2015年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神様の真実に生かされる | 11月第5主日礼拝 2015年11月29日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/フィレモンへの手紙 1〜25節 |
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<1節>キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、<2節>姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。<3節>わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。<4節>わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。<5節>というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。<6節>わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。<7節>兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。<8節>それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、<9節>むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。<10節>監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。<11節>彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。<12節>わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。<13節>本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、<14節>あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。<15節>恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。<16節>その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。<17節>だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。<18節>彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。<19節>わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。<20節>そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。<21節>あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。<22節>ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。<23節>キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。<24節>わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。<25節>主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。 |
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ただ今、フィレモンへの手紙の全体をご一緒にお聞きしました。 「家の教会」という言葉について、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、少し説明しますと、教会の歴史の一番初め、初代教会の頃は、教会と言っても礼拝堂を持っていたわけではなく、教会員が集まることのできた少し大きな広間を持つキリスト者が、自分の家を開放して、そこに兄弟姉妹を招いて礼拝を捧げていました。それが「家の教会」です。例えば、先週まで聞いていたフィリピの信徒への手紙のフィリピ教会は、家の教会であったことが知られています。紫布を扱うリディアという女商人が家を開放していました。紫布は当時大変高価なもので、それを扱うリディアは商売相手のお金持ちを度々家に招いて商談やパーティをしていたので、大きな広間を持っていました。その広間をリディアが教会のために開放して礼拝をしていたのです。それがフィリピ教会の成り立ちの最初でした。また、教会の歴史の一番最初の教会は、ペンテコステの日にエルサレムで聖霊降臨の出来事が起こってできたのですが、そのペンテコステの出来事が起こった場所も家の教会でした。それは、マルコという弟子が暮らしていた家の2階の広間だと言われています。そこに主イエスの弟子たちが集まって礼拝をしていた時に聖霊が降り、教会ができました。 このように手紙の宛て先を確認しながら読んでいきますと、これはもうまるっきり「教会」に宛てて書かれた手紙だと言えると思います。しかし教会に宛てて書かれているのに、どうしてフィレモンへの手紙と呼ばれるのか不思議に思いますが、それには理由があるのです。それは、この手紙の用件に関わっているのです。その主要な用件とは、奴隷だったオネシモという人が逃亡し、ローマで牢屋にいたパウロと知り合い、過去の過ちを悔い改めて洗礼を受けキリスト者となるのですが、オネシモがもともとフィレモンの奴隷であることをパウロが知り、オネシモをフィレモンのもとに送り返すに当たって、フィレモンに対しオネシモを寛大に迎えて欲しいと願うというものでした。