聖書のみことば
2015年7月
  7月5日 7月12日 7月19日 7月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月19日主日礼拝音声

 神様の栄光
7月第3主日礼拝 2015年7月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜13節

6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 ただ今、マタイによる福音書6章に記されている「主の祈り」のところを、御一緒にお聞きしました。
 私たちが祈る「主の祈り」には、ここに記されている言葉に続けて、いわゆる「讃美の言葉」が付け加えられています。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」という言葉です。先週まで、「国」「力」は「あなたのものです」ということについて考えました。今日は三番目の「栄え」という言葉です。すなわち「神のご栄光は永遠に神のものである」ということを考えてみたいのです。

 聖書を読んでおりますと、眩いばかりの栄光に包まれた神のイメージが繰り返し出てきます。すべてを拾い出す時間はありませんが、幾つか読んでみたいと思います。まず、ヨハネの手紙一1章5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」とあります。神は光であって、まったく闇が無いことが示されています。また、テモテへの手紙一6章16節には、神について「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」と書かれています。神は近寄りがたい光の中に住んでおられると言っております。ヤコブの手紙1章17節には「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」とあります。神は光の源であって一切の翳りはないのだと言われております。
 このように、「光に満ちたお方、神が私たちの上におられる。私たちはその神の永遠の栄光に照らされて生活できるのだ」と信じることは、信じて生きる人にとっては本当に有り難いことです。「威厳に満ちた永遠の輝き」、それが「神の栄光」です。そして、その栄光はこの世のどこにもありません。神にしかないものです。従って、私たちは「主の祈り」の一番最後に「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」と祈り、「栄光は永遠にあなたのものです」と、神を讃美するのです。

 私たちの手の届かないところに輝きに満ちた神がおられる、それは、信じる者にとってはとても意味のあることです。日常の私たちは、苦労や悲しみや心配事の多い、この地上に暮らしています。そういう私たちにとっては、この地上を離れたところに、せめて神の元に、本当の明るさがあり輝きがあって、その輝きが私たちを照らしてくださっている、それを信じるならば、私たちの日々の生活の拠り所となる、そういう面があると思います。
 かれこれ20年以上も前のことですが、私が神学校を出て一番最初に遣わされた教会は、東北地方の内陸にある教会でした。東北地方の内陸に暮らしたことのない方には想像つかないことと思いますが、空の色が全然違うのです。真夏で晴れ渡っていても、どこかくすんだ青色をしています。初めは気のせいかと思っていましたが、地域の牧師会があって、太平洋沿いの石巻の教会に行ったときに、はっきり分かりました。海の方に行くと、空がさっと青くなるのです。内陸はくすんでいるんだなと思いました。それだけではなくて、冬は長く、ずっと雲が垂れ込めて雪が降ってきます。そういう雪国で暮らしますと、いつも見ている空は鉛色なのです。雪国に暮らす人々は、雲が垂れ込めて雪が降り続く、そういう厳しい冬の季節になると「今、私たちの頭の上には雲があるけれど、その上には太陽が輝いている。そして春になったら雲が晴れて太陽が私たちの上に輝くのだ」と、輝いている空を見ているわけではありませんが、そういう希望を持つようになる。春の訪れを待ちながら、太陽が輝き始めて雪が融けると、嬉しい春を迎えるのです。このことに似て、私たちの上に永遠の光が輝いている、そのことを信じている人にとっては、それは確かな拠り所になります。

 神は、私たちが地上で、どんな思いを持って生きているかご存知です。旧約の預言者イザヤを通して語ってくださっている言葉が、私たちにどんなに大きな感動を与えるかということもよくご存知です。イザヤ書9章1節2節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように」とあります。神が私たちの手の届かない遥かなる高みにいて、輝きをもって私たちをご覧になっておられる。このことは確かに、信じる者にとっては慰めになるのです。
 しかし、同時に逆のことも考えられると思います。
 つまり、遥か彼方にある栄光というのは、確かに私たちが信じてそれを受け入れられる時には良いのですが、場合によっては、私たちを慰めるのではなくて、絶望させるということにも繋がりかねないところがあると思います。どうしてか。私たちは毎日毎日、地上にへばりつくように生活しています。この地上で、心と体をすり減らしながら、一生懸命、生活しています。そういう私たちにとって、遥かなる高みにある栄光を目にするということは、逆に自分がどんなに低いところに暮らしているのか、毎日どんなに大変な生活をしているかということを思い知らされることにもなるのです。そうしますと、どうして自分が置かれている状況を喜べるだろうか、という気持ちが頭をもたげることも、場合によっては有り得るだろうと思います。
 私たちが日々の暮らしにすっかりくたびれてしまって、気持ちが弱っている時には、ふと自分について卑屈な思いが頭をもたげる、そういうことが私たちには有り得ると思うのです。ですから、私たちは、永遠の遥かなる栄光などという大それたものよりは、もっとずっとささやかなものでも満足出来るようなところがあると思います。思い切り大きな光でなくてもよい。自分の傍にそっとやって来て冷たい頬を暖めてくれるとか、自分を照らし出してくれる、そういう本当に小さな光でもよい。いやむしろ、そういう光の方を喜んで求める気持ちが、私たちにはあるように思います。
 遥かなる高みにある神の栄光の方が、何千倍何万倍も眩いし、強いに違いないのです。けれども、私たち地上に生きる者にとっては、そんな光よりも、すぐ近くにある光、手元にある光の方が何倍も価値がある、そう思える時もあると思います。

