聖書のみことば
2015年7月
  7月5日 7月12日 7月19日 7月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月26日主日礼拝音声

 然り、アーメン
7月第4主日礼拝 2015年7月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜13節

6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 ただ今、マタイによる福音書6章9節以下に語られている「主の祈り」の箇所を、ご一緒にお聞きしました。ここに教えられている「主の祈り」について、これまで2ヶ月の間、考えて参りました。今日はその最後です。

 普段、私たちは、「主の祈り」やあるいはそれぞれ自分で祈る時もそうですが、祈りの最後に「アーメン」という言葉を付けます。この「アーメン」という短い言葉には、どういう意味が込められているのでしょうか。
 実は、新約聖書の福音書の中で、「アーメン」という言葉が使われている場合を見ますと、あることに気付かされます。あくまでも福音書の中だけのことですが、「アーメン」という言葉は、いつも決まって主イエスの口から語られているのです。福音書の中で、主イエス以外の人が「アーメン」と言う箇所はありません。数えてみますと、主イエスはこの言葉を100回以上繰り返しておられます。しかし、そうだろうかと訝られるかもしれません。
 実は、この言葉は、私たちの使っている聖書では別の言葉に翻訳されてしまっていますので「アーメン」と言われているとは気づかないのです。新共同訳聖書では「はっきり言っておく」、口語訳聖書では「よくよくあなたがたに言っておく」と書かれている言葉です。主イエスは「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」とおっしゃっております。
 「はっきり言っておく」という言葉は、主イエスが大切なことを弟子たちに教える時に、「今から伝えることは大事なことだからね」という意味合いを込めておっしゃっていた口癖のような言葉です。「はっきり言っておく」という言葉であれば、主イエスと弟子たちのそういう場面を思い出されることでしょう。それが「アーメン」であり、主イエスは「アーメン、アーメン」と2度繰り返し「あなたがたに言う」とおっしゃっています。

 「アーメン」という言葉は、日本語に訳し難いのですが、意味から言いますと「そのことに、しかと違いありません」「間違いなく、確かです」。あるいは古い言葉では「然り」、そういう言い方になります。ですから、「はっきり言っておく」と訳されていますが、主イエスが「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」とおっしゃる場合には、「今から伝えることは、よくよく真のことなんだよ」と前置きしておっしゃっているのです。「これから教えることは、決して軽い気持ちで言うことではない。父なる神の真実にかけて真のことなのだ」と、言っておられるのです。
 こういう言い方は他にあったかと考えますと、旧約聖書の中の預言者たちが使う言葉に少し似ているかも知れません。預言者たちがイスラエルの同胞に向かって、「主はこう言われる」とか「主の言葉がわたしに臨んだ」と前置きをして語り始める場面があります。これらの言葉は、預言者たちが自分から言っているのではありません。「神が自分に伝えてくださった言葉を取り次ぐのだから、今から語ることはその場限りの思いつきではない」、そういうことを示す言葉です。主イエスもまた、この旧約の預言者たちの言い回しに似て、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」と言っておられるのです。

 しかし、主イエスがそういう言い方をなさっているのだということを改めて考えますと、主イエスが私たちのことを深くおもんばかり、私たちのことを深く配慮してくださればこそ、かけてくださる言葉なのだと思います。私たちは大変不信仰です。いろいろな話を聞かされても、疑ってしまうところがあるのです。自分が思っている通りのことを聞かされれば「そうだ」と思いますが、自分が思っていないこと、知らなかったことを急に聞かされると「本当だろうか」と疑ってしまうのです。
 私たちがそういう弱さを抱えているがゆえに、主イエスは、大切なことをおっしゃるときには「これは、真に真に真実なのだよ」という思いをもって、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」とおっしゃるのです。主がそのようにおっしゃるということは、「疑い深い人なら、わたしの言葉を聞かなくてもよい。聞かないのであれば、この場に居なくてもよい」ということではないと思います。人間同士であれば、例えば私なども気短なところがありますから、子どもに対して「分からない者は、分からないままでいい!」などと言ってしまうことがあります。けれども、主イエスはそうはおっしゃらないのです。そうではなくて、「これは大事なことなのだから、聞きなさい」と声をかけてくださるのです。ですから、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」という言葉は、主イエスが私たち一人ひとりに確かに目を留めながら、気持ちを込めておっしゃっている言葉だと知ることが大事です。

