聖書のみことば
2015年11月
11月1日 11月8日 11月15日 11月22日 11月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月8日主日礼拝音声

 強められる神様
11月第2主日礼拝 2015年11月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章10〜14節

4章<10節>さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。<11節>物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。<12節>貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。<13節>わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。<14節>それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙4章10節から14節までをご一緒にお聞きしました。
 10節に「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」とあります。「わたしへの心遣い」と言われていますが、これは具体的にはフィリピ教会の人たちが、牢屋にいるパウロの身を案じて皆で集め、エパフロディトに託して届けた献金のことを指しています。この献金によって、パウロは随分助けられたようです。
 1世紀の牢屋というものは、今日のように囚人を教育して社会復帰させようという考えはなく、懲罰を与えることに主眼が置かれていたと言われています。牢屋の中の状況は劣悪でした。食事も十分には与えられず日に一度だけだったようです。ですから、長い間牢屋に捕らわれていますと必然的に栄養失調になり、鳥目や脚気になって最後は命を落としてしまう囚人も大勢いたと言われます。フィリピ教会からの献金は、栄養を補うための食料を買ったり、手紙を書くための羊皮紙やペンやインク代として使われたようです。パウロが牢屋の中にあっても命を長らえ、方々の教会に手紙を書くことができたのは、このような経済的な支えがあったればこそだったのです。
 献金に支えられたパウロにしてみれば、本当に有り難いという気持ちだったに違いありません。4章10節以下20節までは、パウロの感謝の気持ちがよく表れた文面になっています。ただ、ここを読んでいてふと気づかされることがあります。こういう場合には必ず出てくるであろう言葉、「ありがとう」という言葉が欠けているのです。献金に支えられているのですから、当然「ありがとう。感謝です」という言葉が出てきて不思議はないと思って読みますが、4章には「ありがとう」という言葉は出てきません。ですから、この箇所は昔から「感謝なき感謝の言葉」と言われてきました。
 一体どうしてパウロは、「ありがとう。感謝です」と言わなかったのでしょうか。この手紙の全体を見渡しますと、「感謝」という言葉が1章3節に出てきて以来、手紙の重要な箇所、節々に出てきます。先週聞いた6節のところでも、パウロはフィリピ教会の人たちに向かって、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めていました。フィリピ教会の人たちには「感謝しなさい」と勧めておきながら、パウロ自身からは献金によって助けてもらったことへの「ありがとう」という言葉が聞かれない、これはどうしてでしょうか。何か理由があったのでしょうか。今日のところで、パウロが「ありがとう」と口に出して言わないのには、恐らくはっきりした理由があるのです。その理由を、この箇所から聞き取っていきたいと思います。

 パウロはここで「ありがとう」という言葉こそ口にしませんが、本当に嬉しいと素直に喜んでいる姿をフィリピ教会に見せています。10節に「…、わたしは主において非常に喜びました」と言っています。「非常に喜んでいる」のに「ありがとう」と言わないのは、もったいぶっているからでしょうか。そうではありません。パウロがここで何に喜んでいるのか、そのことに注意を向けて聞き取りたいのです。何を喜んだのか。それは、「(フィリピ教会の)パウロへの心遣いが表された」ことです。
 では、この「パウロへの心遣い」とは何でしょうか。フィリピ教会の人たちが献金を集めてパウロに送ったことは確かです。しかしここには、ただのお金や物の遣り取り以上の意味合いが込められていると言ってよいのです。そもそも、フィリピ教会の人たちは、どうして献金まで集めてパウロを支えようとしたのでしょうか。それは、パウロが直にフィリピの町で伝道し、この教会の人たちと親しく知り合っていたという人間的な親わしさもあったかも知れません。しかし、それだけではないのです。
 パウロはフィリピの町を立ち去った後、エルサレム教会の貧しい兄弟たちを支えようとして各地から献金を募り、エルサレム教会へ届けるのですが、無事に届け終わったその帰りに、エルサレムでユダヤ人たちに捕らえられ、それ以来、牢屋に繋がれて暮らすことになりました。ところがパウロは、牢屋の中であっても意気軒昂に過ごしています。そして、パウロがそう生きることを通して、フィリピ教会の人たちは、どんなに不運な状況に置かれているとしても主イエス・キリストがパウロを支えているのだということを知らされて、大いに励まされているのです。ですから、同じ信仰に生きる者として、フィリピ教会の人たちは、不自由な生活を強いられているパウロを精一杯支えたいと思っているのです。
 つまり、フィリピ教会の人たちがパウロに対して表した心遣いというのは、ただ献金をするということではありません。献金することを通して、牢屋の中にあるパウロを支えてくださっている主イエス・キリスト、その主イエス・キリストの御業に自分たちも参与する、仕えるという側面があるのです。牢屋の中にあっても、パウロと共に甦りの主イエス・キリストが確かに居てくださり支えておられる。フィリピ教会の人たちに、パウロを支える主イエス・キリストの御業にお仕えしたい、そういう志が与えられた、そのことがフィリピ教会にとってとても大切なことだったのです。
 人間的な横のつながりによってパウロを支えようというのではありません。「主イエス・キリストがパウロ先生をお支えになっている。だから私たちもその主の御業にお仕えしたい」、そこには、主イエス・キリストに自分たちを明け渡すというフィリピ教会の人たちの思いがあります。そしてまた、パウロはパウロで、フィリピ教会の抱いている思いが分かりますから、ただ単純に「ありがとう」とは言わないのです。パウロは自分の思いを、「わたしは主において非常に喜びました」という言葉で表します。主の御業に仕える志によって献げられたフィリピ教会の人たちの献金、その献金を受け取るパウロもまた、この献金によって支えられて牢屋で生きる、そこに主イエス・キリストが共に居てくださることを強く意識しているのです。「主イエスがフィリピ教会の献金を喜んで受け取ってくださり、それをわたしパウロのために用いてくださっている」と感じますから、「わたしは主において非常に喜びました」つまり「主イエス・キリストに抱かれている者として、わたしもここで喜んでいます」という言い方になるのです。