 ところが、神は、私たちがそういう身近な光を必要としているし、求めがちであることを、よくご存知です。ご存知であるどころか、神はそのことを十分に心得ておられて、私たちに寄り添うような仕方で接してくださるのです。すなわち神は、遥かなる高みにある栄光を一切かなぐり捨てて、ご自身の御子を低く低くへりくだらせてくださいました。主イエス・キリストを通して私たちに示される神というのは、もはや遥かな高みで栄光に包まれているというお方ではありません。主イエス・キリストを通して、神は私たちの間においでになるほどに、本当に低くへりくだってくださいました。へりくだった神の御子が十字架の死の苦しみと嘆きさえ耐え忍んでくださって、そういう仕方で、神は私たちの元においでになりました。
 あの十字架の出来事から、神の栄光は遥かなる高みで輝く光ではなく、私たちの只中で、しかも私たちの一番惨めなところ、低いところで、私たちを照らし出す光に変わりました。私たちが聖書から知らされている栄光とは、天の高みから私たちを照らすのではありません。十字架の上から、私たちを照らすのです。
 例えば、ヨハネによる福音書を読んでおりますと、主イエスご自身が十字架にかかられる時のことを指し示しながら、「人の子が栄光を受ける時が来るのだよ」と、弟子たちに教えておられます。神の栄光とは、高いところから私たちを照らすのではなくて、低いところから、私たちは本当に惨めな、どうにもならないところで、私たちを照らす光になるのです。

 このことについて、もう少し考えてみたいと思います。「神がへりくだってくださった」とは、どういうことなのか。譬えて言うと、大変洗練された生活にある人が場末の居酒屋に現れるというような、そういうへりくだり方ではないと思います。ピカピカに磨き上げた靴が汚れないようにこわごわ足を地面に着けるとか、手入れした爪が傷つかないようにそっと地面に触れるとか、そういう仕方でへりくだるのではない。そうではなくて、神はまさに、ご自身が天上において持っておられる栄光をすべて投げ捨てて、この地上に生きる私たち人間と全く同じ姿で、この地上においでになる。「神がへりくだってくださっている」とは、そういうことです。
 そのへりくだってくださった様子について、フィリピの信徒への手紙の「キリスト讃歌」と言われるところで語られています。2章6〜8節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神はご自身の栄光を捨て去ることを、少しも恥となさいません。完全にへりくだってくださって、天上において持っておられた栄光とは正反対のものをご自身の身にまとわれたのです。

 天上に輝く栄光と反対のものとは何か。それは、私たちを覆っている暗闇であり、罪と呼ばれるものです。それを、神はご自身の身にまとってくださいました。
 そして、神がそのようにへりくだってくださったことによって、地上には、その栄光に照らされて喜びながら讃美する群れが生まれました。ヨハネによる福音書1章14節に「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。天上の栄光を見上げるのではなくて、低くへりくだって私たちの生活の中に足を着けてくださった、そういう栄光を私たちは見せられている。それが「父の独り子としての栄光」であって、そこに「恵みと真理とが満ちている」と讃美する、そういう群れが生まれたのです。

 この「地上に現れた栄光」について、更に考えてみたいと思います。太陽が昇る時、どこから光が当たるでしょうか。私たちは、一番高い山の頂から当たると考えるのではないでしょうか。山梨は盆地ですから、そういう光景を見ることができると思います。谷に住んでいれば、自分の住む場所よりも先に山の頂が明るくなっているのを見ます。山に住んでいれば、どちら側の斜面に住んでいるかで状況が違ってきます。光が早く当たる場所を羨ましく思うでしょう。例えば、西に下って住んでいる人たちは、昼にならないと日が当たらないので、畑を作っても実りが良くないと聞きます。この世では、光は高いところから当たるのです。
 けれども、神の栄光がこの地上に現れたときに、一体光がどこから当たっただろうかと考えますと、神の栄光は普通の光と違うのだということを教えられます。神の独り子がこの世においでになった時、主イエスがお生まれになったときに、神の栄光がまずどこを照らし出したのか。エルサレムの町の山の頂に立っている神殿から光が当たったのでしょうか。そうではありません。あるいは、ヘロデが暮らしていた高い塔のある王宮から光が当たったのかというと、そんなことでもないのです。
 クリスマスのたびに私たちは聞かされますけれども、ルカによる福音書2章8節9節には「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあります。義の太陽がこの地上で一番最初に照らし出したのはどこだったか、それは「夜の羊飼いたち」だったと、ここに記されています。
 当時の社会の中で、羊飼いの仕事をしている人たちが決して一人前の人間と認めてもらえなかったことを考え合わせますと、このクリスマスの記事が何を語っているかがよく分かります。神の栄光は、自然の光と違って、この世で一番低いところ、一人前に扱ってもらえないような人のところにまず現れたのです。

