ただ今、ルカによる福音書23章26節から49節までをご一緒にお聞きしました。ここには、主イエスの処刑を求める民衆の声に屈したピラトが、その要求を受け入れた後、人々が主イエスを「されこうべの丘、ゴルゴタ」に連れて行ったというところから、主イエスが十字架で息を引き取られる、その間の顛末が語られています。
26節27節に「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」とあります。ゴルゴタの丘の十字架に向かって、主イエスが先頭に立って進んで行かれます。その後に「キレネ人シモン」が従い、さらにその後から、主イエスを十字架につけろと叫んでピラトに処刑を承諾させた民衆の大きな群れが付いて行きます。この民衆の中には「嘆き悲しむ婦人たち」もいたと語られています。
この「嘆き悲しむ婦人たち」というのは、中東では今日でも見られる風習ですが、誰かの死の出来事に際して自分の胸を打ちながら大声で泣き叫ぶ、いわゆる「泣き女」と呼ばれる人たちのことです。中東では葬儀の際に、そういう人たちを雇って、お金を払って泣いてもらうのです。主イエスの場合には、遺族がいてお金を払ってくれるわけではありません。ですからここでは、商売で泣いているのではないのです。しかし、商売で泣いているとかいう以前に、この時点ではまだ、死の出来事は起こっていません。ですから、この時に泣き女たちが大げさに悲しみを表現しながら主イエスの後を付いて行っているということは、いささか時期尚早と言わざるを得ません。主イエスが十字架で息を引き取った後で、主イエスを思って泣いてあげるというのであれば、本心からまたボランティアで泣き女をしているということになるのですが、十字架に向かっていくこの時点で、大勢の群衆の中にあって大げさに悲しみを表現しているというのは、実は、主イエスへの悪意の表れに他なりません。つまり、まだ死んでいない主イエスを捕まえて「もう、死んでしまうのだ」あるいは「死んでしまったのだ」と言わんばかりに大泣きして見せているのです。ですから、ここでの「嘆き悲しむ婦人たち」の涙というのは、主イエスへの嘲りの表れです。まだ生きているのに死んでしまったと嘆いて見せて、本心では主イエスに対して歯をむき出して見せているのです。
また、主イエスの後に従っている民衆も、主イエスの死を悼んで付いて来ているのではありません。この民衆はどこから来ているのかと言いますと、その日の朝早くローマ総督ピラトの官邸に集まって、主を「十字架につけろ」と叫んだ人たちであって、そこからずっと主イエスの後を付いて来ているのです。この民衆は「従った」と書いてありますが、主イエスがゴルゴタへの道行から逃げ出してしまわないように、いわば監視する者として付いて来ているのです。主イエスを後ろから追いかけて、追尾して、主を十字架の上にまで追い上げようとしているのです。「従って」いたのではなくて、主を死の淵へと追い落とそうとして、付いて来ているのです。
そして、そういう、泣き女を含めた騒々しい民衆の先頭に主イエスがおられ、主と民衆の間に、本人としては思いがけないことだったと思いますが、捕らえられて主イエスの十字架を運ばされる羽目にあった「キレネ人シモン」が歩いています。シモン自身は、こんなことになるとは全く予想していなかったでしょう。自分の意志でここを歩いているのではありません。26節にありますように、シモンは田舎から何も知らずにエルサレムに出てきて、たまたま通りがかったに過ぎません。ところが民衆に捕まえられて、主の十字架を背負わされてしまっています。シモンは主イエスの弟子ということでもなかったかもしれません。自分の予定があってエルサレムにやって来たのに、自分の用事を果たすことはできずに、民衆から無理強いされて主の十字架を運ぶことになったのです。
かつて主イエスは弟子たちに向かって「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。9章23節〜24節です。こう言われた主イエスの言葉は、まことに思いがけない形で、ここでキレネ人シモンの上に実現しているのです。この言葉は印象的な言葉ですから、私たちの頭の中にはいつも残っていると思いますが、しかし、私たちはこの言葉をどう思っているでしょうか。恐らく私たちは、自分から強い決心をして、自分の意志で自分を捨てるのだと思っているのではないでしょうか。自分の決意によって主イエスに付いて行く、それが十字架を背負うことなのだと思っていないでしょうか。けれども、今日のこの箇所を聞いていますと、自分を捨てるということは、自分自身の意志によって行うということではなくて、むしろ、自分にとっては思いがけないような仕方で自分を捨てさせられてしまう、そういうことがあるのかもしれないと思わされます。