 フィリピ教会とパウロの間には、お互いに、献金についてそういう理解が芽生え育っていたことが今日の箇所から示されます。聖書からこのようなことを聞かされますと、私たちもまた、自分がお献げする献金というものについて考えさせられるのではないかと思います。
 この礼拝の中でも、席上献金があり、用意された月定献金や指定献金、感謝献金があるでしょう。「献金」とは一体何なのか。もちろん、献金は教会の必要のために献げられ用いられるのです。土地購入のための借財返済、牧師謝儀、事務費などなど、実際にお金として使われていく場面においては、献金はこの世の買い物と何ら違わない用いられ方をします。目に見える動きとすれば、教会の活動のために費やされるのです。しかしその際に、私たちに忘れてはならないことがあります。それは、目に見えるところでは普通のお金の遣り取りであっても、そこに「主イエス・キリストが関わっておられる」ということです。別の言葉で言うならば、私たちが献金を献げる時に、これはあの必要のためにこの必要のためにと思って献げても、それは実は、「私たちの群れが、教会の頭である主イエス・キリストに私たち自身を明け渡していく」ということなのです。

 今日では、金銭で何でも買える貨幣経済が発達していますから、献げ物も「献金」というお金の形で献げます。けれども、貨幣経済が発達していない時代には物々交換が当たり前で、献げ物はお金よりも品物でした。その場合、どのように献げ物を献げたかと言いますと、今の私たちの礼拝にも献金の時がありますが、同じように奉献の時があって、皆がその日の礼拝のために持ってきたものを、列して聖餐卓のところに運び、置くのです。ぶどう酒やパン、肉や野菜など様々ですが、奉献が一通り終わると、その礼拝を取り仕切る司祭が献げ物の祝福を祈り、そこで聖体拝領(私たちの聖餐式)が行なわれます。肉や野菜など、聖体拝領に使わない物は、礼拝後に暮し向きの苦しい教会員に分け与えたり、また、私たちの教会で行うコイノニアのように肉や野菜を互いに買い、そのお金で貧しい人を支えました。
 そのように献げ物を品物で献げていた時代と、お金で献げる今日とで一番違うことは何でしょうか。私たちがもし品物で献げ物をしなければならないとすれば、その献げ物を手にするために労さなければならない時間があります。ぶどう酒やパンを作るためには、畑でぶどうや麦を育てるところから、収穫してぶどう酒や粉を作ります。当時のキリスト者たちは、それらの労働の時間を自分のためにというだけではなく、確かに「主イエスに、神にお献げするために労している時間なのだ」と思っていたに違いありません。また肉や野菜にしても、それらを買いにいく必要がありますから、生活の中に、自分のためだけではなく、献げ物のために行動しているという時間があるのです。そして、そういうことがあって礼拝に集い、「神さま、わたしの献げ物をお献げします」と献げました。
 今日では献金ですから、金銭で献げます。私たちはお金を稼ぐために労しますが、また年金をもらってもそうですが、お金になってしまうと皆同じになってしまいます。生活費として一旦自分のところにきたものの中から、あれを買う、これを買うというのと同じように「献金の分」と分けるでしょう。労働の段階から、これは献げ物のための労働だと切り離すことはできませんから、一旦自分のものとした中から出すのです。そうしますと献げ物は、「わたしを献げる。わたしを明け渡して用いていただく」という感覚ではなく、そこに俗っぽい感覚が立ってくることがあるでしょう。
 