 日常生活の中で、私たちが「自分の言っていることは間違いない、確かだ」と他者に伝えるときには、どんなふうにしているかなと考えますと、自分の言ったことを紙に書いて念書にするとか、古い言葉ですが「天地神明に誓って」などと言うかもしれません。日本ではあまり見かけませんが、欧米では裁判の席で聖書に手を置いて、「わたしは真実だけを語ります」と宣誓させたりします。
 けれども、主イエスの場合には、一切そのようなことはなさいません。ただ「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」とおっしゃるのです。それはどうしてかと言いますと、主イエスが本当に「真実な方」だからだろうと思うのです。
 ヨハネによる福音書には、主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃっているところがあります。ヨハネによる福音書を読みますと、ユダヤ人たちは主イエスに反発して主を信じないし、主の言葉を聞こうとしないのですが、それでも主イエスは繰り返し繰り返し、反発する人たちに向かって「わたしは真理なのだ。わたしの言っていることは父なる神の言っていることなのだ」とおっしゃってくださっています。「わたしは真理である」と言っておられるように、ご自身が真実である、そういうお方が、ご自身の真実にかけて「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」とおっしゃってくださるからには、もうそれで十分なのです。

 もちろん、その場合、すべてはどこにかかってくるかと言いますと、「主イエスは神の独り子であり、本当に真実な主なる方なのだ」という、その一点にかかってきます。ある意味、主イエスは、ご自身が真実な者なのだという権威を前面に押し出しながら「これは間違いないこと、アーメンである」と言っておられます。しかしこれは、信じない人たちにとっては大変刺激的な言い方にもなるだろうと思います。「わたしが言っているのだから間違いない」と言ったとしても、その人自身を認めていなければ、「何を言っているのだ。あなたは勝手なことを言っているだけじゃないか」と言うでしょう。実際に、ヨハネによる福音書にはそういう衝突の場面がよく出てきます。
 しかし、そうであるがゆえに、この「アーメン」という言葉は、言うなれば主イエスの王者としての紋章のような言葉だと言ってよいと思います。「アーメン」という言葉は、主イエスがご自身の存在にかけて、「これは間違いないのだ」とおっしゃるときに言われる言葉なのです。
 ところが、その「アーメン」という言葉を、私たちは、自分の祈りのたびごとに、最後に付けて祈ることを許されているのです。
 もともと、この「アーメン」という言葉を「本当に真実なのだ」という意味で言うことができるのは、主イエスお一人のはずです。「アーメン」という言葉は、自分自身が本当に真実であればこそ意味を持つ言葉だと言えると思います。いつも嘘ばかりついている人が、「これは本当なんだ」と強く言ったとしたら、私たちはどう思うでしょうか。その人が強く言えば言うほど、「実は嘘ではないのか」と考えてしまうのではないでしょうか。「アーメン、これは真実です」という言葉を成り立たせるためには、その人自身が嘘をつかず真実でなければなりません。ですからこそ、「アーメン」と言えるのは、主イエスのみであると思うのです。そうであるにもかかわらず、私たちがお祈りの最後に「アーメン」と言うことができる、それはどうしてなのでしょうか。

