2016年4月 |
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4月3日 | 4月10日 | 4月17日 | 4月24日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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柔和な者 | 2016年4月第2主日礼拝 2016年4月10日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第5章1節〜5節 | |
5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。<4節>悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。<5節>柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 |
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ただ今、マタイによる福音書第5章1節から5節までをご一緒にお聞きしました。5節に「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」とあります。主イエスが「幸い」について教えてくださった3番目の言葉です。 ここには「柔和な人々は」と言われています。「柔和」と言いますと、何か「優しい」ということだろうというイメージを持ちますけれども、しかし考えてみますと、「柔和」という言葉は、あまり私たちの日常生活では使わない言葉ではないでしょうか。国語辞典を引いてみますと、「柔和」という言葉は、「優しく穏やか」「とげとげしいところのない、柔らかな態度や様子」と説明されています。日本語の「柔和」という言葉は、周りの人たちと激しく言い争ったり怒鳴ったりしない、そういう穏やかさを言い表していますが、新約聖書の原文を見ますと、ここに描かれている「柔和」という言葉は、単なる穏やかさを超えているというニュアンスが含まれています。 しかし、聖書にそう語られているからと言って、もし私たちがこの世に向かって大声で、このようなことを吹聴したとすると、どうなることかと思います。恐らく、嘲られ馬鹿にされることでしょう。もしかすると、親切な人たちからは諭されるかもしれません。「この地上の国を柔和な人たちが受け継ぐことになるなどということは決して起こらない。むしろ、この世の現実はまるで逆である。人間は常に力を求めるし、この地上の国はいつも力の強い人のものである。柔和な人たち、つまり黙って忍耐して辛抱する人たちというのは、この世ではいつものけ者にされ損をして、迷惑をかけられ虐げられて次第に窮屈な場所に追いやられてしまうだけだ。この世では、力を持っているということが何よりも大切である。たとえ、厚かましく恥知らずであっても、向こう見ずであっても、しかしそういう人たちが大手を振ってまかり通っていく、それがこの世である。貧しい者や弱い者たちは、強い者たちによって好きなように扱われ、持っているものまで巻き上げられてしまう。力ある者が、この世の良いものを独占する。地上の世界はそんな風に動いているのだ」と、教え諭されることがあるかもしれません。私たちが地上を生きて行く上では、「力こそすべてである。だから『柔和な人々は、幸いである』などという、何の役にも立たないお題目などさっさと捨ててしまいなさい。そして少しでも力を付けるように、せいぜい頑張りなさい」と、激励されることすらあるかもしれません。 主イエスがここで知らせようとしておられる「信仰によって私たちが持つことのできる将来の希望」に鋭く対立するもの、それは、ある種の生物学的な考え方ではないかと思います。生物学者の全員が同じ考えだというのではありませんが、ある生物学者たちは、生き物には厳然とした淘汰の出来事があるのだと教えます。植物の世界でも動物の世界でも、そこでは強い品種、あるいは環境に適合した種族が生き延び、逆に、弱い品種や環境に適合できなかった種族は必然的に淘汰されてきたのだと主張します。そして、そういう弱肉強食のような法則を人間の世界にも当てはめようとするとどうなるでしょうか。力こそが頼みとするものなのだと、力への信頼が生まれるようになります。おとなしい人や感じやすく様々なことに配慮してしまうあまり周りに気を遣いすぎて自分を主張できない人は滅んでいく、逞しい人いや目先の効く人が栄えていく、それは正しいことであって必然であるなどと、間違って言ってしまうのです。「羊として100年生きるより、ライオンとなって1年生きることの方がずっと意味がある」などと言う人もいます。 「柔和な者たちが地を受け継ぐことになる」、それはまさに、終わりの完成された日に、最後の将来においてこう実現されるのだということが明かされているような言葉なのです。神は確かに、乱暴な人や冷酷な人ではなくて、柔和な者にこの地上を受け継がせようとしておられます。聖書の中には、そういう神がおられるのだということを信じて、信仰に基づいて歩んで行った人たちのことが語られています。 このアブラハムとロトの場合には、物語として、神がアブラハムに地を継がせてくださるのですが、物語ということではなく別の仕方でも、神がなさることを聞くことができます。例えば、詩編37編では、神が柔和な人に土地を受け継がせるのだと繰り返し語られています。先ほども申しましたが、「柔和」とは「神に信頼し、神に従って生きる」ということです。まず5節に「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい」とあります。「柔和な者として生きなさい」ということが語られます。その上で、9節「悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ」と語ります。続いて11節「貧しい人は地を継ぎ 豊かな平和に自らをゆだねるであろう」。22節には「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」とあります。29節には「主に従う人は地を継ぎ いつまでも、そこに住み続ける」。