2015年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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平和の主 | 11月第1主日礼拝 2015年11月1日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章2〜9節 | |
4章<2節>わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。<3節>なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。<4節>主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。<5節>あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。<6節>どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。<7節>そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。<8節>終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。<9節>わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 |
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ただ今、フィリピの信徒への手紙4章2節から9節までを、ご一緒にお聞きしました。 しかし、キリスト者の場合には、誰かとの関係において一対一になるということは決してないのです。どうしてか。キリスト者はもはや自分一人で生きている存在ではないからです。私たちが「キリスト者」と呼ばれているところにはっきりと表れていることですが、私たちは一人一人が主イエス・キリストというお方に伴われた命を生きているのです。主イエス・キリストが一緒に生きてくださる、だから私たちは「キリスト者」と呼ばれるのです。キリスト者でありながら、キリストと関係なく自分一人で生きているのだと言い張るのであれば、私たちはどうしてキリスト者なのかということになります。私たちは決して、自分の人生をたった一人で生きるのではありませんし、さらに言えば、私たちの人生・私たちの命の主人は自分ですらない。私たちの人生の主人は、洗礼を受けた時から主イエス・キリストなのです。私たちは、「主イエス・キリストがわたしと一緒に歩んでくださる。主イエスこそわたしの主人です」と信仰を言い表して洗礼を受けたのです。 この手紙の1章1節で、パウロは自分のことを「キリストの僕」であると言い表しています。「僕」は「奴隷」という字が使われています。奴隷であるからには、パウロは一人ではありません。いつも主人が共にいるのです。そして奴隷は主人に従って生きるのです。キリスト者は一人の例外もなく、イエスを主と告白しています。ですから、自分がキリストに仕える僕であるならば、キリスト者同士の間で一対一の関係になることなど、あり得ないのです。互いに対立することはあるかもしれません。対立や反目があったとしても、それでもその2人のキリスト者は、互いに十字架と復活の主イエス・キリストというお方に伴われ、主の僕としての人生を生きている2人であるはずなのです。互いに反目し合っている2人のどちらも、その人のために主イエスが血潮を流し、罪の支配から贖い取ってくださったかけがえのない一人一人なのです。そのことが本当に身に沁みているならば、互いの間を険しい思いが支配するということがあり得るでしょうか。 もし、主の十字架の贖いによってキリスト者とされているという信仰が、目の前で生じている深刻な対立に何の影響も与えないのだとしたら、キリスト教信仰は人間の破れた現実に対しては無力だということを示すことになるのではないでしょうか。仮に、私たちの間に破れがあり反目や諍いがあることを、「それも仕方ない」と諦めてしまうとすれば、キリストの支配は人間の破れの現実に対して無力だと言っていることと同じになると思います。信仰はただ心の中だけの事柄で、苦しみ悲しみの多い人生を生きている人間に対して、その苦しみや痛みを和らげる優しさはあったとしても、現実の生活は何ら変わりがないということになってしまいます。 ここでパウロは、「エボディアに、シンティケに」と名を挙げていますから、二人のことをよく知っていたのでしょう。ですから、反目の原因がどこにあるのかということまで分かっていたかもしれません。パウロは、もし牢屋から出られるものならすぐにフィリピ教会に行って二人の感情のもつれを解きほぐしたいと思ったかもしれませんが、そうできないために、フィリピ教会の中で2人の争いに心痛めている人物に、2人への支えを頼んでいます。3節「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」。この2人のために祈り、2人が主の御前に互いに身を低くすることができるように支えて欲しいと、この人に呼びかけています。 ところで、パウロがここに言う「主において同じ思いを抱く」とは、実際にはどういうことなのでしょうか。心の中に抱く思いというものが、この2人のあり方を変え、その間柄さえも新しいものに変えてしまう、それは一体どういう思いなのでしょうか。 私たちは勿論、一人一人が自分の人生において抱いている計画や予定があるに違いありません。今日、礼拝を終えて送り出される日々の暮らしにも、皆それぞれに違う計画を持っています。そういう中で自分の人生の見通しを立てて生きていくのですが、しかしうっかりすると、自分の思いや考え通りになって欲しいという気持ちが強くなり過ぎて、その思いが自分の心をすっかり埋めてしまうということもあるのです。 「主において常に喜びなさい」と言って、パウロは「あなたがたは主イエスのうちにあることをこそ喜ぶのだよ」と教えています。パウロのこの言葉には、かつて主イエスが弟子たちに教えてくださった言葉が響いていると思います。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられました。マタイによる福音書6章28節から34節までを聞きたいと思います。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。 私たちの地上の生活には、確かに思い煩いがあります。お金のこと、家族や友人のこと、健康のこと、老後の暮らしのこと、近所付き合いのこと、仕事の悩み、将来のこと、様々なことが私たちを煩わせ、不安や恐れが私たちを虜にしてしまいます。私たちはそういうことに捕らわれて、心がいっぱいになってしまうのです。私たちの上には神がおられ、私たちの生活は地上においても、また地上を超えて永遠に移された後でも、神の義を照り返して生きるべきであるのに、私たちは様々な煩いに心塞がれているうちに、その生き方をどこかに起き忘れてしまうのです。「どうしてここにわたしはいるのか。それは、ここに生きることを通して、わたしが神の栄光を照り返すためである」ことをつい忘れて、まるで自分が人生の主人であるかのように思い、そう思うと自分の思いや願いがぐんと自分に重くのしかかって来て、私たち自身はもとより、共に生きる隣人も苦しめることになるのです。そうならないようにと、主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。あなたは神から命を頂いているのだから、その神の御心に従い、神に喜ばれるあり方に生きるべきなのだよ」と教えてくださいました。 戻りますが、パウロは6節で「思い煩い」について語り始めます。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。 世の中には、自己実現のために苦闘して生きることが素晴らしいという考え方もあります。そこにこそ生きるエネルギーがあり、そう生きるべきと教える処世訓はあるのです。そして、そういう生き方の場合、神はおそらく重要ではないでしょう。人生を生きるエネルギーが自分の中にあると思えば、神とは、自分でできない弱い人たちが自分を慰めるために心の中に作り出した発明品だというくらいに思って、神に信頼することはないでしょう。 けれども、パウロが仮に「生きなければならない」と思って力んでみても、それで本当に踏ん張ることができるのかどうか。パウロが牢屋の中で、それでもなお「生きよう」と思うことができているのは何故かと言えば、「このわたしを、ここで用いようとしてくださる神がおられるからだ」という所に立っているからです。 5節でパウロは「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」と言い、そしてそれに続けて「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言っています。自分の決心で思い煩うのをやめなさいと言っているのではありません。「主イエスがすぐそばにいてくださるのだから、その土台に立つならば、思い煩わなくてもよいのだ」と言っているのです。 主に依り頼むと言いながら、すぐに自分の思いが頭をもたげて思い煩いの状態になりがちな私たちが、思い煩いから離れてまっすぐに神に信頼して生きていくために、ここでは具体的に2つのことが勧められています。 その上で、最後にパウロは、8節「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と言っています。一つ一つの意味を考える必要はありません。ここに記されていることは、キリスト教に特化したことではないでしょう。キリスト者でなくても、良いことだとされる事柄です。キリスト者として生きるということは、この世から出て行くということではないのだと、ここに教えられていると思います。 私たちは、今日ここに置かれているそれぞれの生活の中から、主イエス・キリストに従って生きる志しを、もう一度新たにされたいと願うのです。 |
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