ただ今、新訳聖書のマタイによる福音書に記されております「主の祈り」の箇所をご一緒にお聞きしました。普段私たちが祈っている「主の祈り」には、ここで主イエスが教えてくださっている祈りの言葉に続けて、いわゆる讃美の言葉が付け加えられているのだということを、先週の礼拝説教の中でも申し上げました。「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」という言葉です。今日はその中の第2の事柄、すなわち「力、それは神のものである」ということについて考えたいと思います。
「力」というものは、多くの人が心寄せる事柄だと思います。「力が付く、力を手に入れる」、そんな言葉を聞きますと、私たちは何か耳寄りな話であるかのように耳をそば立ててしまうところがあると思います。「本当に力が付くよ」と教えられますと、私たちは、そのためであれば努力してもいいかなと思ったりもします。「力」に対する憧れというものは、私たちの中に根深くあると言ってよいと思います。教会に来る方の中にも、もしかすると、「力を与えられたい」と精神的なパワーを求めて来られる方もいるかもしれません。「力」というのは、多くの者が望むものなのです。
しかも、私たちが力を求めるときに、そこで私たちが求める力というのは、通り一遍の力などではないと思います。普通の人間の力などでは満足できないというところがあるのです。そのことは、私たちが使う力の単位を見てもよく分かります。人を単位にして百人力とは言いますが、それ以上に「あのトラクターは何馬力か」とか「このモーターは何馬力である」とか、馬の力を単位にして語ります。これは、電気とかエンジンとかの近代的なシステムになってから使うようになったということではありません。古い時代から、「特別な力を蓄えている人」は、憧れをもって見られました。例えば、巨人伝説などは、人間の歴史と時を同じくして出てきます。聖書の中では、ゴリアトとかサムソンとかアナク人など、特別に力のあった人たちのことが言い伝えられています。
古い時代には、そのように特別な力を身に付けた人は、抜きん出た人と見られていました。しかし、今日ではどうでしょうか。私たちは、自分が特別抜きん出ていると思わなくても、それでも「力を付け、力を持ちたい」と願うのではないでしょうか。インターネットを介してなど「他者の知らない様々な知識を身に付けて、他者より力ある者になりたい」、そういう思いは、現代社会の至るところで見受けられるようになったと思います。そう考えますと、「力」とは、ある意味で「現代の偶像である」と思います。
また、誰も彼もが力を願い、力を得ようとして一生懸命であるということは、逆に言いますと、力のない人はとても惨めであるということでもあります。力が偶像となって幅をきかせる。誰もが力を持ちたがる。そういう時代には、力のない人は惨めであり、影が薄くなり、社会の周辺部に押しやらて追い出されてしまいます。ですから、私たちが「力を持たない」ことは、大変心細く思うことなのです。「自分は力を持てないのではないか。力を失うのではないか」、そういう不安と恐怖が、より一層人々を「力」への熱望に駆り立てている、そういうことがあるのだろうと思います。
多くの人が力に対して心寄せる、それは裏返しに言えば、この世には本当に多くの恐れや不安が潜んでいるということだろうと思います。もし自分に力が無くなって、ここに立っていられなくなったらどうなってしまうだろうか。あっという間に自分は追いやられ、押し流されてしまうに違いない、その不安が私たちを力へ力へと駆り立てるのだろうと思います。私たちの根底のところ、一人一人の奥深いところで、私たちはそのような不安を抱えているのだろうと思います。
そして、そういう恐れを抱きつつ、力に憧れ力を求めるときに、力こそ何より大事なものであると思えてしまいます。恐れを抱きつつ憧れる、その憧れには、譬えて言うならばイースト菌のようなところがあると思います。つまり、際限なく膨らんでいくのです。そしてそれはまた時に、キリスト教信仰の中にすら入り込んでくる場合があります。
ある人が信仰を持ちたいという希望を持つときに、どうしてそう願うようになったのかを尋ねると、「どんな時にも自分がへこたれたり、潰されたりしないように、信仰によって力を持ちたい」と答えることがあります。私のこれまでの牧会経験の中でも、初めて教会に来られた方に来られた理由をお聞きして「パワーが欲しかった」とか「教会に行けば力が与えられる気がした」と答えた方がおられました。そのように自分の力を求めて、力を与えられることを願って来られた方は、しかし、大抵同じ結果になっていきます。キリスト教信仰に少し触れてはみたが、キリスト教信仰では、この厳しい社会では何の役にも立たないようだから辞めますと言って、何の不思議もないかのように教会を離れていかれます。大変残念に思いますが、しかし、力を求めてキリスト教信仰に触れようとするときには、そういう結果になってしまうことは、止むを得ないのかもしれません。