34節には「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう」とあります。この詩人がいた頃の時代は、一時的に人間が善人になり天使のように清らかになったから、こういうことが言えたというのではありません。この詩人が「神を信頼する」と謳った時代であっても、神に信頼して生きるよりは自分の思いを先立たせて生きたい人が大勢いたと思います。アブラハムの時代であっても同じです。アブラハムは神に信頼して柔和に生きていますが、その傍らにはロトがいるのです。ロトは、人間の目に良いと思えるものを持って行ってしまいます。しかしそれでも、神は、そういうこの世の風潮に流されません。「人間の思惑や打算を先立たせるのではなく、神に信頼して生きる道があるのだ。そして、神から与えられた者として、今日の生活を生きていく、そういう人間のあり方があるのだ」ということを、聖書を通して、神は語っておられるのです。旧約聖書の中には、たくさん、こういう例があります。 神に信頼を寄せて自分の人生を生きていく、そういう人たちの系図はずっと繋がっていって、ある中心的なところに向かっていきます。旧約聖書の中に記されているすべての約束は、最後には、終わりの日に神がすべてを完成してくださる、そのことを示されるただお一人の方の元に流れ込んでいくことになります。新約聖書をひもときますと、まさにそこに、柔和なお方として、この世の力とか権力と全く無縁な方として、主イエス・キリストというお方が立っておられます。このお方は、地上にあってまことに苦労をする人たち、重荷を負って喘いでいる人たちに、非常にはっきりとした呼びかけをなさいます。印象的な言葉ですので、一度聞けば決して忘れないような呼びかけです。マタイによる福音書11章28節から30節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と、主イエスは言っておられます。柔和な者が確かに地を受け継ぐのだ、そのことは、疲れた者、重荷を負う者を招こうとしておられる主イエス・キリストというお方に心を寄せる時に、私たちに理解できるようになっていきます。主イエスが生きておられた時代に、権力や暴力によって周りの人たちを抑圧して力づくで生きていた人が大勢いました。主イエスがお生まれになった時には、その存在自体を消してしまおうとして、ヘロデ大王がエルサレム近郊に住む2歳以下の幼児を皆殺しにしたという出来事が伝えられています。ローマ皇帝にしても、また主イエスを十字架につけて葬り去ろうとした祭司長たちにしろ、この世のいろいろな人間の力関係の中で、最終的に主イエスを十字架につけるという判決を下したローマ総督のピラトにしても、皆力づくで、自分たちの支配を打ち立て、自分の力でこの世を渡っていこうとしていた人たちです。 主イエスの十字架はとても象徴的ですが、この世の権力者たちが幅を利かせ、弱い者がどうなっても良いと考えている、そういう考え方が当たり前のところで、柔和な者がどうなっていくのかということが、あの十字架の上に示されているのです。主イエスは十字架に磔にされた時に、十字架に釘づけられて、高く掲げられました。「柔和な者は地を受け継ぐ」と言われているのに、主イエスは十字架におかかりになった時に、この世のほんの一角にも、自分の足の裏を置く場所さえ与えられませんでした。主イエスは、天と地の間に高く吊るされてしまいます。そして、この世の権力者たちは、そういう主イエスを見上げて嘲笑います。「柔和な者はどうなるのか。お前が地を受け継ぐなどと言っても、そんなことはあるはずがない。本当にお前に力があるのなら、そこから降りて、みよ」と言って嘲ります。「お前は結局、自分の足の裏を置くとろころさえ与えられないまま、むざむざと犬死していくだけだろう」と嘲るのです。 ところが、そういう権力者たちが予想だにしないことが起こります。主イエスが十字架で死なれてから三日目に、イースターの出来事が起こります。そして、主イエスの甦りに勇気づけられ励まされた弟子たちが、続々とこの地上に起こされていくのです。権力者たちが力無い人たちをどんなふうに扱ってもよいと、そう思ったからこそ祭司長たちは群衆を扇動して、偽りの理由で主イエスを殺しても大丈夫だと思っていました。ピラトは主イエスに罪を見いだせませんでしたが、しかし、見たところ、主イエスに何の権力も見いだせなかったので、この人が死んだところで自分に害が及ぶことないと思って真実の裁きを曲げ、主イエスを十字架につける判決を下してしまいました。権力者たちはそれで事が収まると思っていましたが、しかし、事は収まらなかったのだと聖書は告げています。主イエスの甦りの出来事が起こったその時に何が起こったのでしょうか。「あの柔和な方、真実に神に信頼を寄せるあり方をしていた主イエスこそが、このわたしの主人である。だから、このわたしも主イエスに従って生きるならば、神がこのわたしの人生の上にいてくださるのだ」と信じる人たちが続々と現れてきたのです。
主イエス・キリストが、どんなに手荒い扱いを受けても、それを神が共にいてくださる中での出来事だと受け止め信じて耐え忍び、最後まで柔和な者として歩んで下さった、それだからこそ、この地上が神に帰属するように変えられているのです。主イエスが信仰をもってこの地上を見ておられた、その信仰をよって、私たちのこの地上の将来、行く末を遥かに仰ぎ見て、希望を持っていきようとする人たちが生まれてきているのです。キリスト者が世界中に満ち満ちているこの世界は、実は、主イエスから始まっています。 私たちが毎週ここで礼拝しているということはどういうことなのでしょうか。それは、神の慈しみ豊かな支配が、最後には、この世界を支配することになるのだということを、この地上において私たちが表しているということです。私たちはそう思って集まっていないかもしれません。聖書の言葉に慰められたい、励まされたいと思って集まっているだけかもしれませんが、実は、そういう有り様を通して、私たちがこの地上で表していることは何なのか。「本当に柔和な者として神への信頼に生き、神への信頼によって全てを耐え忍ばれたその方こそが、私たちに希望を与えているのだ」ということを表しているのです。 |
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