ただ今、マタイによる福音書第5章1節から6節までをご一緒にお聞きしました。6節に「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とあります。
主イエスはここで、「正義に飢え渇く人たち」を示されます。私たち人間には、ごく自然な感情として「正義感」というものが備わっています。誰かが不当な扱いを受けている、そういうところでは正義感が湧き上がってくるのです。教会学校の幼い子供たちであっても、若い頃モーセが、同胞であるヘブライ人をいじめていたエジプト人の奴隷頭を打ち殺したという話を聞かされると、幼いなりにも、それは尤もだと反応する場合があります。ごく小さい子供たちの中にも、不正な事柄に関しては、既にはっきりとした感覚が養われているのです。自分の子供の頃を思い出してみても、先生方に対して、誰かをえこひいきする先生と公平に扱ってくれる先生とを分けて考えていたように思います。幼い時から、私たちには、正しいことと正しくないことについて、驚くほどはっきりと判断する弁えがあるということを思わされます。
従って、不正な状態にある時に「義に飢え渇く」という感覚は、多かれ少なかれ、普通の感覚を持っている人たちであれば、大方備わっていると思います。そして同時に、正義を求める気持ちというのは、一種の償いを求める気持ちに通じるかもしれないと思います。昔は公に仇討ちなどが認められていましたが、それは典型的な正義感に基づく定めであったでしょう。エジプト人の奴隷頭に対してモーセがしたことは、この仇討ちに似たようなところがあると思います。もちろん、モーセのしたことは、今日の法律に照らし合わせれば、決してしてはいけないことです。しかし私たちは、そうだと分かっていても、それでも、どこかでモーセに喝采を贈りたい気持ちがあるのではないでしょうか。それはどうしてかと考えますと、私たちは、正義が損なわれていると感じる時に、仕返しをしたくなるからです。仕返しするということは、本当に単純に、気持ち良いと感じることがあるからです。
ところで、今日の箇所「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とあるところの「満たされる」というのは、しかし、仕返しの満足感ということではありません。それどころか、聖書の神は、仕返しによる満足感というものを決してお認めにはならないのです。先ほどから語っておりますモーセの出来事を聞いてみたいと思います。旧約聖書の出エジプト記2章11節以下ですが、そこを読みますと、モーセの犯した罪がいち早く露見するように仕向けていたのは、神ご自身でした。14節に「『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」とあります。ここで「誰がお前を…」と食ってかかっているのはエジプト人ではなく、同胞のヘブライ人です。そしてこの背景には神がいらっしゃるのです。
神はモーセに、同胞であるヘブライ人の口を通して、彼の行いの良し悪しを問われます。そしてこの後、モーセは自分のした暴力行為の責任を取らされることになります。モーセは、虐げられている自分たちに対する公平を取り戻すためにエジプト人を打ち殺したことは仕返しであり、良いことと考えていました。ところが、この出来事は同胞の中において露見し、モーセは、革命を成功させて同胞たちのリーダーとしてエジプトに留まったというのではなく、自分の行いによって住処を追われ、見知らぬ土地に移り住まなければならなくなりました。そして、その場所で羊飼いに身をやつします。自分の正義感を振りかざして仕返ししか考えられなかったモーセを、神は追いやり、荒野の果てに導き、そこで獣の世話をさせて「柔和とへりくだり」を学ばせるのです。大変面白いのですが、モーセがこの失敗をしたのは40歳の時であり、この同じ年月を荒野で、当時最も卑しまれた羊飼いの仕事に従事しながら、そういう中で、自分のしたことを考えさせられながら生きました。
正義が行われていないところで、正義に飢え渇くあまり、力づくでその渇きを満足させようとするモーセの生き方を、神ははっきりと退けられます。しかしそれは、正義や公平への飢え渇きには意味がないと言って退けられるのではありません。むしろ、正義への飢え渇きは、神が、神を信じる者に対して常に求めておられるものです。