キレネ人シモンは、エルサレムに上って来て、恐らく彼なりの予定や目的があったに違いありません。ところが、思いもよらず民衆に捕まえられて、彼の人生は思うようにならなくなっています。しかし、まさしくそういうことは、私たちの人生にも起こるということがあるのではないでしょうか。私たちが、与えられた人生を生きていく時に、社会生活を送る上で様々なものを断念しなければならないことを経験する時があるのではないかと思います。けれども、「自分を捨てよう」と一大決心したとしても、私たちが自分から捨てられる自分というものは、たかが知れたものです。
主イエスが弟子たちに教え求められたように、「自分を捨て、わたしに従いなさい」と言われても、普通に考えますと、私たちにはとてもできないのではないでしょうか。自分の計画、思い、願いを捨てなければならないくらいなら、主イエスに従う方を捨ててしまおう、そう思う思いというものが、私たちには繰り返し芽生えてくるようなところがあると思います。そして、そういうことの中に、私たちの本来の罪の姿があります。主イエスから離れて、罪の中に留まって、「自分の思う通りに、願った通りに生きたら良いのだ」という誘惑が、キリスト者には絶えず襲ってきます。
キレネ人シモンは、この日、彼なりの都合や目的があったはずですが、どういうわけか、自分の思うように生きるところから引き離されて、主イエスのすぐ後ろを、十字架を担いで歩む者とされています。けれども、そういうキレネ人シモンの姿を見せられながら、私たちもまた、どなたであっても、心当たりがあるのではないでしょうか。私たちはもちろん、「キリスト者とされていること」自体は、とても感謝なのです。キリスト者となって、主イエスの後を歩む者となっている、しかしどなたであっても、自分の思いだけでキリスト者になったのではないだろうと思うのです。遠い昔のことかもしれませんが、以前のことを思い出していただきたいのです。まさか自分がキリスト者になるなどとは思いもよらなかったと言われる方もおられるかもしれません。クリスチャンホームで生まれて、小さい頃から自分の周りでは主イエスのお話が語られるという環境に育ったとしても、確かに主イエスを知っていたけれども、しかし自分が主イエスを信じて生きるようになるのだと最初から決まっていたとは思えないと思います。キリスト者になるつもりなどなかった、あるいは、神抜きで人生を生きられると思っていた、そういうところから私たちは、一人ひとりが皆、不思議な仕方で捕らえられて、十字架の主に出会わされて、主イエスの後を付いて歩むようになっているのです。
さて、主イエスのすぐ後ろにはキレネ人シモンが、そしてその後ろには、十字架を背負っている主イエスとシモンを見張りながら、また泣き女もいて騒々しい民衆が歩んでいます。そんな中で、主イエスは一体何を思っておられるのでしょうか。主イエスは、実は、騒々しく後を付いてくる人たちのことを気にかけておられます。ご自身のことを、十字架の上に、死の淵へと追いやろうとしている人たちのことをご覧になって、主イエスは言われました。28節「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言い、丘に向かっては、「我々を覆ってくれ」と言い始める。「生の木」さえこうされるのなら、「枯れた木」はいったいどうなるのだろうか』」。
主イエスは今から十字架にかかりに行くというのに、ご自身の苦しみとは明らかに違ったことをここで話しておられます。ご自身の十字架を思って、辛いと言われるのではありません。もう一つ、別の苦しみ・悩みについて、人々に教えられます。主イエスはここで、主イエスの十字架の死と、もうひとつ別の死があることをご存じです。その死のことを、主に付いて来ている人たちは気づきません。主イエスを嘲り見張りながら付いて来る人たちは、自分たちがいずれは死にゆく者なのだということを少しも分かっていません。むしろ、死の出来事は今から自分たちの眼の前で繰り広げられること、十字架に磔にされた憐れな囚人がどんなに苦しみながら死んでいくか、まるで見世物を見るようなつもりで後を追っています。人間とは死ぬときにどれほど苦しいものなのか、見物してやろうとしているのです。