 ですから、私たちが献金する時に忘れてはいけないことは、献金することを通して「自分を主イエス・キリストに明け渡しているのだ」ということです。「主イエスがお使いくださっているから、わたしが今生きて働いているのだ」という感覚を失ってはならないだろうと思うのです。そういう身体的な感覚というものは失われてしまうものです。献金がただの金銭の事柄になってしまって、額が足りるとか足りないとか、もっと倹約すべきだとか、とても世知辛い人間臭いものがそこに入ってきてしまうということになり兼ねないのです。
 パウロは、フィリピ教会の人たちの心遣いを深く喜び、献げ物についての感性の鋭敏さを喜んでいます。パウロは牢屋の中にいて働くこともできませんが、しかし人生のこの時間を牢屋で過ごすことを通して、主イエス・キリストに仕え、主が共にいて支えてくださっていることを表して生きる者とされているのです。フィリピ教会の人たちが、その同じ主イエス・キリストに仕える思いをもって献金を献げパウロを支えてくれている、パウロはそのことを喜んでいるのです。

 そして、その喜びは、更に多くのものをフィリピ教会から貰いたいためではないことを、11節で「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言っています。献げ物や献金を考える時に大事なことは、額の多少ということもさることながら、何よりもまず、「主イエスがなさろうとしている御業に自分を明け渡して使っていただく」ということです。パウロはそう教えています。
 そして、自分について言えば、「置かれた境遇に満足することを習い覚えている」と言っています。これは恐らく、キリスト教に限らずどんな宗教や哲学でも大事にされることです。人間の人生は、誰であっても、決して万事が思い通りに運ぶことはありません。一人の例外もなく、私たちの人生には思いを超える、あるいは思いも寄らないことが起こります。そうである以上は、自分の思っていたことではないけれど実際に起こってしまった、その与えられた自分の人生と折り合いをつけ和らいで生きることは、人が生きる上で必ず必要になることなのです。
 例えば、仏教の中では「色即是空」という教えがあります。「色」、これは人が生活する中で経験する、感覚で捉えるこの世界全体のことだと言われます。私たちが日々に経験するこの世界は「即是空」、つまり私たちが日々目にしているこの世界は「儚く虚しい」のだから、そこで起こることに心奪われないように生活することが大事だと教えているのです。端的に言えば、この世のことに執着せず、すべてを諦めることで心を平穏に過ごすことが大事と勧めています。「諦めが肝心」という言葉は、「色即是空」を私たちに教える言葉だと言ってよいでしょう。
 パウロの時代でも、苦しい出来事、悲しい出来事に出会っても置かれた境遇によって自分が損なわれないようにすることが大事だと教える教えがありました。それは宗教ではなく、人生の哲学という形で教えられました。「置かれた境遇に満足する」というのは、古代哲学のテクニカルターム(専門用語)だとよく言われていますが、ストア派と呼ばれる学派の人たちがよく口にしたそうです。ストア派の人たちは哲学者ですから、とても理屈っぽく考えます。人間は他の動物とどこが違うのか。人間が他の動物と違うのは、どんな時にも理性を働かせることができることだと考えました。人間は本質的に理性的な存在なのだから、理性的存在として生きて死ぬことがこの宇宙に生きる上では一番正しいことである。苦しみや悲しみ、貧しさや飢えや死、そういった一般的に好ましく思われない事に出会う時、それはその起こる出来事自体が悪いのではない。起こることは仕方ないけれど、よくないのは、好ましく思えない事に出会った時に、そのことに動揺し動転して感情的になってしまうことである。それは理性的に生きる人間のあり方から逸脱してしまうことだと考え、教えました。ですから、そういう教えに従いますと、私たち人間にとって一番大事なことは何かと言えば、どんな時にも理性的に事に対処することであり、どんなことがあっても動じないようにするために、日頃から訓練したり修行したりするべきことを教えたのです。精神を鍛錬し、どんな境遇でも平然としていられること、満足して、状況に折り合いとつけることが人間にとって一番大事なことであり、人間の価値であると教えました。

