ただ今、マタイによる福音書6章9節から13節をご一緒にお聞きしました。主イエスが「主の祈り」を教えてくださった箇所です。
「主の祈り」は全部で7つの祈りから成るのですが、改めて思わされることは、どの祈りも私たちの惨めさや難しさ、あるいは悲しみや悩みと深く関わっているということではないかと思います。私たちは神の民でありたいと願いながらも、気づくと、いつも神を忘れ神抜きで生活してしまいがちです。そしてそういう生活の中で、神の聖なる御名を軽んじたり汚したりしてしまいがちなのです。従って、主イエスは「御名が崇められますように」と祈ることを教えてくださいました。
また、この世はいつも権力や武力で立とうとするため、国と国、民と民、人と人との間に争いが絶えません。そのまま放置すれば、人間同士の激しい戦い・過ちのために世界が壊れてしまいます。従って人間の思いが成るのではなく、「御国が来ますように」と祈って、神の御心こそが実現することを求めるように勧められるています。
さらに、私たちはそのように過ちを重ね、罪の中に生きてしまうにもかかわらず、なお、神の御心を軽んじ自分の思いのままに生きようとしがちです。自分の人生の意味は自分の思いや考えの実現にこそあると、当たり前のようにうそぶくほどに、私たちには高慢さがあります。今の学校教育は殆どがそうだと思います。子どもたちに力を付けさせることによって、その子が願うような将来を与えることにこそ意味があると考える。今だけではなく、私たちの殆どはそのような教育を受けてきたのではないかと思います。しかし、私たちは最後まで、そのようにして生きられるのかと考えますと、覚束ないものがあります。従って「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることを教えられるのです。
私たちには「貧しさ」があります。しかも不遜なことに、神が生活の必要を全て満たしてくださっているところでさえ、私たちは貧しさを覚えたりするのです。私たちは、この地上の貧困、飢えと闘わなければなりません。そのためには、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」との祈りが必要になります。
しかし、私たちが真剣に「わたしに必要を与えてください。本当にあなたによって支えられているわたしです」と祈ろうとする時には、当惑させされることがあります。それは、私たちがそもそも神の前に負い目を負っているということです。私たちに負い目が無ければ、神がわたしを支えてくださるということを素直に信じられるのですが、負い目があるために、私たちは神を恐れてしまうところがあるのです。しかし私たちはなかなかそのことを認めようとしません。それどころか、自分は少しも赦しを必要としないかのように思ってしまって、隣人の負い目に対して大変厳しいことを言ったりします。そういうところでは人と人との交わりは壊れ、互いに許しを求めようとしないところでは、対立はエスカレートしていきます。従って、私たちが「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈り続けなければならないことを、主イエスは教えてくださいました。赦しを願う祈りというのは、この世界とそこに住む私たちが滅んでしまわないために捧げられる祈りなのです。
しかしこの世では、至るところで不正が行われ、人間同士の愛が消えます。私たちは理性を失い、また希望を見失おうとしています。従って「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るように教えられるのです。
こういう6つの祈りが捧げられた後、最後に私たちは諸々の悪から救い出していただかなければなりません。それが「悪い者から救ってください」という祈りです。これら7つの祈りが、先週まで聞いてきた祈りの内容です。
しかし、今私たちが唱える「主の祈り」には、もう少し他の内容が付け加わっているのではないでしょうか。確かに私たちの「主の祈り」は、ここで主イエスが教えてくださっている祈りより長いものです。長い部分、それは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」です。どうして、私たちはこのように祈るのでしょうか。
実は、この最後の言葉はもともと「主の祈り」に無い言葉であり、内容からすると「讃美」とも言うべき言葉です。ですから、私たちは「祈っている」つもりですが、実は最後には「神への讃美へと導かれている」のです。