ところが主イエスは、付いて来る人たちが、やがて行く末においてどれほどに苦しまなくてはならないかということを案じておられます。そして、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と言われました。「わたしのためではなく、自分のために泣くのだよ」、これは、どういう意味なのでしょうか。ルカによる福音書19章41〜44節を見ますと、主イエスは、エルサレムに入られた時に、涙して言われました。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである』」。
今、主イエスに付いて来ている人たちは、「主イエスがいなくても構わない。自分の思い通りの人生を生きられればそれで良い」と思っています。ところが、主イエスは、この人たちの行く末を見通されておられます。「自分たちの思い通りに生きたい」、彼らのそういう思いが高じた時に、何が起こったのでしょうか。「ローマ帝国の支配から自由になろう」、そういう運動が、間もなくエルサレムに起こります。そしてその時には、ローマの軍隊がやってきて、城壁で囲まれたエルサレムの町をいとも簡単に攻め壊してしまうのです。そして、自分は大丈夫、守られると思っていた人たちは皆、大変な苦しみを経験することになるのです。ですから、主イエスはエルサレムの城壁をご覧になった時に、城壁の内側で大丈夫だと思っている人たちの行く末を思って、涙を流されました。
そして今また、十字架への道行にあって、主イエスは同じことを思っておられます。主イエスを嘲る者、騒ぎ立てる者のことを気遣っておられるのです。「自分の思い通りに生きたい。自分の思いが実現するなら、その方が良い。もし出来ないなら、死んだ方がマシだ」、そう思っている人たちは、自分の身に死と滅びを招き寄せてしまうのだと、主は警告しておられます。それが28節以下です。自分の思い通りに生きたいと執着しているうちに、ローマの軍隊がやってきて、眼の前で次々と無残な殺戮が繰り広げられることになる。幼子たちも剣や槍によって命を奪われる。その時には、普通なら子供のあることは祝福ですが、しかし、子供を持つ親の嘆きは大きいので、子供を持たない方が良かったと言うようになる。また、ローマの軍隊が城壁の外側に堅固な砦を築き進入路を作って、城壁を乗り越えてなだれ込んで来るようになる、その時には、山でも丘でも良いので自分たちの上に崩れ落ちてきて、戦いで命を失うのではなく、瞬時に命が終わるようにしてほしいと願うようになる。あるいは、あわよくば、崩れた土砂の下に生き埋めになって、ローマ兵が立ち去るまで隠れていたいと願うようになる。あなたたちはそんなことを言い出すようになるのだと、主イエスは言われるのです。
主イエスがここでおっしゃっていることは、エルサレムの人たちが自己中心に自分の思うままに生きたいと願っている、その行く末を思っての警告です。そして31節、「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」と言われました。「生の木」というのは、神への信頼に生きている主イエスご自身のことです。信仰が生きていることを「生の木」と言っています。神への信頼に生きている主イエスであっても、これから経験する死の苦しみは耐え難いものです。その十字架の死を、主イエスは信仰によって通っていこうとなさるのです。それでもなお、この苦しみは思いを超えるものであるのに、ましてや、神への信頼を失って、神への信頼によって忍耐して生きることをせず、何でも自分の思うようにならなければ気が済まない、信仰を失った「枯れた木」であればどうでしょうか。ぽきっと簡単に折れてしまうに違いないのです。主イエスは、今は主イエスを嘲り騒ぎ立てて楽しんで生きているように見えるこの民衆も、やがて支えを失い、拠り所を失って、根元から折れてしまうだろうと案じておられるのです。
そして主イエスご自身は、そういう民衆たちが、「最後まで神に信頼して歩んで行かれる主イエスを見るように」と、神への信頼に生きるお手本を、十字架への道行で示されます。ですから、ルカによる福音書の十字架の記事で、最後に主イエスがおっしゃった言葉は、他の福音書と少し違っています。マタイやマルコでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という言葉ですが、ルカでは46節に「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」とあります。主イエスは、十字架の死の最後まで、神への信頼を人々に示す方として歩んでおられるのです。神への信頼ではなく、自分中心な思いでいる人たちに対して、「あなたは、別の生き方ができるのだよ」と、身をもって示してくださるのです。