力を欲して教会に来る、それはその人にとってとても切実なことなのだと思います。けれども、もしそのまま突っ走ってしまったらどうなるでしょうか。信仰の事柄を、「神に仕える」ことよりも先に、力を得るための手段だと思って信仰生活にいそしむならば、そういう人は、結果として、力ある強い者だけが大手をふって歩けるような社会を作る、そのことに協力することになります。「自分には力がないから、教会で信仰によって力を与えられて、この世に潰されないようになりたい」そう思うということは、この社会は強い者だけがもてはやされ生き残っていく場所、弱い者は顧みられなくなる場所であることを無批判に受け入れ流されていることになるのです。
ところで、聖書における「神」とは、いかなるお方でしょうか。聖書でしばしば聞きますように、神は強い者も弱い者も、大きい者も小さい者も偏り見られないお方です。私たちは皆、それぞれに個性を持っていて、強い者も弱い者もいる、大きい者も小さい者もいる、気短な者も気長な者もいるわけですが、神はどれが良くてどれが悪いかとはおっしゃらない。神は私たち一人一人に命を与えてくださっているお方として、その者の人生を持ち運び、その中で生きるようにしてくださり、私たちが神に与えられた人生を生きることを通して、命を与えてくださる神の栄光を讃美するようにと導いてくださるのです。
神がすべてのものを顧みようとなさっていることを知らなければなりません。自分の力を欲する人は、力ある者が君臨する社会を求めることになりますから、力を求めて神に近づこうとする人は、神の御心とずれていってしまうのです。神は、ご自身の民の中からは、そういうあり方を排除なさいます。従って、力を求めて教会に来る場合には、ある程度以上には長続きできなくなるのです。真実の神に対して膝を屈めるところから逸れて、力の偶像に膝を屈め、力の偶像を仰ぎ見て、それを聖書の神だと思い違いしてしまうのです。
このように、神は、私たちが力を求めるということとは違う所におられるお方ですが、では、「主の祈り」の最後に「力はあなたのものです」と私たちが祈る、その場合の「力」とは、どのような力なのでしょうか。普段は、あまりこのことを考えずに祈っているかもしれません。「神の力」、それは「神がこの世界を成り立たせてくださっている力である」と、漠然と思っているかもしれません。その場合には、この自然界にある様々な力を思うかもしれません。確かに神は、この自然界に様々な力を与えてくださっています。空気、水、太陽の力、地熱、もっと言うならば原子核の中にも力があります。そういう一切の力がすべて神のものである、そう祈っているのでしょうか。そう考えることもあるかもしれません。
今申しました自然界に備わっている力の特徴というのは、力が集まれば集まるほど強くなっていくということです。ですから、力は強さに繋がるのです。そして私たちは、歴史のある時点まで、力が集まって強くなることは良いことだとして喜んできたと思います。今日でも、際限のない力、集まって力が強くなることを良いことだと思っている人はいることでしょう。しかし、私たちの時代はとても悩ましいところに立っていると思います。もはや力が強くなれば良いと手放しで喜んでいられない時代がやってきています。津波によって原子力発電所が壊れ、放射能の力が暴走して、私たちはもはや止めることができずに途方に暮れています。今日、力は、集まれば集まるほど、強くなればなるほど手放しで歓迎できるというものではなくて、むしろ、力の不気味さ、力の脅威を感じる、そういう時代です。
では、どうしてこんな時代になってしまったのだろうかと考えます。元々は、力が集まってきて、力によっていろいろできることは喜びだったはずです。しかし今日では、喜びよりも不安や恐れが先に立ってしまう。力はどこかで変わってしまったのでしょうか。そんなことはない筈です。力は昔から変わりません。力は変わりませんが、力がどんどん集まっていった結果、それによって、力を用いていく人間の欠陥が露わになってしまっているのです。
手放しで力を喜ぶことができたのは、その力が私たちの制御範囲にあったからです。しかし今では、至る所で人間の手に余る力が見られるようになりました。原子力、あるいは情報化社会の様々なシステムもそうだと思います。自分の頭の中で設計図を描いて操作できていた、そういう時代には、その人の間違いは思い返しながら一つ一つ直すという方法で対処できました。しかし今日では、多くの人が様々な技術を持ち寄って作ったシステムは複雑になりましたから、一人の人がすべてを把握することはできません。ですからトラブルが起こると、皆、一体何がどこで起こっているのか、俄かに分からないのです。
