26節からを少し振り返ります。「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」と言われております。オリーブ山に行く前に賛美を歌ったということを覚えたいのです。この賛美は「これはわたしの体、これはわたしの契約の血である」と言って主イエスがパンとぶどう酒を分け与えてくださったことによって、主の恵みをいただいたこと、その喜びを表す賛美でした。喜びの歌を歌ってオリーブ山に出かけたということなのです。
「主の晩餐」それは教会が「聖餐」を行うということですが、教会が聖餐に与るときに賛美の歌を歌うということに、これは反映しています。初代教会は聖餐に与るときに賛美の歌を歌った、そのことを覚えてよいのです。神の救いの恵みをいただいたことを語り、救いなる神を賛美する、それが教会だということです。ですから、教会は神を賛美する群れです。教会が讃美歌を歌うことはとても重要なのです。救いの喜びを表す発露としての賛美が歌われていた、それが初代教会の姿だったのです。
他の教会の方が愛宕町教会に来られると、賛美が力強いとよく言われます。そのことで大事なことは、神を讃えていることに喜びがあるということです。それが力強いということに表されているとすれば、それは大事なことです。正確に歌うことや上手下手ではなく、喜びが溢れていること、それが大事なのであり、証しであり神を表すことなのです。
聖餐の恵みに与るときに賛美すること、それは教会としての大切な姿であることを覚えたいと思います。
このように皆で賛美した後、オリーブ山に向かうのです。こういう場合、私どもであれば「今日は聖餐にも与れたし、気分もいいね。良かったね」と言うところですが、主イエスはそうは言われません。 27節「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく』」。賛美して、もう夜ですから、そのまま気持ちよく寝ようというのなら分かりますが、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われる。その言葉につまずいてしまいます。
私どもは、この「つまずく」という言葉にあまり感情の起伏を感じませんが、実はこの言葉は「ある者に対して怒りを覚える」というニュアンスを持つ言葉なのです。そう訳して良い言葉です。あるいは「憤慨して攻撃する」という、そういう言葉として、ギリシャ語では使われております。ですから、この「つまずき」という言葉の中には、主イエスの怒りがあることを知っておかなければなりません。つまり、主イエスは怒りを覚えるほどの強い言葉で「つまずく」と言っておられるのです。
そう聞きますと、主イエスはここで弟子たちのつまずきを、冷静にではなく怒りを帯びて語っておられる。では主は何に怒っておられるのでしょうか。弟子たちがつまずくことに怒っておられるのか、そう問わずにはいられなくなります。けれども、そうではなさそうです。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と、ゼカリヤ書13章7節の言葉を用いて、主は語られます。主が用いたこの言葉はどういうことかと言いますと、「わたし」は「神」であり、「神が羊飼いである主イエスを打たれる」と言っているのです。「羊飼いである主イエスが打たれることによって、羊、すなわち主に導かれている弟子たちは散らされる」ということを言っているのです。主はご自身が十字架で死ななければならないことを知っておられます。そして、神が主を十字架につけられることで罪なる者の救いを成し遂げられることを知っておられる。しかしそれは、弟子たちの知り得ていることではありません。
弟子たちは、十字架に耐えられず皆逃げ去ってしまう、そのことをここでは「羊は散らされる」という言い方で言い表しております。主イエスは、弟子たちが主の十字架に耐えられず逃げ去る、散ってしまうことを予め知って、そのことを嘆いて、怒りをもって「つまずく」と言っておられるのです。
私は、主がつまずく弟子たちに怒っておられるのではないと思います。そうではなく、つまずく弟子たちのことを心痛むがゆえに、怒らざるを得なかったということだと思います。つまずくしかない、つまずく者たちに心痛まずにはいられない。他者のことに心痛むときに、私どもは怒りの感情を伴います。そういう痛みを主は感じているということです。それほどまでに心痛んでくださる、そういう主の豊かな弟子たちへの思いであるということを覚えてよいと思います。
私どもはつまずく者でしかありません。しかし、つまずかざるを得ない者の哀れさを痛む、そういう主の思いを知るならば、そこに私どもの慰めがある、救いがあると言ってよいと思います。
