2016年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主イエスの埋葬 | 2016年受苦日礼拝 2016年3月25日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第27章27節〜66節 | |
27章<27節>それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。<28節>そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、<29節>茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。<30節>また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。<31節>このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。<32節>兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。<33節>そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、<34節>苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。<35節>彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、<36節>そこに座って見張りをしていた。<37節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。<38節>折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。<39節>そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、<40節>言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」<41節>同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。<42節>「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。<43節>神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」<44節>一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。<45節>さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<46節>三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<47節>そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。<48節>そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。<49節>ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。<50節>しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。<51節>そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、<52節>墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。<53節>そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。<54節>百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<55節>またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。<56節>その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。<57節>夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。<58節>この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。<59節>ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、<60節>岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。<61節>マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。<62節>明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、<63節>こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。<64節>ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」<65節>ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」<66節>そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。 |
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ただ今、マタイによる福音書27章27節から66節までをご一緒にお聞きしました。 一般的に葬りというのは、死の出来事が起こったことを示すと私たちは思っていると思います。葬る、お葬式や埋葬が起こるということは、そこに死の出来事が生じたのだということを表していると思っています。 主イエス・キリストを知らない葬りが私たちの社会には多くあるわけですが、主イエス・キリストを知らない大方のご葬儀というのは、死の出来事を表すことに止まります。ところが、主イエスを知っている人にとって、葬儀・葬りは、意味がまるで違います。私たちがやがてこの地上の生活を終えた時に、私たちが葬ってもらうその葬りもそうです。私たちはこの地上を生きて、その挙句、最後に死の力に捕らえられてしまったと言って、この地上の生活を終えていくのではありません。そうではなくて、私たちの主である方、私たちの人生のすべてにわたって、支配者として、同伴者として立っていてくださるお方が、私たちの死の瞬間にも確かに頼もしい方として、その場に臨んでくださっている。そして、このお方が復活しておられるように、私たちも、この地上の命の果てに、さらに神によって与えられている新しい命が備えられている、そのことを表す葬りの時を迎えることになるのです。主イエスの葬りは、死の出来事は起こっているけれど、しかし死を超えて命が勝利しているのだということを示しています。そして、主イエス・キリストの復活以降、甦りの主を信じている私たちも、主の憐れみにすがって甦らされ、永遠の命を受け継ぐ者とされている、そのことを信じて、この地上を生きるようにされているのです。 実際に4つの福音書を読み比べてみますと、共通していることと、互いに少しくい違っているところがあります。4つの福音書に共通していることは、アリマタヤのヨセフという人が、主の亡骸をローマ総督ピラトから貰い受けて埋葬しているということです。主の葬りに際しては、このヨセフが主導的な役割を果たしたということは疑いようもありません。どの福音書でも、アリマタヤのヨセフが主イエスを葬ったことで一致しています。ヨハネによる福音書では、もう一人、ニコデモという人物が沈香を持って現れて、ヨセフの葬りの作業を手伝っていますが、後の3福音書ではヨセフ一人です。 主イエスを葬ったヨセフとは、どういう人だったのでしょうか。57節には、とてもそっけないヨセフの紹介が記されています。「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」。「アリマタヤの出身であり、主イエスの弟子であり、そして金持ちだった」と、ヨセフについて3つのことが語られています。他の福音書では、もう少し詳しく紹介されています。例えば、ヨセフは最高法院の議員の一人だったとか、あるいは最高法院で主イエスの処刑を決定した時にはその決定に同意しなかったとか、神の支配を待ち望む正しい人だったとか、ヨセフの人となりが少し分かるような情報が付け加わっています。ところが、マタイによる福音書では、そういうことは一切記されておりません。とても簡略な紹介です。しかし簡略でありながら、このような場面に似つかわしくないような言葉が語られています。それは「金持ちだった」という言葉です。どうしてこの言葉が、この場面で語られなければならないのか。ヨセフが金持ちであると紹介することに、どういう意味が込められているのでしょうか。この福音書が語っていること、それは主イエスを葬った者が金持ちだったということであり、主イエスの葬りに用いられたお墓は、お金持ちのお墓だったということなのです。 聖書はそう語っていると聞きながら、しかし、もしかすると、「主イエスの甦りとは、この世の裕福な人たちだけのものではないはずだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。「どうして主イエスは、お金持ち真新しいお墓の中で復活なさったのだろうか。むしろ、主イエスのご復活がすべての人に向けて語られる希望だと言うならば、この世の一握りのお金持ちのお墓の中で起こるのではなくて、貧しい人たちのための共同墓地の一角で起こった方が良かったのではないか、むしろその方が万人への希望を示すことになるのではないだろうか」と思う方がいらっしゃると思います。確かにその通りだと思います。私たちがどんなに質素なお墓に葬られるとしても、その場所から私たちは甦りの主イエスに手を取っていただくようにして、天の神のもとに導かれて、新しい生活へと招かれます。永遠の命の中に生きる希望を、私たちは、どんなに質素な、あるいは惨めに見える、そういう死の中からでも持つことができるのです。 そして、この苦難の僕については、さらに、53章11節で「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と言われます。この苦難の僕は、その生涯を終えた後に、この人自身が生きた痕跡を残してもらったというだけではなくて、さらに大きな実を結んだのだと語られています。そして、今晩ここに集まっている私たちこそが、まさに、苦難の僕となられたお方、主イエス・キリストの結んだ実り、その一粒一粒としてここに集い、神を見上げて礼拝を捧げているのです。 主イエス・キリストが私たちの執り成しのために十字架の上で苦しまれ、死んで陰府にまで下ってくださっているのだということを、私たちは覚えたいのです。主イエスが十字架で、私たちの罪を執り成してくださり、「神に喜ばれる新しい命を生きるように」と、私たちを招いてくださるのです。 |
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