今日の聖書の箇所は、十字架への道行を通して、主イエスを嘲っている人たちへの深い思いやりと配慮をもって向き合ってくださっている主イエスの姿が語られています。そして、そういう主イエスの姿は、十字架に磔にされた後でも見られます。
ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。主イエスがその真ん中に磔にされ、左右に一人ずつ犯罪人が磔にされました。マタイやマルコを見ますと、十字架上での二人の犯罪人は、二人共、主イエスを罵っています。ところがルカでは少し違っており、また印象的です。39節には、犯罪人のうちの一人が主イエスを罵って、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったとあります。主イエスを罵っている、この犯罪人の姿について考えてみたいのです。
この人は既に十字架の上に磔にされています。従って、もはやそんなに長く生きられないことは誰の目にも明らかです。自分の地上の命は間もなく閉じられる、しかもこの人の死は十字架による処刑によって訪れます。つまり、この人の人生は、生きるに値しないものだと宣告されて、この世に生きている他の人たちによって暴力的に終わらされてしまうのです。せっかく命を受けたのに、この人の人生は全く役に立たないものだったと見做されて、いわばこの世から締め出されるようにして終わりの時を迎えるのです。もちろんこうなったのは、この人の犯した失敗が当然あってのことです。
今日では、死刑廃止について声高に議論されています。死刑廃止を唱える人たちの中には、自分自身の死刑が確定している死刑囚も含まれています。この死刑囚が語っていることを聞く機会がありました。それは「自分が犯した罪、失敗は、殺されても仕方ないものだと思うけれども、しかし自分は、殺され死んでしまうことで罪を償えるとは思えない。死ななければならないことは分かるが、しかし、できることなら生きることによって自分の過ちを詫びるなどして償い、自分の罪に対する責任を果たしたい」というものでした。死刑廃止論の是非はともかくとして、この囚人の言葉を聞いて、少なくとも聞くに値すると思ったことは、「生きることによって、自分の罪と少しでも向き合って償いたいと願っている」ということです。
そう考えますと、主イエスを罵っているこの第一の囚人は、どうでしょうか。この人は、間もなく自分の人生が終わってしまうというところで、主イエスを罵ることで、自分の怯えや不安を紛らわし、自分の犯してしまった過ちと最後まで向き合おうとしないまま命を終わろうとしていると思います。処刑されるほどの大罪ですから、多くの人を傷つけたことでしょう。しかしそのことに少しも向き合おうとせず、処刑される自分は被害者だ、こうなったのも隣にいる救い主(メシア)の力不足だとでも言わんばかりに罵るのです。自分の人生を自分の思うように生きてきて、人を傷つけ、そして最後までその生き方を省みることなく十字架で命を終えようとしている、この第一の囚人は、主イエスの後を騒々しく付いて来る民衆とあまり変わりません。
ところが、もう一方の十字架の上から、この第一の囚人をたしなめる声が聞こえてきたとあります。40節41節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」。この囚人は、第一の囚人と明らかに違っていて、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と、自分の生きてきた人生を直視しています。この囚人が「主イエスは無実である」とどうして知ったのかは分かりませんが、しかし、彼は、自分の人生を振り返ってそこにある失敗を認めているのです。