「主の祈り」は、私たちの惨めさ、難しさ、弱さ、ままならなさととても深く結びついています。主イエスが人の有様を見、人にはこの祈りが必要だと教えてくださっている。謂わば、主イエスが私たちの地上の生活の傷口、破れ目に立っていてくださって、「どうか、私たちのこの罪の破れを癒してください」と祈る祈りを共に祈ってくださっている、そういう祈りです。そして、主の弟子たちがこの祈りを繰り返し繰り返し祈るうちに、不思議なことですが、「わたしのこの祈りは確かに神に聞き届けられている」、そういう思いが弟子たちの間に生まれてきました。どう祈ったらよいか分からない弟子たちに主イエスが教えてくださった祈り、これを祈るうちに、弟子たちの間に一つの理解が生まれ、「自分の捧げる祈りが神に聞き届けられている」という感謝の思いが生まれてきたのです。そのようにして、神への感謝・讃美の言葉が「主の祈り」に付け加えられるようになりました。
歴史的に見ますと、これは一通りではなく、1世紀の間に各地で様々な祈りの言葉が付け加わっています。最初は別々だった讃美の言葉が、やがて段々と一つの言葉になっていく、それが今日私たちに伝わっている主の祈りの最後の部分なのです。どうしてこの言葉になったかと言いますと、旧約聖書の言葉を土台にしていたからだろうと言われております。今日のその言葉を招詞として礼拝の最初に聞きました。ダビデがエルサレム神殿を建てるという時に、その用意をすべて整えさせてくださった神に感謝し讃美している言葉です。歴代誌上29章10〜13節「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します』」とあります。
私たちは「主の祈り」を暗記していますが、1世紀頃のキリスト者はそうではなかったようです。これはキリスト者や教会への迫害と深い関わりがあって、キリスト者であることを秘密にしていた場合、互いにキリスト者であることを「主の祈りを知っているかどうか」で確認しました。例えば、私たちの礼拝においては、洗礼を受けたキリスト者と、まだ洗礼は受けていないけれど求道しておられる方も共に「主の祈り」を祈っていますが、初代教会では、礼拝の中で祈ることはありませんでした。第一部に御言葉を聞く礼拝があり、その後に、聖餐式だけの第二部の礼拝がありました。第二部の礼拝の始まりでは求道者は帰され、キリスト者のみの聖餐式の中で「主の祈り」が祈られました。ですから「主の祈り」は、求道者が洗礼を受けたいと申し出て、それから3年の洗礼準備期間の一番最期のとき、その日の朝行われる洗礼式に臨みますという、その最期の夜に初めて教えられたそうです。このように「主の祈り」は、礼拝の中では司会者が唱え、その後に会衆が最期の「讃美の言葉」を祈りました。旧約聖書を土台にした言葉ですから、皆間違いなく言えたのでしょうが、初代教会の人々にとってはむしろ、最期の讃美の言葉を「主の祈り」として先に覚えたようです。時を経て次第に、教会全体で「主の祈り・讃美」を祈るようになっていったのです。
このような歴史的な経緯はあまり重要ではありませんが、見過ごしてならないことは、この讃美の言葉を教会の中で定着して皆で祈るようになったのは、どのような時代だったかということです。それはまさに、教会が迫害を受けていた時代です。教会が迫害され殉教者が増えている、そういう時代に、この讃美の言葉が教会に浸透していったのです。その理由は恐らく、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」という言葉が、迫害の中の教会を励ましていたからです。この言葉は、1世紀のキリスト者が殉教の死を遂げる際に唱えた祈りだと言われています。自分の命が終わるとき、「国と力と栄えはあなたのものです」と言って息絶えたのです。
これは、私たちにも似たようなところがあると思います。私たちはどんなときに真剣に「主の祈り」を祈るでしょうか。この言葉に私たちが頼らざるを得ない時、それはやはり困難に出会っているときではないかと思います。経済的なこととか、病であるとか、あるいは緊急事態が起こっている、いろいろな重荷を抱えてどうにもできない時、そういう時には、私たちはもしかすると自分の心の中から祈りの言葉が出てこないということがあるかもしれませんが、そういう時に、私たちは「主の祈り」を真剣に祈るのではないでしょうか。
