聖書のみことば
2016年3月
3月6日 3月13日 3月20日 3月25日 3月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月27日主日礼拝音声

 復活
2016年イースター礼拝 2016年3月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第28章1節〜15節

28章<1節>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。<2節>すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。<3節>その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。<4節>番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。<5節>天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、<6節>あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。<7節>それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」<8節>婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。<9節>すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。<10節>イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」<11節>婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。<12節>そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、<13節>言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。<14節>もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」<15節>兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 ただ今、マタイによる福音書第28章1節から15節までをご一緒にお聞きしました。その中の8節に「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。主の天使から、主イエス・キリストのご復活の出来事を聞かされた二人の婦人の様子が語られています。
 この二人は、主の復活を最初に聞かされた人たちです。この婦人たちから、主イエス・キリストの復活の知らせが弟子たちにもたらされました。そしてその復活の知らせが更に広められ言い伝えられて、今日では全世界でイースターの出来事が祝われるようになっています。ですから、この二人の婦人たちは、言うならばイースターの知らせの根源に立っているような二人なのです。
 最初の証人とされたこの婦人たちの様子は「恐れながらも大いに喜んでいた」と言われています。「かねて言われていたとおり、復活なさった」という、天使たちから婦人たちにもたらされた喜びの知らせは、まるで伝言ゲームのように世界中の人々の間に至って、そして私たちのもとにまで伝えられています。この知らせのもとに、私たちは今日ここに集い、主イエス・キリストのご復活を喜ぶイースター礼拝を守っているのです。
 けれども、このマタイによる福音書は、この知らせが伝えられる発端のとこでは、喜びだけではなく、恐れもあったのだと伝えています。この「恐れ」ということについて、今朝は特に思い巡らしたいと思います。

 主イエスのご復活を弟子たちに伝えた婦人たちが、喜んでいたけれど、同時に恐れていたとはどういうことなのでしょうか。復活の喜びは確かにあるけれども、しかしそこにはその喜びを傷つけ損なうような漠然とした不安や恐れがあったということなのでしょうか。それとも、この二人が抱いた恐れとは、喜びの源を知るが故の、誠に畏れ多いという感情、有難い、かたじけないという思いにつながるような恐れだったのでしょうか。二人の婦人たちが経験した恐れを理解するために、二人のこの朝の様子を少し丁寧に見てみたいと思います。
 この二人がどうして、復活の最初の証人になることができたのか。それは、この日の朝、誰よりも早く主イエスを葬ったお墓に行ったからです。1節に「
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」とあります。この二人がお墓に行った目的、それは何だったかと言いますと、「墓を見に行った」と言われています。少し不思議です。他の福音書を見ますと、婦人たちがお墓に行った目的について少し違って書かれています。例えば、マルコによる福音書では、主イエスのご遺体に油を塗りに行こうとして香料を買い揃えてお墓に向かったことが記されています。ルカによる福音書も、数名の婦人たちがあらかじめ用意しておいた香料と香油とを持ってお墓に行ったと語られています。他の福音書の語り口からしますと、婦人たちは、香料と香油を手にして、主イエスにそれを塗ろうとしてお墓に行ったと言われているのです。十字架で亡くなられた金曜日、息を引き取られたのが午後3時頃です。夕方からは土曜日の安息日が始まってしまいますから、主イエスの葬りは極めて急いで行われました。その時には、十分な葬りをして差し上げられなかったので、もう一度、水で主イエスのお身体を洗い清め、丁寧に香油を塗って葬り直そうとして、そのために婦人たちはお墓に行ったのだと、他の福音書には書いてあるのです。そして、その説明は、私たちにとって理解できるものです。
 ところが、このマタイによる福音書だけ、語り口が違っていて、「墓を見に行った」と記されています。この言い方からしますと、主イエスのご遺体に香料や香油を塗ることが第一の目的ではなかったかのような書き方です。もちろん、もしかしますと、この二人は、他の福音書が語っているように香料や香油を手に持っていたかもしれません。書いていないからと言って、この二人が手ぶらで行ったと断定することはできないのです。しかし、たとえ持っていたとしても、また、お墓では主イエスのご遺体に香油を塗るのだとしても、そのことが本当の目的ではなかったとマタイは語っています。本当の目的は、「墓を見る」ことだったのです。