そしてその上で、彼は主イエスに対して思いがけないことを願います。42節「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った」。間もなく死にゆく囚人が、主イエスに向かって願ったこととは、どういう願いなのでしょうか。本当に慎ましい言い方ですが、主イエスの憐れみを願い求めているのではないでしょうか。十字架の死とは、極刑です。この人の命は無かった方が良かったと言って否定されてしまう、そういう刑罰です。ですから、ただの死とは違うのです。死んでからその死を悼まれる、そういう死ではありません。旧約聖書では「木にかけられた者は呪われる」と言われます。十字架にかけられた者は、神に呪われた者として存在を消し去られるのです。第二の囚人は、そのことを止むを得ないこととして受け止めています。しかしそうでありながらも、「どうか、主イエスよ。このわたしを思い出してください」と願っています。自分の足跡を残すには値しない者ではあるけれど、それでもどうか思い出してくださいと願っている、この第二の囚人は、主イエスの憐れみを願っているのです。
そして、43節「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」とあります。この主イエスのお答えをどう考えたらよいでしょうか。「楽園」というのは、一年中美しい草花が咲き乱れる南国の島のような場所でしょうか。どこかの場所だと考えるとすると、十字架によって神からも顧みられない、存在の無い者とされようとしているこの囚人には縁の無いものでしょう。ですから、主のおっしゃる「楽園」は、どこかの場所ではありません。そうではなくて、「あなたは今日わたしと一緒にいる」という、その事実こそが、主のおっしゃる「楽園」なのです。そしてまた、この囚人がまさしく願い求めていることなのです。「このわたしを思い出してください。このわたしをあなたの記憶から消さないでください」との願いに対して、主イエスは「あなたはわたしと一緒である」と言ってくださいました。
どんなに辛く悲しい日常であっても、そこに主イエスがいて、私たちを顧みてくださっている、そこには平安がもたらされるのです。実際に、私たちはそのようにして日常を過ごしているのではないでしょうか。私たちは皆一様に、それぞれに形は違っていても、与えられた人生において苦難を抱えているに違いありません。楽そうに見える人であっても、他人には分からないだけです。自分の力で解決できるようなことではなく、ままならない人生を生きているのです。けれども、そういう私たちを主イエスが顧みてくださるのです。「あなたは確かに神によって愛されて、そこに置かれているのだよ」と言ってくださるのです。
私たちの人生は、思い通りにならないからと苦しんだり嘆いたり意味がないと考えることではなくて、神がそこに置いてくださり、そこから生きて良いのだと言ってくださる、そういう命です。主イエスは、魔法のような仕方で私たちの生活を安楽なものに変えられるわけではありません。主イエスが共にいてくださり、顧みてくださる。心から憐れんで、新しい一日をそこから与えてくださる。またこの地上の生活を終える時にも、永遠の命のもとへと私たちをさらに導いてくださる。そこに平安が与えられて、もう一度ここから歩み始められるという希望が与えられるのです。
この第二の囚人は、その人生は失敗でしたが、最後のところで、終わりのところまで来て、主イエスとの出会いを与えられて、新しい生活へと招き入れられているのです。
第一の囚人は死を嘲りながら騒々しく過ごして、そして、自分の思い通りにならないと言って不機嫌に消えていってしまう、それは民衆の最後の姿でもあります。同じように生きてきた人であっても、この第二の囚人のように主イエスの憐れみを受け、そこに希望を持ってなお生きることができるのだということを、この2本の十字架の出来事は語りかけています。
私たちの人生がどんなに過ちに満ち、破れや悲しみの多いものであるとしても、主イエスが私たちの向きを変え、私たちが立ち返ることのできる神の支配にある生活への門となってくださるのです。2本の十字架の中央に立てられている主イエスの十字架とは、そういう場所です。
私たちにも、「わたしに従って来なさい」という主イエスの招きが語られています。与えられている今日の生活の中で、「あなたは、そこからもう一度生きて良いのだよ」と語りかけて下さるのです。命への入り口が、主イエスの十字架の上にあるのです。
第二の囚人が、主イエスに伴われて楽園への生活へと招き入れられている、それと同じように、私たちも、この受難週の時、主イエス・キリストの憐れみを求め、清らかな新しい生活へと入っていく者とされたいと、心から願います。 |