モーセは、殺人を犯してしまってから40年後、80歳になった時に、再びエジプトに現れます。そこに遣わされた働きは、40年前と同じものでした。不当に扱われている同胞を解放するようにとエジプトのファラオに交渉する、そのことのために遣わされるのです。ですから、モーセが正義を求める思いは少しも変わっていません。しかし、80歳のモーセは、以前のように力づくで正義を打ち立てようとしたモーセと同じではありません。40年の間にモーセは、教えられ変えられました。モーセは荒野で、「燃え尽きない芝」を目にし、そこで神との出会いを経験させられ、「自分の上には神がおられるのだ」ということを身に沁みて知らされるのです。このことが、モーセに起こった最大の変化でした。それでモーセはもはや自分の腕力に頼るのではなく、別のものに頼ります。それは「真実な言葉」です。自分で力を振るうのではなく、「復讐するのはわたしである」とおっしゃるお方の命令のままに行動する者に変えられていくのです。モーセはもはや自分で仕返しをするのではなく、「正義を愛し、正義を重んじられる神がこの世界の上におられるのだ」ということを信じ、その正義の神に従うべきことを、言葉をもって取り継ぐ者として、ファラオの前に立つのです。
こういうモーセの姿を通して、私たちは、「義に飢え渇く者」のもう一つの姿を教えられます。生まれながらに備わっている正義感を振りかざして、力づくで満足を得るという姿とは違う姿です。それは、報復するのは自分ではなく、真実に報いをなさるお方がおられ、その方が最後に正しい決着をつけてくださることを信じ、そういう方がおられるのだということを告げ知らせて、自分自身もそのお方の前に生きていくという、そういう「義に飢え渇く」姿です。
このように、言葉によって真実に正しい方がおられるのだと告げ知らせようとした人たちの典型が、「預言者」と呼ばれる人たちです。例えば、預言者アモスは、同時代のイスラエルの同胞に向かって呼ばわります。アモス書5章24節に「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」とあります。ここでアモスが語る正義とは、アモス自身に由来する正義ではありません。アモスが自分に従えと言っているのではなく、「正義」を「恵みの業」と言っているように、地上を超えるお方の正義を示していると考えられます。
また、預言者ミカは、「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6章8節)と語っています。「正義」がどういうものであるかということは、生まれつき感覚が備わっているということではなく、「何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている」とあるように、それは聞かされるものなのだと言われています。
そして更に、このことについて預言者イザヤは「善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ書1章17節)と語りました。善を行うことは学ぶこと、そしてそれは弱い立場の人たちに対して配慮することだと言っています。
預言者と呼ばれる人たちは、その時代に正義が踏みにじられていることを見て、義に飢え渇く人たちでした。預言者は例外なく、神の正義、真の正義がこの世で覆い隠されていることを悩み、悲しんでいたのです。正義を来たらせなければならないと語っていました。今、3人の預言者の言葉を聞きました。どれも良いことを言っているように思いますが、しかし、彼らが、神の求めておられる正義が実際にこの地上に実現しているのを見ることができたのかと言いますと、殆どの人が見ることができないまま地上の生活を終えています。神に従い正しく生きることが私たちに望まれていることだと預言者は語りましたが、しかしそれは、この地上には成り立っていません。ですから、この預言者たちは、同時代の人たちからどう扱われたかと言いますと、疎んじられ蔑まれました。それが神の求めであると認められず、預言者個人の理想論だと片付けられたのです。
預言者の言葉を真実と受け止めるかどうかは、実は、聞く側一人一人の信仰にかかってきます。聖書も同じです。私たちが聖書を読むとき、活字を追うことは皆一様にできますが、しかしその言葉が本当に神の言葉であり従うべき言葉だと思って聞くのか、そんな考え方もあるかと聞き流してしまうか、聞く私たちの姿勢にかかっています。
正義の神がおられることを信じられないところでは、預言者たちの言葉は、その人の理想論だとして軽んじられるのですが、しかしそれは、預言者たちが真実を語っているからです。この世に属するところから生まれる言葉であれば、大方の人はそれを見ることができますから、それは尤もだと思うのです。ところが、預言者の言葉はこの世に属するものではありませんから、この世の中にその言葉の根拠を見出すことはできないのです。この世に由来することとは別のことを語っているのですから、神を信じない人から見れば愚かでしかないのです。
