聖書のみことば
2015年11月
11月1日 11月8日 11月15日 11月22日 11月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月29日主日礼拝音声

 神様の真実に生かされる
11月第5主日礼拝 2015年11月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/フィレモンへの手紙 1〜25節

<1節>キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、<2節>姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。<3節>わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。<4節>わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。<5節>というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。<6節>わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。<7節>兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。<8節>それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、<9節>むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。<10節>監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。<11節>彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。<12節>わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。<13節>本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、<14節>あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。<15節>恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。<16節>その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。<17節>だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。<18節>彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。<19節>わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。<20節>そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。<21節>あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。<22節>ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。<23節>キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。<24節>わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。<25節>主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 ただ今、フィレモンへの手紙の全体をご一緒にお聞きしました。
 1〜3節には「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とあります。パウロの書いた他の手紙と同じように、このフィレモンへの手紙も、初めのところではまず差出人が名乗り、受け取る人の名を呼んで、その上に祝福の祈りがささげられています。
 まず手紙の受取人ですが、「わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」と名が連ねられています。フィレモンへ手紙という題からは、いかにも個人宛ての手紙であるような印象を受けるのですが、この宛て先の名前を見ていますと、これは単なる個人宛の手紙ではないことが分かります。この手紙は、当時、フィレモンの家で礼拝を捧げていた「家の教会の群れ」に宛てられているのです。

 「家の教会」という言葉について、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、少し説明しますと、教会の歴史の一番初め、初代教会の頃は、教会と言っても礼拝堂を持っていたわけではなく、教会員が集まることのできた少し大きな広間を持つキリスト者が、自分の家を開放して、そこに兄弟姉妹を招いて礼拝を捧げていました。それが「家の教会」です。例えば、先週まで聞いていたフィリピの信徒への手紙のフィリピ教会は、家の教会であったことが知られています。紫布を扱うリディアという女商人が家を開放していました。紫布は当時大変高価なもので、それを扱うリディアは商売相手のお金持ちを度々家に招いて商談やパーティをしていたので、大きな広間を持っていました。その広間をリディアが教会のために開放して礼拝をしていたのです。それがフィリピ教会の成り立ちの最初でした。また、教会の歴史の一番最初の教会は、ペンテコステの日にエルサレムで聖霊降臨の出来事が起こってできたのですが、そのペンテコステの出来事が起こった場所も家の教会でした。それは、マルコという弟子が暮らしていた家の2階の広間だと言われています。そこに主イエスの弟子たちが集まって礼拝をしていた時に聖霊が降り、教会ができました。
 初期の教会はキリスト者の数も少なく、自前で礼拝堂を建てられるような経済力をまだ持っていませんでしたし、また、初期にはユダヤ人から迫害を受け、その後にはローマ帝国から弾圧されるということがありましたから、そのような状況下で礼拝堂を建てて集まっていれば捕らわれてしまいます。ですから、目立たないように自分たちだけで集会をしていました。今日のように教会堂ができるのは、ローマ帝国にキリスト教が公認された後だと言われています。ですから、最初の300年くらいは家の教会で礼拝していたのです。
 フィレモンの家も、家の教会に家を提供していた、そういう一軒だったようです。宛て先を見ますと、フィレモンに続いて「姉妹アフィア」という女性の名前が出てきますが、この女性は恐らくフィレモンの妻だったのだろうと言われています。ですから、フィレモンとアフィアが夫婦で家を提供しているのです。
 そして3番目に「戦友アルキポ」と出てきます。戦友とはパウロの同労者ということですから、福音を語っていた人だと思います。礼拝の中で御言葉を読んで説き明かしを行っていた、牧師のような働きをしていた人がアルキポです。そして、その他に家の教会に集まっている「教会の人たちへ」という宛名になっているわけです。