 「墓を見る」ということは、墓の設えの立派さや豪華さを見て驚嘆するという意味ではないと思います。むしろ、主イエスが自分たちの間から取り去られてしまったという取り返しのつかない出来事の前で、お墓をぼんやりと眺めながら瞑想したい、主イエスが取り去られてしまったという受け入れがたい現実を前にして、どうしたら良いのか分からないので、とにかくお墓に行って、お墓を見ながら考えたい、そういう思いだったのだろうと思います。
 この二人の婦人たちは、そういう意味で、大変心の優しい弟子だったと言って良いと思います。優しい心を持っている人というのは、死の出来事に際して、それが物質的な肉体の終わりであるなどとは簡単に片付けては考えられないのです。お墓を前にして、なんとかして、過ぎ去ってしまった主イエスとのことを追憶して、それを拾い集めて、もう一度、主イエスとの幸せだった過去を我がものとしたい、そしてそれを忘れないようにしたい、そう望むのです。私たちも、そういう時があると思います。身近なところで死の出来事が起こる時に、地上の生活を終えたばかりの故人を偲んで、その愛する者が地上で大事にしていたものを近くに置いて故人を思い出そうとする、そういう場合があるだろうと思います。
 主イエスの場合には、しかし、十字架で処刑されたのですから、遺品は何もありません。犯罪人として、すべてを剥ぎ取られて処刑され、剥ぎ取られたものは処刑に立ち会ったローマ兵士たちに持っていかれましたから、主イエスを偲ぶ形見のようなものは何もありません。ですから、せめて、主イエスをお納めしたお墓まで行って主を偲びたい、そういう思いがこの婦人たちにはあったのです。

 そういうせめてもの願いを持って婦人たちは出かけて行ったのですが、ところが実際に行ってみると、お墓の有様は、恐ろしいまでに様変わりしていたのでした。せめて墓を見たいという婦人たちの願いは、結局、聞かれませんでした。どうしてでしょうか。お墓が空になってしまっている、復活の出来事が起こってしまっていたからです。
 この二人の婦人の弟子たちにとって、お墓は、過去への思いを繋ぐ場所でした。主イエスとわたしとの美しい思い出、過去を一つ一つ思い返しながら瞑想する、そういう場所だったのです。ところが、そういうことをしようとしても、主のご遺体が取り去られているということは大変衝撃的な出来事ですから、もはや過去へと思いを繋ぐことなどできないのです。そういう衝撃的な出来事を、マタイによる福音書は、2節に「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」と記しています。4つの福音書の中で、こういう記述があるのはマタイだけです。マタイによる福音書では、受難週にも聞いたところですが、27章51節にも「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とあり、地震が起こったことが記されています。
 けれども、もしかしますと、このように何度か起こった地震は、私たちが日常生活の中で経験するような実際の地震とは違うのかもしれません。「イースターの朝に大きな地震が起こって、お墓を塞いでいた石がゴロゴロと動いたのだ」と、昔、教会学校のお話で聞いたことがあります。私たちは、お墓の石がどうして横にどかされたのか分からなくて、ついそういう説明をしたくなるのですが、けれども、聖書はそういう合理的な説明をするために、ここで地震の話をしているのではないと思います。もし合理的な説明をするのであれば、「天使が石をわきへ転がした」などという表現は要らないでしょう。ですからこれは、自然界の地震が起こって石が動いたということではなくて、「石を動かすほどの大きな揺らぎが、この世界の上に起こった」と考えるべきです。それは必ずしも肉体に感じるような大地の震えということではなかったかも知れません。ただ、まさに私たちが生きているこの世界の土台が根底から揺さぶられ動かされるようなことが、神によって行われた、天使によって引き起こされたのだということを、マタイによる福音書は語ろうとしているのです。自然界の大地震ではなく、神ご自身に由来する、言うなれば、超自然的な出来事が起こったことを、地震という言葉で言い表しているのです。
 地上で普通に起こる出来事を遥かに超える、通常では決して起こらないであろう出来事が、ここに起こっています。この朝、このお墓で起こったこと、それは実際にこのお墓の場所で起こってはいるのですが、しかし、その出来事自体は、この地上に由来することではありません。まさに神が天使を送って、ここに引き起こされたことです。天使たちの背後にあって、地上のものと天上のものの一切を支配なさる神の御心によって、またそのご命令によって、復活の出来事は生じているのです。
 