多くの預言者はそのように愚か者扱いされましたが、その中でも最もそのことが顕著だったのは預言者エレミヤでした。エレミヤ書20章7節8節に「主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ 人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中 恥とそしりを受けねばなりません」とあり、「わたしは一日中、人に笑い者にされている」とつぶやいています。どうしてかと言いますと、エレミヤが語ろうとすると、それは皆この世に対する嘆きにならざるを得ないからです。「不法がはびこっている」と叫ばずにはいられないけれども、それは当然、同じ時代を共に生きている人々に喜ばれるはずはありません。自分たちなりに良い世界を作っていると思っている人々は、持ち上げてくれるどころか、「あなたたちは間違っている」とくさすエレミヤを嘲ります。しかし、エレミヤは神に捕らえられているが故に、神の言葉を伝えないではいられないのです。そして、伝えれば伝えるほどに嘲られて、もう預言したくないけれども、しかしそれでも確かに神がおられるが故に、「あなたの勝ちです」と言っています。
神の御言葉を聞くという時、本当に私たちが神の御言葉に聞き従おうとする時には、この世に対して神が語っておられることを理解しない人たちから侮られたり蔑まれたり、反発されることがあるということを覚悟しなければならない、そのことを、預言者たちの姿は私たちに示していると思います。
このように、聖書に語られる「正義」ということを一つ確認した上で、今聞いたことは、社会正義が確立されるための正義に対する飢え渇きです。けれども、聖書を少し丁寧に読んでみますと、そこにはもう一つ、別の類の正義への憧れがあることに気づかされます。そして考えていきますと、その正義は、社会正義よりも、聖書の中の飢え渇いている正義としては本流の正義であると言えます。それはどういう正義なのでしょうか。それは、世の中が間違っているので正されるべきであると望む正義ではなくて、神の正義を信じて求めている自分自身が実は正しくないと気づく、そういう自覚です。世の中を嘆かわしく見る以前に、他ならない自分自身が、実は神が求めておられるように正しくいることができない、そういう悲しみ、苦しみ、恐れです。そして、こちらの方が、聖書が語っている正義の本流なのです。
聖書の中では、正しい状態を求める叫びというのは、「このわたしが、神の前にあって正しく清らかな者とされますように。どうか、わたしを罪と不義の中から救い出して、御前に清い者としてください。あなたの前に、傷も皺もシミも一切無い者としてください」という祈りです。問題はもはや、周りの誰かが不正に扱われているということではなく、「自分自身が他の人に対して不正なことを行っている、わたしは正しい者として生きていない」、そういう嘆きなのであり、そういう嘆きは聖書の中にはたくさん出てきます。
例えば、詩編77編の詩人は「夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。『主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか』」と、憂いを含んで自分自身に問いかけています。この人自身は、何とかしてもう一度立ち返って、神の前に正しい状態で立つ者になりたいと願うけれども、しかし神はそういう自分を突き放しておられるのではないか、自分はもう神から見捨てられ見向きもされないのだろうかという悲しみ、正しくあれない自分への呪いの思いが、この詩には表れています。
また53編には、自分自身の姿を嘆いて「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と言っています。これは、周りを見渡して正しい者は誰もいないと言っているのではありません。「善を行う者はいない。ひとりもいない」という中には、自分もいるのです。そして、自分は何とかして神の前に正しくありたいので、誰かわたしを神へと導いてくれるお手本はいないかと思って探すけれども、そういう者は誰もいないと言って嘆いています。しかし、この詩人のこういう気づきは、神に救いを願うという祈りへと導かれます。この詩の最後には「どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう」とあります。つまり、自分たちの正しさではなく、「神が私たちを救ってくださるように。神が御力をもって、罪と不正の中に閉じ込められたような私たちを連れ帰ってくださって、もう一度、神の民となれますように」という祈りがここにはあります。
