聖書のみことば
2016年3月
3月6日 3月13日 3月20日 3月25日 3月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月13日主日礼拝音声

 判決
2016年3月第2主日礼拝 2016年3月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第22章66節〜23章25節

22章<66節>夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、<67節>「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。<68節>わたしが尋ねても、決して答えないだろう。<69節>しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」<70節 >そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」<71節>人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
23章<1節>そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。<2節>そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」<3節>そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。<4節>ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。<5節>しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。<6節>これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、<7節>ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。<8節>彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。<9節>それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。<10節>祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。<11節>ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。<12節>この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。<13節>ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、<14節>言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。<15節>ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。<16節>だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」<17節>祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。<18節 >しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。<19節>このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 <20節>ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。<21節>しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。<22節>ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」<23節>ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。<24節>そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。<25節>そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

 ただ今、ルカによる福音書第22章66節から23章25節までをご一緒にお聞きしました。66節に「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して」とあります。「夜が明けると」と述べられています。この言葉について、昔から言われていることがあります。それは、この66節と直前の65節の間には、ここに語られていない一つの時間が流れているということです。深い沈黙の時が、65節と66節の間に存在します。

 主イエスが弟子たちと過越の食事をなさった後、オリーブ山に赴かれ、そこで祈りを捧げられ、その祈りの最中に敵の手に捕らえられました。これは、今日の時間で言いますと、恐らく、午後8時か9時くらいだっただろうと推測できます。そして、そこから大祭司の屋敷に連行されて取り調べを受けておられた時、屋敷の中庭でペトロが3度「主イエスを知らない」と言ってしまうのです。あれは恐らく深夜のことです。ペトロは激しく泣いた末に、大祭司の屋敷から立ち去りました。他の弟子たちはそれより前に、蜘蛛の子を散らすように立ち去っています。大祭司の屋敷で取り調べが続き、それが終わった後、主イエスは中庭に引き出され、見張りの者たちから代わる代わる悪ふざけを仕掛けられ暴行を受けます。それが、63節から65節にかけて語られていることですが、これは未明に起こったことだろうと想像できます。主イエスを激しく嘲っていた人たちも、やがて、嘲ることに飽きて休んでしまう。主イエスは夜明けまで暗闇の中に一人で置かれ、打傷も手当てされずに、縄をかけられたままで夜明けを迎えられます。その夜明けまで、深い沈黙の時が流れていたのです。
 この沈黙の時について、人間的な想像を詳しくする人たちは、この時が、主イエスにとって深い孤独の時であったと説明したりします。自らの死に向かって、誰もが通っていかなければならないような深い沈黙と孤独の時を、主イエスもお過ごしになったのだと説明されたりするのです。しかしこの時を、ただ沈黙と孤独という言葉で言い表すのは、もしかすると不十分だと言えるかもしれません。沈黙と孤独を過ごされたというよりも、むしろ、主イエスはこの時に、御子をこの世に送り出した永遠の父と、縄で打たれ血を流し苦しんでいるご自身との間で無言の会話を交わしておられたと考える方が当たっているように思います。恐らく天の父は、この時主イエスに「我が子よ、行くがよい。そして、我が懲らしめの、怒りの鞭を人々に代わって存分に受けるがよい」とおっしゃり、それに対して主イエスは、ご自身に既にその用意が整っていることを、父なる神にはっきりと告げておられたと思います。ゲッセマネの祈りの闘いは、この時点では既に終わっています。今や主イエスは、「この杯を、わたしから取りのけてください」と祈ることはありません。むしろ「父よ、参ります。わたしの思いは御心のままです」と答えておられたに違いありません。そして、66節につながっていくのです。