 このように手紙の宛て先を確認しながら読んでいきますと、これはもうまるっきり「教会」に宛てて書かれた手紙だと言えると思います。しかし教会に宛てて書かれているのに、どうしてフィレモンへの手紙と呼ばれるのか不思議に思いますが、それには理由があるのです。それは、この手紙の用件に関わっているのです。その主要な用件とは、奴隷だったオネシモという人が逃亡し、ローマで牢屋にいたパウロと知り合い、過去の過ちを悔い改めて洗礼を受けキリスト者となるのですが、オネシモがもともとフィレモンの奴隷であることをパウロが知り、オネシモをフィレモンのもとに送り返すに当たって、フィレモンに対しオネシモを寛大に迎えて欲しいと願うというものでした。そういう内容から、この手紙はフィレモン宛てだと言われるのです。
 パウロの手紙の多くは論争的な手紙です。主イエス・キリストの十字架と復活の信仰を歪めたり背かせようとする勢力が教会の中に入り込んでくることを警戒して、パウロはいつも、「信仰に固く立つこと」を記した手紙を各地の教会に書き送っています。論争的な激しい口調の手紙が多いのですが、そういう手紙に混じって、このフィレモンへの手紙のように愛情に満ちた細やかな一通があるのです。しかもこの手紙は、大変個人的な配慮のための手紙なのですが、現実の困難な事情の下で、初代教会のキリスト者たちがどのようにその困難さに向き合って受け止めようとしていたのかを知る実例のような手紙です。まことのキリスト者というものが、この世の困難な現実の中でどのように行動するものなのかを、この手紙は私たちに教えてくれます。
 このような前置きを語った上で、この手紙を書くに至った経緯というものを少しずつ読んでいきたいと思います。

 家の教会の主人であるフィレモンという人がどういう人であったかということは、あまり詳しくは分かりません。しかし、このフィレモンの家が集会のために提供されていることや、オネシモなどの奴隷を抱えていたことなどから、フィレモンが裕福な人だったということは想像がつきます。そのフィレモンの奴隷であるオネシモが、理由はわかりませんが、逃げ出して、大都会のローマに姿をくらまそうとします。ところがとても不思議なことですが、そのローマで牢屋にいるパウロのもとを訪れるようになり、パウロと知り合って、パウロから主イエス・キリストの出来事を知らされて信仰を持つようになるのです。オネシモが奴隷だった時、家でパウロの名前を聞かされて自分からパウロを訪ねたのか、たまたま偶然出会ったのかは分かりませんが、何れにしても、オネシモはキリスト者へと変えられました。
 パウロは10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」と言っています。オネシモはただ洗礼を受けたというだけではなく、大変麗しい関係をパウロと持つようになったのです。オネシモはパウロのことを実の父親のように大事に思い、そしてパウロもまた、オネシモのことを心にかける、そういう間柄になったのです。ところがそうなってみると、オネシモがフィレモンの家の奴隷だったことが分かり、それでパウロはオネシモをフィレモンのもとに送り返そうとします。その際に、一通の手紙をオネシモに持たせる、それがこのフィレモンへの手紙です。
 内容から言いますと「どうかオネシモの身柄を過酷に扱わず、寛大に保護してほしい」、そういう依頼状です。そしてこの文面を読みますと、本当に細やかな愛情に満ちていることで昔から有名です。例えば、12〜14節「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません」とあります。パウロは、オネシモがフィレモンの奴隷であることを弁えて、尊重しています。オネシモがキリスト者になったからと言って、この世の社会的な立場や法律の定め、義務が変わるわけではありません。オネシモがフィレモンの奴隷であることは確かですので、法律に従ってフィレモンのもとに送り返そうとするのですが、この間にフィレモンが被った損害については、オネシモに代わってパウロが償うということも書かれています。

