2015年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神様の栄光 | 7月第3主日礼拝 2015年7月19日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第6章9〜13節 | |
6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』 |
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ただ今、マタイによる福音書6章に記されている「主の祈り」のところを、御一緒にお聞きしました。 聖書を読んでおりますと、眩いばかりの栄光に包まれた神のイメージが繰り返し出てきます。すべてを拾い出す時間はありませんが、幾つか読んでみたいと思います。まず、ヨハネの手紙一1章5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」とあります。神は光であって、まったく闇が無いことが示されています。また、テモテへの手紙一6章16節には、神について「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」と書かれています。神は近寄りがたい光の中に住んでおられると言っております。ヤコブの手紙1章17節には「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」とあります。神は光の源であって一切の翳りはないのだと言われております。 私たちの手の届かないところに輝きに満ちた神がおられる、それは、信じる者にとってはとても意味のあることです。日常の私たちは、苦労や悲しみや心配事の多い、この地上に暮らしています。そういう私たちにとっては、この地上を離れたところに、せめて神の元に、本当の明るさがあり輝きがあって、その輝きが私たちを照らしてくださっている、それを信じるならば、私たちの日々の生活の拠り所となる、そういう面があると思います。 神は、私たちが地上で、どんな思いを持って生きているかご存知です。旧約の預言者イザヤを通して語ってくださっている言葉が、私たちにどんなに大きな感動を与えるかということもよくご存知です。イザヤ書9章1節2節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように」とあります。神が私たちの手の届かない遥かなる高みにいて、輝きをもって私たちをご覧になっておられる。このことは確かに、信じる者にとっては慰めになるのです。 ところが、神は、私たちがそういう身近な光を必要としているし、求めがちであることを、よくご存知です。ご存知であるどころか、神はそのことを十分に心得ておられて、私たちに寄り添うような仕方で接してくださるのです。すなわち神は、遥かなる高みにある栄光を一切かなぐり捨てて、ご自身の御子を低く低くへりくだらせてくださいました。主イエス・キリストを通して私たちに示される神というのは、もはや遥かな高みで栄光に包まれているというお方ではありません。主イエス・キリストを通して、神は私たちの間においでになるほどに、本当に低くへりくだってくださいました。へりくだった神の御子が十字架の死の苦しみと嘆きさえ耐え忍んでくださって、そういう仕方で、神は私たちの元においでになりました。 このことについて、もう少し考えてみたいと思います。「神がへりくだってくださった」とは、どういうことなのか。譬えて言うと、大変洗練された生活にある人が場末の居酒屋に現れるというような、そういうへりくだり方ではないと思います。ピカピカに磨き上げた靴が汚れないようにこわごわ足を地面に着けるとか、手入れした爪が傷つかないようにそっと地面に触れるとか、そういう仕方でへりくだるのではない。そうではなくて、神はまさに、ご自身が天上において持っておられる栄光をすべて投げ捨てて、この地上に生きる私たち人間と全く同じ姿で、この地上においでになる。「神がへりくだってくださっている」とは、そういうことです。 天上に輝く栄光と反対のものとは何か。それは、私たちを覆っている暗闇であり、罪と呼ばれるものです。それを、神はご自身の身にまとってくださいました。 この「地上に現れた栄光」について、更に考えてみたいと思います。太陽が昇る時、どこから光が当たるでしょうか。私たちは、一番高い山の頂から当たると考えるのではないでしょうか。山梨は盆地ですから、そういう光景を見ることができると思います。谷に住んでいれば、自分の住む場所よりも先に山の頂が明るくなっているのを見ます。山に住んでいれば、どちら側の斜面に住んでいるかで状況が違ってきます。光が早く当たる場所を羨ましく思うでしょう。例えば、西に下って住んでいる人たちは、昼にならないと日が当たらないので、畑を作っても実りが良くないと聞きます。この世では、光は高いところから当たるのです。 しかも、それだけに止まりません。このような仕方でこの世に誕生してくださった主イエスとは、どのようなお方だったでしょうか。「群衆が飼う者のいない羊のように疲れ果てているのを見て、憐れんでくださった」と記されています。そして、そのように疲れ果てている者に対して「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、声をかけてくださるお方です。この地上の低いところに現れる栄光は、私たちを照らし出し、私たちに休息を与えてくれる、そういう光であることを、聖書は教えてくれています。 この世は依然として、夜の冷ややかな闇に閉ざされて、冷たい湿り気を持っています。しかし、この世を覆っている暗闇はもはや、決して融けない万年雪のようなことではありません。私たちの只中に神の栄光が来てくださったからには、雪国が春を迎えるように、この地上の暗闇の至る所に割れ目が走って、光が現れるということが起こり始めます。それは、人によって、場面によって、様々なのだろうと思います。 私たちが日々に見せられる出来事、経験は、言うなれば、神の一番最後の栄光に出会うまでの道に立てられている一本一本の街路灯のようなところがあると思います。私たちは現在の生活の中で、いろいろな困難や苦しみや悲しみを経験し、暗闇に閉ざされているように感じるときにも、それでも「わたしは主イエス・キリストによって照らされている。主によって命を与えられているのだ」と思える、そういう光を一つずつ灯していくのです。 そのようにして終わりまで歩む、その先の、一番最後の輝かしい光の中に何があるのでしょうか。ヨハネの黙示録21章1〜4節に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」とあります。この日にこそ、私たちは本当の栄光に包まれ、すべてが完成することを目の当たりにするということになるのだと、聖書は黙示録で教えてくれています。 私たちは、その日に向かって、今、この地上で、神を讃美しながら生きるのです。街路灯のように、一つ一つ光を灯されて、そしてそのことを感謝し喜びながら、「神よ、あなたのご栄光は、永遠にあなたのものです。私たちが今照らされているのは、あなたからの光です」と讃美しながら、終わりの時まで、一歩一歩、この地上を歩んでいくのです。 |
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