しかしそれは、理屈から言いますと少し不思議です。本当に辛い時に「主の祈り」を祈ることで、私たちは最終的にこの讃美の言葉に行き着くのです。不思議なことですが、私たちは、自分が幸せだったら讃美の言葉を祈れて、不幸せだったら祈れないかというと、そうではありません。悲惨な状況のもと、重荷を負って辛い思いをしている、そういう人こそ実は、何も携えずに「神の前で讃美の言葉をもって人生を歩む」という弁えを持つことができるのです。そして、そういう人にとっては、もはや「神の前に立たされていることを感謝し讃美する」、それ以上の目的はなくなります。私たちが全てを手放さなければならなくなったとき、使徒言行録に記された殉教者ステファノが仰ぎ見たことを、私たちも仰ぎ見たいと願うのではないかと思います。ステファノは、石で打たれて死にかけている時に、天が開けてそこに主イエスが神の右の座に着いておられるのが見えると言って息を引き取りました。
この私が命を終える時、最後に一体何が見たいでしょうか。愛する者の笑顔でしょうか。多分違います。「神がこのわたしを支えてきてくださった。今この最後にも主が受け止めてくださっている」このことをこそ見たいと切に願う、キリスト者にはそういうところがあると思います。キリスト者が迫害に遭い乱暴な仕方で人生を終えさせられてしまう、そのような時代に、この讃美の言葉が定着していきました。迫害の最中にあって、当時のキリスト者たちは自分でも気づかないうちに信仰の証しを強力に立てていったとも言えます。「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものです。アーメン」と祈りつつ、自分を打とうとする強大なローマ帝国や政治権力が本当の国なのではなく「神の御支配こそがわたしを支えるまことの御国である」と証ししつつ死んでいったのです。
これは決して、初代教会のキリスト者だけのことではありません。讃美歌267番を先ほど讃美しましたが、この4節にルターは「わが命も わが宝も 取らば取りね 神の国はなお 我にあり」と歌詞を付けました。私たちが心から神を讃美するとき、実はそれは本当に強い信仰の証しになっているのです。そしてまた、私たちを打ち倒そうとする様々な力に対する最も強い抵抗になると言ってよいと思います。
「主の祈り」に加えられた讃美の言葉について、これから4週間、一言づつ考えたいと思っています。
今日は、一番最初の「国」という言葉です。「国」という言葉で私たちが弁えるように示されていることは、「神の御支配は私たちのすべてに及んでいる」ということです。信仰や神との関係と聞くと、私たちはついどこかで、それは個人の心の問題だと思ってしまいがちです。しかし、私たちの信仰は心の中だけの事柄ではありません。主イエスは私たちの心の中にいて心の中で御業をなさるということではない。主イエスは確かにこの地上の生を歩まれて、私たちのために生きて働かれ、十字架にかかられました。十字架の出来事は、私たちが勝手に有ったとか無かったとか思う事柄ではなく、歴史の中に明らかな事実としてあるのです。
ですから、「主イエス・キリストこそ救い主である」ということは、私たちの内面世界でだけのことなのではなく、私たちの生活のすべてにおいて主イエスは「主である」のです。もっと言いますと、信じる群れである教会だけの主なのではなく、認めない人は大勢いますが、教会の外にいる人たちに対しても、主イエス・キリストは主(救い主)である、この事実は変わりません。そして、教会はそのことを信じています。私たち教会が信じている事柄は、「この世界のすべての上に主イエス・キリストが主として立っていてくださる」ということです。信じない人は大勢いますが、キリスト者は真の主に仕えるべきことを知らされて、この地上を生きているのです。さらに言えば、主イエスは人間の主であるだけではなく、自然界を含めたすべてのものの主であられます。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と私たちが告白するとき、それは「あなたは、天上のもの、地のもの、地下のものも、すべてのものの主であられます」と告白していることなのです。
