聖書のみことば
2015年2月
  2月1日 2月8日 2月15日 2月22日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月8日主日礼拝音声

 永遠の命を生きる
2015年2月第2主日礼拝 2015年2月8日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)
聖書/ダニエル書 第12章1〜13節、ヨハネによる福音書 第11章17〜27節

ダニエル書12章<1節>その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。<2節>多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。<3節>目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。<4節>ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」<5節>わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。<6節>その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた。<7節>すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」<8節>こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」<9節>彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。<10節>多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。<11節>日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。<12節>待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。<13節>終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」

ヨハネによる福音書11章<17節>さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。<18節>ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。<19節>マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。<20節>マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。<21節>マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。<22節>しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」<23節>イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、<24節>マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。<25節>イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。<26節>生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」<27節>マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 ヨハネによる福音書11章17〜27節を読んでいただきました。この箇所は1節から始まっており、主イエスが「永遠の命」について語ってくださっているところです。ラザロの復活の出来事から、「永遠の命」について聴きたいと思います。

 この前の17節〜19節には「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」と記されております。エルサレムから15スタディオン、約3キロほど離れたベタニアに、マルタとマリアの姉妹、その兄弟のラザロが住んでおりました。ルカによる福音書10章では、主イエスを迎えるマルタとマリアの性格の違いが語られておりますが、しかし二人とも、主イエスを信頼し慕っていたのであり、その兄弟ラザロも同じく主を慕う人だったと思われます。そのラザロは死んで、墓に葬られている。人々はマルタとマリアを慰めに来ているという場面です。
 ここには、ラザロの死、主イエスを慕う人の死が語られております。ですからこのことは、キリスト者である私どもも自分のこととして聴くことができると思います。

 3節には「あなたの愛しておられる者が」、5節には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と、「愛している者」ということが強調されております。この福音書の背景にあるヨハネの教会では、皆が互いに互いを「愛する者」と呼んだことがわかります。
 このことは、今の私どもにとっても、教会の交わりにおいて互いに愛する者と呼び合うことが求められていると思います。そして、ラザロの死は、特別な一つの家庭に起こったこと、個人的なことなのではなく、教会のこととして読み取ることができます。ヨハネはここで、教会の出来事としてラザロの死を語っているのです。ラザロの死、復活の出来事は、個人的なことではなく教会に起こったことである、このことを受け止めつつ聴きたいと思います。

 3節以降を読みますと、マルタとマリアが主イエスに、ラザロが重い病に罹っていることを伝えたとき、主はラザロのところへすぐには行かれませんでした。二日はなお同じ所におられ、ラザロのところに行かれたのは4日も経ってからでした。愛する者の死が迫っているのに、なぜ主はすぐに行かれなかったのでしょうか。こういう主の姿を見ますと、「愛する」とは言っても主は冷たい方、億劫だったのかなどと考えてしまいます。私どもの思いからすれば、主イエスならすぐに行ってくださると思うのです。
 けれども、主イエスのご計画の中にあっては、主は最も相応しいときに相応しいことをなさるお方です。主イエスは、私どもの思いを超えて語り行ってくださる、まさしく神なるお方なのです。では、その主のご計画とはどのようなものでしょうか。

 主イエスと共にいた弟子たちは、この成り行きを見て、ラザロはもう死んだだろうと想像していたことでしょう。11節で主イエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われたことに対して、弟子たちは12節「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。13節〜15節「イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう』」と記されております。
 弟子たちは、主がただ「眠り」について話しておられると思っていますが、しかし、主イエスは「眠り」という言葉で「死」を表しておられます。そして「あなたがたが信じるようになるために、ラザロを起こしに行く」と言われるのです。
 ここにははっきりと、「死」が「眠り」だと語られております。主イエスにつながる者が「死において眠る」と語られます。主にあって眠り、やがて主が私どもをその眠りから起こしてくださる。救いを待ち望みつつ、地上の生活を終えて眠りにつく。主にあって眠り主にあって甦えらされる、その日を待ち望みつつ過ごさせていただいているということを、この主の言葉から教えられております。

 さて、主イエスがベタニアに来られました。20節「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」と記されております。ここにも二人の性格の違いが表れております。マルタは迎えに行く、マリアは家の中で座っている。マルタはてきぱきと行動する。マリアが座っていたのは、当時の喪に服する姿であるとも言われます。いずれにせよ、動く人と静かな人と、対照的です。けれども、今日のこの箇所では同じ言葉を言っていることは印象的です。21節と32節を見ますと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、二人は同じ言葉を言っております。
 マルタとマリア、性格は違いますが、二人の主に対する信仰は同じことが分かります。その信仰とは、21節22節に記されていますが、「主イエスなら、どんなことでもおできになる」「主が願うことなら、神が必ず適えてくださる」と、願うことは必ず、主が神に取り次いでくださると、二人は信じているのです。