 パウロという人は、フィレモンからすると大変尊敬していた使徒の一人です。ですからパウロは、かなり無理なお願いであっても、わがままなお願いを無理に通すこともできたはずです。パウロ自身、8節で「あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが」と言っていますが、しかし敢えてそういう特権を用いずに、フィレモンにお願いをするという形でこの手紙を書いています。そして、実は驚くべきことに、パウロはそのお願いのために、この手紙に限っては、わざわざ「使徒」という肩書きを外しています。差出人としては「キリスト・イエスの囚人パウロ」と名乗っています。「キリスト・イエスの囚人」とパウロが名乗るのはこの手紙だけですので、とても珍しいことだと注解書には書かれています。これは「使徒」であると名乗らないためです。「使徒パウロから」と名乗りますと、どうしてもフィレモンに対して上に立ってしまうような調子が生まれてしまうからです。使徒からの手紙だと、同じように頼んだとしても、フィレモンが自発的にそれを喜んで引き受けるということではなく、使徒から言われたので渋々ながらも引き受けなければいけないという空気が生まれてしまいますから、そうならないようにパウロは、使徒という肩書きを外しています。そして、パウロは自分の希望を命令とか指示とかではなく、あくまでも願い事として語っています。その願いとは、フィレモンもとからに逃げ出した奴隷のオネシモを今は主にある兄弟として受け入れてほしいという希望です。パウロ自身がフィレモンのもとを訪れる時のように、オネシモのことを扱ってほしいと言うのです。
 15〜17節に「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」と語り、パウロはオネシモを自分の代理だと思って迎えてほしいという希望を述べるのです。

 その際にパウロは、オネシモのことを指し示しながら、少しユーモアを交えて語っています。このオネシモは、名前の通りに、実に「役に立つ者」になったのだと言っています。オネシモという名前は、役に立つ・有用だという意味です。その名前をもじって、11節「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と、オネシモが正真正銘のオネシモになったのだと言っています。
 オネシモとフィレモンの関係はどのようなものだったのかと思いますけれども、オネシモは逃げ出したくらいですから、元々の関係は良かったとは思えません。とげとげしいような関係、つまり主人であるフィレモンに心を開かず、仕事を命じられてもふて腐れた態度で少しも仕事をしない、役に立たない奴隷だったかもしれません。そうであれば、フィレモンはオネシモに辛く当たりますから、そこに居られずに逃げ出したのです。そのように役に立たない奴隷だったオネシモが、パウロと出会って福音の恵みに生きる者となった、そういう生きる姿勢が変わった時に、オネシモはこれまでの自分の歩みを振り返って悔い改め、もう一度新しい者として生きてみようとして、主人であるフィレモンのもとに自分から帰り、許されるならばもう一度フィレモンに心から仕えようという思いを与えられている、ですから「今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と、パウロはオネシモを紹介します。
 オネシモが逃げ出していた間、もちろんフィレモンはオネシモ無しで生活しなければなりませんでした。しかし今や、オネシモが全く新しい形で、しかもいつまでもフィレモンのもとにいるようになることを、15節に「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」と語り、つまりもはや奴隷としてではなく、愛する兄弟としてあなたと共にいるようになるために、そのためにオネシモはあなたから引き離されていたのだと言っています。フィレモンのもとに帰っていくオネシモは、もはや昔のままのオネシモではなく、悔い改めて生まれ変わったオネシモとして帰っていくのだとパウロは言っています。発見されてしまって、いやいや連れ戻されていくのではない。パウロの手紙を携えて、オネシモは自分からフィレモンのもとに帰って行くのです。もう一度、フィレモンと共に生きる生活へと帰って行こうとしている、それが実は、「あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くため」の出来事だったのだと、パウロは語ります。
 また、オネシモが逃亡して迷惑をかけた分は、パウロ自身が負債を負うことが約束されています。しかもそれは、パウロが自署して約束しています。18〜19節「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」。負債は自分が負うこと、またその際に、フィレモンがパウロに負うている負債については不問とするとまで言っています。

 パウロがこれほどまでに配慮しているのは、これは過去にオネシモとフィレモンとの間にわだかまりがあったことをよく承知しているからです。しかもそう願うだけではなく、この手紙は、フィレモンが主イエス・キリストに対して、またすべての聖なる者たちに対して深い信頼と愛とを抱いていることを喜び、同じ信仰を与えられている聖なる者たちがフィレモンによって慰められ、元気を与えられているのだという感謝の言葉を語り、そして、この手紙を読んだならフィレモンは、きっとパウロの期待以上のことさえしてくれるに違いないと、フィレモンがオネシモを親切に迎え入れようとすることのために背中を押すような調子で書かれています。
 この手紙には、フィレモンとオネシモの間の過去の不幸なわだかまりということを承知しながら、しかしその不幸な過去を、今からの真実な愛の交わりによって上書きし、それを乗り越えようとする、そういうパウロの細やかな配慮とはっきりとした姿勢が示されているのです。この手紙は僅か1章しかありませんけれども、しかし、この手紙を通して私たちは、キリスト者の持つべき愛と思慮深さというものを教えられると思います。