このように、詩編の中には、自分自身の罪に気づいて本当に恐れ、深く嘆きながら、何とかしてそこから神へと立ち返りたいと思うけれども立ち返れないもどかしさ、そして神へと救いを求める祈りが多く記されています。
ところで、このような、神から見放されたような状態に置かれた人々の嘆き、悲しみ、恐れというものを、最もはっきりと口に出して叫んだ祈りの言葉があります。それは、主イエス・キリストが十字架上で叫ばれた祈りです。大変印象的な言葉ですので、主イエスは十字架上で7つの言葉を言っておられるのですが、聖書には、この言葉だけは主イエスが言われた通りの言葉がカタカナで記されています。新約聖書マタイによる福音書27章46節に「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。自分はもはや、神の前に喜ばれる者ではない、神から捨てられている。そういう、神から遠く隔たってしまった人間の悲しみ、苦しみ、寂しさというものが、主イエスの生涯の一番最後の言葉として語られるのです。私たちが口にするような絶望の思いを叫びながら、主イエスがその生涯を終えられたことを、この福音書は語っています。
ところがここには、神に捨てられたような姿で死なれた主イエスの十字架の出来事を通して、「神は、正義を実現なさった」ということが告げられているのです。大変不思議に思われるかもしれません。主イエスは十字架に架けられ、呪われた者としてその生涯を終えられました。しかしよく知られているように、主イエスご自身は、この方だけを見るならば、そのご生涯を絶えず神と共に歩まれたお方です。ですから、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、人間に対して自分の酷い状況を語っているということではありません。神に向かって叫んでおられるのです。
神は、全く罪のない清らかなお方を、この世の人間の罪を贖うための供え物として十字架に架けられました。全く清らかなお方の苦しみと死によって、実は、罪ある私たちの「神から捨てられての滅び、死」を精算してくださったのです。それが、神の決断であり、神のなさりようであり、神の正義なのです。こういう神のなさりようを知らされて、「無実でありながら十字架に架けられた主イエスこそが、このわたしの罪を精算するための供え物となってくださったのだ」と信じるところに、キリスト教の信仰が生まれます。
使徒パウロは、このことを、感動をもって語っています。ローマの信徒への手紙7章24節 25節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とあります。神が、罪のなく清らかなご自身の独り子を十字架にかける、そういうやり方で私たちの不義を精算してくださって、「もう一度、ここから始めていいのだよ」という状況を作り出してくださったのです。私たちは、自分の命を献げたとしても、罪あるために献げ物として相応しくはなれないけれども、神はその罪を精算するために、神の方から献げ物を用意してくださった、だから「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、パウロは言っています。
一方では、全く清らかな主イエス・キリストが、十字架上で、正義への深い飢え渇きの中に置かれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられない、神から見捨てられた状態、正義のない状態に、主イエスが陥ってくださったのです。しかし、このことによって、神が人間の罪を精算してくださいました。そして、私たち自身によっては決して満たされることのない正義への飢え渇きを満たしてくださったのです。本当に不思議な神のなさりようですが、神がそうなさった、そこに神の正義があるのだと聖書は告げています。