 夜が明けて、主イエスは最高法院に連れて行かれます。そして裁き人の前に立たされます。この時主イエスを裁いた人たちというのは、地上では、神の民を代表するような人たちでした。「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」と語られています。世界にたくさんある諸民族の中から、特に選ばれて、救い主を待ち望み救い主を王として仰ぐ、そういう特別な民とされているイスラエルの民の中から選ばれた代表者たちが、ここで主イエスを裁きます。
 主イエスが連れ出された最高法院の壁には、当時、イスラエルの民なら誰もが祈らなければならない祈りの言葉が、金の文字で綴られていたと言われています。それは、申命記6章4節の言葉「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」です。最高法院の議場の壁に掲げられているこの言葉は、今ここで主イエスを裁こうとしている人たちに対して、まるで警告を与えているかのようです。その最高法院の議場では、議員たちが半円形に座席に着く、という形だったと言われています。議場の座席の配置が半円形というのは、判決を下す時に、議員たちが、お互いに全員の顔をすべてはっきりと見ることができるためでした。
 ところが、この朝の裁判では、ここで下される判決は既に議員たちの間では決まっていたのです。朝早く最高法院が開かれ、被告席に立たされている主イエスの言動や行状が一つ一つ取り上げられていきます。しかし、その裁判は、これによって下すべき正当な判決のための証拠調べではありません。最後に出される判決は、実は裁判が開かれる前から決まっています。ですから、途中の議論は、きちんとした手続きを踏んでいると見せるための茶番劇に過ぎません。しかし、そのような中で、訴える言葉が語られます。この最高法院での議論は、居並ぶ民の長老会、祭司長たちや律法学者たちの妬みからくる、主イエスへの断罪の思いを一つ一つぶつけている、そういうものでしょう。そして、そういう憎しみのこもった言葉が語られるたびに、十字架に向かう主イエスの道は、いよいよ避けることのできない確実なものとなっていきます。
 裁き人たちは、判決を既に心の中で決めていました。そして、その判決が外に漏れて民衆の耳に達したら、どんなに大きな混乱が生じるだろうかということも承知していました。それで、実はここで裁判を急いでいるのです。主イエスが捕らえられたのは宵の口です。そして、翌日の正午にはもう既に主イエスは磔にされて十字架の上におられました。

 当時のユダヤの決まりでは、死刑判決を下すような重大な裁判の場合には、日にちを変えて二度、裁判の審理が開かれると定められていました。もし一度だけの裁判で有罪を確定するということになりますと、もしかするとその場の空気に支配されて正しい判決が下せないかもしれないということを恐れてのことです。無実の人を誤って処刑してしまわないようにという知恵が、そこにはありました。さらに、最高法院の会議というのは、太陽が出ている日中に行わなければならないとも定められていました。
 そういう通常の裁判の手続きからすると、主イエスを裁いたこの時の裁判は、異例ずくめです。本来、最高法院は夜には開けないのです。ところが、一度目の裁判が一体どこで開かれたのか。主イエスが大祭司の屋敷に連れ込まれた、まさにその大祭司の屋敷で、証拠調べのような感じで尋問が行われ、そしてそれを以って一度目の裁判が開かれたようにしているのです。そして、夜明けと同時に二度目の裁判が始まって、判決を急いで審議が進められます。明らかに、法廷を二度開いたという形を整えるためだけに、敢えて、簡略な形での裁判が開かれています。
 そしてまた、もう一つは、過越の祭の期間中には死刑を行ってはならないという決まりがありました。ところがその決まりも、今回は、「神を言葉で冒涜した」という大きな罪のために、敢えて規則を乗り越えるような形で処刑が行われていきます。最高法院の側は、明らかに手続きに瑕疵があると言わなければならないのに、しかし、議員たちは敢えてそれを冒します。どうしてかと言うと、とにかく自分たちとしてはそうやって形を整えて、一刻も早くピラトのもとに送ってしまえば、一番最後の判決はピラトが下してくれるからです。自分たちは形だけを整えて、主イエスの身柄をローマのピラトのもとに送ってしまえば、そして、ピラトにその判決を認めさせてしまえば、処刑を実際に行うのはローマの兵隊たちなのです。