 そのようなマルタに主イエスは、23節「あなたの兄弟は復活する」と言われました。するとマルタはどう思ったでしょうか。24節「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。マルタは、「死を迎えた人が神によって復活させられるということは、わたしも知ってますよ。ラザロは死にましたが、終わりの日に復活するのですよね。それは知っています。イエスさまは知っていることを教えてくださったのですね」と答えました。
 今日読みましたダニエル書12章2節には、終わりの日の復活について「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と記されております。旧約の時代の人々は復活について、このような信仰を持っていました。主イエスの時代にも、ユダヤ人の中でも特にファリサイ派と言われる人々は復活信仰を持っていましたから、マルタとマリアも同様な信仰を受け継いでいました。ですから24節でマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。
 更に、マルタは27節では「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、主イエスへの最高の信仰告白を告白しております。

 けれども、25節26節で主イエスはマルタに対して、マルタの思いと少しずれた答えをなさっております。主が「ラザロは復活する」と言われたことに対して、マルタは「それは今のことではなく、終わりの日のことですよね」と答えているのですが、しかし主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われました。
 私どもも、マルタと同様に、先に地上の生を終えた人々は終わりの日に甦えらされると聖書から教えられております。そういう意味で、マルタと同じ信仰です。けれども、25節26節の主の言葉「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉から、私どもは改めて、復活には二つの面があることを確認させられます。
 一つは、マルタとマリアが信じるように、終わりの日の歴史の完成の日の復活、死者が甦らされ、その次に生きている者も復活の体に変えられるという信仰です。それが復活の一つの面です。そのことは、テサロニケの信徒への手紙一にも記されております。4章 14節「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」、また16節17節「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。
 二つ目の復活について、ヨハネによる福音書5章24節に語られております。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と語られております。
 この二つ目の復活は、今既に主を信じ、洗礼を受けて、新しい命、永遠の命をいただいた人の現在の復活のことです。そして主イエスは、このことをマルタに言っておられるのです。「イエスさま、私たちが死んだら、終わりの日に甦えらされることは知っています、信じています」と言ったマルタに、「そうだよ。でも、今この時、わたしを信じる者は、永遠とつながって、永遠の命を生き始めている。あなたもラザロもそうだよ」と言われるのです。

 25節に戻ってみます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。今ここにいるわたしが復活であり、命である。わたしを信じるなら、あなたは永遠の命を生きる。霊の体を生きる。新しい命を生きる。私どもは洗礼を受けて新しい命を生き始めたときから、永遠の命を生き始めました。洗礼を受け、キリスト者となるということは、主を救い主と信じ、この方によって永遠の命をいただいた、永遠の命を生きる者とされたということです。私どもは死を迎えますが、死の後も、決して滅びることのない命を「今既にここで」頂いています。私どもが今与えられている命は、このような命であることを、感謝をもって受け止めたいと思います。
先ほど使徒信条で告白しましたように、今現在、永遠の命に生かされていること、その命を信じ、更に終わりの日の体の復活も信じる、それが教会の信仰として私どもが受け継ぐものとして示されています。十字架の死を死なれ、復活された主イエス・キリストを信じるか、永遠の命を生きるかどうか、そのことが示されています。

 さて、この後、ラザロはどうなったでしょうか。先の38節〜44節に、死んだラザロの復活の場面が記されております。「わたしを信じる者は死んでも生きる」、その主の言葉の通り、ラザロは復活させられました。
 最初に申しましたように、このラザロの姿は、教会に連なる私ども一人一人の姿を代表しています。ラザロ、そして主を信じる人たちは、永遠の命をいただく者とされたことを、このお話は表しています。教会は、このような信仰が与えられていることを改めて覚えたいと思います。
 復活させられたラザロはどうなったか。主がラザロを復活させたことをきっかけにして、主イエスを殺そうとするユダヤ人の陰謀が広がっていき、遂に主の十字架への道がはっきりとしてきます。ラザロは死んで復活した、その後に、主イエスが十字架の死へと向かわれることが見せられていくのです。
 私どももラザロと同じく、私どもに永遠の命を与えるために十字架の死を遂げてくださった主イエスを思いつつ生きる、そのような道を与えられています。私どもはいついかなる時にも、主の十字架を思いつつ生きる者とされました。
 ラザロは、新しくいただいた命が永遠につながる命であることを知っていました。永遠ではない人間が、永遠なる神につながる命を与えられて永遠の命を生き始めました。
 そうであれば、私どもも、永遠とつながる生き方を求められているのではないでしょうか。この世の生活には、目に見える部分、たくさんの思い煩いがあります。けれども、ただそれだけが私どもの見るべきこと、人生のすべてなのではありません。

 私どもは、今、与えられている生物としての命を、ただ死に向かって生きているのではなくて、永遠の世界を知る者とされました。永遠なるお方の御手の中、永遠の命を授けられているのですから、この地上を生きつつも、日々に、永遠を思いつつ歩んでいく、それによって、この世の目に見えるものだけが全てと思っている多くの人々に、永遠を知らない人々に、「そうではない、永遠なる神の霊が既に吹いている」と伝えることになると思います。
 聖霊の風が今も臨んでいることを思い起こし、私どもの生きる世界が神の世界であることを思い起こし、常に永遠の世界とのつながりに生きることができますように、聖書に聴き、祈り、礼拝し、御心を行う、そのようなあり方を求めたいと思います。

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