主の怒りは、弟子たちを非難する思いではありません。非難するための怒りではない。つまずくことを非難するのではない。つまずくしかない者に対して心痛めているからこその怒りがここにある。それほどまでに弟子たちのことを思っておられるのです。
弟子たちのつまずきに心痛めてくださる主イエス、このことは私どもにとって大いに慰め深いことです。私どもは、主が心を痛める方であることを覚えてよいのです。それも「私どものために」です。
今、世界で起こっていることを思うとき、私どもは自分が心痛めているように思っていますが、しかし、私どもは同時に誰かを責めています。けれども主イエスは誰かを責めるのではなく、そういう悲惨な現実を、哀れな現実を痛んでおられる。そのように痛んでくださる主によってしか望みがないことを改めて覚えてよいのだろうと思います。
主は、つまずきでしかない弟子たちのために心痛めてくださっております。このことは、有難くも申し訳ないことだと言わなければなりません。それほどまでに、主イエスは弟子たちを思ってくださっている。そして、私どもに対してもそうであられるのです。
主は、主の十字架に耐えられずに逃げ去ってしまうことになる弟子たちに、続けて語ってくださっております。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と。この言葉からも、主が弟子たちを非難しておられるのではないことが分かります。非難する思いがあれば、こんなことを言わないでしょう。「しっかりしなさい」と言われるはずです。しかし「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われます。これは弟子たちにとって慰め深いことです。なぜならば、弟子たちのほとんどは、ガリラヤの出身だからです。
彼らは散らされてどこに行くでしょうか。故郷に帰るでしょう。散らされて故郷に帰る、そこに復活の主イエスが先立って行くと言ってくださっている、これも味わい深い言葉です。主は「わたしは復活するから、またわたしのところに来なさい」と言ったのではない。散らされて故郷に帰ると、そこで主が迎えてくださる。復活の主が、弟子たちに先立って、先頭に立っていてくださることが語られているのです。
主の十字架の死によって弟子たちが散らされて、それで終わりなのではありません。散らされた弟子たちに先立って、復活の主が行ってくださる。弟子たちはそこで「主が先立ってくださる群として再び整えられる、迎え入れられる」ことがここに言われていることです。
マルコによる福音書は、復活の主が先にガリラヤへ行かれ、そこで再び弟子たちと会うというところで終わりますが、それは福音書の最初に戻っているということです。最後に復活の主が再びガリラヤで弟子たちを主の弟子としてくださる。それは、福音書の最初の出来事を、復活の主の出来事として捉え直すことができるということです。終わりがまた最初になる。復活の光を通して、最初からの出来事を見ることができるようにしている。それがこの福音書の特色です。
私どもの人生は、過去の出来事を取り返しのつかないことと思いますが、そうではありません。私どもは復活の主イエスに出会うときに、過ぎ去った出来事を、復活の主イエスの光のもとでもう一度受け止め直し、意味付けることができる。キリスト者とは、そういう者です。主イエスの復活は、私どもの人生のすべてを捉え直し、すべてを意味付け、すべてを完成させることができるものなのだということ、そのことがここで恵みの出来事として語られているのです。
散らされたけれども、もう一度、主の弟子として迎え入れられるということはどういうことかと言いますと、それは、十字架と復活の主によって「主イエスとの交わりが揺るぎない交わりとして与えられる」ということを意味しております。十字架によって散らされ、主との交わりは失われたように思える。しかしそうではなかった。復活の主イエスが臨んでくださることによって「死を超えた永遠の命の交わりに入れられていることを知る者となる」と言ってくださっているのです。散り散りになっている者たちに、「そうではない、わたしは復活の主としてあなたがたに臨む。あなたがたはわたしとの永遠の交わりに入るのだ」と約束してくださっている、それが、主がガリラヤに先立って行くと言ってくださる内容なのです。
主とのこれまで以上の交わり、死を超えた新しい交わり、永遠の交わりが与えられることを約束してくださっているのです。十字架の死によって主との交わりが終わるのではない。そうではなく、復活によって揺るぎない主イエスとの永遠の交わりが与えられるのです。
私どもが主を信じる者であるとはどういうことか。それはまさに「復活の主を信じ、復活の主との交わりを与えられている」ということに他なりません。私どもが洗礼を受けることは、私どもが永遠の主との交わり、神との交わりを与えられていることのしるしなのです。それが主の復活ということです。死をもって終わる交わりではないのです。人と人との交わりは、思いは永遠であっても限られたものです。しかし神との交わりは、復活の主を通しての交わりですから、死を超えた永遠の交わりなのです。