そういう内容から、この手紙はフィレモン宛てだと言われるのです。 家の教会の主人であるフィレモンという人がどういう人であったかということは、あまり詳しくは分かりません。しかし、このフィレモンの家が集会のために提供されていることや、オネシモなどの奴隷を抱えていたことなどから、フィレモンが裕福な人だったということは想像がつきます。そのフィレモンの奴隷であるオネシモが、理由はわかりませんが、逃げ出して、大都会のローマに姿をくらまそうとします。ところがとても不思議なことですが、そのローマで牢屋にいるパウロのもとを訪れるようになり、パウロと知り合って、パウロから主イエス・キリストの出来事を知らされて信仰を持つようになるのです。オネシモが奴隷だった時、家でパウロの名前を聞かされて自分からパウロを訪ねたのか、たまたま偶然出会ったのかは分かりませんが、何れにしても、オネシモはキリスト者へと変えられました。 パウロという人は、フィレモンからすると大変尊敬していた使徒の一人です。ですからパウロは、かなり無理なお願いであっても、わがままなお願いを無理に通すこともできたはずです。パウロ自身、8節で「あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが」と言っていますが、しかし敢えてそういう特権を用いずに、フィレモンにお願いをするという形でこの手紙を書いています。そして、実は驚くべきことに、パウロはそのお願いのために、この手紙に限っては、わざわざ「使徒」という肩書きを外しています。差出人としては「キリスト・イエスの囚人パウロ」と名乗っています。「キリスト・イエスの囚人」とパウロが名乗るのはこの手紙だけですので、とても珍しいことだと注解書には書かれています。これは「使徒」であると名乗らないためです。「使徒パウロから」と名乗りますと、どうしてもフィレモンに対して上に立ってしまうような調子が生まれてしまうからです。使徒からの手紙だと、同じように頼んだとしても、フィレモンが自発的にそれを喜んで引き受けるということではなく、使徒から言われたので渋々ながらも引き受けなければいけないという空気が生まれてしまいますから、そうならないようにパウロは、使徒という肩書きを外しています。そして、パウロは自分の希望を命令とか指示とかではなく、あくまでも願い事として語っています。その願いとは、フィレモンもとからに逃げ出した奴隷のオネシモを今は主にある兄弟として受け入れてほしいという希望です。パウロ自身がフィレモンのもとを訪れる時のように、オネシモのことを扱ってほしいと言うのです。 その際にパウロは、オネシモのことを指し示しながら、少しユーモアを交えて語っています。このオネシモは、名前の通りに、実に「役に立つ者」になったのだと言っています。オネシモという名前は、役に立つ・有用だという意味です。その名前をもじって、11節「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と、オネシモが正真正銘のオネシモになったのだと言っています。 パウロがこれほどまでに配慮しているのは、これは過去にオネシモとフィレモンとの間にわだかまりがあったことをよく承知しているからです。しかもそう願うだけではなく、この手紙は、フィレモンが主イエス・キリストに対して、またすべての聖なる者たちに対して深い信頼と愛とを抱いていることを喜び、同じ信仰を与えられている聖なる者たちがフィレモンによって慰められ、元気を与えられているのだという感謝の言葉を語り、そして、この手紙を読んだならフィレモンは、きっとパウロの期待以上のことさえしてくれるに違いないと、フィレモンがオネシモを親切に迎え入れようとすることのために背中を押すような調子で書かれています。 それにしても、この小さい手紙が私たちにとって非常に大事であるということの理由は、この世の具体的な関係の中で難しさを抱えて生きるキリスト者がどう生きていったら良いのか、そのことを指し示す実例になっているからです。 もう一度、今日の箇所について整理して考えたいと思います。フィレモンへの手紙に示されている「キリスト者がキリストに相応しくある」とは、どういうことなのでしょうか。 私たちは、主イエス・キリストによって新しい者とされている。そしてこの時代に、この社会の中にそれぞれ遣わされています。そしてその中で、キリスト者が果たすべき独特の役割があるのです。社会制度や交わりのあり方がどのようなものであっても、もし人と人とが本当に愛によって交わることを知らないのであれば、人間の事柄は決して解決しません。主イエス・キリストの愛を知らされた者は、主イエスが私たちのこの世界をご覧になってどのように仕えてくださるのだろうか、私たちが問題に直面するときに、主イエスだったらどうお考えになるのだろうか、そのことに「わたしも従う」というやり方で事柄に関わっていく、そういう姿勢が大事なのです。 パウロは、今日から見れば思いも及ばないような過酷な環境の中で、なお、キリストの愛に励まされながら、新しい関係が生まれるのだということを信じて、そのためにフィレモンとオネシモに対して、信仰に立って生活するようにと勧めています。パウロが勧めるこの勧めを、私たちも聞き取るようでありたいのです。私たちが今抱えている様々な問題や摩擦、それは、実際に相手の顔を見てしまうと、なかなか上手くはいかないと思うこともあるでしょう。しかしだからと言って、私たちは、今のままで当たり前で、これは永続することなのだと諦めてしまうには及ばないのです。主イエス・キリストが十字架にかかり甦ってくださっている、新しい命を私たちに与えてくださっているのですから、そうであるならば、私たちも、今日与えられている生活の中で、すぐには乗り越えられない難しい関係に置かれていることがあるかもしれないとしても、それでもなお、主イエス・キリストがここにも共に居てくださる、このわたしを支え、このわたしを用いて、この状況を新しく好ましいものに変えてくださるのだということを信じて、主イエス・キリストに仕えていくことが、私たちに相応しい生き方だろうと思います。 |
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