 しかも、それだけに止まりません。このような仕方でこの世に誕生してくださった主イエスとは、どのようなお方だったでしょうか。「群衆が飼う者のいない羊のように疲れ果てているのを見て、憐れんでくださった」と記されています。そして、そのように疲れ果てている者に対して「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、声をかけてくださるお方です。この地上の低いところに現れる栄光は、私たちを照らし出し、私たちに休息を与えてくれる、そういう光であることを、聖書は教えてくれています。
 貧しい惨めな者を担ってくださって、遂には十字架にかかって陰府にまで下ってくださる、そういうお方が、父なる神のもとから私たちのところへと「へりくだって」神の栄光を私たちに伝えてくださっているのです。それほどまでに低く、神はへりくだられました。主イエス・キリストとなって、どこまでも低くへりくだって、私たちのこの地上の生活の最も低いところ、私たちの思いの最も暗いところに来てくださり、私たちを照らしてくださるのです。私たちが暗く冷え切っているところを、神の御子の栄光が暖めて、そして私たちが再び動き出せるように力を与えてくださるのです。

 この世は依然として、夜の冷ややかな闇に閉ざされて、冷たい湿り気を持っています。しかし、この世を覆っている暗闇はもはや、決して融けない万年雪のようなことではありません。私たちの只中に神の栄光が来てくださったからには、雪国が春を迎えるように、この地上の暗闇の至る所に割れ目が走って、光が現れるということが起こり始めます。それは、人によって、場面によって、様々なのだろうと思います。
 例えば、若い息子が親元を離れて何十年も経ってから、あの時は申し訳なかったと手紙をよこすことがあるかもしれません。そういう時に、そのたどたどしい文字の中に神の栄光が差し込んでいる、ここが暖められて雪が融け始めているという姿を見出すことができるだろうと思います。あるいは、重い病気にかかってもはや回復の見込みはないと宣言されているキリスト者が、それでも神がわたしの今日を支え、またわたしの先行きをご存知であると知って、ベッドの上で平安に過ごしていられる、そういう時にも、私たちの命をすっかり閉ざしているように見える氷が神の栄光によって融かされて、そういう状況の中でなお生きるということがあるだろうと思います。
 辛い仕事を終えてくたくたになっているけれども、とにかく神を礼拝しなければならないと思って夕礼拝に向かう。ところが、夕礼拝に出たものの、昼間の疲れから、説教中についうとうととうたた寝をしてしまう。けれども、そういう姿の中にも、神の栄光に照らされている私たちの小さい姿が表れていると言えると思います。
 私たちは、神が私たちを照らしてくださることを、主の十字架によって私たちを照らし支えてくださることを聞かされながら、一人一人、自分の過ごし方の中で、雪融けを知らされるように生きていくのです。聖霊によって信仰を与えられるキリスト者は、何気ない一つ一つの出来事を通して、やがて来るべき晴れやかな真の神の栄光に巡り照らされる、そのところまで歩んでいくのです。

 私たちが日々に見せられる出来事、経験は、言うなれば、神の一番最後の栄光に出会うまでの道に立てられている一本一本の街路灯のようなところがあると思います。私たちは現在の生活の中で、いろいろな困難や苦しみや悲しみを経験し、暗闇に閉ざされているように感じるときにも、それでも「わたしは主イエス・キリストによって照らされている。主によって命を与えられているのだ」と思える、そういう光を一つずつ灯していくのです。

 そのようにして終わりまで歩む、その先の、一番最後の輝かしい光の中に何があるのでしょうか。ヨハネの黙示録21章1〜4節に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」とあります。この日にこそ、私たちは本当の栄光に包まれ、すべてが完成することを目の当たりにするということになるのだと、聖書は黙示録で教えてくれています。

 私たちは、その日に向かって、今、この地上で、神を讃美しながら生きるのです。街路灯のように、一つ一つ光を灯されて、そしてそのことを感謝し喜びながら、「神よ、あなたのご栄光は、永遠にあなたのものです。私たちが今照らされているのは、あなたからの光です」と讃美しながら、終わりの時まで、一歩一歩、この地上を歩んでいくのです。

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