 それでは、今日のところでパウロが「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言っているのは、辛い訓練をして精神的に強くなるということを言っているのでしょうか。あるいは、どんな時にも思い通りにならない時にもすべてを諦めることのできる強い精神力を身につけることが出来たと言っているのでしょうか。そうではありません。13節で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言っています。「すべてが可能」というのは、何でも思い通りに出来るということではありません。これは、直前の12節に言われているように、貧しくても豊かでも、満腹でも空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも、「わたしを強めてくださる方のお陰で」感謝することが出来ると言っているのです。
 「どんな時にも、このわたしを支え助けてくださるお方がいる。自分自身は、思いがけないことに出会えばすっかり弱ってしまう、くたびれて倒れそうになることもある。しかし、そういうわたしをそこで助け起こして支え、更に歩ませてくださる、そういう方がおられる。そのことを、主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者として生きて来た中で習い覚えたのだ」と、パウロは言っているのです。「このわたしの人生に、真実の同労者がいてくださる。どんなに辛くて悲しい時にも、真実の慰め主がいてくださる。今、牢屋に捕らわれている、その生活の中で、主イエス・キリストが共に歩んでくださる、そのことにわたしは勇気づけられている。先の見えない状況でありながら、主に伴われて先へ先へと歩んでいける。これこそが感謝である」と言っています。

 そしてパウロは、自分がそのような信仰生活をすることを通してフィリピ教会の人たちも励まされるだろうことも知っていて、「わたしのこの牢屋での生活がフィリピ教会のためになるのだ」と手紙にも書いています。
 そしてまた、パウロがそう思っていることと同時に、パウロ自身もフィリピ教会の人たちに励まされています。パウロが主に支えられて生きていることがフィリピ教会に伝わる時に、フィリピ教会もまた喜び、そして自分たちも「主イエス・キリストに支えられて生きるのだ」という思いを新たにし、そして「主イエスに仕えるのだ」という思いから、パウロを支えるために献金をするのです。
 ですから、「主イエス・キリストがパウロやフィリピ教会の人々と共にいてくださる」ということが、すべての事柄の根底にあることなのです。主が共にいてくださる、互いの根底にある、このことを指差しあいながら互いを支えあっている、そういう交わりがここにあるのです。

 このようなパウロとフィリピ教会との交わりを聞かされながら、私たちにも同じことが語りかけられていると言ってよいと思います。私たちもまた、この同じ交わりの中に抱かれています。私たち一人ひとりに、主イエス・キリストが伴って歩んでくださっています。苦しい時があり、辛い時があり、どうしようもなく疲れきってしまう時がある。しかしそこで、主が共にいてくださり、「あなたは、そのところから、もう一度歩んでよいのだよ」とおっしゃってくださるのです。
 「復活の主イエス・キリストが、どんな時にもこのわたしと共にいてくださるのだ」ということを思い起こすことで、パウロは支えられています。そして、そういう力はどこから与えられるのかと言いますと、「共々に礼拝をささげ、御言葉に教えられる」中から知らされ、信じるようにされます。主イエス・キリストに仕えるあり方によって、互いに支えあって、助け合って生きていく、温かい交わりを形作っていくようになるのです。
 パウロがフィリピ教会の人たちとの温かい交わりを、「主において」心から感謝して喜んでいると語っているように、今日ここに集まっている私たちもまた、その同じ教会の群れに抱かれて、同じ主イエス・キリストに伴われて生きる一人一人とされたいと願うのです。

 教会の群れが皆で主イエス・キリストを指差しあいながら支え合い共に歩む生活が、常に安楽で安泰であるかと言えば、そうとは限りません。パウロは今日の箇所で、これまで共に歩んできてくれたフィリピ教会の人たちのことを、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言っています。互いに主イエスを指し示し合い助け合って歩んでいても、そこには試練や困難がある場合があります。しかし、たとえそうであっても、私たちは、困難や闘いの中にあって、「どんなに私たちが弱ろうとも、主イエスが決して見捨てず、このわたしと共に歩んでくださっている」ことを信じ、「主イエスに仕えて今日を生きるのだ」という生き方の気構えを与えられて、真実の平安の中に生きる者とされています。

 主イエス・キリストが私たちの身柄を引き受けてくださって、「このわたしの命を贖って今日を生かしてくださっている」、そのことを信じて、私たちは、主イエス・キリストに感謝し仕える生活を、またここから歩み始めたいと願うのです。

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