 67節68節に「『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った。イエスは言われた。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう』」とあります。最高法院の2本のロウソクが立てられた柱の間に立たされて、主イエスは尋問されます。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と、裁き人たちはそう尋ねます。しかし彼らはこの時、自分が問うていることで、どんなに決定的に大きなことを尋ねているかということが分かっていません。ここでは、主イエスが弟子たちに向かって「あなたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねているのではないのです。そうではなく、ここでは、他ならない主イエス・キリストご自身が、尋問という形で質問を受けておられます。人間の側から、敢えて言うならば、ここで尋問している大祭司カイアファは、この時、全人類を代表するかのような意味合いを持って尋問しているのです。まさに、「造り主キリスト」であられる方に向かって問いを発しています。
 主イエスが公生涯にお入りになって、人々の前に姿を現して以来、どれだけ多くの人が、主イエスに「主よ、あなたはどなたなのですか? あなたは救い主メシアなのですか」と問うています。あるいは、いまいましげに「お前は自分を何様だと思っているのか」と問う人もあります。実はこの問いの言葉は、いろいろな意味で尋ねられる場合があり得る言葉だと思います。
 しかし、誰がどんなふうに尋ねたとしても、そこには、人類が密かに抱いている願いと不安とが込められていると言ってよいだろうと思います。人々は主イエスに向かって問います。「あなたは本当に救い主なのか。あなたがわたしの待ち望んでいた救い主なのか」。私たちは、これに対する主イエスのお答えに耳をそば立てたいと思うのです。主イエスは何とおっしゃるのでしょうか。67節の後半に「イエスは言われた。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう』」とあります。「あなたは救い主なのですか」という問いは、主イエスのお答えになる言葉を無条件に素直に受け止めようとする人にとっては意味がある問いです。けれども、主イエスはこの時、カイアファのような人物がこの問いを口にすることの欺瞞性、不純を見破っておられます。
 私たち人間は、時に、神に向かって、救い主を求めて問いを発します。ところがそんな時、往々にして私たちは、あらかじめ自分が聞きたいと願っている答えを用意しながら問いを発しているようなところがあるのです。しかし、本当に問うというのであれば、そうであってはなりません。何の条件もつけないで、ひたすら相手から返ってくる言葉に信頼して、その言葉にひたすら自分を委ねるようにして問いを発するということでなければなりません。どうしてでしょうか。ここに問われている内容は「あなたはメシア、救い主なのですか」という問いだからです。本当に私たちを救う救い主の前に自分が進み出るということは、私たちが自分を虚しくしてこそできることです。自分の救い主である方から答えをいただこうとしておきながら、あらかじめ自分の側に聞きたい答えを用意していて、その通りに答えてもらうことを期待しているというのであれば、それは本当に神からの返事を頂戴しようとする姿勢ではありません。「あなたは本当に救い主なのですか。わたしにとって、あなたこそが与えられたお方なのですか?」と尋ねるのなら、どんな答えが返ってきても、私たちは受け止めざるを得ないはずなのです。主イエスが「そうだ」とおっしゃっても、「いえ、そんなはずはありません。あなたはわたしが望むような方ではありません」と、もし言ってしまうのであれば、私たちは本当に救い主の前に立っているのではないのです。主イエスはそのことを見抜いておられるのです。それで、カイアファに「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう」とおっしゃるのです。

 大祭司カイアファは、主イエスを縄で縛りあげ、鞭を加え、官憲や兵士たちの手に渡して辱めるままに任せ、その末に「では、お前は神の子か」と尋ねました。しかしこれは全くのナンセンスです。もしそう思っているのであれば、今やっていることを即刻止めなければなりません。神から送られた救い主の前に立っているのであれば、大変申し訳ないことをしましたと縄を解き、傷を洗い、「本当にすみません」とひれ伏さなくてはなりません。それが、救い主の前に立つ本当の人間の姿です。ところが、カイアファは、自分が裁く側に立って、主を縄で縛りあげ、「では、お前は神の子か。メシアならそう言うがよい」と尋ねるのです。しかしカイアファは、全く本心から尋ねていません。
 ところが、この問いに対して主イエスは、びっくりするようなお答えを極めて明確になさいます。そしてそれは、これまで語られることのなかった言葉です。しかもここで主イエスは、ご自身の答えをカイアファの質問に結びつけるようにしてお答えになります。69節70節「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。そこで皆の者が、『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた。『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている』」と。
 私たちは、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」という、主イエスの言葉に注意したいのです。「わたしがそうだ」という言葉は、聖書の別のとこでは、「わたしである」とも訳されている言葉です。英語ですと「I am」という言葉です。
 これは実は、神がご自身を示して「わたしなのだ」と宣言する際におっしゃる言葉です。聖書の中では、一番最初に出エジプト記に出てきます。エジプトで奴隷暮らしをしているイスラエルの民を救うために、神はモーセをお遣わしになるのですが、その時にモーセは、神が自分を同胞のもとに遣わしたのだということを信じてはもらえないと予想します。そして、神に「わたしは行きますが、きっと『誰から遣わされたのか』と聞かれるに違いありません。その時には何と答えればよいでしょうか」と尋ねました。その時に、神がモーセに向かってご自身のお名前をおっしゃるのです。3章13節14節「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」。
 この「わたしはある」というのが「I am」です。主イエスは何とこの言葉を最高法院の場で、大祭司カイアファの前ではっきりとおっしゃるのです。もちろん、この名前が神ご自身を表す宣言のお名前であって、そして救い主としてのトレードマークになる名前だと承知の上でおっしゃるのです。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」、実はこの言葉はあまりにも明白に、主イエスが何者かを最高法院で明かされた言葉なのです。今、この重大な言葉が主イエスの口から語られたからには、もはや道は二つしかなくなります。第三の曖昧な決着は起こり得なくなっています。「わたしである」と主イエスがおっしゃっている、その言葉の前に、その言葉を信じてひれ伏して、今までの失礼を詫びて、「本当にあなたはメシアなのですね」と信じて従っていくか、それとも、この言葉を「神への冒涜である」と退けるか、二つに一つなのです。
 大祭司が衣を引き裂き金切り声をあげたというのは、カイアファが主イエスの名乗りを信じないで固辞したことの表れです。71節に「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』と言った」とあります。この後、主イエスは総督ピラトのもとに連れて行かれます。そして最終的には、死刑にするための裁判が開かれるのです。私たちがよく知っているように、ピラトは無罪だと思うのですが、しかし、ユダヤの人たちの反発の手前、結局、ピラトは責任を放棄して、主イエスを有罪にして十字架につけてしまうのです。ユダヤの最高法院の議員たちにすれば、死刑判決を下したのはピラトだと言うのですが、しかし、実際に主イエスを処刑するという判決は、この最高法院の場面で決まったのです。そして、その最後の決め手というのは何か。「わたしがそうだ」という主イエスご自身の言葉でした。