この点において、私たちの教会は過去において尊い証しを立てたことを思います。第二次大戦時、合同教会として日本基督教団が成立しましたが、6部と9部の教会が迫害を受けました。当時、キリスト教会は「天皇こそ神ではないか」という問いをぶつけられましたが、愛宕町教会の前身である百石町教会は「キリストこそが真の主である」と告白して、天皇よりもキリストが上であることを曲げませんでした。そのために、鈴木鶴代初代牧師は非国民とされ、牧師職を剥奪され、教会は解散させられました。当時、多くの日本の教会が「キリストこそ主である」ことを曖昧にしたのですが、愛宕町教会はその前身(東洋宣教会に属する6部9部の教会)において真実を曲げず、そのために迫害を受けました。私たちの教会には、信仰を伝えた先達たちの「この国が、この世界すべてが主イエス・キリストの御支配のもとにある」ことを真剣に受け止めて生きてきたという歴史があります。私たちは、こういう信仰の遺産を受け継ぐ教会であることを覚えなければなりません。
私たちの主であるイエス・キリストが、身代金を払って、私たちを身請けしてくださいました。身請けして、私たちの心も体も言葉も命もすべてを主がご自分のものとしてくださり、新しくしてくださったのです。私たちが生かされているこの命は、心だけが主に向いているということではありません。主が私たちのために十字架で血を流してくださったのですから、その贖いは心の中だけに止まらないのです。「贖い」という言葉が使われますから、つい、代金を支払ったということで終わってしまいがちですが、それだけではありません。主イエスに繋がる新しい命を与えられているのです。神の御国の民としての資格を、主が私たちのために買い取ってくださったのです。主イエスが十字架で血を流されて以来、「私たちの国籍は天にあるのだ」と、私たちははっきりと言ってよい立場に立たされているのです。
「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と祈りつつ、私たちはまさに「主イエス・キリストによって神の御国の一員とされている」、そのことを思い起こして感謝し、讃美し、その恵みに相応しいあり方をなすことを求められています。
ところで、私たちが神の御国の民の一員とされるのは、主の十字架によって与えられた恵みとしての立場なのであって、決して私たちの思いの強さや情熱によって御国の民となったわけではありません。もしかすれば、時には私たちは主イエスを忘れて生きてしまうこともあるかもしれません。しかしそれでも、私たちは神の御国の民です。どうしてでしょうか。それは、主イエスが確かに血を流してくださっているからです。たとえ私たちが、主に相応しくない者であったとしても、そういう時があったとしても、それでも、主イエスが十字架で血を流してくださったがゆえに、私たちは御国に連なる民とされているのです。
御国を信じるという信仰は「ただ恵みのみ」という側面があります。「わたしは主によって御国の民とされています。わたしの国、それはすべてあなたのものです」と告白する人は、そのことで、「主の十字架の出来事は確かにあったこと、このわたしのための出来事です」と語っていることになるのです。そして、そのところに自分の一生を捧げて生きるようになるのです。ただ自分の心の中だけのことではない。自分の一生のすべてが「主イエスによって贖い取られ生かされている」、そういう新しい命を生きるのです。ですから、キリスト者には様々な事柄への恐れがなくなっていきます。もちろん、この地上において恐れを抱く事柄はたくさんあります。生活の困窮、人間関係のトラブル、病の宣告、しかしそういうことがあったとしても、それでも私たちは、そういう者としてなお、「神に贖い取られた者」なのであり、「御国はあなたのものです。わたしはあなたの国の民です」と告白してよいのです。
さらに覚えるべきことは、私たちの功績によらず、ただ恵みによるのですけれども、私たちは信じる者として「神の御国がこの地上に形作られていく御業に仕えていく」、そのことが許されています。私たちの生活を通して、この地上に神の御国が建て上げられていく様子を見せられ、それに与って生きる光栄な務めが許されているのです。私たちが神の御言葉を慕い求め、その御言葉に従って生きていくとき、もちろんそこに勘違いや誤解が含まれるかもしれませんが、しかし、いろいろなものにまとわりつかれながらでも、間違いなく神の御国はこの地上に立てられていきます。そして、今日、「わたしの生活が神の御業のために用いられています」という感触を持つことを、キリスト者は許されているのです。
