2015年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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栄光の富に応じて | 11月第3主日礼拝 2015年11月15日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章15〜20節 | |
4章<15節>フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。<16節>また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。<17節>贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。<18節>わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。<19節>わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。<20節>わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 |
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ただ今、フィリピの信徒への手紙4章15節から20節までをご一緒にお聞きしました。15節に「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」とあります。ここで使徒パウロは、フィリピ教会の人たちと共有の過去を振り返っています。パウロがキリストの福音を伝えるために「マケドニア州を出たとき」のことが振り返られています。これは実際にはいつ頃のことを言っているのでしょうか。 夜が明けると直ちに海を渡って、パウロはマケドニアに赴きました。そこで一番最初に腰を落ち着けてキリストの福音を伝えて、教会の群れが出来上がった町が、実はフィリピなのです。ですからフィリピ教会は、パウロのマケドニア伝道の本拠地になった、そういう教会です。その町の教会員に祈られて、パウロは更にヨーロッパ伝道に送り出されていきます。使徒言行録17章の始めを見ますと、フィリピからアポロニア、アンティポリスという町を経て、テサロニケに赴いたと語られています。このテサロニケまでの旅がマケドニア州の旅なのです。テサロニケはいわば、当時のマケドニア州の都、中心地でした。 ところが、小アジアでと同じように、パウロはテサロニケで思いがけない挫折を経験することになります。使徒言行録17章に記されていますが、最初のうち、テサロニケの町に福音を伝えるパウロのメッセージは大変好意的に受け止められたようです。パウロの伝道はとても上手く運んだように見えます。パウロの伝道の方法はどうだったかと言いますと、パウロはどこででも、その町に入ってユダヤ人の会堂を見つけると、まずそこに入りました。ユダヤ人は集会を毎週土曜日にしており、旅人が来ると必ず、その人からメッセージを聞くということになっていたようで、パウロはその時間を利用して、行った先々の会堂で聖書を説き明かしながら、真の救い主はイエス・キリストであると宣べ伝えました。テサロニケでも同じことをしたわけで、かなりの数の人がパウロの言葉を聞いて主イエス・キリストを受け入れたことが17章2〜5節に記されています。「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した」とあります。 少し説明が長くなりましたが、これらの出来事があって、今日の箇所でパウロが「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき」と語っているのです。パウロは命の危険にさらされ、パウロ自身が抱いていた伝道の計画が思いに任せず打ち砕かれている、そういう状況です。ですから、そういう中でパウロは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることの困難さを感じていたに違いありません。福音を聞かされ喜んで受け入れる人もいれば、一方では受け入れられない人もいて激しく抵抗し、パウロの福音伝道の計画は妨げられる、そのことを身に沁みて感じていたはずです。しかしそういう時に、フィリピ教会の人たちが、伝道の困難を味わっているパウロの身の上を案じ、懸命に支えたことが、今日の箇所で記されていることなのです。 そして17節に続けて「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と言っています。こういう言葉を聞きますと、少し不思議に思うという方もおられるかもしれません。パウロは、自分は贈り物を望んでいない、それどころかフィリピ教会の人たちの方が豊かな実を得ることを望んでいると言っていますが、これまでのところ、実際問題では、パウロが一方的に支えられているという関係だったと思います。フィリピ教会の人たちとて、潤沢な資産を持っているわけではありません。それぞれに懸命に何とか自分の生計を立てていたことでしょう。そういう中から、パウロの伝道の働きを支えようとして献金を集めて、パウロに届けていたのです。ですから、そういう関係であれば、支えているのはフィリピ教会で、支えられているのはパウロだったと思います。パウロの窮乏を支えることによって、フィリピ教会の人たちの懐具合は薄くなっていたに違いありません。有り難かったからと言って、パウロからお返しができる余裕があるはずはありません。それなのにどうしてパウロは、「わたしが贈り物を望むのではなく、むしろあなたがたが豊かな実を得ることを望んでいる」などと言うのか、腑に落ちないと思われる方もおられることでしょう。 では、「主イエス・キリストによって与えられる義の実を結ぶ」とは、具体的にはどういうことを言っているのでしょうか。パウロは「義の実を結ぶ」ということを、自分自身を例に取って語っています。18節「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」と言っています。パウロ自身は、思いを超えるほどの贈り物によって、すっかり豊かになっていると言っています。実際にパウロはエパフロディトを通して贈り物を受け取っていますが、しかし人間的な言い方をするならば、「あらゆるものを受けており、豊かになっています」と言えるほど、そんなに豊かであるはずはありません。パウロは牢屋にいるのです。フィリピ教会からの献金や食料が贈られて、何とか命を繋ぐことはできたとしても、「あらゆるものを持っている」と言えるような状況ではないはずです。けれどもパウロは、「生活するための必要を神が与えてくださっている。だから、牢屋の中であっても、わたしは安心しているし豊かなのだ」と言っているのです。「生きていく上で必要なものはすべて、神が備えてくださるに違いない」そう信じればこその、パウロの言葉なのです。 そして、貧しく乏しい状況にあっても、このように「神が支えてくださる」という出来事は、パウロだけに起こっているのではない、「フィリピの教会の人たち、あなたがたも、同じ神の顧みの中に生かされているのだよ」と教えているのです。19節「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と言っています。パウロの欠乏を補い支えてくださっている神は、その栄光の富の中から、「あなたがたにも必要なものをすべて満たしてくださる」と言っています。 主イエス・キリストを通して、神が常に私たちの傍に立ち、共に歩んでくださっている。そして、私たちに本当に必要なものをすべて満たしてくださる。実は、そういう信頼を持って生活していくことこそが、私たちが豊かに生きていく秘訣だと言ってよいと思います。 キリスト者の平安というものは、すべてが丸く収まって、すべてが潤滑にあるところで与えられるというものではないと思います。4章14節でパウロが、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言っているように、パウロもフィリピ教会の人たちも、それぞれに与えられている生活の中で、懸命に踏ん張り力を出さなければいけない、そういう道を通ってきています。けれども、そういう困難さや不自由さに直面している時にも、そういうわたしと決して離れず、主イエス・キリストが共にいてくださる、それどころか、最後にはきっと、主イエス・キリストを通してわたしに必要なものはすべて与えられる、そう信じて生きるところに、平安が生まれるのです。そしてそれは、この世の富とか財産によっては決して手にすることのできない平安です。 パウロは困難な伝道を経験し、今また牢屋に捕らえられていますが、しかし、そのところで、あらゆるものを受けており豊かであると語ります。ここに集められた私たちの生活もそうだろうと思います。私たちは牢屋の中に捕らえられているわけではありませんが、しかし、それぞれに置かれた場所で生活する、その私たちの生活は、主イエス・キリストが共に歩んでくださる中で営まれているものなのです。主イエス・キリストが共に歩んでくださって、私たちに必要なものをきっと備えてくださる。その中で私たちは、今日与えられた生活を精一杯、主に仕える者として歩んでいく。そういう生活をすることを通して、私たちは、神の御栄光を表す者とされます。 パウロは、1章11節で「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と祈っていましたが、今日の最後のところでも「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と、神を讃えています。それは、ここにいる私たちも同じだと思います。私たちは今日与えられている生活を神に顧みていただき、そして、本当に必要なものをそれぞれに与えられ、支えられて歩んでいます。そのようにしてこの地上を生きることを通して、私たちは、神の御名を賛美し、神の御栄光をこの地上に照り返しながら、神の慈しみを互いに分け与えて歩んでいくものとされていくのです。 |
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