主イエスはこう言い、死に勝利する約束を与えてくださっているわけですが、しかしペトロはどう思ったのか、29節「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったと記されております。私どもはそれほど真剣な者ではありませんから、このペトロの言葉を聞いて「なんとまあ、大言壮語して」と思うかもしれません。けれども、ペトロの性格からしますと、これは真面目に本心で言っているのです。本心でそう思っている、それがペトロのあり方です。ある意味、本心からそう言えるとは、私は素晴らしいと思います。
ペトロはいい加減に言っているのではありません。真面目に真剣にそう思っているのです。けれども残念なことに、自分は大丈夫だと確信を持っている人ほど、つまずくものなのです。そういう人ほど、最も低いところまで落ちなければならないのです。自分が揺るぎないと思っている人ほどつまずきは大きい、人間とはそんなものです。初めからダメだと思っている人はつまずきません。つまずきようがないからです。けれども、わたしは大丈夫、ちゃんとやっていると思う人は必ずつまずきます。真面目な人ほどつまずくと言ってよいと思います。それが悪いということではありません。つまずくことは良いのですが、ここでペトロが本気であればあるほど落ち込むのだということを覚えたいと思います。
ですから、後に、鶏が三度鳴いたときに、ペトロは泣きます。泣いたということは、それだけ心痛んだのです。本気だからこそ泣けて、本気だからこそどん底の思いになったのです。ペトロは本気で言っている、しかしそれが大きな痛手、悲しみとなるのです。確信に満ちているほど、つまずきは大きいのです。
ペトロがその性格ゆえに真面目に真剣に言ったことに対して、主イエスはどう言われたでしょうか。30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。「はっきり」と宣言しておられます。ペトロの確信はつまずきとなる。しかし主の言葉は確かであり、その通りになる。本当の確かさは主イエスにある、主ご自身に、主の言葉にある。なぜならば、主は真実なお方だからです。人に確かさがあるのではありません。神にのみ確かさはあるのです。それゆえに、神に依り頼む者には確かさがある。神に依り頼むことによって確かさを得る、それが信仰者の確かさなのです。
主イエスは、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度」とはっきり言われます。ユダヤでは一日は日没から始まります。鶏が鳴くのは早朝ですから、今日と今夜は同じ日です。ただマルコによる福音書が他の福音書と少し違うのは、「鶏が二度鳴く前に、三度」と記していることです。これには諸説ありますが、ともあれ「夜明けまでに三度、あなたはわたしを否定する」と主は言っておられるのです。
ここで主はおかしなことを言っておられると思いますが、皆さんは気づいたでしょうか。先ほど「つまずく」とは「羊が散らされること」だと言いました。要するに、それは弟子たちが主の十字架に耐えられずに逃げ去るということです。ところがペトロの場合には、つまずきは「主イエスを知らないと否認すること」だと言われているのです。話が少し変わっております。
主イエスはもちろん承知の上でおっしゃっていますが、ペトロには分かっておりません。散らされると先に言われたことの意味も十分理解しないまま、「否認する」と言われたことに対して、ペトロの言葉上の意気込みはすごく、31節「ペトロは力を込めて言い張った」と記されております。「力を込めて」、力んでということですが、それは強い激しい感情の表れです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、「主を知らないと否定することなどない、死んでも」と言っております。しかし実際にはどうだったかといえば、ペトロは「主を知らない」と否認して逃げ去ったのでした。
ここで思い起こしてみましょう。主イエスが初めに弟子たちに約束してくださったことは何だったでしょうか。「復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言ってくださった主の言葉、それは「あなたたちとの交わりは決して失わない、永遠に続く」ということでした。
ところがペトロが言ったことは何だったでしょうか。「イエスを知らない」と言ったのです。「知らないと否認する」ということは「わたしとは関係無い」と言うことです。後のところを見ますと、ペトロは「そんな人は知らない」と言います。「その人のことは知っているけれども関係ない」と言うのではない。「まったく関係ない人だ」と言うのです。