 こういう突拍子もない出来事、地上であれば決して経験できないはずの出来事に実際に出遭う時に、それを経験した人が茫然自失の状態になって恐れを抱くということは、言うまでもないことだろうと思います。この朝、二人の婦人たちは、今まで生きてきた中で一度も経験したことのない出来事に出遭わされて、そして恐れを覚えました。まさにそういう中にあって、しかしこの二人は、深い恐れを覚えながらも同時に、大きな喜びに満たされてもいるのです。8節に「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」とあります。経験するはずのないようなことに出遭って深く恐れている、しかし同時に、その状態の中からあふれんばかりの喜びを経験する、これは決して普通のことではありません。
 4節には、同じことを経験した他の人たちのことが記されています。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。この番兵たちとは、ピラトの許可を得て祭司長たちがお墓に配置していた守衛の人たちです。番兵たちはこの出来事に遭遇して、生きた心地もしなくなっています。この人たちは決して喜んではいません。婦人たちも番兵たちも深い恐れを抱いている、そこは同じですが、しかし、婦人たちは恐れながらも「大いに喜んだ」のです。この両者の違いは一体どこから生まれたのでしょうか。どうして婦人たちは恐れながらも喜ぶことができたのでしょうか。5節以下に「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい』」とあります。「恐れることはない。今ここに起こっていることは、かねて主イエスがおっしゃっていたことなのだ」と、天使は告げています。かねて言われていた通りの復活である。つまり、この朝この婦人たちは、先に主イエスから聞かされ心に刻んでいたことが言葉だけの噓偽りではなかったのだと、まさに主イエスがおっしゃっていたことが、およそ起こりそうのないことだと思っていたことが、しかし確かにここで起こってしまっているのだと気付かされるのです。

 主イエスは繰り返し繰り返し、弟子たちに教えておられました。マタイによる福音書では、20章18節19節で「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と、主イエスは言われました。婦人の弟子たちもこの言葉を聞いています。まだエルサレムに上る前でしたが、やがてエルサレムに上って行けば、そこで主イエスが敵の手に渡され、死刑を宣告され、鞭打たれ、十字架につけられて無残な最期を遂げると聞かされていた時点では、そんなことは起こってほしくないと弟子たちは思っていたはずです。そんなことは聞きたくないと思って、自分の思いの中から締め出していた、そういう言葉です。しかし、振り返ってみますと、一番最後に主イエスは、「人の子は三日目に復活する」とおっしゃっています。弟子たちにとっては聞きたくない言葉でしたが、主イエスはそんなことにお構いなく、弟子たちに対して更に、26章31節32節では「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃっていました。この言葉を、この朝、神が「まさしくその通りである」として、主イエスがおっしゃっていた通りにしてくださったのです。
 二人の婦人たちは、イースターの天使たちから7節「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と告げられます。かねて主イエスがおっしゃっていた言葉は本当にその通りになっていると、天使が伝えてくれたのです。ですから、二人の婦人の弟子たちは、こんなことがあるのだろうかと恐れながらも、しかし確かに主イエスのおっしゃった通りだったと気付いて喜んでいるのです。

 主イエスの亡骸をお納めしたアリマタヤのヨセフのお墓、それはこの朝までは、主イエスの人生の最終到着地点になると思われていました。私たちも、それぞれ地上の人生を終えた後、最後にはお墓に入る時がやってきます。しかし、主イエスは、もはやそのお墓が私たちの人生においての最終地点ではないことを、この朝、明らかにしてくださいました。
 「辛い終わりである。もうあとは、これまでの人生を振り返って懐かしむことくらいしかできない」、そうとしか思えなかったその場所が、「そこから始まる幸いな新しい命の始まりの戸口になった」のです。ただし、それは死をもって終わる人生がもう一度繰り返すということではありません。死を通って、主イエスは永遠の命を生きるお方、そういう方として甦られました。そうであるからには、私たちもそうなのです。私たちも、地上の肉体の死をもって命を終える時に、もう一度この命に戻ることが「甦る」ということなのではありません。そうではなくて、「新しいものに変えられていく」のです。
 死の苦しみによって痛めつけられ散々に傷つけられた、そういう肉体、血を流して傷を受けて至る所が損なわれた、その身体がそのまま生き返るというのではありません。そうではなくて、今まで聞いたことも見たこともないような新しい身体に変えられるのです。命は死で終わるのではない。死を超えて、更にその先に持ち運ばれていく。しかも傷みを持っているこの体ではなくて、それとは違うものに甦らされるのだ、そういう喜びが、この二人の婦人を捕らえるのです。