 私たちは自分の祈りを、自分の存在において「これは真実です」と請け合っているでしょうか。私たちが自分で真実であると言ったとしても、あまり説得力はありません。例えば、私は今日の週報にも何箇所かの間違いがあることを指摘されており申し訳ないことなのですが、そういう私が、いくら「間違いないのだ」と断言したとしても、やはり、間違いはあるのです。
 私たちが自分の祈りの最後に「アーメン」と言っているのは、自分の真実にかけて言っているのではありません。そうではなくて、本当に真実である主イエスが、この祈りを聞いていてくださるのです。私たちが祈りの最後に「アーメン」と言うことを通して、主イエスを私たちの祈りへとお連れし、「この祈りは主イエスによって真実にされている祈りなのです」と語っていることになるのです。
 日頃、私たちは、祈りの最後には「アーメン」と唱えるものだと思っていますが、この言葉の意味を考えれば考えるほど、なんと大きな言葉を主イエスからプレゼントされているのかと感じます。
 主イエスはさまざまなものを弟子たちに委ねてくださいました。弟子たちを伝道に遣わすに当たっては、悪霊を追い出す権能、病を癒す権能などを与えてくださいました。そしてそれに加えて、祈りに際して「アーメン」と言うことを許してくださいました。主イエスはこの「アーメン」という言葉を、弟子たちにも、そして私たちにも委ねてくださっているのです。私たちは、とても大きなものを主イエスから預けられているのです。
 私は会社勤めの経験がありませんので詳しくは分かりませんが、長く勤め責任ある地位に就いた方が、会社の実印を押すという立場になったならば、その時には「このわたしがこの会社を代表して実印を押すことができるとは」と、晴れがましい気持ちになるのではないでしょうか。実は、私たちは、祈りに際して、これと似たことをしているのです。私たちが「アーメン」と唱える、それは、「今、捧げた祈りは神の前に真実な祈りなのでございます」と、私たちが主イエスの真実をお預かりして「間違いありません」と印鑑を押すように、「アーメン」と唱えるのです。
 また、主イエスが弟子たちに「アーメン」と唱えることを許してくださっているのは、主イエスの独断でなさっていることではありません。先ほど、福音書の中では主イエスだけだと言いましたが、実は聖書全体を見ますと、この「アーメン」という言葉は、人間が口にするという場合が出てきます。旧約聖書には、「民は皆、アーメンと言わなければならない」という言い方で度々出てきます。
 ただその場合に、気づかされることがあります。「アーメン」という言葉は、イスラエルの民が、いつでも思った時に自由に発しているという言葉ではないのです。どういう時に言うのかと言いますと、礼拝の中で神の御言葉が読み上げられる、その時に、神の言葉に応答するように「民は皆、アーメンと言わなければならない」と定められております。礼拝式の中に組み込まれている言葉なのです。ですから、人間が思いつきで自由に使ってよいという言葉ではないのです。神が、「アーメン」と言うべき時と場所を許してくださって、皆で唱和していた、それが旧約の時代の「アーメン」という言葉です。それと同じことで、この新約の時代においては、主イエスが「アーメン」と唱えることを許してくださっているからこそ、私たちは「アーメン」と唱えることができるのです。

 「アーメン」は簡単に言える言葉ですので、自分の中から湧き出して言っている言葉だと思っている方も多いことと思います。しかし、そうではない。神が許してくださっている、だからこそ、祈りの最後に、まるで主イエスから預けられた実印を押すかのように、「アーメン」と唱えることができるのです。
 そしてそれは、祈っている祈りの一つ一つを大事なこととするということだと思います。例えば「主の祈り」にしても、私たちは、さっと祈って最後にアーメンと言って終わってしまいがちですが、そういうことではありません。「天にまします我らの父よ、アーメン」「御名を崇めさせたまえ、アーメン」「御国を来らせたまえ、アーメン」「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ、アーメン」と、主イエスに教えられた祈りの言葉を一つ一つ、本当に主から大切なものを手渡されていることを思いながら祈り、最後に「アーメン」と唱えるべきことを教えられているのです。

 このように、主イエスがご自身の実印のように大切なものを弟子たちに委ねてくださったと聞かされますと、光栄だと思う反面、自分には荷が勝ちすぎると思う方もいるかもしれません。本当に真実なものを委ねられ使うことを許される、それは人間にとって感謝や喜びである以上に、重荷と感じる時があるかもしれません。あまりにも貴重なものを預けられると、困ってしまうことがあるでしょう。減らしたり失くしたら困ると思うからです。
 けれども、使徒パウロを始めとして、新約の時代の教会の人々は、主イエスから委ねられたこの「アーメン」という言葉を心から感謝して、とても大切にして、教会に集う兄弟姉妹たちに手渡していきました。そうであったからこそ、今日、私たちもこの言葉を唱えているのです。主イエスが最初に教えてくださったのは12弟子ですが、その使徒たちが兄弟姉妹に「アーメン」と唱えてよいことを伝え、そこから二千年の時を重ねる中で、私たちも誰かから、祈りの最後には「アーメン」と唱えるのだと教えられたのです。教えられることなくこの言葉を知っている筈がありませんから、どこかで見聞きし、知って、祈っているのです。