 この言葉、出来事を聞きながら思わされます。私たちが、主イエスを「救い主、わたしの主である方だ」と信じて受け入れる時、私たちは何によって主イエスを救い主として受け入れるのでしょうか。それはもはや、私たちがあれこれ証明することによって受け入れるというものではないのだろうと思います。そうではなくて、あくまでも、主イエスご自身から聞かせていただく言葉をもって、その言葉を信じて受け止める以外には、私たちが主イエスを救い主として受け止めることはできないのです。時折、私たちは、辛いことや思いがけないことに出合うと、信仰が揺らいでしまって、自分の信仰を見直したいなどという気持ちになることがあります。少し自分の心の中を整理してみたいので、自分を見つめる時が欲しいと言ってしまうことがあります。しかし、私たちが仮に自分自身の心の中に深く沈潜して、自分の思いをあれこれ纏めようとしたとしても、そこには何も確かなものはありません。私たちの心は常に定まらないところがあるのです。昨日こうだったと強く思っていても、明日になれば、やっぱりこうだと、全く違うことを思っているかもしれません。それが私たちの心です。
 では、私たちの信仰の本当に確かな拠り所は、どこにあるのでしょうか。それは、他から説明されたり証明されたりする必要のない方、まさにご自身が真実であるお方が、「わたしである。わたしがそのものだ」と語りかけて下さる、その言葉にこそあるのです。この方が私たちに、「わたしがそうだ」と語りかけて下さる。この方が確かに私たちに告げて下さっている、その事実を受け入れるか、それとも、「それは違う」と言って放り捨てるかです。
 「信じている」ということは、私たちが自分の心の中にある騒がしい口を閉じて、聞く人間になって、そして、「わたしである」とおっしゃってくださる主イエス・キリストの御言葉に自分自身を託するということです。そして、そうすることによって、私たちは、この方の御言葉によって、この世界や自分自身を見るようになる時に、新しい光のもとで自分自身を見出し、またこの世界のいろいろな出来事を見るということが起こってくるのです。この方の御言葉を聞いて受け入れること、そのところで、私たちは新しい信仰のまなこを開いていただけるのです。

 主イエスを裁く人たちは、決定的な判決を下す根拠として言います。71節「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と。主イエスを拒絶して死刑判決を下して決別する人々にとって、主イエスがこの時お語りになった言葉は、死に値する決定的な言葉だと聞こえました。しかし実は、主イエスがここでおっしゃった言葉というのは、主イエスを信じる人にとっても、信仰の理由になる言葉なのです。「わたしがそうだ」と名乗っておられる、この方の前で、「本当にその通りです。あなたこそ、いつもわたしを持ち運んでおられる、そういうお方」と信仰を言い表すのです。
 「わたしがそうだ。わたしである」と名乗って出られる主イエスの前で、今日ここにいる私たち自身は、一体どうお答えするのでしょうか。願わくは、「アーメン、その通りです。あなたこそ、『ある』方です。わたしは本当に脆く潰れやすい者にすぎません。しかしあなたは、この弱い、いつもうつろうわたしと共にいて、『わたしである』とおっしゃって、私に伴ってくださるお方です」と、そのようにお答えをする幸いな者とされたいと願うのです。
 この方が語ってくださる御言葉に、私たちは自分自身を委ね、そしてそこから、この方の御言葉によって様々なものを照らされて生きる、そういう者とされたいと願うのです。

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