 それにしても、この小さい手紙が私たちにとって非常に大事であるということの理由は、この世の具体的な関係の中で難しさを抱えて生きるキリスト者がどう生きていったら良いのか、そのことを指し示す実例になっているからです。
 私たちの時代にはもちろん奴隷はありませんから、奴隷のことで苦労する主人も僕もありませんが、しかし私たちも、様々なしがらみの中で信仰生活を送らなければならないわけで、具体的に問題に直面して悩むこともあると思います。そういう時に、この手紙から教えられるのです。
 私たちは信仰者としてこの世にあってどう生きるのか。そういうことについて、はっきり語っている聖書箇所は、コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙です。この2つの手紙に共通して語られていることは、「キリスト者はこの世にあってキリストに相応しく生活するのだ」ということです。
 コロサイの信徒への手紙1章18節には「あなたたちは、キリストの体である。御子主イエス・キリストは、その体である教会の頭である」と教えられています。体の枝、肢体というのは、それぞれがバラバラに勝手に動くのではありません。私たちの肉体そうですが、頭の、脳の命令を離れて体が勝手にバラバラな動きを始めてしまったら、私たちはたちまち生活できなくなります。そのように、教会の頭である主イエス・キリストの御言葉に従って生きるべきことが教えられています。更に読み進めますと、3章22〜23節には、奴隷に対しての言葉が出てきます。「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」と言われています。奴隷たちに向かって、上辺だけで主人に仕えるのではなく、真心を持って主人に仕える思いを持って、今与えられている生活に仕えなさいと教えています。そして実は、今日読んでいるフィレモンへの手紙は、まさにここに教えられているキリスト者の生活の実例なのです。