 弟子たちが伝えていった、その際に見落としてならないことは、「アーメン」という言葉が主イエスと結びついた言葉であることを、彼らは決して揺るがせにしていないということです。このことは、新約聖書の使徒たちの手紙などを読んでいると、よく分かります。例えば、コリントの信徒への手紙二1章20節には「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」とあります。「アーメン」と唱える時には、「主イエスを通して」いるのだと書いてあります。私たちが「アーメン」と唱える、その背後にはいつも、真実そのものであられる主イエスが立っていてくださるということです。
 ですから、私たちの捧げる祈りは、その場限りの口先だけで消えていくものにはなりません。言葉ですから、私たちの目には、言った先から消えていくと見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。私たちが祈る時、そこには主イエスが居てくださる。そして、私たちが捧げた祈りを、主イエスがしっかりと受け止めてくださる。そして、その祈りを父なる神の元にまで持ち運んでくださるのです。神の御前で主イエスは、「この人は今、こんなことを祈りました。辛いことがあり、また願いがあります。どうぞ御心のままになさってください」と、私たちの祈りを受け止め持ち運んでくださるのです。

 もう一箇所、読みたい箇所があります。ヨハネの黙示録3章14節に「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる』」とあります。大変謎めいた言い方ですが「アーメンである方」とは誰かと言いますと、主イエスのことです。つまりここでは、「アーメン」という言葉は、「主イエスその方である」と言われております。祈りの最後に「アーメン」と言うとき、それはただ主イエスの真実のゆえに「本当にそうです」と言っているだけではなく、主イエスがまさにその場に居てくださる、祈りの聞き手として居てくださるということだけではなく、祈りの中に主イエスが居てくださるのです。
 ですから、私たちは「アーメン」と唱えることによって、主イエスの名を呼ばわっているのです。「この祈りの中に、どうか主よ、居てください」と願いながら祈っていることになるのです。
 そう考えますと、自分の祈りについて、とても控え目な気持ちになってしまうことがあることを思わされます。時々聞くことがあるのですが、多くの人の前で祈るときに、「わたしのこの祈りを、ここにいらっしゃる皆さんの祈りに加えてお捧げします」とか、或いはもっと下がってしまって「皆様のお祈りの枡席に加えていただいてお捧げします」と祈られることがあります。しかし、私たちが祈りを捧げるとき、誰がその祈りを執りなしてくださっているのか、誰が父なる神の元に持ち運んでくださっているのかを考えてみますと、横にいる兄弟姉妹がわたしの祈りを神に執りなしてくれるのではありません。そうではなくて、このわたしの祈りの場に主イエスが居てくださって、主がわたしの祈りを確かに受け止めてくださる、ですから私たちは、この祈りが確かに父なる神の元に持ち運ばれたのだということを信じることができるのです。
 そう考えますと、あまり周りの人のことを気にしなくてもよいということになると思います。私たちの祈りが控え目になるのはどうしてかと考えてみますと、周りの人が自分より立派に見えて、自分はまだまだだという謙虚な思いがあるからだろうと思いますが、しかし、私たちの捧げる祈りというのは、人間なのですから、神の前で立派だと通用するものなど無いのではないでしょうか。私たちの考えることには常に欠けがありますし、やっていることにも抜けがある。ですから祈りにおいても、一生懸命祈っていたとしても、神の目から見れば完璧とは言えないでしょう。けれども、そのような祈りを、主イエスが執りなしてくださり、神へと持ち運んでくださるのです。