私たちは、神から与えられた「もう一度、ここから始めていいのだよ」という出来事を、神からの恵みとして受け取る他ありません。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆いていた使徒パウロは、3章21節から24節で「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と語っています。私たちは皆、どんなに敬虔そうな人であったとしても、罪のために、神の光の中で生きることなどできない者です。誰一人の例外もなく、私たちは、自分で神の前に正しい者として立つことはできません。ところが神は、主イエス・キリストの十字架の贖いの御業を通して、「無償で義と」してくださったのです。「あなたは、わたしの光のもとで、もう一度生きて良いのだよ。もう一度、ここから始めていいのだよ」と言ってくださったのです。
けれども、そう言われたからいって、そこから私たちが天使のように清らかな者となるのかと言えば、そうではありません。繰り返しですが、私たち自身は神を忘れ、神抜きで生きてしまうのです。私たちはこの地上を生きる限り、常に、「正義への飢え渇き」を持たざるを得ません。そういう私たちが、なおそこで、主イエス・キリストに執りなされ、「もう一度生きて良いのだ」と聞かされながら生きていくのです。
神の前に正しく生きていないのは、わたしだけではありません。周りの人は皆、そうです。誰一人正しい者はいないと言われているのですから、この社会の中にあって、破れや諍いが起こることは仕方のないことです。それは起こるのです。その時に私たちが、「正義が行われていない」と言って怒ったとしても意味がありません。人は皆、自分中心にしか物事を考えられなくて、口では周りの人たちのことを第一にと言ったとしても実際にはそうなれない、そういうところを生きているのですから、どうしても衝突するということは起こるのです。
しかし、「人間とはそういう者なのだから、この世界の状況は諦めるよりない。自分のやりたいように生きればよい」と言って、破れかぶれになる必要はありません。どうしてでしょうか。それは、神が、正しく生きることのできない私たちの上に御言葉をもって臨んでくださっているからです。私たちは、神の言葉を教えられなければ、自分の思いだけで生きてしまいます。決して正しく生きることはできません。しかし、「もう一度生きて良いのだよ」という呼びかけの声を聞かされて、主イエスが私たちのために十字架に架かってくださったのですから、「今の自分は惨めでしかないけれども、こんなわたしが神に愛されているのだから、もう一度、この地上の命をここから生きてみよう」と思って生きるのです。
そしてまた、この地上の生を終える時にも、「最後まで何もできなかった」と後悔するのではなく、「不十分な歩みではあったけれども、しかしそれでも、神がこのわたしを愛し、主イエス・キリストの光の中に置いてくださるのだ」ということを感謝して終わることができる、そういう約束が与えられているのです。
最後に、コリントの信徒への手紙二 5章21節の御言葉を聞きます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。今日、私たちは「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」という御言葉を聞きました。どうすれば満たされるのか。それは、弟子たちにこの言葉を教えてくださった主イエスご自身によって満たされるのです。
私たちは、自分の生活の実感の中では、「義とされている」ことをなかなか感じ取れないかもしれません。むしろ、いつも神を忘れて神抜きで生きている、そういう自分の過ちや弱さにばかり目が行くかもしれませんし、また、傲慢になって周りの人たちを傷つけたり、言うべきでない言葉を発して諍いを起こしてしまって悩むということがあるかもしれません。しかし、私たちはそういう日常を暮らしながら、主イエス・キリストの光の中に生かされているのです。真実に正しい方を神がこの世にお遣わしになって、私たちを照らしてくださるのです。そしてそれは、神がこの世界の上に「正義を来たらせよう」と望んでくださっているからなのです。
主イエスが十字架の上で、悩み、痛み、苦しんで下さった、そのことによって、私たちは義とされて、もう一度ここから新しく、神の正義のもとで生きる者とされるのだと信じて良いのですし、そのように生きる者とされたいと願います。
私たちの義への飢え渇きは、この地上においては最後まで満たされることはないでしょう。私たちが真実に満たされるのは、地上の生活を終え、神が私たちを完成してくださる、その場所においてです。
私たちには、新しい神の義に満ちた世界が約束されている、そのことを聞かされながら、与えられている地上の世界で、少しでも神の義を分かる範囲でイメージしながら、日常を歩む者とされたいと願います。 |