 もう一度、今日の箇所について整理して考えたいと思います。フィレモンへの手紙に示されている「キリスト者がキリストに相応しくある」とは、どういうことなのでしょうか。
 第一には、キリスト者一人一人が、この世にあってはその生きている社会的な秩序の下に位置付けられているということです。私たちは主イエス・キリストによって自由にされたのだから、もはや社会制度からも自由で、自分が主人のように振舞って良いとは言わないのです。オネシモは主イエスを信じる信仰によって本当に自由な者とされているけれども、しかしオネシモは、社会の中では奴隷としての生活を生きている、その生活に仕えるのだと言われています。ですから、このようなパウロの姿勢によって、社会変革を求める人たちからは、パウロは反動主義者だとよく言われます。しかしパウロは、当時の社会秩序に対して敢えて挑戦を試みたり、それを変えようということはしません。表に示されている秩序は変わらないようであっても、しかし、ひとたび、奴隷が主イエス・キリストにあって兄弟姉妹となる、その場合には、そこにある現実の生活は様変わりする、それが第二のことです。つまり、社会的な関係とか法律的な関係はこれまで通りですが、しかし実際には、そこにあったそれまでのとげとげしさとか厳しさとかは次第に消えていって、お互いが愛によって本当に人間的な交わりを織りなしていく、そういう生活が生まれてくるのです。
 以前であれば、フィレモンは役に立たない奴隷を殺すこともできる、絶対的な主人でした。オネシモは「ここに居たら殺されるかもしれない。しかし殺されてもこんな主人に仕えているよりはマシだ」と思って逃げ出しました。しかし今では、フィレモンと同じ主イエス・キリストを知った者、主に仕える兄弟となりました。「オネシモを迎え入れてほしい。またオネシモもそれを信じて自ら帰っていくのだ」と、パウロは語っています。
 驚くべきことですが、主人と奴隷が福音によって示された愛によって、結ばれていくのです。奴隷は、社会的身分は奴隷ですが、しかし自分の方から喜んで主人の役に立とうとする、そういう本当に自由な人間として生きていくようになります。そのようにして、初代教会のキリスト者たちは、当時の社会に厳然としてあった奴隷制度とどう向き合うかという難しい問題に立ち向かっていきました。
 前にも言いましたが、初代教会のキリスト者たちの多くが奴隷でした。そして、奴隷たち、そして奴隷を抱えていた主人たちが、共に教会に居たに違いありません。そういう中で、奴隷と主人がどのように共に生きていくのか。実は、そういう新しい人間関係が生まれてくるということが、二千年を経て、今また、私たちが考えるべきことなのだろうと思います。
 私たちはもちろん、奴隷を所有しているわけではありませんし、誰かの奴隷ではありませんが、しかし、様々な社会的な関係の中で、自由にならないこと、人の上に力を及ぼしてしまうということがあります。例えば、会社であれば上司と部下という関係、学校であれば先生と生徒、家庭では夫と妻、親と子、様々な関わりの中で、全く自分と相手は同じではないわけですから、しばしばいろいろな摩擦を生じるのです。しかしその時に、私たちが主イエス・キリストの十字架によって赦しを与えられて今は新しい命に生かされている、そのことを知って、主イエスであればどうお仕えになるのかを考えながら、目の前の相手に仕えていくとすれば、そこでは、普通の間柄では生まれないような新しい関係が生まれてくるのです。
 もちろん、私たちを覆っている社会的な仕組みが絶対に正しいと言えるわけではありません。今の時代は、昔に比べれば社会の仕組みを変えることも比較的容易になっているかもしれませんから、私たちが、これが正しいと思うならば変えることも可能かも知れませんし、そのために努力しても良いでしょう。しかし、はっきりと確認しておかなければなりませんが、私たちが社会の仕組みや制度を変えたところで、それだけで最善になるということは決してありません。社会制度や交わりのあり方がどんなに変わったとしても、問題なのは、そこに生きている人間がいつも自分中心にしか物事を考えられず、相手を虐げてしまう傾向を持っているということです。様々な問題には根っこがあるのです。私たちは、そういう人間のあり方をどのようにして乗り越えていくのかを考えていなければ、ただ制度だけを変えたところで、すべてが変わるわけではないのです。

 私たちは、主イエス・キリストによって新しい者とされている。そしてこの時代に、この社会の中にそれぞれ遣わされています。そしてその中で、キリスト者が果たすべき独特の役割があるのです。社会制度や交わりのあり方がどのようなものであっても、もし人と人とが本当に愛によって交わることを知らないのであれば、人間の事柄は決して解決しません。主イエス・キリストの愛を知らされた者は、主イエスが私たちのこの世界をご覧になってどのように仕えてくださるのだろうか、私たちが問題に直面するときに、主イエスだったらどうお考えになるのだろうか、そのことに「わたしも従う」というやり方で事柄に関わっていく、そういう姿勢が大事なのです。

 パウロは、今日から見れば思いも及ばないような過酷な環境の中で、なお、キリストの愛に励まされながら、新しい関係が生まれるのだということを信じて、そのためにフィレモンとオネシモに対して、信仰に立って生活するようにと勧めています。パウロが勧めるこの勧めを、私たちも聞き取るようでありたいのです。私たちが今抱えている様々な問題や摩擦、それは、実際に相手の顔を見てしまうと、なかなか上手くはいかないと思うこともあるでしょう。しかしだからと言って、私たちは、今のままで当たり前で、これは永続することなのだと諦めてしまうには及ばないのです。主イエス・キリストが十字架にかかり甦ってくださっている、新しい命を私たちに与えてくださっているのですから、そうであるならば、私たちも、今日与えられている生活の中で、すぐには乗り越えられない難しい関係に置かれていることがあるかもしれないとしても、それでもなお、主イエス・キリストがここにも共に居てくださる、このわたしを支え、このわたしを用いて、この状況を新しく好ましいものに変えてくださるのだということを信じて、主イエス・キリストに仕えていくことが、私たちに相応しい生き方だろうと思います。
 キリストに相応しく生活する、その生活に押し出されて行きたいと願うのです。

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