 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。この喜びは、自分だけで独り占めして、ほくそ笑んでいるような喜びではありません。こういう命が私たちに与えられている、そのことを信じて受け入れてくれそうな人には伝えずにおられないような、そういう喜びです。
 喜びを伝えようとして二人の婦人は駈け出すのですが、しかし、二人は、このことを弟子たちに告げる前に、甦りの主イエスご自身とお会いすることになりました。そして、甦りの主は、復活の知らせを伝えようとしているこの二人の婦人たちに、言葉をお与えになります。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」。「おはよう」と、主が言われたとあります。朝ですからそう言われたのですが、この言葉は「シャローム」という挨拶の言葉です。「シャローム」という言葉はいろいろに使われます。朝「シャローム」と言えば、それは「おはよう」であり、昼に言えば「こんにちは」になります。あるいは、夜眠るときに言えば「おやすみなさい」と訳すこともできます。しかし、元々の言葉の意味は何かと言いますと、「平安あれ」であり、それは「喜びなさい」という意味です。
 主イエスが十字架におかかりになる前、事態は切迫して風雲急を告げている、そういう中で弟子たちが不安と緊張の中にあった時に、主イエスは「今は、あなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしはあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われました。それが「シャローム」です。「今、あなたが置かれている状況は大変深刻に思えるかもしれない。どうして良いのか呆然としてしまうかもしれない。しかしわたしが、そういう中であなたがたに間もなく会う。あなたはそこで、心から喜ぶことになる」という、主イエスのその約束が「シャローム」です。まさに、復活の主イエスが私たちのもとを訪れてくださる時に、この喜びが実現するのです。

 婦人の弟子たちは、天使から聞かされたことを信じて大いに喜んで、それを他の弟子たちに持ち運ぼうとします。その道すがらに、主イエスが現れてくださる。これは偶然ではありません。主イエスが身をもって、「あなたが信じて持ち運ぼうとしている知らせは、本当のことだよ」と、この二人の婦人たちに証ししてくださっているのです。「わたしは復活して、あなたと共にいる。この知らせは決して妄想とか思い込みとか、夢物語ではない。まさしく現実である」と言って、主イエスは弟子たち一人ひとりに出会ってくださり、確かにしてくださるのです。

 私たちは今日、このところで、この婦人の弟子たちが最初に聞かされ、そしてそののち弟子たちへ持ち運ばれ、更に教会の中で語り続けられ、世界中に伝えられている、その知らせを聞かされています。主イエスが甦っておられる。もはや、死が最後のものではないのです。
 全てが終わりと思える時が、確かに私たちの人生にはあります。この決断をしてしまったら、わたしの人生は終わりだと思うようなことが、人生の折々にあるのです。しかし、甦りの主イエスが私たちに出会ってくださって、「あなたの人生は、決して、死をもって終わるのではない」と語ってくださるのです。「わたしが甦ってあなたと共にいるからには、あなたがたの人生は、たとえすべてが終わっているように見えても、決して死が最後のものとはならない」、そういう知らせを受けて、私たちは一人ひとり、自分の歩む人生にここから送り出されているのです。死が最後の支配者ではないからこそ、私たちは、今日与えられているこの人生を本当に喜んで、生き生きと歩んでいくことができます。神に喜ばれる者として、今日、わたしは生かされているのです。このことを、この朝、覚えたいのです。

 もう一度ここから、新しい始まりが与えられています。今日のこの時まで、神がずっと私たちを守り持ち運んでくださったように、ここからも、神が新しい道を備えて私たちをそれぞれの生きる道に送り出してくださる、そのことを信じる者とされたいのです。
 そして、私たちがそういう道を辿っていく時に、主イエス・キリストが私たちの人生の行く先々に現れてくださって、「平安あれ、あなたは今のこの状況の中でも喜びに満たされる」との約束を語ってくださることを信じて、歩みたいのです。

 主イエスが私たちに伴ってくださる。力強い心強い祝福の言葉を語りかけてくださる。そのことを信じて、今日、ここからもう一度、与えられているそれぞれの地上の務めへと遣わされていきたいと願います。
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