フィリピの信徒への手紙2章15節16節で、パウロは、「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と語っています。私たちは「よこしまな曲った時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」そのような生活へと招かれています。ただ心の中で思うということではありません。さまざまなものにまとわりつかれてはいますが、神にまっすぐに向けないこのよこしまな時代にあって、私たちは、神に喜ばれる清らかな生活を築くことが許されているのです。そして、そういう生活の果てには、「死に至るまで忠実であれ。そうすればあなたに命の冠を授けよう」というヨハネの黙示録の約束も聞こえてくるのです。
ただし、忘れてはならないことがあります。それは、神の御国の中心は目に見えないところにあるということです。私たちは、この地上に神の御国が実現すると聞きますと、すぐに自分の目につくところで神の御国がどうかと考えがちになります。しかし、人目を惹きつけるところに神の御国の中心があるのではありません。主イエスは弟子たちに、「あなた方が良い業をするときには、右の手のすることを左の手に知らせるな」と教えておられます。私たちが殊更に自分の正しさや立派さを誇ろうとすることを、主は嫌われます。上部にだけ目を向けてはいけない。私たちが神の御国を見るというとき、それは肉眼で見て輝かしいものと鑑賞するのではなく、様々なものに取り付かれながらも、「しかしなお、ここに神の御国が実現していくのだ」ということを、信仰の目をもって見ることを求められるのだと思います。
実際の生活の中では、私たちは、神の御国がここにあると大喜びすることよりもむしろ、主イエスが教えてくださったように「御国ょ、来らせたまえ」と、ため息をつきながら祈ることの方が多いかと思います。この地上に今ある御国、そこには常に、私たち自身の罪との闘いがあります。神から離れ神抜きで生きてしまいそうになる、そういう闘いがある。しかしそういう闘いの中に、実は、神の御国が実現してゆき、「今のこのわたしの生活のすべてはあなたの御支配のもとにあります」と言えるようになるのです。
私たちは気落ちする必要はありません。自分の生活が神に完全に捧げ切れていないとしても、神の御国は常に与えられている、主の十字架の上に私たちは生かされている、その印を与えられて生きています。まさにその印こそは、教会です。私たちは今、この礼拝の場で、神を讃美する群れに入れられています。ここに御国があります。けれども、ここにいる私たちは皆清らかな天使のような存在でしょうか。違います。大勢の者が集っているから御国でしょうか。違います。そうではなくて、私たちが心を合わせて神の御支配を信じ、信仰告白する、讃美の言葉を口にする、そこに神の御国があるのです。私たちは「神への讃美と信仰告白を言い表す」、そのことのために、ここに集められているのです。
神の御国の中心は、見えないところにあります。しかし聖書の御言葉に従って言うならば、それは私たちの将来にあります。私たちは、この地上に神の御支配があることを信じて生きますが、神の御国の完成は、この地上においてあるのではありません。地上を超えたところで、神の御国は完成されます。そしてその時にこそ、はっきりと神の御国を私たちは見ることになるのです。地上を終わった命の目で見るのですから肉眼と言うのも変ですが、神が与えてくださる新しい清らかな体の目によって、確かに見る者とされます。
パウロは、コリントの教会に語りました。コリントの信徒への手紙一13章12節「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。神の御国は私たちの地上の生活の闘いがすべて闘い終えられて、終わりの日にその完成を見ることが与えられているのだから、完成された姿に少しでも近づくようにこの地上の生活を生きようと示されているのです。
私たちが糧として励む御言葉を、主イエスは教えてくださっています。「小さい群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をあなたがたにくださるのだから」と。私たちは本当に小さい群れです。人数だけのことではなく、私たちが神の御言葉に従えている部分はほんの少ししかないかもしれません。しかし、そこに確かに神の御国が来ているのです。そしてそのことを、私たちは、礼拝する群れに連なって言い表し讃美していく。礼拝、神への讃美こそが、この世にあって、本当に大きな力になることを覚えたいのです。
終わりの日に完成されることを覚えながら、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」という言葉を祈りつつ、教会の礼拝に仕える者として造り上げられていきたいと願うのです。 |