ペトロは、主イエスとの交わりをいただいている者です。主イエスの関係者でありながら、自らの身の危険を感じた時、「主との交わりはない、関係者ではない」と言ってしまうのです。主はペトロを「交わりにある者」として捕らえていてくださるのに、ペトロは主を「関係ない」と言い放ってしまった、それがペトロの否認ということです。
これは、ペトロが主を否定しているように思いますが、実は、ペトロ自身が主の弟子である自らを否定することになるのです。人間とは面白いもので、相手を否定することで自らを否定しているのです。考えてみてください。親子や夫婦間のトラブルで、「あなたなど知らない」と言い放つこともあるでしょう。深い関係にありながら、そういうことがあります。関係があるにも拘らず、関係無いと言うのです。子が親に、夫婦が互いに、しかし相手への否定は自己否定であることを知らなければなりません。そういうことを知らなければ、問題を克服できません。自分を否定して生きることほど辛いことはありません。しかし一番深い関係にある者を否定し自らを否定することを無意識にしている、そして苦しむ、それが人のやり方なのです。
主イエスは言われます。そういう弟子たち、そういうペトロに「先立ってガリラヤへ行き、そこであなたたちの前に立つ」と言ってくださるのです。
一時期、「関係無い」という言葉が流行ったことがありましたが、私どもは「関係無い」というほどに「関係を必要としている者である」ことを覚えながら、この主の言葉を聴かなければなりません。ペトロは主との関係を否定しました。しかし主は、ペトロを無関係な者とはされません。ご自身の交わりの中に覚えていてくださるのです。否定せざるを得ない者を、しかし主は「主との尽きない交わりに入れていてくださる」、それがここに示されている約束なのです。
私どもは知らなければなりません。ペトロが傲慢にも、自らが主との関係を築き、そして関係を守っていると思っていたのなら、本当の意味で主の弟子とはなれませんでした。けれどもペトロは、主を否定するしかない自分であることを知っているからこそ、主がわたしをしっかり捕らえていてくださるということを実感できたのです。だからこそ、ペトロは逆さ十字架につけられることになっても、主イエス・キリストを宣べ伝える者となり得たのです。
このペトロの言葉は噛み締めてよい言葉です。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」、この言葉は後に成就します。まさしく復活の主イエスと出会って、ペトロの言葉は成就するのです。十字架のキリストに出会ってではありません。十字架のキリストに出会って、彼は主を知らないと言って逃げ去るしかありませんでした。しかし復活の主と出会ったときに、彼の言葉は真実となりました。復活の主によって主に捕らえられ、永遠の交わりに入れられていることを心の底から、骨の髄から知って、キリストを宣べ伝えて止まない者になり得たのです。 このことを私どもは覚えておかなければなりません。
私どもの言葉が真実となるのは、主イエス・キリストが私どもを捕らえてくださる時です。私どもの言葉が現実となるのは、そこでキリストが私どもをしっかりと捕らえていてくださるからです。キリストの前に、自分が本当に取るに足らない無力な者であることをしみじみと感じたときに、私どもの真剣な言葉は現実のものとしていただけるのです。それが主イエスの力なのです。
自らの確信によって言い放つ言葉が確かなのではありません。キリストに捕らえられて、恵みに生かされている者の言葉として、私どもの言葉は真実となるのです。そこにキリストが表されます。キリストの恵みが覆い尽くすからです。そのことを知らなければなりません。
31節には「皆の者も同じように言った」と記されております。ペトロの言葉は、ただ一人ペトロの言葉ではありませんでした。弟子たち皆の言葉だった、ということは、それは私どもも同様であると聖書は言っているのです。
今、私どもは心痛む出来事に遭遇しております。それらの出来事は、自らを正しいとする中で起こっていること、自分の義を立てようとする、そういう中で起こっていることです。
自らの罪を知る者、ただ神の憐れみしかないことを知る者、そこにこそ本当の和解が起こり、平和が起こり、そこでこそ互いを受容することができることを覚えなければなりません。
自らの義を立てようとすることは、対立であり、紛争であり、分裂であり、破壊です。そこに救いはありません。
ただ、自らの愚かさ罪深さ、自らの不確かさを知る者のみ、神の憐れみを表し、そこに平和と交わりが生まれるのです。
今、私どもが求めるべきは神の憐れみです。そこでこそ、平和がもたらされることを改めて覚えたいと思います。 |