 祈っているとき、私たちには迷いがある場合もあります。難しい問題に直面して、自分がどう判断すればよいのか分からずに、祈りの中で「神よ、どう考えたらよいでしょうか。今、悩んでいます。お答えをいただけないでしょうか」と祈ることもあると思うのです。そういう場合には、自分が迷っているわけですから、「これは確かで真実な祈りです」と言えるのだろうかと思いますが、しかし、恐らくそれで良いのだろうと思います。つまり、私たちは、神の前で戸惑ったり、分からなかったり、悩むことがいっぱいあるのです。場合によっては疲れ果ててしまって「神さま」と呼びかけたものの、何を祈ってよいか分からずに、絞りきったボロ雑巾のように、自分の中からは何も出てこないで黙ってしまうということも起こるかもしれません。けれども、そういう私たちを、主イエスはそのまま受け止めてくださっているのです。
 主イエスは、私たちが祈る言葉の上手さを受け取っておられるのではありません。そうではなくて、私たちが神の方に向かって今の自分の状況でお祈りを捧げる、そのような私たちの有り様を、主イエスが受け止めてくださっている。そして、私たちの整わない祈りの中に、主イエスは居てくださるのです。私たちが「アーメン」と唱えてよいと教えられているのは、そういうことなのだろうと思います。
 主イエスが私たちの祈りの中に共に居てくださる。そして、私たちが弱っていても悩んでいても、迷っていても困っていても、そういう私たちのことを神の前に執りなしてくださるのです。そして、主イエスは神の前に私たちの祈りを持ち運んでくださり、「父よ、あなたはすべてをご存じです。どうか、この人に最も相応しいものを備えてください」と、私たちの祈りを神の前に差し出してくださるのです。
 「アーメン」という短い言葉の中に、そういう主イエスが立っておられることを覚えたいと思います。

 そして、最後になりますが、初代の教会(聖書の時代の教会)は、この「アーメン」という言葉を、本当に自分たちの生活の中に生かして用いていたということが、聖書を読んでいますとよく分かります。教会では、「アーメン」という言葉が自分たちに委ねられている、そのことを深く感謝して、しばしば「アーメン」という言葉を言い交わしていました。新約聖書の中の教会では、誰かがお祈りを捧げると、皆が声を揃えて「アーメン」と唱えました。あるいは、誰かが神の御業を誉め讃え、讃美の言葉を語ると、皆で「アーメン」と唱えました。これは、今日でもそうでしょう。私たちの祈りも、その人だけが「アーメン」と言って終わるのではありません。今日の礼拝の中でも、司会者の祈り、また牧者の祈りのあとには、皆で「アーメン」と唱和しますし、讃美歌を歌ったあとも、皆で声を揃えて「アーメン」と唱えます。初代教会から今日に至るまで、ずっと、この「アーメン」という言葉が伝えられ、受け渡されてきたのです。
 「アーメン」という言葉が初代教会から私たちのところにまで、途切れることなく受け渡されてきている、これは本当に感謝すべきことだと思います。そして、皆で声を合わせて「アーメン」と唱和することは、言うなれば、いろんな教会の群れが一つになって、一つになることを後押ししているようなことではないかと思います。卑近なことで言いますと、例えば高校野球の応援とか、Jリーグの応援とか、そういうことでも言えるのではないかと思います。ピッチでプレイしているのは選手たちですが、周りの人たちは、そのプレイの様子を押し黙って冷たく眺めているのではありません。まるで自分がプレイをしているかのように、「頑張れ、頑張れ」と応援し、点が入れば「やった!」と喜びます。
 もちろん、「アーメン」という言葉は、相手を野次るような粗野な言葉ではありませんが、しかし、神の出来事がこの地上で行われている、そのことを見て、皆が声を揃えて「アーメン」と唱和するのは、一人一人の捧げる祈り、讃美を見ながら、皆が心から感謝して喜んで「アーメン」と声を合わせるのだろうと思うのです。

 私たちがそのようにして、この地上で声を合わせて祈り、讃美するとき、「アーメン」という言葉は、私たちの目に見えている範囲だけで語られているだけではありません。私たちの先人たち、この地上を歩み、既に神の御許にある兄弟姉妹たちも、天において、私たちの言葉に「アーメン」と声を合わせてくれているのです。
 また私たちの目には、この一つの群れしか見えませんけれども、目に見えずとも世界中に広がっている主にある教会の兄弟姉妹たちもまた、私たちの祈り、讃美に「アーメン」と声を合わせてくれているのです。
 私たちは、そういう大きな主にある群れ、教会の広がりの中で、「主イエスがここに居てくださるのだ」という言葉を、祈りの最後に唱えることを許されております。改めてそのことを心から感謝して、「アーメン」と唱えて祈りを捧げる者でありたいと願うのです。

 

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