人間が誤りを起こす、しかも、当事者さえも誤りに気づかないということもある中で、力の暴走を止められなくなってしまう。力自体が変わったのではなく、どんなに優れた力であっても、それを用いる人間の側に欠陥があって、まともでないならば、そこで使われる力は却って恐るべきものになってしまうということだろうと思います。
先ほど、自然界の力のことを少し話しました。「力が神のものである」と祈る場合の「力」は、教会が健全であった時代には、それが自然界の力のことだとは全く思われていませんでした。「力はあなたのものです」と、教会の中でキリスト者一人一人が祈るとき、そこで考えられている力とは、自然界の力ではなく、もっぱら「十字架から出て来る力」のことでした。
私たちが問題なのは、自分自身が欠陥を持つようになっているということです。譬えて言うならば、ワインを仕込むとき、ワインを入れる樽に木を腐らせるばい菌がついてしまうことがあり、そうなると樽を腐らせ、そればかりか、仕込まれたワインも台無しになります。どんなに良い品種のワインであっても、樽が腐ればワインも腐ってしまうのです。それに似て、この社会にある力がどんなに優れていても、人間が駄目になっていってしまう時には、その力も駄目にしてしまいます。
しかし「十字架から出て来る力」は、そういう私たちの駄目になっていくところを癒し、清める、そういう力があるのです。「主の祈り」の最後に教会が熱心に祈ってきたこと、「力はあなたのものです」という祈りは、この地上を成り立たせる諸々の力が神の力だと言っているのではなくて、「私たちは罪のために侵食され腐食してしまう罪を持っています。その罪から清める力が神(あなた)にはある。そしてこのわたしは、神に清められた者として生きることを許されて感謝です」、そういう讃美の言葉なのです。
神は、清めの力を主イエス・キリストを通して私たちに与えてくださっています。私たちは例外なく、神を忘れ神抜きで生きようとする、そういう傾きを持っています。教会に何十年も通っているから、もう近頃では大丈夫かといえば、そうではありません。何十年教会に通っていたとしても、私たちは気づくと神を忘れ、自分の力で人生を生きようとしています。それこそが、私たちを蝕んでいる病原菌です。
神抜きで生きるとき、私たちはどうなるでしょうか。神が見えないのですから、自分が神のようになってしまうのです。自分で何でもできるように思うし、自分で何でもしなければならないと思い始めます。そういう、のっぴきならない状況にある私たちに、神は、主イエス・キリストというお方を送ってくださいました。主によって、私たちを清めよう清めようとなさってくださるのです。御言葉を与えてくださって、「あなたは、自分が主人なのではない。あの十字架の主イエス・キリストこそがあなたの主人なのだよ」と、繰り返し繰り返し語りかけ、教えてくださるのです。
主イエスは、私たちの罪を清めるために、私たちにところにまで来てくださいました。そう思ってみますと、主イエスは福音書の中で、徴税人とか罪人とか遊女とか、あるいは重い病で死に瀕しているような人とか、ままならなさを抱えて生きている人たちを好んで訪ねておられます。そして、そういう人たちは、主イエスとの出会いによって新しく生きる力を与えられるのです。そこで与えられている力とは何か。主イエスご自身がよくおっしゃいます。「あなたの信仰があなたを救った」と。まさに、罪から贖う力を、主イエスは、病んでいる人、弱い人、罪人と呼ばれる人、ままならない状況の中であがいている人、そういう人たちに与えてくださるのです。
主イエスに出会って私たちが与えられる力というは、この世の慰めとか、そういうものとは違います。罪から解き放ってくださる力です。もう一度、罪清められた者として生きてよいのだと、主はおっしゃってくださるのです。「あなたの人生はあなたが一人で生きるのでもないし、昨日までの自分を引きずって生きるのでもない。清められた者として、これからの人生を考えてよい。わたしを信じて生きてよいのだ」とおっしゃってくださるのです。
そうであるからこそ、パウロという人は、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と語ります。あるいは、コリント教会に宛てた手紙でもパウロは語っています。コリントの信徒への手紙二12章9節「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
