民」が、私たちの側にもいるのだとおっしゃるのです。
そう考えますと、この「すべての民をわたしの弟子にしなさい」ということは、大々的な伝道キャンペーンを打ち出しなさいというようなことではないと思います。私たちが、他の人たちよりも何かよく分かっているかのように一段上の晴れやかな場所から、一段上へと人々を引き上げるように導くというのではないのです。私たちが出かけて行って「すべての民をわたしの弟子する」ということは、私たちが他の人たちと一緒に働いて、しかもそこで低くへりくだって共に働くというところに生まれるのです。
主イエスは、私たち自身の行き詰まり、限界、悲しみ、苦しみ、悩み、そういうところに共に立っていてくださいます。そして、共にいてくださり「しかし、あなたはそこで生きて良いのだよ。わたしはここで生きているのだから、あなたも生きる者になるのだよ」と言ってくださるのです。「ごらんなさい。わたしはこんなに傷つけられて、釘づけられ、鞭打たれて、酷い目にあわされているけれども、しかしわたしはここで生きる者になっているよ。あなたも、今日そこで、今のままでもう一度、そこから生きて良いのだよ」と、主イエスがおっしゃってくださるのです。そういう主イエスが伴ってくださっていることが分かっているのであれば、私たち自身の困難や問題の難しさというものはあるにしても、なおそこで、主イエスに伴われている者として、置かれている状況の中で、嘘のようですけれども、伸びやかに、今日与えられている命を生きていくことができます。
そして、私たちは自分に理解できた度合いに応じて、そういう主イエスを、私たちと共に生きる人たちのもとに伝えていく、そういう使命を与えられているのです。主イエスに伴われて生きる者がその喜びを伝える、私たちが主イエスによる救いを伝える、その根拠は「甦りの主イエスご自身が共にいてくださる」ということであることを覚えたいと思います。
主イエスは弟子たちに「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われた後で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださいました。甦りの主が、一切の権威を神から与えられているお方として、私たちの生活のただ中に、共に立ってくださるのです。本当に困り果て、行き詰まって、どうしたらよいのかと思う、その私たちの傍らで、「それでもあなたは、遠くを見なくてよい。今日与えられているこの一日、この一歩を歩んで良いのだよ。一緒に歩いてあげるから」と言ってくださって歩んでくださるのです。そして、私たちが問題を抱え、破れを抱えているけれど、主イエスが共にいてくださるならば、ここから道が拓けて先に進んでいけるかなという希望を与えられ、生きるべき平らなあり方を教えられて生きるようにしてくださるのだということを覚えたいのです。
主イエスが持っておられる力は権威です。権力ではありません。力づくで従わせようとする、そういう力ではありません。私たちがもし、主イエスの言葉を疑ったり、軽んじたりすれば、私たちは容易く主イエスの権威から離れることもできます。けれども、私たちは本当に、この与えられている命を真実に生きる者としてくださるこの方に目を注ぐ、そういう幸いな者とされたいと願うのです。
たとえ、この世の多くの人たちが主イエスを軽んじているとしても、私たちは、この主にこそ本当の希望がある、主イエスが共に歩んでくださるところで私たちは慰めを受け、勇気を与えられ、力を与えられて生きていくことができる、そのことを信じて、ここから歩み出す者とされたいのです。
主イエスに結ばれた者として生活し、終わりまでを歩む者とされたいと願います。 |