「自分の弱さを誇る」、それは「自分の弱さ、ままならなさを認めて、そしてそんなどうしようもない私を清めて生かしてくださる神を讃美する」ということです。その讃美の言葉が「力はあなたのものです」という言葉なのです。そう考えますと、私たちは「主の祈り」を祈るたびに、何と晴れやかな言葉を祈らせていただいているかと思います。「力はあなたのものです」。私たちは自分が強くならなければならないのではなくて、弱いときにこそ、私たちのうちに強く働く力があるのだ、そのことを教えられているのです。
あらゆる弱さの中にあって、私たちは、十字架から出て来る栄えある力に装われ、守られて、生活しているのです。
日常生活を思えば、誰であっても疲れ果てて途方に暮れてしまうような深刻な問題にぶつかるということがあるのだろうと思います。自分自身についても情けなく不甲斐なさを感じ、自分に嫌気がさしてしまうこともあるでしょう。あるいは、一晩中眠れないというような悩みの時を過ごし、朝が来てもまだ悩んでいるということがあるかもしれません。確かに私たちは、自分に目を向けてみれば、一人一人、いろいろな問題を抱えています。けれども、十字架の上で苦難を忍びながら死を経験され、そして死から甦らされている、そういう方がおられるということに目を留めるならば、私たちは、今自分が悩んでいることで見通しを持てず駄目だと思うとしても、どんなに疲れて途方に暮れてしまうとしても、そのことによって自分が駄目になって終わってしまうのではないということを聞かされるのではないでしょうか。
私たちがもう駄目だと絶望して歩むその歩みを、実は、主イエスが先立って十字架の上で経験してくださっているのです。主イエスは終わりまで神に信頼して歩まれました。しかし、信頼して歩んだから十字架から降りたというのではありません。十字架の死の出来事は確かに起こります。けれどもそれで終わっているのではない。主は甦られました。「甦りの朝が与えられ、そこから更に持ち運ばれて、永遠の命を生きる者とされるのだ」ということを、主イエスの復活は私たちに教えています。
私たちがそれぞれに抱えている問題はなかなか去ってくれません。本当に辛くて、こんな人生から離れたいと思っても、私たちの人生はどこまでも私たちを追いかけてきます。肉体的にも精神的にもすっかり疲れ果て、衰えきって、もう自分は役立たずだと思ってしまう、自分の人生は砂を噛むようなものだと思ってしまうことがあるかもしれません。けれども、そういう弱さの中でこそ、本当の主イエス・キリストの力が私たちに訪れ、私たちをそこから先へと持ち運んでいってくださるのです。
私たちの人生は、願うようにならないことも起こるものです。そういう時には、絶望というものが目に見えるかのように思えることでしょう。けれども、まさにそういうところで、そういう時に、一人のお方が私たちの手に触れてくださっている。十字架の上から、まさしくすっかり破壊し尽くされたと思える、そのところから手を伸ばし、私たちに触れてくださるのです。「あなたは今大変な目に遭っているけれども、しかし、あなたは一人ではない。あなたと同じように、わたしがここに居る」、そして「わたしを御覧なさい。死で終わりではないのだ。破壊されても、それが最後のことではなのだ」と、主イエスがおっしゃってくださっているのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語りかけてくださるお方、主イエス・キリストが、キリスト者には与えられているのです。
もはや自分では何もできない、身動きできない、名案も浮かばない、しかしそれでも終わりではありません。私たちはまさに「弱さの中でこそ働く力」に持ち運ばれて、今日までの日々を歩まされ、今日のこの時を迎えています。そういう「力」、「それは、神よ、あなたのものです」と祈ることを知らされている幸いを、深く心に刻みたいと思うのです。
ともすれば、私たちは自分の力を欲します。自分に力を与えてくださいと願いながら、そう願う力への渇望によってがんじがらめになってしまいます。力を望みながら、力のない自分の姿に目を落としてがっかりし、人生を虚しいものと思ってしまいます。しかし、そうではありません。私たちは、弱かろうが小さかろうが、どんなに不束であろうがあやふやであろうが、なお、そのような私たちを清め新しい命へと導いてくださる、そういう力に支えられて今日を生かされているのだということを覚えたいと思います。
どんなに衰え、弱く、貧しくなっても、あるいは死の床に横たわる時にも、それでも「あなたを顧みる。あなたに将来を与える」と約束してくださるお方が、私たちと共におられます。「永遠の命を約束する」と言ってくださるお方が、今日も私たちの前に立ち、私たちの人生を持ち運んでくださることを信じて、ここから歩む者とされたいと願います。
この方から与えられている人生のひと時ひと時を、感謝をもって、大事に歩んで行きたいと願うのです。 |